「ライトバースの中心線」

2023 現代詩ゼミナール

講演 2023年1月28日
於:東京アルカディア市ヶ谷
主催:日本現代詩人会

「ライトバースの中心線」

松下です。
本日はよろしくお願いします。

今日は、ひとりの詩人についてのお話をします。それから詩を愛することについての話をします。

今日お伝えしたいことは二つです。ひとつは、詩を書き始めた頃を繰り返し思い出そう、ということ。もうひとつは、詩の裏側を読もう、ということです。

ぼくは6年前に、それまで43年間働いていた会社を辞めました。それで、もう会社に行くことはないのだなと喫茶店で考えていたんですね。これからの人生で何をしようかと考えていました。それまでの長い会社勤めで、もう能力もやる気も使い果たしてしまったぼくに、あと何ができるだろうかと考えていました。
そうして考えていたら、ふと「詩の教室」をやろうと思ったんですね。なぜかそう思ってしまったんです。詩の教室って、普通は有名な詩人がカルチャーセンターから頼まれてするものですね。でもぼくはそうではない。無名なぼくに、だれもそんなことを頼む人なんているはずがないんです。でもなぜか自分で「詩の教室をやろう」と勝手に決めたんです。無謀ですね。でも、人生に疲れ切ったひとりの老人が、そう決めたんです。決めてしまったんです。やりたいと思うのなら、やってみようと思ったんです。
それで、その詩の教室で詩の話を、今日のこの講演みたいにやったんです。取り憑かれたように話をしました。喉がかれるほどにたくさんの話をしました。その話を42回分集めたのが、昨年出したこの本『これから詩を読み、書くひとのための詩の教室』(思潮社)なんです。で、昨年の5月に出したんですけど、この本は、教室で話をして、それをあとでテープ起こし、文字起こしをして原稿を作ったのではないんです。順番は逆なんです。
教室のある日に、早めに家を出て、根岸線の中でつり革につかまって、今日は何を話そうかなと考えるんです。石川町駅で降りて、いつもの喫茶店に入って、サンドイッチをくわえながら、三十分くらいの間に必死になって話の原稿をPCに書いて、完成してから教室に行くんです。それでPCで作ったその原稿を教室で読みながら、話をするという手順だったんです。
不思議だなと思うのは、その日に教室があると思うと、朝、目が覚めると、何か話すことが生まれてくるんです。教室のない日には決して思いつかないことが、その日の朝には必ず頭の中に湧いてくるんです。必ず、です。それってどうなっているんだろうと思うんですね。人間の頭って面白いですね。
詩人っていうのは、あくまでも自分で詩の仕事を作って、そこに向けて全力をつくすことが基本だと思うんです。たまによそから原稿依頼は来ますけど、そういうものに頼ってはいけないんです。やはり根本は、自分の意志で自分がやるべきことを探して、自分の仕事をしてゆくということだと思うんです。そういう意味で、幸いにもこういった本ができたというのは、定年後に、自分の意志で詩の教室をやろうと決めたというところが、最も大きな理由なのかなと思うわけです。
もともと話すことが頭の中にあったから詩の話をしたというよりも、その日に詩の話をするという予定が決まっているから、詩の話が湧いてくるんです。それって詩を作るときと似ていますね。もともと書きたいことがあるから詩を書くのではなくて。書いてしまってから、こういうことを書きたかったのだとわかるんです。
頭に湧いてきた話を喫茶店で必死になってPCに打ち込んで、それをあとで読んで、そうか、自分はこんなことを話したかったのかとわかるんです。自分の頭の表面にいつも浮かんでいる考えではないんです。頭の表面って、いつもはロクなことを考えていないですから。自分ではいつもは思いもしないことが、その日になると自然に出てきて、それが自分の奥底で真に考えていたことだったんだと、あとでわかる、そういうふうになっているんだなと思うんです。
だから、自分には書くことがないとか、詩の話なんてすることがないなんて、軽々しく人に言ってしまってはいけないんだなと思うんです。自分にはなにができるか、どんな詩が書けるか、本当の自分の能力ってどこまであるんだろう、そういうことって、いつもの自分にはわからないものなんです。

ということで、今日も、いつもの教室と同じように、PCに原稿を用意してきましたので、いつもと同じように話をしてゆこうと思います。難しい詩の世界ですけど、僕の話は難しくないですから、気楽に聞いていてください。

今日は「ライトバースの中心線」という、なんか、思わせぶりな、大学生の卒論みたいな固い表題で話をしようかと思うんですけど、この題をつけたのが昨年の十月か十一月頃だったでしょうか。講演の依頼を承諾したときに、告知のために演題が必要だというので、あわてて考えてつけたんですけど、その時点では何を話そうかと、まだ細かくは決めていなかったんです。
で、年末から年始にかけて、どんな話をしようかなと考えていました。そもそもぼくに語るべきことはあるのかというところから考えていました。そこから考え始めたんです。そこが僕にとっていちばん重要なところなんです。
これまでずっと勤め人をしていたぼくは、詩のことで喜びや悩みは経験してきましたけれども、だからと言って大して文学を勉強してきたわけでもない、ただもくもくと会社に通っていた、それだけなんです。迷いだらけの人生だったぼくに、何か語るべきことがあるのかと考えたんです。
そのうちにぼくの寿命も尽く頃に、「自分は生きているあいだ、何をしていた人間なのか」と考えますね、そういうときに、自分に聞いてみれば、「詩を書いていました」とか「詩人でした」と言うのはどうも違和感を感じるんです。詩人というより、むしろ、「ずっと勤め人をしていました」と答えたほうが。正直に自分の一生を表しているのではないかと思えるんです。そういう人生だったのです。エネルギーの方も、時間の方も、ずっと勤め人の方に費やしてきたんです。
だって振り返ってみますと、月曜の朝になれば憂鬱そうに会社に行き、金曜の夜になれば、喜び勇んで家を目指した。そういう気持ちの揺れの中での日々がずっと続いていた人生でした。つまりはまるごと勤め人だったわけです。それも、特に秀でた勤め人でもありませんでした。どこにでもいる勤め人のうちの一人でした。

で、そんな僕にも、もしもたったひとつ、詩について堂々と話せることがあるのなら、あるとしたら、少年の頃に、詩に惹かれた瞬間の心だけではないか、それだけではないか、と思いました。
つまり、自分がここに立つことになったそのおおもとを再確認する以外にはないだろうと思ったんです。詩の話をしようとするそのおおもとになにがあったのだろう。ぼくをずっとさかのぼってゆくと、もちろん詩と出会った少年の頃の僕にぶつかるんです。すべてはあの瞬間なんです。詩というものを知ったころ、そしてその感動を持ち続けたこと。それ以外にぼくに話せることはないんです。では、その出会いとは何だろう。その、詩と出会った場所には、むろん難しいことなんてなにもありませんでした。目の前に一篇の素敵な詩があっただけでした。単純でわかりやすい出会いでした。さっぱりした世界でした。

人とのむずかしい関わりもない、偉ぶった権力もない、意地悪もない、気に入られようという思いもない、恐さもない、おもねりもない、ねたみもない、計算もない、競い合いもない、人を見下そうとする心もない、へりくだることもない、偉く見られようとするあさましさもない、ばかにされて悔しい思いをすることもない、舞い上がって自分を何者かであるように思ってしまうこともない、自分をばかにすることもない。

あったのは、ただ目の前の一篇の詩だったんです。ぼくを夢中にさせてくれて、この世にこういったものがあるのなら、これからの人生を生きていけると思わせてくれるもの。ぼくにとって詩に出会うとは、そういうことだったんです。
気負いもない、目立ちたいという思いもない、ただひたすら、好きな詩を読んでうっとりと人生を過ごしていたい、それから、詩という、こんなに素敵なもののある世界になら、その隅っこにでも、自分の書いた詩を置いてみたい。そういう思いしかなかったと思うんです。なかったはずなんです。

ところが、表現というのはやっかいなもので、詩との出会いはそういった純粋なものであっても、長いあいだ読んでいる内に、あるいは書いているうちに、さまざまな情報や、状況や、人との関係や、人の言葉などが入り込んできて、あるいは妙な欲が出てきて、徐々に最初の出会いとは、違ったものに姿を変えて行ってしまうんです。自分にとっての詩というものが変わってきてしまうんです。そうすると、詩を読むことがだんだんいやになったり、書くことが苦しくなったりしてくるようになってしまうことがあります。
ぼくもそうなりました。ここで偉そうにわかったような顔をして、みなさんの前で悟ったような話をしていますけど、ぼくも何度も自分を見失ってきました。詩を書くことで自分を偉そうに見せようとしている自分にあきれることがあります。また、自分がよくわからない詩を、一方的にダメな詩だと決めつけるようなおろかしいことを考えたりもしてきました。
でも、本来の詩との付き合い方というのはそうではないはずなんです。詩は個人が言葉と出会うところから始まります、その出会いは様々であり、自分には理解の届かない人の詩をも、もっと尊重しなければならないと、後に気付くんです。
詩の素晴らしいところは、その素晴らしさに個別の面がある、というところです。ときに、すでに考えられている詩と言う言葉ではくくれない作品が、日々どこかででき上がってきて、それが将来の詩の中心にさえなってゆく可能性がある。常に新しいものが作られ、それが次の「詩」という名前のものになっていくんです。
それはまさに、人の命のあり方と変わりがないように思えるんです。人の命はどんなに長くてもせいぜい100年、ときとともにみんないなくなります。例外なしです。ぼくはもう72歳になります。いつもは忘れていますが、たまに「そうかもうすぐこの世からおさらばするのだな」と、ふと思うことがあります。
それはとても恐ろしいことであり、どんなに気晴らしをしても逃れ難い恐怖ではあります。ただ、人の素晴らしい詩を読んでいると、どこかで、詩によって、言葉によって受け渡されてゆくものを感じるんです。
ぼくの詩は、ぼくが必死になって生きているうちに書いたものですが、その詩は、いつかどこかの誰かに読まれて、何かを感じてもらい、新しいその人が書く詩の一行のカケラのようなところにもぐりこむことができるかもしれない。詩は繋がってゆくんです。知らないだれかに、知らない時代に、知らない場所で、ひそやかに繋がってゆくんです。
その人は新しい時代に、ぼくよりもずっと素敵な詩をたくさん書くでしょう。そう思うと、ぼくの命も、どこかで誰かに受け継がれてゆく、というほど大袈裟ではないんですけど、そう思えば、死んでゆく恐怖の1パーセントくらいは、宥められる思いではあるわけです。 

話がちょっとズレてしまったのでもどします。それで、なぜぼくがここに立って話をしようとしているかを考えれば、どうしても詩との二人きりの、詩とぼくの二人きりの関係の話をするしかないと思ったわけです。
つまり、詩と出会った時のその感激は、詩を読み続けることの喜びであり、書くことに触れる感動であるわけです。詩を書いていると、周囲にいろんなことがありますが、そういうものを全部取り払って、一人になって、やはり、「詩はいいものだな」というおおもとのところに戻っていきたいと思うわけです。
だからこそ、こうしてぼくは七十二才になってもまだ詩に夢中でいられるわけです。その思いは全然衰えないんです。それで、そういった詩との純粋な出会いということで、今日お話したいのは一人の詩人の詩です。阿部恭久という詩人の詩です。
ぼくにとって詩を語ることは、詩というジャンルを語ることではありません。一篇の詩を語ることです。一篇に胸をうたれ、その詩を書いた人に憧れを持つことだと思うんです。ぼくがどんな詩に胸を打たれ、どれほどそれを奇跡としてとらえて来たか、そうした思いによって励まされ、生きてこられたかを、今日は短い時間ですが話をしたいと思います。

ここで今日の演題の「ライトバースの中心線」という言葉についての説明を少ししたいと思います。なぜこんな題にしたかということですね。この題を見て、ライトバースの歴史とか、そのありようの話を期待している人がいるかもしれませんが、そういった学問的な話はしません。ただ、この演題にした理由はあるんです。
昨年の十月に兵庫県の詩人会からのお招きで、神戸で講演をしてきたんです。詩の話をしてきたんです。その時に、客席の最前列に高階杞一さんが座っていて、ぼくの話を聞いていたんです。高階さんはぼくの友人なんですけど、高階さんは兵庫にお住まいなので、ぼくが兵庫に行くんなら久しぶりに会おうよと事前に約束をしていたんですね。講演が終って高階さんと一緒に三宮駅の近くの居酒屋で飲んだんですね。その時に高階さんがこんなことを言ったんです。「昔、東の松下、西の高階って言われていたことがあったね。」
「東の松下、西の高階」って言葉、誰もご存知ないと思うんですけど、そういえばぼくも昔、その言葉聞いたことがあるんです。でも誰が言いだしたのかわからない。おそらく、40年くらい前に、誰かが詩の評論でこんな事を書いたんじゃないかと推測するんです。

ライトバースという言葉自体、今はそれほど見ませんが、当時はしきりに言われていた言葉で、ライトバースのアンソロジーの本がシリーズで出ていたりしていたんです。それで、高階杞一さんの詩も、ぼくの詩もライトバースという、ジャンルにくくられていたんです。ライトバースを書いている詩人として、関東方面に松下育男、関西方面に高階杞一がいるじゃないかと、そういう話なんじゃないかと思うんです。1970年代後半だと思うんです。
なぜ昔はライトバースという言葉がことさらに使われていたかというと、これは合っているかどうかわかりませんが、こう思うんです。1970年代、80年代って、「荒地」に代表される戦後詩の存在感が、60年代から引き続いて、まだかなり感じられていた頃だったわけです。そういった時代に、戦後詩の意図するところとか、意味の重大性は理解するけれども、それが詩のすべてではない、そうではないところにも詩はあるよ、という感じで、詩のバランスをとるように、ライトバースが見られていたのじゃないかと思うわけです。
今は、戦後詩も、ライトバースも、なくなったわけではないのですが、もっと様々な詩があり、見方があり、それぞれの詩人が選び取るように、あるいは新たに作り上げるように、詩が様々に枝分かれしてきた、だからことさらライトバースなんて言われることも無くなったのではないかと思うんです。
そしてその方が、今の方が、ぼくは良いと思うわけです。健全だと思うわけです。詩は、何系の詩だとか、どのグループの詩だとか、なにかの括りがあって書かれるものではなく、その詩固有の場所にぽつんと立っていていいと思うわけです。
百の詩が書かれれば百のジャンルに分かれる。それでいいのだと思うんです。ひとりの詩人によって切実に書かれたひとつの詩が、ひとりの読み手に深く受け止められる。それ以外に何も入り込む余地はないと思うんです。権威も、ジャンルの上下もない。ひとつの詩だけがある、そう思うんです。

ライトバースのライトは軽いという意味ですね。軽やかな詩、と解釈してもいいと思うんです。喜びだけではなく、悲しみも寂しさも、孤独も辛さも、軽やかな言葉に置きかえて、歌ってしまう、紛らわしてしまう。わんわん泣く詩ではなくて、泣き笑いの詩です。でもその泣き笑いが、大泣きよりも悲しくないかというと、そんなこともないわけです。詩の中に全部は言わない。でも、書く人と読む人は書かれていない部分をわかっている。書き手と読み手が過度にもたれ掛からない、それでもお互いをわかっている。そういう詩のことです。
で、その当時から思っていたのが、「東の松下、西の高階」で終わるんではなくて、その後に言葉が続くんじゃないのということです。東でも西でもなく、その真ん中にいる人をひとり忘れていませんか、ということです。中央にもひとりライトバースを書く人がいるのではないかと思ったんです。それが岐阜県で歯医者さんをしながら詩を書いていた阿部恭久です。
阿部さんは、最近はほとんど俳句の人になっていますが、古くから詩を読んでいる人はご存知だと思うんですけど、現代詩を書く人だったんですね。ぼくにとっては、さきほど話をした、詩との純粋な出会い、ということを思い浮かべたときに、すぐに思いつく詩人が阿部さんなんです。
なんども同じことを言って申し訳ないんですけど、ぼくは詩と関わっているときに、余計なことを考えたくないんですね。人との比較とか、誰がだれよりも上手いと考えられるとか、誰が偉いとか、誰がもっと認められるべきだとか、誰が誰と知り合いだとか、どのグループに入っているとか、そういうこと、どうでもいいんです。
詩だけのことを考えていたい。詩についてひとりで考え、ひとりで楽しんでいたい。それでも現実の自分を見てみると、すごく汚れてしまっているように感じてしまうんです。いろんなしがらみや計算の上に立って詩を書いている、そんな感じがしてしまうんです。
でも、そうではない詩人、詩と面と向かっていて、詩と二人きりで生きてきた詩人がいるじゃないか、阿部恭久って人はそうではないかと、思いつくんです。そして、阿部さんの姿勢とか、阿部さんの書く詩を読んで見れば、自分の詩への姿勢も、少しはましになる気がするんです。

ひとつ読んで見ましょう。最初の詩集『身も心も明日も軽く』からの詩です。詩集名にも「軽く」と入っています。まさに軽やかな詩、ライトバースですね。

「最後の夏休み」

きみとバス停で別れ
木戸をあけて
帰ってきた
二階にあがるとき
海水をけってきた足裏を
木目のういた踏板が
一段一段うけとる

浮いたり
潜ったり
疲れて浮標につかまり
岸を捜すと
きみは蔭に入って こちらを向いていた
遠くて視線はつかめないが
きみの顔はぼくに向いていた…
きみには判ってるんだ、と感じた
海水をける足が急に切なくなった

何を判ってると感じたんだろう
バス停で別れ
坂道をのぼりながら考えた
木戸をあけて
二階にあがり
窓をあけはなつと
町はあまり明るくて 大きな影のようだ
きみは町にかくれてしまった

わかりやすい詩ですから、まあ、ことさらぼくがこの詩を解説するまでもないんですけど、ぼくの感じたことを話すなら、この詩にはすごいなと感じるところがいくつもあるんですけど、まず遠くまで見通せる広がりの清々しさですね。海の中から見える遠くの君の姿。さらに家の二階に上がって、開け放した窓から見える町の明るさ、詩の中に広々とした情景がいくつも広がっています。
 さらに一転して、目の前すぐのところに見えるものの姿とその切なさもすごいですね。家に帰って階段の「木目の浮いた踏板が/一段一段受けとる」というところを読むと、階段の木目の模様がまざまざと目の前に見えてきますし、そこに触れる踵の丸みさえも見えてくるようです。そこから視線が一気に遠くに移ってゆくから余計に広がりを感じるんですね。
 そして遠くに見えるきみや町は、いうまでもなく初恋の切なさを表していて、その切なさが階段の冷たさにも沁みいってゆきます。
 遠くに見えるのは風景だけではなく、自分がこれから生きてゆくだろう長い人生の時間をも指しています。願わくば、これからの人生の時間をともに過ごして行きたい人が、今、海辺にいて、自分の方を見ているのがわかる、自分がその人を思っていることを、その人は知っているんだということですね。なんとも切ないですね。人を愛するというのはなんとも切ないですね。苦しいですね。
 極上の恋愛詩であり、青春の詩であり、生きていることの中心をきちんと掴んでいる人生の詩だと思うわけです。

 それで、今日はこの詩を含めて4つの詩を読んでいこうかと思うんですけど、読むときに、「詩の裏側を読む」ということを意識してもらいたいんです。すぐれた詩というのはたいてい、正面から読み取るのとは違った、もう一つの読み方ができるんです。裏側から読むことができるんです。
この詩にも裏側はあります。正面から見ると、もちろん青春の輝きをまぶしいほどに書いているわけですが、その裏側には、こうした思いが、こうした輝きが人生の一瞬でしかないということをも、この詩の中に読み取れるんですね。つまり、若くてしなやかな肉体を持った登場人物も、その命のしなやかさは人生の一瞬であるということを意識の隅に持っている、だからこそ、この一瞬をかけがえのないものにしたい、大切にしたいと思っているわけです。また、だからこそこの詩は、老年になってもワクワクした気持ちで読み返すことができるんです。

で、阿部さんのこれまでの詩をざっと見てみますと、すでに十一冊の詩集を出されています。全部を読み通して感じたのは、十一冊全体に流れている阿部恭久がいるとともに、よく見ると形が徐々に変ってきていて、二つの時期に分かれるのではないかと思ったんです。
つまり最初の五冊、『身も心も明日も軽く』から『S版アワー』までが前期、後半の六冊『恋よりふるい』から『メイドの飛脚』までは後期と言えるのではないか。なぜ前後期に分ける必要があるかというのは、とても微妙な問題なんですけど、なんというか、現代詩への向き合い方のようなものが微妙に違うんです
もう少し具体的に言うと、前期の詩集では現代詩を全面的に愛しているんです。無条件なんです。でも後期の詩集では、現代詩を穏やかな目で外から見つめている、そんな感じです。それで、前期の詩集は詩そのものですが、後期の詩集は詩が俳句に傾きかけている、そんな感じがするんです。

前期五詩集
『身も心も明日も軽く』 (書記書林 1977)
『生きる喜び』 (風媒社 1979)
『田のもの』 (風媒社 1981)
『恋人』 (アベブックス 1987)
『S版アワー』 (アベブックス 1988)

後期六詩集
『恋よりふるい』 (思潮社 1994)
『極東の仕事』 (思潮社 1995)
『瞬く旧惑星』 (私家版 1998)
『当の本人』 (私家版 1999)
『旧惑星期の終り掛け』 (私家版 2000)
『メイドの飛脚』 (私家版 2001)

で、詩集を全部読み通して、阿部さんの詩の姿を分析することはできるんですけど、それではどうしてもたどり着かないものを、今回は感じたんです。
というのも、阿部さんの生涯に亘る詩の変遷にも興味がありますし、それぞれの詩集にもそれぞれの魅力は感じられるんですけど、ぼくにとっての阿部恭久は、そもそも冷静に分析する対象ではないんです。ただうっとりとして読む詩なんです。そういう詩は、すぐれている詩という言葉を超えているんです。生きていることそのものを実感させてくれるんです。
今読んだ詩も、何度読んでも、自分が高校生だった頃に感じた、異性へのどうしようもなくやるせない感情を思い出させてくれるんです。それが今でも自分がここにけなげにも生きていることを実感させてもくれるわけです。
この詩を読むと、だれしも自分の初恋のことを思い出すと思うんです。つまり、この詩は阿部恭久の詩ですが、読者それぞれが頭の中に続きを書くことのできる詩なんです。
阿部さんの詩は、詩を読む、というよりも、自分が生きていることを思い出させてくれる詩なんです。ああ自分は今生きているんだなと思い出させてくれるんです。そんな詩はこの世にめったにないわけです。

阿部恭久という名前を知ったのは、 1973年4月のことです。なぜ月まで覚えているかと言いますと、「現代詩手帖」の1973年4月号の投稿欄でその名前を見たからなんです。どうしてこの号が印象的だったのかと言いますと、その号に、僕の詩も初めて投稿欄に載ったんです。選者は石原吉郎でした。
で、不思議でしかたがないのは、こうして皆さんの目の前でぼくにとっての運命的な詩人としてとり上げているのが、同じときに詩の雑誌にデビューした人だと言うことです。つまりは同時代の人なんです。阿部さんはぼくよりも歳はひとつ上ですが、同じときに詩の世界に入っていった。
それって偶然なのかなとも思いますし、別の見方をすれば、同じ時期に出てきた詩人だから、自分にとっては切実に感じられるのかとも思うわけです。
そういうのってありますね。詩の投稿をしたことのある人ならわかると思うんですけど、自分が投稿をした雑誌のその号に載っている入選した人の詩って、すごく熱心に読んでしまうんですね。ある意味でライバルでもあるわけですけど、載っているのは入選した詩ですから、特に自分がその号で落ちたときなんて、自分が落ちたのに入選した人の詩って、どんな詩だろうと思って読むと、とんでもなくまぶしくて、よく見えてしまうんですね。落ちた自分の詩が、やけにみじめに思えてしまうわけです。
ですから、同時代に書いてきた詩人って、時代が違う人の詩よりもいやでも深く入ってきてしまう。切実感が半端ないわけです。半分自分みたいなところがあるわけです。
それって、不思議なもんだなって思うんです。たとえば萩原朔太郎の詩を読んですごいなと思っても、萩原朔太郎と同じ時代に生きた人の読みの臨場感を通して理解されるものには、後の時代の人の読みは敵わないところがあるんじゃないかと思うんです。同じ空気を吸っていた人だけがわかる詩の隅々の魅力って、後の時代の人にはなかなかわからない。そう思うんです。同時代だからわかる素敵に生き生きした部分って、間違いなくあると思うんです。
でも一方で、では同時代に書いてきた人がみな魅力的に見えるかというとそうでもない。同じ頃に投稿欄に書いていた人はたくさんいるわけですけど、阿部さんの詩がとび抜けて、ぼくにとっては魅力的だったんです。
そういう意味で、ぼくにとってかけがえのない詩人と、たまたま同じ雑誌の同じ号で詩の世界に入ることができたというのは、やはり偶然なのかな、あるいは神様がそういうふうに手配をしてくれたのかなと勝手に思うわけです。
 別の詩を読んで見ましょう。次は3冊目の詩集『田のもの』からの一篇です。詩の中にも「田のもの」という言葉が入っていますから、詩集の題名はこの詩から来ているようです。

「ピッチャー」

何年ぶりだろ ユニホーム
“仕事どう?
”おかげでようやく、
 また投げさせて下さい。
四回からマウンドにあがった
刈田のなかのグラウンド
バックネットのむこう
ずーっと山際まで刈りとられ
糊塗するものは何もない
キャッチャーが遠いなァ
バッターもホームベースもばらばらだ
青空に髪ふきはらわれて
われわれはあからさま
刈田のグラウンドには
田のものを忘れた書き言葉のうかれ者はいない
したがって
書き言葉によるおちこみもない
せーせーする

その代りとゆーか
ベンチからのヤジは即物的でひどい
頭から湯気が出る
ふりかえって声をかけると
センターは田のなかで安んじて小さい

さて、アンパイヤにうながされて
プレートを踏む
ピッチャー 振りかぶりました
スリークォーターから
第一球、
投げました!
ストラーイク!
きまりの
棒球

これも解説の必要のない詩です。それにしても、言葉がそのまま、生のままですね。裸のままの言葉で詩を書いています。それでも生きていることの隅々が行間からあふれてきます。すごいです。
「センターは田のなかで安んじて小さい」の「安んじて」、いい日本語ですね、すごいですね。「われわれはあからさま」の「あからさま」もすごいですね。こういう詩、書いてみたいです。
いうまでもなくこの詩は、野球をやっている詩です。でも、表面は野球をやっている詩ですが、実はそれだけではないのがわかります。詩の裏側があります。さきほど言った、すぐれた詩には裏側があるということですね。久々に草野球がやれて晴れ晴れとした気持ちになっているということですけれども、つまりこの詩を読むと、野球をやっている晴れ晴れとした瞬間はその時だけであって、そうでないほとんどの時間には、緊張に満ちた仕事にあくせくしている自分がいる、というふうに読めるんです。詩の裏側にもうひとつの詩が書かれていることが見えるんですね。
気晴らしでやる野球の詩を読む読者は、そうではない時間をもこの詩から読み取るわけです。職場での人間関係や、嫌な上司からの叱責や、締切に間に合わせなければならない仕事や、辛いことにたくさん追いかけられているうなされるような日々を思うわけです。阿部さんは歯医者さんですから、たぶんたまに来る嫌な患者のこととか、会計の面倒くささとか、歯医者さんの日常ってぼくは分からないんですけど、やはりいやなことがそれなりにあって、胸苦しくなることもあると思うんです。
おそらく、草野球で気持ちを晴らせているこの人たちの頭の隅にも、昨日の面倒だった仕事や、やり残していた仕事のことが、まだ残っているはずなんです。
それから、仕事だけではなくて、この詩には文学のことも書かれています。「書き言葉によるおちこみもない」の一行が、いろんなことを想像させてくれます。たぶん書いた詩か文章が、誰かに批判されて、ひどく落ち込んだことがあるのでしょう。この気持ち、とてもよくわかりますね。ぼくの詩なんか、これまで散々言われてきましたから、よくわかります。
そういった様々な考え事を全部忘れて、この日に草野球をおもいっきりするんだぞ、という詩です。表面はとても爽やかな詩ですが、ぼくにとってはこの詩は、とても深く突き刺さってくるものがあるんです。
最後の「棒球(ぼうだま)」というのも深いですね。棒球というのは、特に早くもない、特別でもない、誰でも打ち返せるような威力のない直球ということですね。ぼくらはそれぞれの一生をかけがえのないものとして一生懸命に生きるわけですが、見方を変えれば、その一生はそれはたった一球の棒球でしかない、ということでしょうか。それでもいいじゃないかという、すがすがしさ、見事さをこの詩は書いているのではないでしょうか。

阿部さんの詩は分析するものではない、うっとりするものだと先ほど言いましたけど、参考に少しだけ、阿部さんの詩について考えてみます。
阿部恭久さんの詩は、特に後期の詩を見ればわかるのですが、余分なものをどんどん脱ぎ捨てていった詩です。だんだん痩せてゆく詩です。痩せてゆくというのは、貧相になると言う意味ではなく、無駄がなくなるという意味です。結局、ほんの少ししか残らない言葉でできている詩です。
それゆえに、だれでもわかる詩であるとともに、阿部さん自身は、だれでもわかる詩を書こうとしていないんです。だれにもわからなくてもいい、という詩なんです。自分の感性をただそのまままっすぐにぶつけているんです。自分が気持ちよく書ければそれでいい、他に何も望まないという詩なんです。ところが、書かれたものは、阿部さんだけが気持ちよくなるのではなく、一部の読者にとっては(ぼくもその内の一人です)とてもここちよく深く入ってきてしまう詩なんです。
阿部さんは読者を限定している、というよりも、そもそも読者を想定していない詩を書いているのではないかと思えるんです。単に自分の表現を究めるために書いている。世の中を、自分なりに言葉で言い当てるために詩を書いている。そんな気がします。
で、十一冊の詩集を時系列に読んで見ればわかるのですが、後半の六冊は言葉のそぎ落とし方がさらに激しくなってきて、どこか禅問答のような詩になってくるわけです、

ひとつ読んで見ましょう。これは後半の詩集『恋よりふるい』からの一篇です。「二十世紀の思い出」という詩を選んだんですけど、この詩の中にも詩集名「恋よりふるい」という言葉が入っています。

「二十世紀の思い出」

雨になった

「今夜の、中華サラダのハルサメ」

「変なの」

それからぼくは鉛筆と
カメラであそんだ

きみはむこうをむいて
アイロンにとりかかった

われわれの

恋よりふるい
春の宵

こういった詩なんですけど、後半の六冊の詩集『恋よりふるい』『極東の仕事』『瞬く旧惑星』『当の本人』『旧惑星期の終り掛け』『メイドの飛脚』は、ほとんどがこんなふうに激しく言葉をそぎおとした詩なんです。ここにあげた詩は、まだましなほうなんです。
この詩は、ぼくにも何を言おうとしている詩なのか細かくはわかりません。だって、断片的な言葉だけですから。でも感じることはあります。まず、奥さんと二人で落ち着いた、お互いに理解し合った生活をしているのだろうな、ということです。いい感じの会話です。お互いのことを完璧に理解し合っていて、その日のことを遠慮なく話ができています。こういった関係って、いいですね。
「今夜の、中華サラダのハルサメ」って、夕ご飯のおかずでしょうか。でも、ハルサメがどうだったのか、美味しかったのか不味かったのか、なんとも言っていないです。だってそんなこと、言う必要はないんですね。二人の間の会話は、激しくも愛おしい省略で出来あがっているんです。ただ、このハルサメという単語は、どうしても春の雨を一瞬連想させます。その春は最終行の「春の宵」につながってもいます。
 「変なの」というのは奥さんの返事でしょうか。何が変なのかは書かれていません。でも、読んでいてなぜか納得してしまうんです。というのも、ここに書かれているこの詩自体が「変」だからなのです。何がどうしたと、書いていない詩です。ただ空中に浮かんでいるような言葉なんです。
 さらに、その後の、ぼくと君が別々のことをしてその夜を過ごしている、というのも、表面的には別々のことをしていると書いているようで、実は、そうして別々のことをしていても、この時に、ともに生きて、そこに二人でいられるという強い結びつきを書いているわけです。つまりそれがこの詩の裏側ですね。
 ぶっきらぼうに「われわれの」とある一行が、二人がひとつであることを語っていますね。
おそらく、二人は若くして恋におち、結婚して、子供を育て、やっと二人に戻ってゆったりとした時間の中で生きている。そういうことなのでしょう。一見、ぶっきらぼうに言葉を投げ出したような詩ですが、読んでみると二人で生きてきたことの情感がたっぷり含まれた抒情詩に仕上がっています。

そして後期のこの詩に見られるような、徐々に短くなってゆく詩の長さや形は、先端を細めていって、これだけ詩が細まってしまったら、もう細すぎて詩から抜け出すしかなくなってしまったようです。ですから自然と、別の形式へ、俳句の器の中に収まってゆきました。

この詩も、最後の三行を見てください。「われわれの//恋よりふるい/春の宵」となっていて、空き行があるのでうっかり見落としてしまうんですけど、五七五、もうすでに俳句になっています。
詩と俳句と、両方を書き続ける人もいます。清水哲男さんがそうでしたね。でも阿部さんの場合、同時期にどちらかを選び取るということが出来なかったのではないかと思うのです。つまり阿部さんにとっては、叙情はいつもひとつきりであったということです。
詩を突き詰めていった先に俳句があった。その時々にひとつきりのかけがえのない形だけを抱いてゆく、ということでしょうか。それは詩を手放して俳句を抱く、と言う移行ではなく、抱いていた叙情がいつのまにかその形を腕の中で変えていた、その変化を選んだのは阿部さんではなく詩の方だった、そんな感じなのではないかと思うのです。
時々思うのは、詩人にとっての叙情の器、形式、ということです。阿部さんは現代詩から俳句に表現の器を変えていきましたが、ではなぜぼくは、いつまでも現代詩だけを繰り返し書いているのだろうと思うのです。詩を書いている人が、必ずしもみな、俳句や短歌を自在に作ることはできない。あるいは移ろうとは思わない。それはなぜだろうと、単純に思うのです。単に表現の器の大きさ、というだけでない決定的なものがあるような気がしますが、それがなんであるかを考えてはいますが、ぼくは今日、それを明確に語ることはできません。

最初に読んだ二篇は前期の詩、後の方は後期の詩です。最初の頃は口語体を駆使して、感じたことをそのまま表明しているように見えますし、後期の詩は、言いたいことは多々在るけれども、いったん全部飲み込んで、腹に収めて、そこから糸のように出てきた言葉の断片を、ぶっきらぼうに詩に置いてゆく、そんなふうに見えます。
でも阿部さんにとっては、前半の五冊も後半の六冊も、阿部さん自身の詩を書く姿勢としてはなんら変っていないのではないかと思うわけです。つまり、自分の表現をひたすら究めている、それだけなのではないか。後半に行くに従って、その究め方が、ついて行く人を振り払うようなところまで行ってしまったということなんです。でも、それも最初の頃から、実は変っていない。そんなふうにも感じるんです。そう感じさせてくれる詩があります。

その詩を読んで見ましょう。また前期の詩にもどります。二冊目の詩集の詩集名にもなっている詩です。ただ、前期に書かれた詩ではありますが、よく見ると、後期の詩の特徴をすでに持っている詩なんです。言い方を変えるならば、後期の禅問答のような詩は、前期の頃から書かれていたんです。読んでみましょう。

「生きるよろこび」

むかいは交信中らしい
“結婚して家内と二人、免許をとりました
公務員らしくて
”日暮れ腹減れですよ、とも言っていた

ときおり奥さんの声も交る
初夏の夕刻はこおばしいなァ
ちっちゃなランニング・シャツ
ブリーフ、まだ物干で揺れている

ぼくはコンクリートの上で
車を洗いつづけ
はだしだ
世界も隅ではこおばしい

“こちらは素敵な夕焼けです
(奥さんの声も素敵だよォ
日暮れ腹減れ鐘ハナレ
月日ハ流レ私ハノコル、か…

 この詩の特徴は、詩の中で何事も起きていないことです。それってすごいなと思うわけです。明確に何か書くことがあったから詩を書くのではないわけです。先ほど読んだ「最後の夏休み」では、好きな人と海に行ったという明確な出来事が書かれていました。また次に読んだ「ピッチャー」という詩では、草野球をしたという特別なことが書かれていました。
 でも、この「生きるよろこび」という詩には、特段書くべきものがないように見えます。単に、休日に車を洗っている夕刻の様子を書いています。その時に感じた「生きている」ことのにおい、こおばしさを書いています。なるほど、特に何も出来事は起きず、「生きている実感」だけを書いている詩、ということで言えば、三つ目に読んだ後期の「二十世紀の思い出」という詩と同じです。あちらは夫婦が夜の部屋にいるというだけの詩、こちらは、休日の夕方に車を洗っているという、それだけのことです。
 それでも、阿部さんの詩にはしっかりと人生の積み重ねが染み込んでいて、「生きるよろこび」では車を洗うという行為が詩になっていますし、「二十世紀の思い出」ではさらに落ち着いて、部屋にひっそり座っているという詩になっています。何を書くかということに迷いが感じられません。どこかから持ってきたテーマではなく、今自分が生きているそのことを、しっかり書こうとしています。
 ところでこの詩は、車を洗っているだけの詩だと言いましたが、もっと正確に言うと、むしろそちらよりも、むかいの家の人の声を聴いている詩なんですね。すごいです。自分の言葉ではなく、むかいの家から聴こえてくる声から、生きている実感を感じている、という詩です。
一行目「むかいは交信中らしい」というのは、どういうことでしょう。「交信中」というと、なんだか片方は船に乗って遠方に行き、そことここを信号でやり取りしているようでもあります。でもそうではないですね。どうも向かいの家の夫の方が誰かと電話をしているということなのでしょう。そのそばには奥さんもいるようです。でも「交信中」などと言われると、向かいの夫婦の今までの人生の航路を感じさせます。
 この詩も特段、解説するまでもないのですが、読んでいて、なんとも気持ちがいいのです。夕焼けが、詩の向こう側から読み手にまぶしく射してくるようです。書かれている言葉も、一行一行が夕陽の輝きのようです。「日暮れ腹減れですよ」と言われてみれば、日が暮れればきちんと腹が減ることの喜び、腹が減ってものを食べられることの幸福感がしっかり感じ取れます。
 また最後の「月日ハ流レ私ハノコル」というのはアポリネールの一節ですが、この詩にぴったり収まっています。私も連れ合いも、月日を過ごしてきたあとで、ここに残っている。さらに月日は私たちの背中を押してくれて、生きていることの喜びを感じ続けるだろうということです。
 言うまでもなく、「生きるよろこび」と言うほどには、喜びだけを書いているわけではありません。そこには、いつまでもその喜びは続くことはない、いつかは命の終る日が来る、という無常観が裏側に見えています。
しあわせであることの息苦しさを、この詩を読むと、なんとも切なく感じてしまうわけです。

ということで、今日はぼくの敬愛する詩人、阿部恭久の詩を読んできました。

正直にいって、ぼくは何をやってもそれほど大した能力がないんです。やせっぽちだったので非力でしたし、持久力もない。記憶力もひどい、決断力もない。
そんな能力のないぼくが、唯一持っている能力が、感動をする力なのかなと、思うんです。ぼくは、大した能力を持っていないからこそ、優れた能力、優れた人、優れた詩人、優れた詩を目の当たりにすると、半端なく打たれてしまうんです。
ぼくが詩に惹かれていったのは、初めからそのようなところからだったんです。この詩はすごいな、この詩人はどうしてこんなにすごいんだろうと、感嘆の声をあげてしまう。そこからぼくは詩に惹かれていって、そのあこがれから、自分も少しずつでもこんなに素敵なものを書けないかと思うようになってきたんです。
ぼくにとっての詩と言うのは、そういったものだったし、今でもそういうものなんです。今でも詩に感動していたいんです。というか、ぼくにある能力は、すぐれた詩に感動する能力だけなんです。その能力も、正しい結果を齎してくれているかどうかなんてわかりません。こんなふうに勝手に感動した、好きになったというだけのことで、それは僕自身を幸せにしてあげることはできるけれども、人に話すべきではないのかもしれません。でも、ぼくの能力はそこにしかないわけですから、その話を今日はしました。
詩の世界は狭いし、詩を愛する人はそれほどに多いとは思いません。それはそれで致し方のないことだし、詩を好きな人がこれからも、一定数はいても、あまり増えるとは思えません。そういう狭い詩の世界の中で、詩のよさ、素晴らしさを、その一篇を、紹介してゆくことを、やはりしていきたいと思うわけです。
狭い詩の世界の中で、自分の詩の方が、おまえの詩よりもすごいんだというような小競り合いはしたって仕方がないと思うんです。
好きな詩を思い切り好きでいること、そしてなぜ好きでいるかを、語り続けることが、大切なんじゃないかと思うわけです。余計なことを考えず、よそ見をせず、ひたすら詩と向きあい、詩に恍惚となる。そんなふうにして生きてゆきたいと思います。生きていること、詩とめぐりあうことのすばらしさ。

こむずかしいことを言いたいから、ぼくは詩を書いているわけではありません。自分はすごいだろうと、人に見せつけたいから、ぼくは詩を書いているわけじではありません。正義や優しさを押し売りするために、ぼくは詩を書いているのでもありません。細々とぼくらしく生きてゆけるために、ぼくは詩を書いています。詩を書いた分だけは、せめて幸せになろうと思いながら、ぼくは書いています。詩を読んでいます。

ぼくはこの1月にコロナに罹って熱にうなされました。隔離され、呼吸に苦しみながら半分眠った状態でずっと考え事をしていたんです。
この歳になってしまったし、これからもうそれほど長く詩を読み、書くことは出来ないだろう。そうであるからこそ、何をなすべきかの選択を間違いたくない。やるべきことは、周りをきょろきょろ見ていないで、何を望むこともなく、好きな詩をさらに好きであるように努力をすることではないのかということでした。
好きな詩をさらに好きになることによって、その深さが、自分の詩をその分、深めてもくれるのではないかということでした。
ですから今日は、ぼくはこんな詩が好きだ、この詩人が好きだと、それだけを話しに来ました。全然難しい話ではありません。ただ詩が好きだ、という話をしました。

ということで、本日は阿部恭久の詩を読んできました。今日は、ひとりの詩人についてのお話をしました。

今日お伝えしたことは二つです。ひとつは、詩を書き始めた頃を繰り返し思い出そう、ということ、もうひとつは、詩の裏側を読もう、ということです。

長い時間聴いていただき、ありがとうございました。

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