2023年12月6日(水) なんとなく詩人になる

今日も普通の日です。目がさめても老人です。朝やるべきことを済ましたら、点ちゃんの籠の脇に座って、やおら詩を読み始めます。12/16の「Zoomによる詩の教室」へ、すでにたくさんの詩が送られてきていて、ひとつずつ読んで行きます。至福の時です。

ところで、先日の「詩を大事にする会」でも話したのだけど、昨年出した『詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)という本は、ぼくが原稿を出版社に入れた時には、書名は『詩人になるな、詩を書け』というものだった。結局、編集の人に却下されてしまったのだけど、確かに「詩人」という言葉は人によって受取り方が違うので、それを書名にするのは危険だったかもしれない。

話は変って、先日、詩の教室に来てくれている人と新宿で会って少し話をしたのだけど、その人がこんなことを言っていた。「詩の世界って、敷居が低いんですね。」

それはよい意味で言っていた言葉で、つまりは詩の世界の人はお高くとまっていないということなのだろう。なるほどなと、ぼくは思って、でも少し驚きでもあった。だって、そもそも敷居(区切り目)なるものが、詩人にはあるのだろうか。

私は詩人になりました、という免許があるわけでもなく、今日からわたしは詩人です、と宣言するわけでもない。ただなんとなく詩人になるのだ。なんとなく詩人なんだ。ぼくも気がついたらいつのまにか「詩人 松下育男」とか書かれたり呼ばれたりしている。

でも、ぼくはいつから詩人になったのだろう。その前は詩人もどきでもあったのだろうか。

詩集を出せば詩人だ、とか、いや詩集を出さなくても詩人は詩人だ、とか、そういう話をいくらしていてもきりがないのだろう。

ぼくは高校生の時に、いつか詩集を出したいと思っていた。その頃には「いつか自分が詩人になる」ということの気恥ずかしさと、でもちょっとした誇らしさは感じていて、だから劣等感だらけの青春時代をなんとか通過することができた。

それからだいぶ経って、詩を書いたりやめたりしていたら、もう詩人なんて言葉にはほとんど何も感じなくなっていた。どうでもよくなった。詩が書ければそれでいい。で、詩人という言葉になにも感じなくなった頃に、ぼくは詩人と呼ばれるようになった。そういうものなのだなと思う。

話はもどるけど、だからいつから詩人になったかなんて、敷居(区切り目)はどこにもない。敷居がないからぼくは詩を書いていられるのだと思う。

詩の世界に敷居はいらない。同じ高さで本当の思いだけを書いてゆく。

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