2024年1月18日(木)意味のない旅

木曜日の朝だ。昨日は用事があって何も書けなかった。原稿を見直すことができなかった。仕方がない。そういうこともあるさ。いつでも自分のために時間を使えるわけではない。限られた時間の中で作り上げたものを、自分の実力と言うのだろう。言い訳はしない。

ところで、ぼくは子供の頃から引っ込み思案で、とにかく生きてゆく自信がなかった。だから、大人になって生涯をまっとうできるなんて思っていなかった。これから過ごす長い人生が恐かった。ましてや、華やかな人生なんて望むはずもない。望んでいたのは、ひとりでコツコツと単純な仕事をしてゆきたいということだけだった。できたら、人との接触の少ないところで、地味に生きてゆけたら、それが何よりだと、願っていた。

それは必ずしも、華やかな人生を予めあきらめていた、というのではない。むしろ、ひとりで部屋にこもって、時間をつぶしていることの方に、喜びを感じていたからであった。

出かけて行って傷ついて帰ってくるくらいなら、ずっと部屋にこもって、部屋の中をぶらぶらしていたかった。詩を書いていたかった。

そもそも出かけるのは億劫だし、ひとりで自分の部屋で過ごしているのが何よりの贅沢だった。一人旅なんてする気もなかった。

だから、20代の前半のある夏に、会社に休暇申請を出して、一週間ほど、ひとりで北海道へ行って来たのが、どういう風の吹き回しであったのかを、今はもう思い出せない。

北海道にどうしても行きたかったわけではない。特別な目的があったわけでもない。

ただ、函館、札幌、旭川、稚内、網走、釧路と、黙ってその地に立ってきた。それだけのことだった。

電車に乗って、駅に降り立ち、食堂に入って黙々と食事をし、ぶらぶらとあてもなく街中をひたすら歩き、ビジネスホテルに入って、眠り、また起きて、電車に乗って。その繰り返しだった。ほとんど口をきかなかった。

意味のない、語るほどの思い出の何もない、通過してきただけの、一人きりの旅行だった。

それから多くの時間が過ぎ、外資企業に勤めていたせいでさまざまな国へも行く機会を持った。プライベートでも、娘のいたフランスへ何度か行くこともあった。楽しいこともたくさんあった。

けれど、こうして歳をとって、ふと思い出すのは、稚内の、どうということのない図書館の入り口あたりで、なにもせずに立ち尽くしていた、あの瞬間だ。

むしょうにもう一度行きたくなるのは、なぜか、あの日の、あの瞬間だ。

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