2024年2月29日(木)常にあざやかな夕焼けを自分の中に持ち

木曜日の朝だ。昨日は家人と夕飯の買い物に出かけた。スーパーに行って、家人についてカートを押す。これまで幾度も繰り返してきた行為だ。生きてスーパーでカートを押す。詩なんか入り込む余地はない。でも、カートに放り込まれてゆく魚や野菜の隙間に、時に、詩よりも詩がある。

ところで、「ほとんどの人は、だれの記憶にも残らずにただ生きてただ死んでゆく」と書いていたのは、ドストエフスキーだったろうか。

ドストエフスキーが書いたことに異論を差し挟むほど、ぼくは愚かではないけれど、いったい、「ただ生きてただ死んでゆく」以外の人なんて、いるのだろうか。

与えられた命の器の中で、しばらくたゆたって、静かにもろ手をあげて終えてゆく。だれだってそれ以外にはない。

たとえ、しばらくの間(数百年)はだれかの記憶に残っていた人がいたとしても、残らなかった人と、いかほどの違いがあるだろう。

いつだったか、「詩人の世界って敷居が低いんですね」と言っていた人がいた。有名な詩人と無名な詩人は何も変わらない、という意味だ。

有名な詩人、という言葉に、ぼくも若い頃は憧れたし、自分の書いた詩がずっと読まれてゆくことを願った。

それでも、詩を書くとは、有名になることなんかをめざしているのではない、という気持ちは常にあった。そんなことに振り回されて生きていきたくはないと。

ぼくの望みは、常にあざやかな夕焼けを自分の中に持ち、全身を叙情に焼け尽くされて生き切ることだけだ。

つまりは見事に、ただ生きてただ死んでゆく。

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