詩の商業誌とどのように付き合うか

「現代詩手帖」が創刊したのは1959年、わたしは小学生だった。すでに詩を書いていたが、もちろんその頃は、この雑誌のことは知らなかった。

「現代詩手帖」を読み始めたのは70年代の終わり、大学に通い始めた頃だろうか。ちょうど「現代詩文庫」の発行が始まった頃だ。それまで知らなかった詩の世界があるのだと、わたしは目を見張った。

正直に言えば、当時、三好達治や丸山薫の詩を愛読していたわたしには、「現代詩手帖」に載る戦後詩の多くは、どこがよいのかわからなかった。

わからなかったけれども、それは必ずしも詩の方に問題があるのではないと感じた。だから、なんとかしてこれらの詩を感じとる道はないかと思った。そしてその道とは、ひたすら読み続けるしかないのだと、わかっていた。

だから、この雑誌に投稿してはいても、自分の書く詩が載るとは思いもしていなかった。

大学を出る頃に、幸運にも自分の詩が初めて載った時には驚きもし、感激もした。詩を採ってくれた選者の方(石原吉郎氏)には、今でも感謝している。

あれから「現代詩手帖」は、ずっと日本の詩を引っ張ってきている。1980年代には、すでにこの雑誌は詩の歴史そのものだと言われていた。「歴史」になってからも、雑誌は続いているというわけだ。

詩を書き始めたばかりの人には、商業誌は難しいと感じるかもしれない。それが正直な感想だろう。

しかし、そこに載る特集は、時に目を開かせてくれるものがある。それからの長い人生の、詩の理解の幅を広げてくれる。

また、掲載されている詩も、自分の書く詩との距離をはかるものになりうる。

それらの詩を盲信して追うのではなく、また、わからないものはだめなものと単に批判して終わるのではなく、良し悪しを自分の目で個々に評価することを心がける。

さらに、自分の詩との違いはなにか、自分にはないものがここにはあるのではないかと、常に目を凝らしているべきなのではないか。

商業誌とは、自分の詩との距離を正当に意識することによって、自分の詩をさらにゆるぎなく愛し、鍛えてゆけるものではないか。そしてそう考えることは、自分の詩と感性の、頑なさをやわらげてもくれる。

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