2024年3月29日(金)一気に書く詩と、積み上げて書く詩

昨夜はプレバトを久しぶりに観た。千原ジュニアさんの「刑務所を囲む桜の仄白き」がいいなと思った。

プレバトを観るといつも思うのは、夏井いつきさんの添削の見事さだ。それと、プレバトに限らず、なぜ俳句というものは、順位をつけるということに誰も抵抗感がなさそうなのだろう、ということだ。

現代詩では、これほどあからさまに順位をつけるということがない。それはおそらく、現代詩には、俳句ほどには共通の評価軸が定まっていないからなのだろう。評価軸が定まっていないのは、書かれてきた歴史の長さにも因るのだろうし、さらには、定型、非定型の違いにも因るのだろう。

歴史も短く、長さも決まっていない現代詩の評価軸は、読み手ひとりひとりの感性が作り上げる。それでかまわないとぼくは思う。評価を人とすり合わせる必要なんてない。優れた詩は、人がなんと言おうと、ぼくが熱く受け止められればそれでいい。

ところで、詩人には二つのタイプがあるように思う。

ひとつは、(A)一気に詩を書いてしまうタイプで、もうひとつは、(B)積み上げるようにしてじっくりと詩を完成してゆくタイプだ。

ぼくは(A)タイプで、詩はたいてい5分もあれば書けてしまう。で、このタイプの詩が優れているかどうかは、おおよそ発想の見事さによって決まってしまう。

対して(B)の、言葉をじっくり積み上げて作る詩は、言葉の鮮やかさや思想の深さによって、その出来不出来が決まる。

詩に限らず、創作者がよくインタビューに答えて「これはほとんど苦労をせずにできてしまったんです」という言葉を聞いたことが、これまでに幾度もある。

それを聞いて、(A)タイプのぼくとしては、確かに優れた作品というのは、あらかじめこの世にあったかのように、サラッとできあがってしまうものなのだと、心強く思っていた。

ただ、ながねん(A)タイプの、「書いてみなければその出来がわからない、一発勝負のような詩」ばかりを書いてくると、創作というのはそんなに単純なものではないとも、思ってしまう。自然と、別の魅力に目が移ってゆく。

特に自分が読者の立場になると、(A)タイプの良さだけでなく、ひとつの詩をこつこつと部品を磨き上げるように作りあげる(B)タイプの詩に惹かれる気持ちも強くなる。

(B)タイプの詩人は(A)タイプの詩人よりも、あきらかに作品に向かう時間も熱量も多いだろう。おそらく(B)タイプの詩人は、たくさんのエネルギーと時間を費やしたのに、結果として詩が失敗作に終わることもあるのだろう。

それで思うのは、(B)タイプの詩人の失敗作というのは、確かにその詩にとっては意味がなかったとしても、そこに費やした思いや試みや汗は、決して無駄にはならず、将来の詩作のためになるのだろうということだ。

詩作とは、目の前の詩を書くために書いているばかりではなく、まだ生まれていない将来の詩も同時に書いているのだと、ぼくは思う。

これまで、ほとんど積み重ねもなく、息を吐くように詩を書いてきたぼくとしては、(B)タイプの詩人に、強い憧れを持っている。

ともかく、どちらがいいという問題ではないけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?