「現代詩の入り口」13 – 言葉の前に立ち尽くしたいなら、三角みづ紀の詩を読んで見よう

「現代詩の入り口」13 – 言葉の前に立ち尽くしたいなら、三角みづ紀の詩を読んで見よう

本日は三角みづ紀さんの詩を読んでみようと思います。三角さんともZoomで対談をしました。その時に用意した資料になります。

次の10篇です。さて始めましょう。わくわくします。

ヒューストン (『オウバアキル』)
しゃくやくの花 (『カナシヤル』)
切愛 (『はこいり』)
追伸 (『はこいり』)
終焉#14 (『終焉』)
湖面に立つ (『隣人のいない部屋』)
裸木 (『舵を弾く』))
花束 (『よいひかり』)
森の生活 (『どこにでもあるケーキ』)
ロートの日 (『どこにでもあるケーキ』)

「ヒューストン」

不安は要りませんか
私の不安
少しわけてあげましょうか
五時の音楽
聴くと
どくんと心臓が波うち
不安の匂いがたちこめる
ヒューストン
ヒューストン
私の声は届ますか
私の不安は届きますか
こめかみの部分
集中して
お腹はざわざわして
ヒューストン
すれ違う誰にでも
この正体知れぬ不安
わけてあげたくなる
ヒューストン
ヒューストン
私の不安
あなたに届きますか

「ヒューストン」について

 ぼくが初めて三角さんの詩で立ち尽くしたのがこの「ヒューストン」という詩です。わけても最初の一行「不安は要りませんか」という問いかけに驚きました。顔を覗き込まれて、わたしには売るほどの「不安」があるのです。それを買ってくれませんかと問いかけられた気がしたのです。「不安は要りませんか」と問いかける相手は、おそらくすでに不安そうな顔をして歩いている人なのではないかと思われます。さらに「私の不安/少しわけてあげましょうか」と続けざまに顔を覗かれれば、うろたえてしまいます。「いえ、間に合っています」と言う
のは、どこか申し訳ないという気持ちがするのです。

 ところで、「五時の音楽」とは何でしょう。ぼくが思うのは、夕方、町の空に流れるメロディーです。もうそろそろ今日の仕事は終わりですよ、家に帰って休んでもいいですよ、という優しい音楽です。この詩の中の人は、でも午後五時の音楽を聴いてほっとするのではなく、「不安の匂いがたちこめる」とあります。社会に組み込まれて、しっかり仕事や勉強を夕方に終えた人にとっては、五時の音楽は慰安になるのでしょうが、そうではなく、社会のレールからいやおうなく外れて苦しんでいる人にとっては、五時の音楽はむしろ焦りを生みだすものなのかもしれません。

 ということで、ここまで読んできたぼくは、内気な少女が、生きて行くことに心細くてしかたがなく、将来が不安でしかたがない姿を思い浮かべるのです。どこかの町の片隅の、どこかの部屋の中にいる人の姿を思い浮かべるのです。

 ところがこの詩は、決してそんなに狭いところにいる少女を描いているのではなく、もっと広い空間がいきなり出てきます。 「ヒューストン/ヒューストン/私の声は届ますか/私の不安は届きますか」というのは、宇宙飛行士が宇宙空間から宇宙センターに語りかけているのでしょうか。小さな心の中の不安が、とても遠い宇宙から語りかけています。

 いえそうではなく、やはり「不安は要りませんか」と訴えているのは、どこかの町のどこかの部屋にいる名もない少女なのです。そこからヒューストンに向けて訴えているのです。小さな部屋も、宇宙の一部に違いありません。人ごみのなかにいてさえ、宇宙に一人きりで漂う宇宙船に乗っているのと、なんの変わりがあるでしょうか。

「しゃくやくの花」

安物のベッドが
壊れてしまいそうな
セックスの夜
むかしのこいびとのもんだい
を吐き出したおとこは
わたしに
プロポーズした

わたしは
とても拙いから
ことばは返せずに
おとこを
抱きしめて
きすをした

わたしは
とても拙いけど
これから
を強く感じたから
煙草を吸うこと

やめました

朝と云う概念がめばえたら
駅ビルの花屋

一本三百五十円の
しゃくやくを二本
買います
おとこが帰ってから
それは
固いつぼみを緩め
夜中には
咲きこぼれます
とても死ぬ きれいね
とても死ぬ きれいね

わたしたちは
とても拙いから
時々わからなくなるけど
拙いなりに
生きること
を選んだのだ

次に桜が唄う頃
わたしは
よめになるのだ
しゃくやくの花
とても死ぬ きれいね

「しゃくやくの花」について 松下育男

 この詩を読んでいると奇妙な表現の仕方に驚かされます。その奇妙さが新鮮に感じられるのです。日本語をほっとかない、という詩人の姿勢が見えます。

 まず始めに新鮮に感じたのは「わたしは拙い」という言い方です。「わたしの何が拙い」、あるいは「何をすることが拙い」、ではなくて、「わたしは拙い」という言い方です。ここでは、どうも「気が利かない」あるいは「要領が悪い」というような意味合いで使っているようです。自分がこの世と合っていないなと感じることは、確かにぼくにもあります。

 つぎに新鮮に感じたのは「とても死ぬ きれいね」という言い方です。一見、日本語として意味が通じません。解釈を試みるなら「とても見事に死の瞬間を表しているわね。きれいね」とでも言えるでしょうか。

 ベッドの上で恋人にプロポーズされた、その時の心境を書いています。プロポーズに対する返事は、先ず男を抱きしめること。この時点でプロポーズを受け入れています。でも、そんなに簡単に喜んでいるわけではなく、プロポーズを受け入れるということへの相応の覚悟がなされています。

 煙草をやめ、この人とともに人生を鮮やかな朝のようにやってゆく決意をしています。それは、生の絶頂をともに上りつめる覚悟でもあり、当然のようにその後の死をもともに受け入れようというまじめで大きな覚悟です。

 多くの人が結婚をし、当然のように二人で歩んでゆくけれども、自分たちはそんなに簡単なことではないとわかっている。要領のわるい自分たちではあるけれども、覚悟を決めて二人で生きてゆこうと決める。

 「次に桜が唄う頃/わたしは/よめになるのだ」。「よめになる」、とてもきれいな覚悟です。死をも含む、美しくも拙い生き方がしっかりと書かれています。

「切愛」

階段をかけあがってきれた息が
夕焼け、
あたらしい町に飲み込まれる
真夏日に
足の折れた炬燵を捨てるかどうか
思案しながら
四畳半でこんこんとねむる鬼に問う

夕飯は食べてから帰るのか
お前のすきな煮物の材料を買ってきたから

鬼の頬を撫でる風が夕焼けで
恋人のようだとおもう
この鬼は恋人のようだとおもう

おおむかしにかなしいゆめをみて
ないていたわたしをつれてにげた
おに
いとしいおに
えがおがすえおそろしくて
きちんとあいじょうをふりわける
そんな、おに

くつくつと沸騰してゆく台所を
夕焼けがなぞり
不躾にしのびこんだ風が夜にむかい
階段をくだる町をも撫でて
きれた息をおもいだし
野菜を洗うわたしの足が折れて
恋人は鬼のようにねむりつづける

「切愛」について

 好きな人をなんと呼ぶかは人によって違います。たとえば名前で呼ぶにしても、「さん」付けにする人、「君」付けにする人、呼び捨てにする人、その時々の二人の接近度によって微妙に変わってきます。そして呼び方が変わってゆくほどに、二人の幸せの嵩(かさ)が増してくるようです。

 ところで三角さんは恋人を「鬼」と読んでいます。それには理由があって、「おおむかしにかなしいゆめをみて/ないていたわたしをつれてにげた/おに」だからなのです。つまりは自分が弱っているときに手を差し伸べてくれてそこから連れ出してくれた人なのです。連れ去られる、あるいは誘拐されることは、とても恐ろしいことですが、今生きている場所がつらくて仕方がない時、そこから誘拐してくれる人がいたことは、とてもありがたく嬉しいことだったのです。鬼が私を脇の下にかかえて、走り去ってもくれたのでしょうか。

 詩というものは不思議なもので、鬼はたんなる比喩で、実は人が眠っているだけなのですが。読んでいると、鬼そのものが角(つの)をはやしたまま、部屋に眠っている様子を思い浮かべてしまいます。詩の中に幾度も「夕焼け」が出てくるせいか、鬼の顔は間違いなくすごい赤なのではないかと思います。

 鬼のために煮物をつくる幸せ、鬼と一緒に夕食をとる幸せ、鬼を送って外階段を並んで降りてゆく幸せ。でもこの詩は、どこかほんわかした幸せだけではないものを感じさせます。もっとあやういもの、だからじっと守っていたいもの。「切愛」とは、たいせつなものの切り口のような愛なのでしょうか。

 鬼が帰った後で無性(むしょう)に寂しくなり、鬼のような泣き顔になるのかもしれません。

「追伸」

洗濯物を
したから
見上げることしか
できない日って
たしかに
ある

その
衣類がからからに
かわいているさまに
たちうち
できないことが
たしかにあった

寝室のそとは無関係の空間である
ただひたすらにだだっぴろいだけの
意味をなさない空間である

口腔から
体温計のおとがする

汗とか命とかきもちわるい

「追伸」について

 この詩は何らかの心境を書いています。どんな心境なのかと言えば、手がかりは二連目にあります。「衣類がからからに/かわいているさまに/たちうち/できない」とあります。乾いているものに敵わない、というのは自分が乾いていないからでしょうか。言い方を変えるならわたしが湿っている。人が湿っているというのは感情が揺れていることでもあります。泣きそうにもなっている、ということでしょうか。

 一連目に戻ると、洗濯物を干す時に空を見上げることが書いてあります。「見上げることしか/できない日」とはどんな日でしょうか。どう考えても悲しみの日のように見えます。うつむいてしまうと、もうもとにもどせないような悲しみ。だからひたすら見上げていることしかできないのです。

 タイトルに「追伸」とあるのは、ある特定の人に向けた詩であることを示しています。恋愛関係を思い浮かべます。

 三連目に外の大きさが書かれていて、おそらく自分の感情の揺れとは無関係に乾ききった無関心な世界を描き、そのあとで「口腔から/体温計のおとがする」と続きます。外の乾いた世界と対比するように、湿った体内の描写に移っています。生きていればいやおうなく感情を持ち、湿り気を持ち、体の温かみを持つという、やるせなさを表しています。

 最終連、「汗とか命とかきもちわるい」は、自分が生き物であることへの嫌悪感であり、「追伸」としてメッセージを送る相手も生き物であることの、愛すべき面倒くささを書いているように読めます。

 おそらく、好きな人と何らかの仲違いをして、持って行き場のない気持ちを抱きながら洗濯を干している、そんな一日を描いているようです。洗濯物には、当然自分でない人の肌をおおった肌着も混じっています。

「終焉#14」

起きたら快晴だった
ばかみたいにあおかった
朝食の支度をしながら
せんたくきがかんかんまわる
ねむるひとはまだねむっている

ばかみたいにあおくて
この日々をこうふくとよぶ
こうふくとよばれる日々が
記憶にはのこらない

わたしはなにか
とてつもない悪事をはたらいたのだ

翌日も
起きたら快晴だった
ばかみたいにあおかった
それをこうふくとよぶことにした

伝書鳩がこの手にとまって
「おわればいい」
「はやくおわればいい」

せんたくきがかんかんいって
ねむるひとはまだねむっていて
ねむったままだった

「終焉#14」について

 この詩を読んで思いだしたのは、黒沢明の映画「赤ひげ」でした。その中で、いろんな困難の中でやっと好きな人と一緒になって、穏やかで幸せな日々が訪れたのに、大きな地震が来て、家がつぶれてしまう。瓦解した町の中を、「バチがあたった」と呟きながら歩いている女の人を描いていました。「あんなに幸せだったことに対して、バチがあたったのだ」ということです。

 幸せなことがあると、人というのは切ないもので、自分はこの幸せを受け取っていいのだろうかと思ってしまいます。なにかの間違いではないかと思ってしまいます。悪いことをしているのではないかと、思ってしまうのです。

 この詩でも三角さんはまさしく、「わたしはなにか/とてつもない悪事をはたらいたのだ」と言っています。

 しあわせに慣れていない人は、なぜか幸せが居心地悪かったりするものなのでしょうか。悪いことをしていると思ってしまうものなのでしょうか。

 いえそんなことはない、与えられた幸せは、あるいは勝ち取ったしあわせは、なんの気兼ねが要るものかと思える人は、詩など書かないのかもしれません。

 それにしてもこの詩は、端から端まで気持ちのよい空が広がっていて、気持ちのよい音が聞えてきます。

 この詩を読んだほとんどの人は、「こうふくのままでいてください」と、自分の人生に願いをかけるように、この詩の中の人に話しかけてしまうのではないでしょうか。

「湖面に立つ」

泣きながら目が覚め
夢はわすれてしまった
たしかにあなたが
ひどいことを言った
気がするのだが

凍てついた湖面
さかさまに生きている
曇天のなか 葉脈が正しい
車をとめてください

カメラを手に
わたしたちは連なってまぶたをひらく
鼻が赤くなって
すんとして
泣きたい感情だけが
まだのこっている

世界中のひとびとが
こうやってカメラを手に
車をとめて凝視するのだろう
そうやってわたしたちは
翌日にはわすれるんだろう

あなたはたしかに
ひどいことを言った
すんとして
毛糸の帽子を深くかぶりなおす

日がさして
逃げ水がいざなって
車をとめてください
いまから号泣するから 

「湖面に立つ」について

 この詩は二通りの読み方が可能なのかなと思いました。
 (1)好きな人はとても優しくて、だから現実には私に対して、いやなことなんて決して言わない。もしひどいことを言うとしたら夢の中でしかない。そういう状況。
 (2)ひどいことを言われたのは夢の中だけれども、起きてからも気になるほどその言葉は突き刺さっている。気になってしかたがない。現実のその人の態度に、どこか夢と通じるところがあるような気がして、不安でしかたがない。

 (1)の方は幸せでしかたがない関係、(2)の方はどこかに不安の残る付きあい方、ということでしょうか。

 それはともかく、この詩の魅力はなんといっても最後の「車をとめてください/いまから号泣するから」のところです。ここを読んだ人は、たいていどきりとします。詩の力、言葉の力をひしひしと感じます。「号泣した」と書いてあるよりも「今から号泣するから」と書かれている方がよほどインパクトがあります。なぜなのでしょうか。言葉はちょっとした使い方の違いによって、胸に入る深さが大きく違ってくるのだなということが、ここを読むとわかります。

 好きな人のそばで生きている人のせつなさ、心細さ、やわらかな甘えが、とてもよく出ている詩です。

 「「車をとめてください/いまから号泣するから」と言われた人は、どんな気持ちでブレーキを踏むのでしょうか。

「裸木」

泣きわめいた 翌日の
雨はことさら きれい
しろい壁につつまれて
ただ ながめている

ひとがひとり
年老いていくことは
たいしたことではなく
雨はことさら きれい
雪が混じりはじめる

まもってくれるものにすら
感情があって
丁寧 に年老いて
雪が降りつづいて

わたしはまた
ばかなことをするでしょうし
ばかのままでいたかった
吹雪はじめる

復活祭もほどなく、
血をそそいで、
朝八時。
彼の台所で
すべて とおい
ものごとや記憶
二重窓からながめている

「裸木」について

 この詩は、できごとそのものを書いてはいません。けれど、できごとの翌日を書くことによって、読者に、いったいなにがあったのかを想像させてくれます。語らないことによって、語ることよりも大きなものを指しだすことができる、そんなことを考えました。詩は、目の前のことを書かないほうが、より多くのことを示唆することができるのだと。

 詩は、「泣きわめいた 翌日の」と始まります。「泣いた」ではなく「泣きわめいた」です。尋常ではありません。つまり一人で泣いていたのではなく、誰かに向かって泣いていたのです。誰かとの諍い、もめ事、言い争い、主張の押し付けあい、あるいは凭れかかり、さまざまなことが思い浮かべられます。

 泣きわめいて大きな声を出した翌日は、「雨はことさら きれい」と書いています。大声の様子から一気に雨の静けさへ転換しているところは、とても見事です。

 二連目「ひとがひとり/年老いていくことは/たいしたことではなく」という印象的なことが書かれています。そうなのか、とも思い、でもこういう感慨に至った「ひと」は具体的に誰をさしているのだろうと思います。ここまで読んで、出てきているのが泣きわめいた本人と、泣きわめいた先にいる人の二人です。つまりどちらかの人のことですが、普通は、激しく感情にまかせた自分のことを言っているのでしょうか。それでいいのでしょうか。先を読んでみましょう。

 三連目「まもってくれるものにすら/感情があって」と、たぶん泣きわめいていた時に寄り添ってくれていた人のことを指しているのでしょう。泣きわめく人に対して冷静に対処していた途中で、その人も感情を表したようです。その後に「丁寧 に年老いて」とありますから、二連目の年老いていく人は、「まもってくれる」人のことを指しているのかもしれません。

 この詩で一番どきりとするのは四連目です。「わたしはまた/ばかなことをするでしょうし/ばかのままでいたかった」のところです。このようなナマの言葉を詩に書けるところが、三角さんの際立ったところなのだと思います。

 つまり、本人がなにかをして、相手がそれをいさめて、本人は泣きわめいた、そういう流れのようです。

 最終連で「彼」が出てきます。彼とは恋人であり、この詩の前の方に出てくる「まもってくれる」人のようです。

 感情が溢れて泣きわめいて、それを静かに見つめてくれる恋人のことです。いったい何があったのかはわかりませんが、その様子は目に見えるようです。

 この詩をぼくが好きなのは、どうしようもない感情を抱えて、それが自分でも抑えることができず、相手には迷惑をかけることが分かっていても「ばかなことを」せざるをえない過剰な生命力、相手に対する激しい甘え、ナマの人の感じ方が、詩に書かれているからです。

「花束」

曇り空といっても
ひとつにはくくれない
厚い雲と薄い雲がまじって
今朝だけの模様をつくった
風は右上から左下へ流れた

この町で暮らす支度を
昨夜 彼と 雨のなか
スーパーマーケットヘ。
とりいそぎの水と
ジュースと野菜を
赤いかごにいれて
レジに並んでいたら
彼はあわてて その場をはなれて
一束のチューリップを持ってくる
わかりやすいビンクの
まだつぼみのそれらは
計量カップに飾られて
咲くのを 待っている

台所の窓際で
曇天を背景に
わかりやすく愛情をしめして
ひとつにはくくれないけれど
水よりジュースより野菜より
暮らすためのとびきりの支度

「花束」について

 この詩は読めばだれしも幸せな気分になれます。自分を大切に思ってくれる人がそばにいることの喜びが、真っ直ぐに語られています。

 この詩のキーワードは、「わかりやすい」です。「わかりやすいビンク」と「わかりやすく愛情をしめして」と、この短い詩の中で二度も使われています。

 詩は最初、「曇り空といっても/ひとつにはくくれない」と始まります。つまり、単なる曇り空であっても、そんなにわかりやすくはなく、薄いのも厚いのもあって、それが混じって模様をつくっているのだといっています。世の中、たいていのものは曇り空のように、意味が複雑で、容易に理解できるものではないということです。

 そんな中で、彼の、わたしに対する思いの寄せ方、愛情は、とてもわかりやすい、ということなのだと思います。

 買物の途中で、急に、ある人のために花束を買いに行くという行為の、なんと美しいことかと、あらためて思います。

 彼の行為にも、この詩の言葉の姿にも、とても「わかりやすい」あたたかさを感じることができます。

「森の生活」

ひとりでは
三つ編みが結えなくて
母にゆだねている日々

あたらしい制服は大きい
すぐにぴったりになると
皆が口をそろえて言った

膨らんでいく身体は
焼き上がるのを待つ、
どこにでもあるケーキ。
ほっといても、
育っていくヒヤシンス。

でも わたしはそんなに簡単じゃない
でも わたしはそんなに複雑でもなくて

わたしに貼りつく名前を
剥がしてみたら
なにものでもなくなって
三つ編みを搖らして
ひとりで俯いて
学校へ向かう

濃い緑のスカートを震わせて
三つ編みを搖らして

とてもよく晴れた日に
一本の木になって
森のなかにまぎれこんでいくのだ

「森の生活」について

 まだ学生の頃のことを書いた詩です。成長過程の、将来の不安にびくびくとしながら、どんな人生を送ることになるのだろうと思いながら生活をしている一人の女性を描いています。

 詩の中の言葉を拾えば、「どこにでもある」「なにものでもなくなって」「一本の木になって」と、ちょっとすねた感じで、「自分なんか」という気持ちが素直に書かれています。

 むろん一人の学生がまだ「なにものでもない」のはあたりまえなのであって、でもその「なにものでもない」自分を意識することは、すでに「なにものか」である一人の確固とした意識が出来上がっているということでもあります。なにも成し遂げていないことの居心地の悪さと心地よさが混じっている、そんな感じがします。

 この詩の比喩、「膨らんでいく身体は/焼き上がるのを待つ、/どこにでもあるケーキ。」というのは、凝った表現ではありませんが、とても見事な喩えです。なるほどなと感じます。膨らんでゆく命のあたたかみを感じますが、そのあたたかみは、ぼんやりとしたしあわせだけなのではなく、「わたしはそんなに簡単じゃない」ということのようです。ひとつの命は、どんなものであれ「そんなに簡単じゃない」のです。

 「どこにでもあるケーキ」のようであるけれども、「どこにでもあるケーキ」ではない私。思春期の、切なくもわけのわからない焦りに満ちた心情が、鮮やかに描かれた作品です。

「ロートの日」

雨の日は自転車に乗れないので
仕事へ向かう父の車で
学校まで送ってもらう

傘を手渡されたから
ありがとう と呟く

父の傘をささないまま
ざあざあ降る雨のもと
校庭をゆっくりと歩く

この雫は
空からやってきて
したたって
地面に戻って
蒸発して
いつか また降るだろう

ひとつぶ一粒が
妙にあたたかい

ありがとう には理由がある
ごめんなさい には理由がないときもある

全身に浴びたそれらへ
ごめんなさい と呟き

この身体を濾過した水は
どこかへいけるだろうか
わたしも降る雨になるだろうか

「ロートの日」について

 思春期の複雑な心情が書かれています。お父さんから渡された傘を差さずに雨の中をあるいて行くと、あります。ここを読んだ時に僕は、どうしても車の中からその姿を見ているお父さんの気持ちを考えてしまいます。そういう行為をするだけの、この少女の内面の動きが想像されます。

 その後に、雨の生涯が書いてあって、つまりは自然の摂理ですべては動いており、この少女がこの家庭で育っていることも、ひとつの命の摂理に則っていることだと言っているのかなと思います。でもこの少女は、雨と違って、大きな摂理のなすがままにはなれないという思いがあるのでしょう。

 六連目、「ありがとう には理由がある/ごめんなさい には理由がないときもある」はとても印象的な言葉です。この理由のない「ごめんなさい」は誰にむけて言われているのでしょう。お父さんに向けているのでしょうか。そうではなく、こうして自分がこの世にあることに素直にいられない、そのことについての、この人生そのものへのごめんなさいのような気がします。次の連で、「全身に浴びたそれらへ/ごめんなさい」とある「それら」は、多分、降る雨だけを指しているのではないのではないでしょうか。

 ところで、タイトルの「ロート」とは何を意味しているのでしょうか。詩の中の「濾過した水」の「濾」が繋がっているように感じます。空からやってきた雫、父と娘の、それぞれの命の肩を存分に濡らしている日、と解釈できるでしょうか。あるいは発音は少し違いますが「労」の文字の「ロー」にも重なってきます。労働の「労」であり、労(ねぎら)いの労でもある。

 ということで、「三角みづ紀さんの詩を読む」は今回で終了です。多くの誤読があることは承知で、ここまで読んでみました。楽しい体験でした。

 三角さんの詩はどれも、言うに言われぬ感覚を、とても的確に言葉に置き換えています。まるで私のために三角さんが書いてくれたのかと、思えるような詩です。どれも、そばに置いておきたい詩です。

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