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「詩を書き続けるということー 上手宰さんの詩を読みながら」(2024/6/15 「横浜詩人会」での講演)

本日は、土曜日の貴重なお休みのところを来ていただきまして、ありがとうございます。

横浜詩人会のみなさんにも、今日は呼んでいただきまして、また、準備など、いろいろとお世話になりまして、ありがとうごうございます。

それで、今日は横浜詩人会のイベントですから、この部屋におられる方の多くは、詩人会の方なのかなと思うんですけど、中には、そうでない人、詩なんか読んだこともない、これから書いてみようかなという方もおられるかと思います。

なので、今日は、詩を書いている方はもちろんなんですけど、詩はむずかしくて読んだことがないという方にも、わかる話をしたいと思っています。そう心がけます。

ともかく、今日はそんなにむずかしい話ではなくて、「詩の素晴らしさ、詩とともに生きてゆくことの喜び」についてのお話ができればと思っています。

(詩はひとりで書くもの)

それで、今日は詩の話をしますが、変なことを言うようですけど、ぼくの言葉を鵜呑みにしないでもらいたい、という気持ちがあります。

あるいは、誰かひとりの人の言葉を鵜呑みにしないでもらいたい、と思います。

人によって、詩とはこういうものだ、とか、こうあるべきだ、とか、言います。本もたくさん出ています。

でも、たったひとつの「詩はこうあるべきだ」という考え方なんて、ないんです。

詩を読んだり、書いたり、というのは、結局のところ、ひとりにもどって、自分にとっての詩のあり方を、じっくりと見つけることだと思うのです。

ですから、人によって、その人の詩の、あってほしい姿は違っていいのです。

今日ぼくは、ぼくにとっての詩の話をします。それを聴いてもらって、自分の詩については、あとで、自分で、一人になって、考えてください。

自分で考えて、悩むことが大事なんです。それが楽しみでもあるんです。

詩とは何か、と考えながら、その時々に、思うように書けなかったり、ではどうしたらいいだろうと、ひとりで考えるのが、詩を読み、詩を書く楽しみなんです。

詩を書くことは、生きることと似ていると思うんです。

生まれてくるのもひとり、死んでゆくのもひとり、自分の詩を見つけて、書いてゆくのも、やっぱりここにいる自分ひとりなんです。

詩を読むことも、詩を書くことも、人から学ぶことよりも、自分で読んで考え、自分で書いて知ってゆくことの方がずっと大切なんだと、ぼくは思います。

(詩とともに生きるということ)

それで、さきほど「詩とともに生きて行く喜び」と言いましたけど、そもそも、いったい詩を書いて生涯を過ごすなんてことは可能なんでしょうか。詩だけを書いて過ごすって、可能なんでしょうか。だって、詩なんか書いていてもお金は入ってこないです。

まあ、谷川俊太郎さんとか、伊藤比呂美さんとか、まれに、何人かの人は、詩を中心にして、生涯をすごすことはできています。

でも、大抵の人は、谷川さんにも伊藤さんにもなれないわけです。

それでは、多くの詩を好きな人はどうするかと言いますと、ともかく詩とは別の所で、詩とは関係のない仕事をして、まず生活を成り立たせます。そうでないと、ともかく生きていけないですから。それで、余った少しの時間に、ほそぼそと詩を書いて過ごす、ということになるんです。

ぼくもそうしてきました。そうしたやりかたも、「詩とともに生きる」ことにはなると思うんです。

詩のために人生のほとんどの時間を費やした、というのでなくても、できる範囲で詩と付き合って来た、というのも、「詩とともに生きた」ことになるんではないかと思うんです。

変な言い方ですが、詩を精神に流し込んで生きて行く。それが、「詩とともに生きる」ことになると思うんです。

一見、なんでもないことのように見える日々にも、あらためて感動できるものを見いだす。毎日の出来事や、言葉や、自分に慣れてしまわないで、いつまでも新しい感覚でその日を驚いて過ごすことができる。それが、「詩とともに生きる」ということなんだと思うんです。

(京浜急行)

それで、少し自己紹介がてら、自分の昔の話をしようかと思うんですけど、ぼくが生まれたのは福岡県なんですけど、育ったのは東京の大田区、蒲田なんです。でも、家から一番近い駅は、JR蒲田駅ではなくて、京浜急行の雑色という駅でした。

ぼくは29歳で結婚をするまでは親の家、大田区の西六郷というところに住んでいました。ですから、若い頃は家から六郷川まで歩いて、六郷土手を友人と歩きながら、よく詩の話なんかしていたんです。

雑色、六郷土手、川崎、鶴見、というあたりは、ぼくにとってはすごく懐かしい地名なんです。このあたりで育った、という感じがするんです。

それで、その後(あと)、生きていれば人生いろんなことがありましたから、何回か引っ越しをしたんですけど、結局またこの近くに戻ってきまして、今は横浜に住んでいますから、本日はまさに地元でお話ができるということで、すごく嬉しい気持ちなんです。

京浜急行の沿線に戻りますと、自分がしっくり行くのは、やはり、生まれ育った場所なんだなと思うんです。

京浜急行の駅って、今は高架になっていたり、立派な駅に作り替えられているんですけど、50年ほど昔は、たいていの駅は小さくて、似たような雰囲気があったんです。

「雑色駅」も今はずいぶん変ってしまいましたけど、昔は商店街の脇にちょこんと駅が作られている感じでした。

昔は、京浜急行の沿線には、似たようなこじんまりした駅がたくさんあって、似たような商店街があって、似たような踏切があって、似たような人々がもくもくと生きていました。

そういう時代に、ぼくは京浜急行沿線の地味な町で育ちました。

ですから、ぼくは今でも、京浜急行に乗りますと、昔の、自分が子供だった頃のことを思い出すんです。

親父がいて、おふくろがいて、姉が三人いて、弟がいました、京浜急行のほとりの小さな家で、ぼくは親父とおふくろに育てられました。

たくさんある普通の家庭の、普通の家族の中で、いつも仲良く、他愛のない話をして、お金持ちではありませんでしたが、穏やかな普通の幸せに満足していました。

今でも思い出すんですけど、少年だった頃のぼくは、トイレの窓から月を見上げたりしながら、「ああ、こんなにおだやかな家庭に生まれて、自分はなんて幸せなんだろう」と考えていました。

あれから60年も経って、まあ、人生いろいろありましたけど、ぼくが今、こうしてここにいられるのも、みなさんの前でお話できるのも、あの頃の親父とおふくろのおかげだったと思い出します。両親ともに大人しくて、地味で、コツコツと働いて、生活をして、仲良く暮らしていました。

親父は大正元年生まれでしたから、もちろんもう生きているわけがないんです。親父もおふくろも亡くなってもうだいぶ経ちますが、でも人生を全うして、ふたりともおとなしく生きて、おとなしく笑って、おとなしく亡くなってゆきました。

(居場所を見つける)

それで、その親父の息子であるぼくも、もう73歳になりまして、少年のころからずっと長く詩に関わってきていて、今日は詩の話をしようかと思うんですけど、なにを話そうかなと思っていまして、詩を書いている人はたくさんいますけど、「詩にとって何が大切なことなのかな」と、あらためて考えたんです。

それで考えたのは、若い頃ならともかくとして、だれでも若い頃はその内にすぎてしまうわけです。では若い頃を終えた人は、詩を書いていた人は、その後、どうしているんだろう、ということなんです。

若い頃は、詩に夢中になって、詩を書いて、ということが自然に受け入れられると思うんです。自分自身にとっても、あるいは、人から見ても、あの若者は詩が好きだ、と言われて、それでなんの問題もないんです。

でも、若い頃が過ぎると、急に、詩を書くということが、どこか、一般的な、年齢層の好みから、個人的な好みに変ってくる感じがするんです。

あの人は若くもないのに詩なんかに夢中になっている、と言われれば、どこか普通でなく感じられてくるんです。

普通でなくなるんです。

でも、普通でなくなって、何が悪いんでしょう。ただ、中年になって、年寄りになって、まだ詩が好きだ、と、それだけのことです。だれにも迷惑をかけていないんです。

若い頃を過ぎても、詩を書きたくなる心を持っている、普通でない人はいるんです。

そういう人は、どこでどうやって詩を書き続けることができるんだろう、ということなんです。けっこうみんな、困っているのではないかなと思ったんです。ですから、歳とともに、詩をやめていってしまう人もたくさんいるんだろうなと思うんです。なんか、これは普通ではないなと思って、やめていく人はいると思うんです。

でも、せっかく詩を読む力もついて、詩を書く能力もあるのに、その能力や楽しみをまったく使わずに、そのまま生涯を終えてしまうのって、もったいないなとも思うんです。

おせっかいな話をしているのはわかるんですけど、詩を読んで楽しめる人は、そんなにたくさんはいないんです。そういう人は、なんとか時間を見つけて、その日の用事を済まして、ほんの少しでも時間があるなら、上質な詩にちょっと触れることがあれば、その日にいやなことがあっても、気持ちが少し和んでくることもあるのではないかなと思うんです。

で、思ったのは、人それぞれに性格も環境も違いますから、人それぞれに、その人に合った詩の居場所があっていいのではないか、あるはずなのではないか。ということなんです。

(「詩の通信教室」)

ぼくは「詩の通信教室」というのをやっていまして、詩を送ってもらって、メールでぼくの感想を送り返しているんですけど、その中に、詩と一緒にこんな質問が送られてきたことがあるんです。

「わたしは、詩が好きで書いています。友達に見せると、すごくいいと言って、感動してくれたりもします。でも、詩の雑誌の投稿欄に送っても、一度も採用されたことがありません。どうしてでしょう。」

こういった内容のメールを、ぼくはこれまで、何人かの人からもらったことがあります。ということは、どこかの誰かだけがそう思っているのではなくて、何人もの人が、こういった疑問を持っているということなんです。

この人が聞いていることはよくわかります。友達はすごく感動してくれるのに、雑誌では落選する。何故なのだろう、ということです。

これはあくまでもぼくの考えですけど、ひとことに「詩」と言っても、さまざまなのではないかと思うのです。また、「こういった詩に感動する」という人の感じ方も、さまざまなのではないかと思います。

さまざまというのは、広がりがあるということなんです。

このひとの友人が「詩」というものに求めているものと、雑誌の投稿欄の選者が「詩」というものに求めているものには、違いがあるんじゃないかと思うんです。

詩を書いたり、読んだりすることの、根本のところは、たしかに、ひとりのひとが詩を書いて、それを、別の人が読んですばらしいと感じる、この一連の行為が、詩の根本であり、あるべき姿であることは間違いがないです。

ただ、詩が誰に感動を与えられるか、という感動の方向は、書く人、読む人の「詩」というもののとらえ方によって違うのではないかと思うのです。人によって、感動の向きが違っているのだと思うのです。

「詩」という同じ名前で呼んでいるものでも、そもそも、「詩」のありかたが、人によって違うのです。

ですから、ひとつの詩は、あらゆるところで受け入れられるわけではないんです。それぞれの詩の居場所、その詩にとっての、その詩人にとっての生きられる場所、心地よい場所、というのがあるのではないかと思うんです。

先ほどのメールの人にとっては、おそらく、詩の商業雑誌は、少なくとも今は、ここちよい居場所ではないんです。

でも詩は書きたい、でも、詩が好きだ、という気持ちは変らないのですから、そうであるならば、では自分の詩は、どこで書いてゆけばいいのだろうと、自分で探すことが必要なのではないかと思うのです。

だって、大切なのは、詩の雑誌で人の詩と競争して勝つことよりも、生きていて、詩を書きたいという気持ちが湧いてきて、書いていること自体が楽しい、ということの方なのですから。

自分に合った詩の場所は、いろいろあると思います。

例えば、個人誌を出して、自分の場所を作り、そこでこつこつと書き続ける、というのもひとつの道です。
また、好きな詩人のいる同人誌に入ってみることもできるでしょう。
あるいはネットで書き続けるというのも一つの場所です。
さらに、いきなり詩集にまとめた方が、詩によってよいケースもあります。
また、これは勇気のいることですけど、外に出て、町なかで、人前で詩を朗読する、というのも立派な詩の居場所です。
もっともっと、ぼくが考えもつかない詩の居場所も、その人にとっての詩の居場所も、あるのだろうと思うんです。

どんな場所で詩を書き続けるにしろ、大切なのは、詩を書きたい、という気持ちそのものです。それで、そういった気持ちがあるのなら、では、自分はどこで居心地よく書き続けられるか、ということを探すことが大事なのではないかと思うのです。

(ゆるぎないこと)

自分の居場所はここだ、というのを見つけたら、そこでしっかりと腰を落ち着けて、書く事を愛しながら、楽しみながら、こつこつと書いてゆけばいいと思うんです。

ひたすら心を込めて、長年書いていれば、詩は自ずと磨き上げられてきます。よそ見をせずに、自分の居場所で、ひたすら詩を書き続けていく。それがなによりも大切なんだと思うんです。

と、偉そうにそんなことを言っていますが、実は、ぼくにはそれができませんでした。早々に自分の居場所を見失って、詩が書けなくなりました。

ですから、今日はぼくの話をしても仕方がないわけで、では、そういった、「自分の詩の居場所を見つけて、こつこつと素晴らしい詩を書き続けてきた人がいるだろうか」と考えました。いました。上手宰という詩人です。
そんなわけで、今日は、上手さんの詩を紹介してゆこうと思います。

その詩のすばらしさとともに、こうやってひとりの詩人は、自分の詩を信じ、自分の居場所を大切にして生きてきたんだということを、見ていきたいんです。
人は、「こんなふうに詩とともに生きていけるんだ」ということを知ってもらいたいんです。上手さんの詩を読んで、「人それぞれに、自分に合った詩との付き合い方があるんだ」ということを知ってもらいたいんです。

まずは具体的に詩をひとつ、上手さんの詩をさっそく読んで見ましょう。「五月の小さなかけら」という詩です。
この詩には、「生まれたばかりの長女 佐希へ」という副題が添えられています。初めての子供が産まれて、その感動の中で、娘に向けて書かれた詩です。お手元の資料にありますので、それを見ながら、意味をとりながら聞いてみてください。

✳︎

五月の小さなかけら (詩集『星の火事』より)
       ――生まれたばかりの長女 佐希へ

  いつもなにかに ぼくは
  みとれながら生きてきた
  つぎからつぎへとたくさんのものに

貧しいぼくの心の広場には
いつもチンドン屋が歩きまわっていて
きまって華やかな音楽が流れていた
幾人もの少女が何も言わずに
心のふちをひっそりよぎっていったし
ちぐはぐな希望もにぎやかに通りすぎた ぼくのひとりごとの中を
どさくさにまぎれて不良少年の友だちもたくさんやってきた

  けれど みとれることだけ得意だったぼくは
  それらをただ黙ってやりすごすことしかできなかった
  落書きのように壁によりかかって

 だから
そうやってぼくがみとれたすべてのものが
おまえになって生まれてきてしまった
この世でいちばん小さなかけら
広い五月の奥ふかくからやってきた佐希よ
ぼくはおまえにばかりみとれてしまう
おまえが学ぶまえから知っているのは
自分だけをみとれさせるしぐさだ
そうでないと大きくなれません と
どこからもってきたのか涙まで流して
おまえはすぐに泣きはじめる

けれど佐希よ 見とれる番になるのはすぐ先のこと
自分の足で歩けるようになったら
おまえだってきっと
何回もビラをもらいに
チンドン屋についていってしまうにちがいないよ

(「五月の小さなかけら」について)

この詩でぼくが好きなのはまず、「いつもなにかに ぼくは/みとれながら生きてきた」の「みとれる」という言葉です。

「みとれる」というのは、晴れやかなもの、美しいもの、まぶしいものを前にして、自分を低い位置に置いて、あこがれている様子です。うっとりとなっている様子です。なるほど作者はそんなふうに生きてきたのか、とわかれば、作者が人に対して威張るような人ではなく、目の前にある人やものの、よいところ、素晴らしいところに目がゆく人なのだということがわかります。

詩を書く、ということ自体が、この世界に見とれているということです。

ただ、この詩は一般的な「見とれる」ことについて書いていません。もっと具体的なことについて書こうとしています。

そして、「そうやってぼくがみとれたすべてのものが/おまえになって生まれてきてしまった」とあります。これも、なんと素直で素敵な表現でしょうか。言葉が汚れていません。さらに、「ぼくがみとれたすべてのもの」とは、なんとダイナミックな発想かと思います。

そしてこの「おまえ」とは、言うまでもなく、生まれたばかりの自分の娘です。

自分の娘なのですから、かわいくて仕方がないのはあたり前です。でも、この開けっ広げな喜びの表現は、実に気持ちが良いほどです。

通常、これほど感情が先走ってしまいますと、浮ついた、独りよがりの詩になってしまうものですが、このあたりの娘に対する形容は、抑制が効いていて、それにもかかわらず思いの丈が込められています。それもこれも、若い頃から詩を書き続けてきて、自然に身についた言葉の技術によるものなのかと思います。

そして最後に、赤ん坊がその内に、「見とれさせる」側から「見とれる」側に行くだろうと書いています。愛するものができることは、それだけ心配も増える、ということなのでしょう。

この詩の主題は言うまでもなく、「家族への愛」です。そしてこの最後のところによって、自分の人生と同じ道を歩く娘への、切なくも優しいアドバイスをも含んでいます。

ぼくは、家族愛という、誰でも書きたがる、それだけに油断すればありふれた詩になってしまう難しいテーマを、あえて書こうとした作者に、驚きを覚えます。この詩は、家族への愛を書いているのに、決してありふれることのない感動的な詩になっています。

なぜ感動的な詩になっているかと言えば、個々の言葉の選び方や、表現のしかた、言葉遣いのやさしさなど、個別に取り出せば理由はいくつか見いだせるかもしれません。

けれど、もっと大きな理由は、「詩を書く行為のまっとうさ、自然さ」によるのではないかとぼくは感じて仕方がないのです。

詩を無理に作り上げるのではなく、詩に書くべき内容は自ずと湧き出てきたものを書く。生まれるべくして生まれてきた詩なのです。誕生を祝福されているのは、佐希さんだけではなく、この詩もまさに、祝福されてここに生まれてきたのです。

それでいて詩を書く方法は、学んできた最良の技術を持って書く、ということがなされています。

この詩から学べることは、自然に生まれでてきたテーマは、学んできた詩の技術によって、極上の詩に作り上げることが可能なのだと、いうことです。


(詩を書いてきて何がよかったか)

話がちょっと変わりますけど、ぼくはこれまで、いくつかの「詩の教室」をやってきまして、その中で、ぼくの好きな詩人を呼んで対談をしてきました。

たぶんもう10人以上の人と、自分の教室で対談をしてきたんですけど、もちろん人によって話の内容は違ってくるんですけど、いつもしている質問がひとつだけあるんです。

どういう質問かと言いますと、「これまであなたが詩を書いてきて、いちばんよかったと思うことは何ですか」という質問です。

もちろん人によって答えは違うんですけど、これまでに、二人から同じ答えがあったんです。「これまで詩を書いてきて、いちばんよかったと思うことは何ですか」という質問に対して、その二人は、「友人を持てたこと」と言ったんです。詩を書いてきて一番よかったと思うのは、友人ができたことだ、知り合いができたことだと、言ったんです。

それで、では、ぼくがその質問をされたらどう答えるだろう、と考えますと、ぼくもその答えが一番しっくりくるんです。

「友人に出会うことができた」というのが、なによりも、詩を書いてきて掛け替えのないことでした。

逆に、自分の性格から考えて、子どもの頃から友人の少ない、偏屈なところのある人間でしたから、学生時代も、長い勤め人を経験した今でも、付き合っている友人というのはほとんどいないんです。ほどほどのところまでは付き合いますが、結局離れていってしまいました。

でも、詩を書いているおかげで、何人かの友人をもつことができました。そしてその友人というのは、別に頻繁に連絡をとるわけでもないんです。でも、時折、雑誌やネットで相手の詩や文章を読むことができますから、今相手が何を考えているかを、間接的に知ることができます。

また、たまに会っても、その頃に書いているものを読んでいますから、まるでずっと会っていたように話を始めることができるんです。

詩は作品です、作品ですから作り物です。ですから詩には、作者が本当に思っていること以外にも書かれています、でも、作品を通して、その人の中心が掴めるんです。ですから、詩人同士の付き合いというのは、むろん詩の話がほとんどですが、詩の外のことも、深く想像できるんです。

ときに、詩を書いていない人と話をするよりも、詩人同士というのは、精神的に深い付き合いができることがあるんです。

詩を書いてきてよかったと思うことは、友人を持てたことだと、あらためて思う時に、ぼくにとっていちばん長く、清潔に付き合ってきた友人はだれだろうと考えますと、今日話をしている、上手宰さんでした。

ぼくも上手さんも今は70代のおじいさんですが、知りあったのは20代でした。五十年も前のことです。

その50年も前のことです。ぼくは20代の始めの頃、大学を出て会社員を始めた頃に、まわりに詩を見てくれる人もいませんでしたので、詩の雑誌に投稿をしていました。「現代詩手帖」とか「詩人会議」とか、今はない「詩芸術」とか、「詩学」とか、いくつかの雑誌に投稿をしていました。

ぼくは投稿をしていて、たまに入選していたんですけど、割とよく採ってもらっていたのが、「現代詩手帖」と「詩人会議」でした。そして上手宰さんはその頃、「詩人会議」の編集をしていたんです。

そののち、ぼくは「現代詩手帖」を出している思潮社から詩集を出したり「詩の教室」の本を出したりするんですけど、最初にぼくの詩を読んで、感想をくれたのは「詩人会議」の上手宰さんでした。

詩を書いている人はわかると思うんですけど、自分の詩をわかってくれる、評価してくれる雑誌があるって、ほんとにありがたいんです。書いてゆく勇気をもらえるんです。

それで、当時はネットもない時代ですから、上手さんからハガキをもらいました。「詩人会議の上手です。送られてくるあなたの詩を読んでいます」というような内容だったと思います。

それで、ともかく一度会いましょうということで、大久保駅前の喫茶店で会ったんです。五十年前のある日です。その時に三橋聡という青年も一緒にいて、詩の同人誌を創刊するということを決めたんです。というか、始めたのは上手さんと三橋で、そこにぼくがメンバーとして呼ばれた、という形でした。

その同人誌は「グッドバイ」という名前で、太宰治にそんなタイトルの小説がありますけど、同人はあと、魚屋だった島田誠一と数学の先生だった目黒朝子がいました。上手宰、三橋聡、島田誠一、目黒朝子、松下育男という五人の若者が1970年代に創刊したささやかな雑誌です。

それからは、同人誌の準備や、合評会やで、たぶん月に一度、20代の、詩の病に罹った若者たちが、薄暗い喫茶店に集まって、昼間から夜中まで、ずっと詩の話をしていたんです。途中に二度ばかりその場で食事をして、延々と詩の話をしていました。

でも詩の話をしていたのは、ほとんど、上手さんと三橋でした。ぼくはそばにすわって、黙って聴いていました。当時、ぼくは無口な青年だったんです。ですから、歳をとって、ぼくがこんなにあちこち行って話をするようになるとは、こんなにおしゃべりになるとは、当時は、思いもしなかったです。

ともかく、1970年代、「グッドバイ」の同人と過ごした時間こそが ぼくの詩の原点なんです。

20代の始めです。学生生活が終わって、仕事を始めて、給料がもらえて、自分のお金ができて、若いですから体力もあって、どこにでも行けて、溌剌とした若者の時間が送れる時に、ぼくは、海に行くでもなく、スキーに行くでもなく、ガールフレンドとデートをするでもなく、貴重な休日に、何をしていたかと言いますと、暗い喫茶店でぼそぼそと詩の話をしていたんです。

今思えば、あの頃が一番、詩にわくわくしていられたなと思い出すんです。もちろん詩はひとりで書くものですし、ひとりで詩を読んだり書いたりするのも好きですが、あの頃に、自分と同じように詩に夢中になっている仲間と、真摯に詩の話ができた時の胸の震えは、今でも忘れないんです。

詩も、ぼくも、若かったなと、思うんです。

その時には、むろんその50年後に、こうして、ぼくが上手さんの話をすることになるだろうなんて、思いもしませんでした。

ただ、最近も上手さんと会って、お酒を飲みながら話をしたんですけど、気がつくと、自分の年のことなんていつも忘れてしまいます。話すのは詩のことですから、結局のところ、50年前と同じことを、今でも熱く話すことができるんです。

こんな間柄なんて、同じ詩の病に罹った詩人同士でないと、ありえないと思うんです。二人とも、視線はいつも、詩を見てきたんです。見ているんです。

話が長くなったので、また上手さんの詩を読んでみます。「夢の続き」という詩です。

✳︎

夢の続き (詩集『夢の続き』より)

いい夢を見ていて目覚めたら
もう一度目を閉じて
その夢を見にゆく
と妻が言う
明け方が寒いほど
美しい夢に戻れるのだと

うらやましいな
と私は言いつづけ
生まれてきた幼い子どもたちは
うそだーとはやしたてた

その子どもたちも大人の扉の前に立つようになると
時として真顔で訊くようになった
どうすれば楽しい夢に戻れるの?

一度見た夢には必ず戻っていける
いっしんにその夢の続きを見ようとして
山の細い小径を分け入っていくと
必ずたどり着けるのが夢だと
妻は笑っている

たとえばどんな夢?
子どもたちはなおも訊ねる

夢はね、楽しければたのしいほど
思い出せないようになっているの
楽しい夢の続きを見たという幸せな気持ちが
布団のぬくもりのように残っていたら
千の物語を忘れても惜しくはないものよ

妻の寝顔がいま微笑んだ
いい夢を見ているのだろう
でなければ、はぐれた夢にいま追いついて
肩を並べて歩き始めたところだろうか

私がその寝顔にみとれているのを
知ってでもいるかのように
もう一度微笑んで寝返りを打った
その寝返りの向こうに
小さな朝が生まれるところだ

(「夢の続き」について)

最初の二連には、奥さんがいい夢は続きが見られると言って、それに対する亭主と子どもの反応が書かれています。

なんだか、こうしたやり取りそのものが、夢の中のようにあたたかく感じられます。いえ、こうしたやり取りそのものが、奥さんにとっての大切にしたい「夢」なのかもしれません。

ところで、「夢の続き」という、どこか映画の続編のようにして夢を扱うことに、とても新鮮なものを感じます。

誰でもがみる夢というものについて、ちょっと変ったことを言っています。

夢などという、だれでもが知っていることについて、ちょっと変ったことを考えたり、書いたりすることは、とてもむずかしいことです。というのも、みんなが始終考えていることだからです。それにもかかわらず、きちんと、みんなが考えない隙間を見つけて、こうして書けることは、詩の発想としてはとびきりの物なのだと、ぼくは思います。

さらに詩は、奥さんと子供たちのほのぼのとした会話を書いています。「たとえばどんな夢?」と聞く子どもに対して奥さんは、「夢はね、楽しければたのしいほど/思い出せないようになっているの」と答えています。思い出せないものの続きは、なぜ続きと分かるのだろうと、なんだかうまくはぐらかされている気持ちにもなりますが、このはぐらかしは、正直なものなのかなとも思えるのです。

忘れてはいるけれども、続きを見れば「ああ前回の楽しい夢の続き」だと、その時にわかる夢なのでしょう。

これって、詩を書くことと似ているなと、ぼくなどは思ってしまうのです。詩を書いている時はとても興奮していて、楽しい。そして一編の詩が書けます。けれど、その詩はどうやって書いたのかとあとで聞かれても、上手く説明できないのです。忘れてしまうんです。そして次回、詩を書こうとするときは、書いている内になぜかまた書き方を思い出すのです。「ああ、こんなふうに詩が書けてしまうんだな」と。どこか、楽しい夢の続きをみているのと似ているなと思うのです。

さて、最後の二連には、奥さんの寝顔を見守っている私が出てきます。なんとも仲のよい間柄です。これほどストレートな夫婦愛を読まされているのに、読んでいてうんざりしないのは、優れた発想によって、人には見えないところを、詩できちんと見せてくれているからなのです。

この詩から学べることは、もちろん家族に対する愛情が描かれていますが、それとともに、誰でもが知っていることの中に、書くべき新鮮な隙間を見つけることができるんだということです。


では、また話を続けます。

(自分の道は変えない)

それで、上手さんとの50年前からこれまでのことを細かく話すにはさすがに時間が足りないんで、上手さんのことで印象に残っていることを、ひとつ話しておこうと思います。

さきほど、1970年代に五人で同人誌を創刊したという話をしたんですけど、無名の若者たちが出したこの、詩の同人誌「グッドバイ」は、詩の世界から、自分たちが思っていた以上に幸運な迎えられ方をしたんです。

同人のひとり、島田誠一のエッセイが「現代詩手帖」の詩誌評にとりあげられたんです。そのことに島田だけではなく、同人のみんなも感動しましたし、驚きました。そんなことがあるんだと思ったんです。

それと、当時H氏賞を受賞したばかりの荒川洋治から連絡をもらったりもしたんです。それで、何度か荒川さんと会って、近しく付き合うようになり、程なく、荒川さんの出版社、紫陽社から、同人みんなで一冊ずつ詩集を出すことになったんです。「グッドバイ叢書」という名前で、三橋聡詩集、松下育男詩集、島田誠一詩集、目黒朝子詩集、菊池千里詩集と、出して行ったんですけど、でも、上手さんだけは、紫陽社からは、詩集を出しませんでした。

他のみんなは紫陽社から詩集を出したんですけど、上手さんだけは、自分の詩のありかたとして、それは違うと思ったんだと思います。

当時は、荒川さんは新しい詩の流れの先頭を走っていましたから、その人の出版社から詩集を出すということは、若い詩人にとって、なによりも魅力的なものでした。

けれど、上手さんだけは、そういったものに背を向けても、自分の詩のありかたを貫こうとしていたんだと思います。

自分の詩を、誰かにどうにかしてもらうのではなく、自分の詩のあり方は自分が決める、自分の詩集は自分の好きなように出して生きてゆく、ということだったんだと思います。

ひとことで言えば、自分の詩の生き方に筋を通したんです。その姿勢は、詩を書いてゆくということにとって、とても大事なことを教えてくれていると、ぼくは後にわかりました。

自分が目立ちたいとか、有名になりたいとか、というところとは関係のないところで、自分の詩と付き合ってゆくという姿勢は、なによりも純粋で、強靭な精神を証明するものだということを、上手さんは示してくれたのだと思うのです。

当然のことながら、同人誌の中で、上手さんは孤立してゆきました。いえ、上手さん以外の全員の方が、上手さんから孤立していたのかもしれません。

ほどなくして、上手宰は詩誌「グッドバイ」をやめました。

上手さんのすごいところは、そこでじっとしていないで、新しい雑誌をはじめたことです。「冊」という雑誌でした。自分のやりたい道を選んだのだろうと思います。同人誌「冊」はその後、長い間、定期的に出され、この雑誌からは多くの優れた詩人が出てきました。今も続いています。

名声や、目先の栄誉に揺れることのない志が、その後の雑誌を見事に作らせ、さらにその志が、上手宰のさらなる詩を生み出す原動力になったのだと思います。

自分の詩の行き方に筋を通す。そののちの上手さんの詩の行き方が見えるできごとでした。

それで、上手さんもぼくも、20代の頃から詩をうっとりと見ているうちに、気がつけば70代になっていました。

ただ、ぼくと上手さんには大きな違いがあるんです。

ぼくはその後、上手さんを追うようにして「グッドバイ」をやめ、さらに30代で早々に詩も書けなくなって、やめてしまったんです。

それからの十五年間、ぼくは詩とは関係のない生活をしていました。その間も、上手さんは、仕事をし、家庭を持ちながらも、詩を旺盛に書き続けていたんです。雑誌「冊」を出し続けていたんです。

年月が経って、ぼくは50代になってから、頭をかきながら恥ずかしげにまた詩の世界に戻ってきました。もちろんその間、上手さんはずっと熱く詩を書いてきているんです。1970年代から2020年代まで、ずっと詩を書いてきているんです。

ただ書き続けてきたわけではないんです。ますます詩に磨きがかかってきているんです、これってどうなっているんだろうと、ぼくなんか思うんです。

しつこいようですけど、ぼくは30代でもう詩がダメになって、完璧に諦めたんです。若い頃にそこそこの詩が書けていても、ぼくのように多くの人は、その内に自己模倣に陥り、だんだんつまらない詩を書くようになって、そのうち自分でもそれに気がついて、詩をやめてしまうんです。

それが人間らしいと思うんです。それが普通の人です。ぼくも普通の人でした。それでいいと思ったんです。

でも、そうでない人がいるんだということを、上手さんを見てわかったんです。熱く詩を書いてきていて、いつまでも詩がマンネリ化してゆかない人、というものがいるんです。

もちろん年をとってから、年寄りなりの詩に変ってきて、違う境地の詩を書く人もいます。でも、上手さんはそうではないんです。年をとったから歳よりの詩にシフトして詩の世界で生き延びようなんて思っていないんです。若い頃の詩そのままに、いえ、年とともに、言葉の鋭さと深さを増して、未だ最先端の詩人なんです。おどろくべき詩人だと、ぼくは思うんです。

詩を読んでみましょう。

✳︎

隊列のはなし (詩集『しおり紐のしまい方』より)

とうさんはね 小学生の時から行進が嫌いだった
強拍には左足を出し 弱拍は右足で追う
みんなと違ったら目立たずにすばやく直す
今でも 道を歩く時あらゆるものを左右で数える
窓の続く建物や 横断歩道の縞々を
左足から抜け出たらいいことがある
死ぬまでこの癖は治らないだろうね

オリンピックの入場式は近ごろ
だらだら歩くのでとても好きだ
とうさんの少年時代には一糸乱れず行進した
神が閲兵したくなる光景だった

お前たちがまだ小さかったある夜
かあさんがお酒を飲みすぎて気持ち悪くなった
トイレに行ったけどいつまでも帰ってこない
そこでとうさんが迎えに行った
どうした だいじょうぶか
すると私の後ろから小さな娘のお前が覗き込んだ
そのあとからもっと小さな息子まで
よたよたと歩いてそれに並んだ
わが家でただ一度の一列縦隊だったけど
みんなで整列したのが
戦争でなかったことだけはたしかだ
かあさんだって丸腰だったしね

とうさんはその昔 かあさんの前に
一番にならんだんだけど
お前たちもいつか誰かの前に一番にならびなさい

あの夜 狭くて薄暗い廊下には
洗濯機なんかがあって
その先には電気の消えた風呂場があった

(「隊列のはなし」について)

戦争のことから語り始めていて、ああこの詩は反戦の詩なのかなと思います。けれどそうではなく、詩は戦争の「隊列」のことから、自分の家での「隊列」に、話は向かってゆきます。

トイレから帰ってこない奥さんを心配して、家族が並んだ、それをわが家の隊列としています。なんという見事な受け止め方か、連想かと、驚きます。

どこか、絵本にでもしたくなるような情景です。

そして、お父さんと子供たちが一列に並んだところは、なんとも可愛らしい情景です。日本家屋の廊下は、それほどの幅もありませんから、一列にならざるをえません。

でもこの隊列は狭くてもいいのです。みんな、愛するお母さんに向かっています。こうした隊列を作って生きていけるのも、今の時代には日本に戦争がないからなのだとも、言っているようです。ということは、この詩はやっぱり反戦の詩なのです。

けれど、この詩は反戦の詩だけでは終わっていません。「とうさんはその昔 かあさんの前に/一番にならんだんだけど/お前たちもいつか誰かの前に一番にならびなさい」と子供たちに言っています。

この詩は自分の子供に語りかけています。愛するものを持ちなさい、愛するものには、隠さずに全力で愛を表現してもいいのですと、言っています。

命令形の詩を、ぼくは好きではありません。でも、この詩の命令形だけは気持ちよく読めるのです。自分の子供になら、その子供のために言われている言葉なら、命令形にも体温が感じられるのです。そしてこのお父さんからの命令は、たまに思い出せるように、どこかにしまっておきたいのです。

ともかく、ひとつの詩に、反戦というメッセージと、人を愛する大切さを歌う愛が、ともに入り込んでいます。

この詩から学べるのは、詩にメッセージを込めるためには、メッセージが霞むほどの表現の崇高さと優しさが必要なのだと、そしてそれは可能なのだと、いうことです。


今日は、上手宰という一人の詩人の、詩との生き方を見ています。上手宰の詩に対する姿勢と、残してきている詩から、これから詩を書いて生きてゆこうとしている人の、何らかの参考になってくれればと願います。

(上手宰とは)

ここで、上手さんの詩とはどんなもので、ここから何が学べるかを、少し整理をして話をしたいと思います。

今回のお話をするために、ぼくは上手さんがこれまで出された詩集を全部読み返しました。お手元に資料があるかと思いますが、八冊の詩集です。

『空もまたひとつの部屋』(1975 青磁社)
『星の火事』(1980 版木舎)
『追伸』(1988 青磁社)
『夢の続き』(2004 ジャンクション・ハーベスト)
『上手宰詩集(新・日本現代詩文庫56)』(土曜美術社出版販売)
『香る日』(2013 ジャンクション・ハーベスト)
『しおり紐のしまい方』(2018 版木舎)
『二の舞』(2023 版木舎)

5冊目の『上手宰詩集』だけが選詩集で、あとの7冊が単行詩集になります。

それで、ひとりの詩人がその折々に全力で書いてきた詩集ですから、人生とともに変化してゆきます。一冊一冊、それぞれの魅力があるんですけど、長い詩歴の中で、大きく変ったのは一回だけのような気がします。

どこで変ったかといいますと、これはあくまでもぼくの感じ方なんですけど、二冊目の『星の火事』を出した時です。つまり、最初の詩集『空もまたひとつの部屋』は、正面から、たったひとりで世界と向き合っている詩なんです。これはこれで、詩と正面から向き合ったよい詩が多く含まれています。また、上手さんの原点がこの詩集にはあると思います。

でも二冊目の『星の火事』からは、ひとりで書いてはいても、常に目の端に家族を見ながら、より私的な視線で、こまごましたものまで見ている、身をかがめて低いところから見上げる詩になっているんです。そしてその後の詩集はすべて、基本的な姿勢は変らず、ただ詩はますます鋭く、深くなっていっているんです。揺るぎがないんです。

なぜ二冊目で詩が変ったかと言いますと、単純な理由だと思うんです。好きな人と家庭を持ち、愛する子どもとともに過ごす日々を持つようになったということなんだと思うのです。

上手宰の詩に、家族はとても似合います。これほど家族の似合う詩を、ぼくはほかに知りません、

そして、家族を通した視線で書く詩は、複数の視点を持ち、他者の痛みを常に感じ続けられる、あたたかな詩にでき上がってゆくんです。

上手さんの詩の特徴を言いますと、四つの言葉に集約できるのではないかと思います。

(1)どこにでもあるものを書く
(2)概念を視覚化する
(3)家族愛に満ちている
(4)書きたいことは省略せずに書きたいだけ書く
となると思います。

もう少し詳しく話しますと、
(1)「どこにでもあるものを書く」というのは、なんでもなく見ているものから何かを発見をする。その発見が発想となり、詩となってゆくということです。
(2)「概念を視覚化する」とは、目に見えないものである概念や感じ方を、時にユーモラスで温かなものとして視覚化してしまうということです。
(3)」「家族愛に満ちている」は言葉そのままです。自分の視線だけでものを見るのではなくて、いったん家族を思いやるフィルターを通して、さらに世界の事象を見直してみる。無防備で開けっ広げな家族愛です。
(4)「省略せずに書く」は、詩であるということは簡潔にものごとを言い当てることだ、という常識を無視して、自分の思いは言葉を尽くしてとことん言いきってしまうということです。

そしてこの4つの特徴は二つのグループにわけられます。
(1)どこにでもあるものを書く
(2)概念を視覚化する
というのは、わりと多くの、すぐれた詩人に見られる特徴なんです。いうならば、詩を書くことの常識なんです。常識ですけど、やるとなるとなかなかできない。でも、この二つは、上手宰の特徴というよりも、優れた詩の一般的な特徴なんです。

一方、
(3)家族愛に満ちている
(4)書きたいことは省略せずに書きたいだけ書く
というのは、上手さん以外の優れた詩人には、あまり見られないのではないかと思うのです。独自の詩の特徴なんです。

なぜ(3)と(4)が一般的でないかと言いますと、時に、詩にとってはマイナスの要素を含んでいるからなんです。

(3)の例えば家族愛を書く、ということについてですが、一般的には、自分の詩を高尚に見せるためには、あまり家族に対する愛などという身近なものは、見せないようにした方がいいと考えるのが、一般的な考え方なんです。でも、上手さんの詩を読んでいますと、そんなことはないんだと言っているようです。家族に対する愛こそが、詩を高尚に見せるもののようになっています。不思議です。

また、(4)の、書きたいだけ書いてしまうという、くどいほどの描写や説明は、一般的には、詩では好まれない傾向にあるんです。書きすぎている詩よりも、書かない部分を残しておいて、あとは読者に想像させる、という詩の方が優れているという考え方があるんです。でも、上手さんの詩を読んでいますと、言いたいことを書くのに、なぜ省略する必要があるのかという率直な思いに、説得されてしまうんです。

つまり、さきほど、上手宰は、目先の栄誉ではなく、自分の本来の詩のありかたに忠実に生きてきたと言いましたが、上手宰のそうした生き方だけでなく、詩のありかたも、同様に、人がどう考えようとも、自分の詩があってほしいという姿を、決して崩そうとはしないんです。そしてその姿勢が、上手宰の詩にとって、もっともよい選択であったということを、僕らは作品を通して知ることになるんです。

そこに、上手宰が現代詩に付け加えた新たな領域があるのではないかと、ぼくは思うのです。

もう一編、読んで見ましょう。この詩にもさきほどあげた特徴が明確に見られます。

「二歳」という詩です。

弟さんのことを書いた詩です。ぼくの大好きな詩です。昨年出た詩集からです。

✳︎

二歳 ――長い階段が消える日 (詩集『二の舞』より)

なぜか人は
だれもが自分の歳を知っている
訊かれたらすぐに答えられるように
小さな子どもでさえ不器用な手付きで指を立て
舌足らずの声で「つ」の付く数を告げる
おとなは目を細め それを褒める
おおよくできたこと と

指先から数になった子らは
増え続けるその数を生涯抱き続けるがよい
長い階段はさらに続くが
歳は人の不思議な居場所だ

弟よ おまえが
突然亡くなったと連絡がきた
これまでずっと一つ下だったので
親しんだ自分の歳から一つ引く
「兄貴 僕の歳を即答できるかい」と
問うためにおまえは逝ったわけじゃないのに
その日私は 瞬時に寂しい算数をした

おまえが初めて一歳という数をもらった年に
私は二歳という数をもらった
それは決して入れ替われない順番だったのに
私は今 ぼんやり取り残されていた

吹いていた口を離すと
くるくる戻ってくるピロピロ笛のように
おまえは最初の長さに戻ってしまった
永遠の一歳に
息が尽きれば私にも同じことが起きるだろう
長かった階段は消え 始まりに戻るのだ
だが戻る先は二段目にしてほしい
一段目にいるおまえのとなりにいたいから
いつもそうだったように

(「二歳 ――長い階段が消える日」について )

年齢についての詩ですが、年齢なんて、まさにありふれたものであって、今さらどうやったら詩になるのだろうと思って読んでいますと、この詩には次々に新しい感じ方が出てきます。わたしたちは、どうして上手さんのようには気がつかないんだろう、なんと無頓着に生きているのだろうと、この詩を読んでいると反省させられるのです。

「歳は人の不思議な居場所だ」の一行に、たちどまります。年齢を単に通過するものとして日々を過ごしているものにとっては、「不思議な居場所だ」ととらえて、新鮮に感じることもできるのかと、教えられます。その歳に腰をかけ、その歳に暮らしているのかと思えば、なるほどと感じるのです。

一連目、二連目と、「年齢」についての一般的な見方が語られ、この詩がさらに衝撃を持つのは、三連目です。弟さんの死が描かれます。

弟さんが、「これまでずっと一つ下だったので」というのは、あたりまえなんですけど、何気ない言葉なんですけど、ここには確かに大きな発見があります。あたり前のことは普通、誰も見つめません。ですから、あたり前のことを見つめること自体が、発見になるのです。

「その日私は 瞬時に寂しい算数をした」の一行も胸に響きます。「だれもが自分の歳を知っている」ので、自分の歳を思い、そこから一を引いて、弟さんが亡くなった歳を確認したのでしょう。

算数とは、本来は単に数字を扱うものですから、数字そのものにはなにも色が付いていないのかと思っていたら、そんなことはなかったのです。

そして再び胸を打たれるのは、最後の所です。自分が死んだら階段の二段目(二歳)に戻りたいと言います。なぜなら「一段目にいるおまえのとなりにいたいから」ということなのです。

そしてここまで読んで、「歳は人の不思議な居場所だ」の「居場所」とは、なるほど「長い階段」の一段のことだったということに納得するのです。隣の段なら、死んでからでも、簡単に行き来して、笑いあうこともできるというものです。

この詩から学べるのは、人の年齢という、だれでもがあたり前に考えているものを、あらためてとらえ直して、家族の情愛の発想をそこに込めれば、すぐれた詩ができるということです。

と、ここまで上手さんの詩を四編読んでみました。もちろんすばらしい詩はまだまだ沢山ありますので、興味のあるかたは詩集を買って読んでいただきたいと思います。

(二つの家族)

それで、上手さんが詩を書き続け、常に優れた高みへ向かって行けているのは、おそらく、ふたつの家族のおかげではないかと思います。

ひとつめの家族は、詩にたびたび登場する奥さんであり、お子さん達です。リアルな家族です。「お父さんは詩人だ」というまなざしに囲まれて、詩人としての誇りを保ちながら、詩を書いてゆけるのは、まさにご家族に囲まれて生きてきたおかげではないかと思うのです。むろん、そうした家族を作り上げたのは、上手さん自身によるものではあるのですが。

そしてもう一つの家族とは、上手さんが主宰する雑誌「冊」のお仲間と、編集する「澪」のお仲間ではないかと思われます。つねに、自分よりも若い詩人達のなかで、逃げ場もなく新作を批評の前に晒してゆく行為と勇気が、また仲間達のきびしい批評を謙虚に受け止める姿勢が、上手さんの詩をさらに磨き上げてきたのではないかと思います。

上手さんが、これまでの経歴におごることなく、いつまでも少年のように詩にひた向きに向かい合っていられるのは、「冊」と「澪」さらに詩人会議の仲間の支えもあったのではないかと思います。こちらも、むろん、そうした集まりを作り上げた上手さんご自身の努力が、そうさせたのだとは思うのですが。

(詠嘆調であること)

最後に、上手宰の多くの詩が、ひそやかに詠嘆調であることを忘れたくないと思います。
人生を歌い上げていることを、忘れたくないと思います。

時間があるようなので、もう一つ読んでみましょう。「冬の写生」です。

✳︎

冬の写生 (詩集『しおり紐のしまい方』より)

青空がよく見えるように
葉を落として
木は立っていた
だから世界は透き通ってみえた

ただ一箇所だけくろぐろと
枯れた葉の塊が視界をさえぎっていた
折れた枝が落ちきれず
さかさに吊り下がっていたのだ

びっしり葉をまとってその枝は死んでいた
生きた樹木がすべての葉を脱ぎ捨て
固い樹皮だけで風に耐えている中を

木々を枯らして過ぎ去るので
北風は「木枯らし」と呼ばれた
言葉が見えない風を写生したのだ
続きを見えない絵筆が描きあげた
そこにあるすべては
生きて はだかなだけなのだと

団地の五階から小さな娘が
出勤していく私にいつまでも手を振っていた
声も届かない点になるまで
私も点から手を出して振り返した

冬枯れの景色は遠くを招き寄せる
緑の季節には隠されていたバスが
木々のあいだから姿を現し
ゆっくり曲がってこちらにやってくる

✳︎

(「冬の写生」について)

タイトルに「写生」とありますように、一枚の絵を見るように読むことのできる詩です。4連目までは、冬に枯れた木のことがひたすら描かれています。ほぼ叙景詩のようです。

そこには、木が枯れてしまうことが描かれていて、自然と、命について考えさせられるようになっています。

ただし、枯れてしまうことは、死んでしまうことは、必ずしも寂しさに繋がるものではなく、「青空がよく見える」「世界は透き通ってみえた」とあるように、明解な世界観の中での自然な出来事として、むしろ爽やかに描かれています。

だれもがここを読めば、自分の命や死をも、爽やかさの中での自然な出来事でありたいと思ってしまいます。

詩が大きく変化するのは5連目です。変化というのは、「人」が出てくるということです。この連の風景はとても印象的です。この詩が際立っているのは、まさにこの連の視覚的なものからくると言ってもよいと思います。

団地の窓から娘が手を振って、出勤する私の姿が点に見えるほどに遠ざかってしまった。それでも「私も点から手を出して振り返した」というのです。ここは面白いです。小さな丸になってそこから手を出しているのを見ているのは娘さんです。娘さんからの視点が、俄に出てくるんです。

いえ、娘さんの視点というよりも、読者の視点になるんです。だれもがここを読めば、小さな丸い黒点からにょきりと優しい腕が出てきて振っているところを思い浮かべます。そして、だれもが温かい気持ちになって、詩の外からも、手を振り返したくなるのです。

点から手が出てくるなんてありえないことです。でもあり得ない視覚的な様子を描くことによって、ありえる風景よりも、たくさんの情感を、読み手に伝えてくれています。

このような情景は、詩にしか描けないと思います。

この詩はほんとにいいなと思います。

この詩から学べることは、詩(言葉)でしか描けない、ありえない情景を的確に描くことによって、どのような説明よりも多くのことを、語りかけることができる、ということです。


(最後に)

最後に、今日の話のまとめの意味で、上手宰さんから学べることを4つ、確認しておきたいと思います。

(1)家族への愛という、あたり前の感情であっても、高らかに歌い上げれば、生きていることの震えを含んだ極上の詩になる、ということを教えてくれました。
今日のお話の最初に、ぼくがあたたかい家族の中で育てられて幸せだったという話をしました。それはたぶん、上手さんのこれらの詩を読んでいたら、どうしても家族のことが思い浮かべられてきてしまったからなんです。

(2)詩は省略すべきものだ、切れ味が大切だ、説明をしてはいけない。そのような常識を無視して、書きたいことは書きたいだけ書いても、すぐれた詩はできあがるのだということを、上手宰の詩は教えてくれました。

(3)人は名声や名誉というものを喜ぶけれども、そのために自分の詩を変えることをしないという、詩人としてのあるべき姿を、上手宰は教えてくれました。

(4)詩は青年の新しい感性だけのものではない、歳とともに、いくらでも成熟してゆけるのだということを、上手宰は教えてくれました。

この4つです。

1970年代から2020年代へ、ぼくは上手さんとともに半世紀の間、詩を書いてきた、ということよりも、半世紀前に知りあってお互いにまだ生きて会えることを喜びたいと思います。

それこそがぼくたちの人生です。詩はすばらしい。人生には詩の裏打ちがあります。

(なぜ詩を書いてきたか)

長々と話をしてきましたが、最後にもうひとつだけ、言いたいことがあります。

詩は、生きて行くことの付加価値になるようなものでありたい、ということです。

詩を書くことは、人生の付加価値にしたい、ということです。詩を書く事によって、まわりに迷惑をかけたり、負担をかけたりしなくても、詩を書いてゆくことはできます。

なんであらためてこんなことを言うかといいますと、詩を書いていると、どうしても認められたい、早く詩で有名になりたい、という気持ちになってしまう人がいるからなんです。

それは普通のことだと思うんです。せっかく書いたのだから褒められたい、認められたいと思う。そういう気持ちが、詩をよりよくしてゆく、ということもあります。

でも、それも程度の問題です。ただ褒められたい、認められたい、という気持ちが募ってゆくと、詩を書く喜びが汚れてくるんです。それに、自分が願うほど、自分の詩が褒められるなんてことはありませんから、そうすると、だんだん苦しくなってゆくんです。

楽しいから詩を書いてきたのに、気がついたら苦しみながら書いているんです。

そんな時は、人と比べないことが大事です。どうしても人と比べてしまうようなら、いったん詩を書く事をやめた方がいいです。

おだやかな自分、というものがない限り、詩なんか書いていたってしかたがないんです。

詩を書く事によって、人と比べて苦しくなるなんて、やめた方がいいと思うんです。

詩を書く事は、生きていることに、ひとつ、よいことが付け加わることにしたいんです。

ですから、忙しい時は書かなくてもいいんです。

書きたいけど育児で忙しくて書けない、残業が多くていつも眠くて書けない、そんな時期には、無理して詩は書かなくていいんです。

でも、いつかきっと、書ける時は来るんです。書きたいと思っているのに書けなかった時期が長ければ長いほど、いざ書ける時になれば、表現は深まっているはずなんです。

単純に考えていきたいと思うんです。

人生の、書ける時に楽しく書いてゆく、誰と競争をするのでもなく、自分の人生に、何かひとつ付け加えるものとして、詩を書いて、生きていって欲しいと思います。

人それぞれの詩との付き合い方があります。詩が書きたい、という気持ちがあるのなら、きっと詩は書けます。そしてきっと、居心地よい、自分の詩の場所があるはずです。自分が書いてゆける場所をみつけて、ゆったりと詩を書いてみてください。

詩を読み、書くことは、人生にひとつ、楽しみを増やしてくれることです。

今日の話の最初に、ぼくは子供の頃に、京浜急行の駅の近くの普通の家で、とても幸せな少年だった、という話をしました。
あれからこうしておじいさんになるまで、いろんなことがありました。めげてしまうようなこともありました。

でも、会社を終えて、年をとってからまた詩に戻って、こうして詩の話ができる日々は、もしかしたら、少年のときに感じていた幸せを上回って、今はもっと幸せなのかもしれないと思うのです。

詩を読まなくても、書かなくても、幸せになれます。けれど、詩を読み、書くことによって、その幸せの量を、もう少し増すことができるのではないかと、ぼくは思います。

そういうふうに詩と付き合っていきたいと思います。
それを、今日は伝えて、終わりにしたいと思います。
ありがとうございます。

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