「人は生まれ、人は呑み、人は見送る」― 谷口鳥子詩集『とろりと』

「人は生まれ、人は呑み、人は見送る」 ― 谷口鳥子詩集『とろりと』(金雀枝社) 
  
 谷口鳥子さんの詩はこれまでにもたくさん読んできました。折りに触れて「もう詩集を出してもいいんじゃないかな」と言っても来ました。それだけのものを作品がすでに獲得していると思っていたからです。で、今回詩集を出すから何か書いてくれと言われた時には、僕の中ではどんな文章が書けるかの予想はついていました。
 しかし、まとまった原稿をあらためて読み進めるうちに、その考えがどれほど安易だったかに思い至りました。ターンクリップでまとめられた原稿の束からは、一篇ごとに読んでいた時には気付かなかったものをどさりと受け取った気がしました。この受け取った重いものをなんと表現したらいいだろう。終始頭の中に浮かんでいたのは、懐しい町並みをミニチュアに作りあげて、それを上空から覗き込んでいる視点です。公園であったり、病室であったり、飲み屋の中であったり、アパートの一室であったり。詩集はその覗き込んで見えたものを、芝居のト書きのように感情を抑えて並べてゆきます。人は生まれ、人は呑み、人は見送る。書かれているのは世の中の品書きであり、生きていることのさみしい核です。

小さな橋の先はマリーナ
右手にソープランド
左手に釣り鐘
求人は女ばかり   (「糸川」より)

 「さみしい」という日本語はありふれています。だから「さみしい」詩だなんて言いたくはなかったのですが、読んでいるとむしょうにさみしい気持ちになります。さみしい、というよりもさびしい気持ちです。「さびしい」は単なる「さびしい」ではなく、どこか根底で四割くらいわくわくする幸せに繋がっている「さびしさ」のような気がします。いったい「さびしい」の中の四割が幸せだなんて、そんなむちゃな感情はあるのだろうかと思うのですが、人の感じるものって、既存の日本語では到底表せるものではありません。だから詩がこうして書かれるのです。感情と感情が何割か混じった飲み物を、谷口さんは丁寧に作り出し、詩集の中に注いでいます。
 詩の形は時に下揃えであったり、行頭に傾斜がついていたり、自由に作られています。それにしても、形の自由にさえ幸せの混じったさびしさを感じます。詩の形を自由に遊んでいると言うよりも、表現のために詩をいったん壊しているようにも感じてしまいます。
 「Ⅰ 蛙の章」の断片映像の切れ味、「Ⅱ 胡瓜の章」の病室のお父さんとの会話体のリアリティー、「Ⅲ 綿毛の章」の飲み屋に来る人たちの心地よい言葉の湿り気。それらが手を携えて、ここにかけがえのない一冊の詩集が出来上がりました。

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