「初心者のための詩の書き方」 231章から2155章

初心者のための詩の書き方
231章から2155章

231
池下和彦の「朝」という詩がある。
読んでもらえばわかるように、この詩はたったの7行。決しておおげさではない詩。りんごが向こうへ転がって行ったことを書いている。ただそれだけの、すごく簡単な詩。でも簡単って、こんなにすごい。読んでみよう。

朝   池下和彦

手からのがれて
りんごは紙のうえをころがる
ひとまわりしないうちにとまると
こちらへむかって
通り道ができる
それをたどっても手はもう
りんごにふれることなどない

なぜこの詩に惹かれたのかを、少し考えてみよう。それが詩を書くヒントになるかもしれない。以下、箇条書きで。とりあえず、僕が考えたこと。

(1)目に見えるもので見えないもの(概念、想念、印象)を表現してみる。

ここでは「りんご」を使って、見えない「通り道」を表現している。ところで君にとっての「見えない通り道」って、なんだろう。

(2)具体的な動きを詩の中に入れてみる。

ここでは、「りんご」が向こうへ転がってゆくという動きと、「触れる」という動きが描かれている。詩を書くって、ひとりだけの所作だから時々とても不安になる。書き上げた詩が独りよがりになっていないかを調べるためには、その詩の中に「具体的な動き」が入っているかをチェックして、少し安心する。

(3)説明なんてしない。

あくまでも詩に描かれているのは、「りんご」がむこうへ転がっていったこと。それだけ。その視覚的な描写だけ。それがどのような意味を含んでいるかということについては何も言っていない。そんな品のないことはしない。そこから先は、読者に任せる。

(4)逆向きの発想を入れてみる。

逆説って本当のことを感じるための重要な手段だと思う。あるいは、視線をいつもの向きとは違えることによって、見えないものが見えてくる。逆説を使うなら、小手先でやるのではなく覚悟を決めてやること。逆説の表現にあわせて、逆向きの世界をひとつ創りあげるくらいの迫力を持つ。坂道を歩くなら、坂道の裏側も歩いてみる。

(5)擬人化の要素を入れてみる。

あるいは人を物にたとえることも一つ。擬物化といえるだろうか。逆説は派手に、擬人化はささやかに、ということを心がける。

この詩からどんなことを引き出せるか、あとは君が考えてみてください。いつやってもいい宿題、として。

232
一番簡単なのは、二つの文章を用意して、その上下を入れ替える方法。膝を組みかえる時のように、言葉を組み替える。それが詩へのきっかけになる。

まずは二つの文章を考える。普通の文章でかまわない。たとえば「窓をあけはなつ」と「波がうちよせる」という文章がある。つまり、

窓を あけはなつ
波が うちよせる

というわけ。この二つの言葉を入れ替えると次のようになる。

窓が うちよせる
波を あけはなつ

ここから詩を始める。窓が君のまぶたに打ち寄せる光景を想像する。波の荒れ狂う風景に指を差し込んで全開する心持を思ってみる。

いろいろな文章で試してみる。あとは実践と応用。たいていのものがそうであるように、自分でやってみるしかない。

難しく考えていてもなにも始まらない。

すべてを語り口調にして、行を変えるだけで、詩のようなものはいつだってできる。やってみよう。こんな感じだ。

組み替える

身近なところからはじめるんだ
自分のことを考えるところからね

たとえば君は
考えごとをするときによく脚を
組み替える

その「組みかえる」ことを 
詩に
するんだ

君が組み替えたのは
いすに座っている君の
脚だけだったろうかって

そういうふうに思考を
進めるんだ

組み替えるっていう言葉が
いつもと違って感じられてきたら
しめたものだ

それが詩の
入り口に立ったって ことなんだ

きみの部屋には
外につながった窓が
ある

たとえばその窓と
窓の外の海を
組み変える

目を閉じて
その動きを想像してみるんだ

海がいっきに
開け放たれる

あるいは

窓がはるかむこうで窓の外へ
くりかえし
打ち寄せている

そういうことなんだ
詩を書くって
いうことは

233
「詩のきっかけ」

わたしたちが詩を書くときに、詩に入って行く便利な道はあるだろうか。いつだって簡単に詩ができてしまう、そんな裏通りが。

あると思う。

これはもちろん私の感じ方だから、人によって詩の生まれる場所が違うのは当然。だから、あくまでも参考ということで。

以下、「発想」の便利な材料集、その1

(1) 体の部位は詩になりやすいと思う。腕とか、目とか、ひじとか、耳とか、その部位に視線を落として、描く。肉体は言うまでもなく自分自身だから、肉体を描くことがそのまま自己の内面を象徴してくれる。便利だ。たとえば「足」を描こうと思ったら、足に触れる「ゆか」が想像される。「足」と「ゆか」の関係性を追及してみるのも、いい。また、足に係る動詞「歩く」という機能から詩を広げることもできる。「歩く」動きの不思議さとか、「歩いた先の」風景とか。詩は、いくらでも肉体の部位を基点として、出来上がってくる。

(2) 動詞を擬人化してみる。たとえば、「つんのめる」という動詞の顔を思い浮かべる。わたしには、やせぎすの、あごのとがった顔が想像される。「つんのめる」という動詞がまさしく「つんのめる」瞬間のすがたを思いうかべる。「つんのめる」は、何につんのめるかと、「何」のところを膨らませてもいいかもしれない。その情景を思い浮かべて、遊ぶ。

(3) 解説文を利用する。たとえば、花について書きたいときに、その花の解説を書いた本を探す。その花を説明している説明文を膨らませる。極端に言えば、辞書そのものでもかまいわない。「あるく」という言葉を詩にしたかったら、「あるく」という言葉を辞書で引いて、その説明文を膨らませる。電気器具や携帯電話、あるいはカーナビの使用説明書なども、詩になる。

(4) 専門用語に注目する。へらぶな釣りの用語の、あまりの詩的な響きにわたしは驚いたことがある。そのほかに、気象に関する専門用語や、医療用語、炭鉱用語、古語、歳時記も、かなりわたしたちの発想を刺激する。NHKの各種テキスト、「趣味の園芸」などを本来の興味からではなく、言葉のあつまりという面から、読んでみる。

(5) 目に見えないものを視覚化する。感情や思想、雰囲気、等々、目に見えたらどうなのかを考え、それを詩にする。あらゆるものを具体的な形にしてしまう。例えば「約束」というのは、どんな形だろか。

(6) 目に見えるものを、ありえない映像にまで深めてしまう。人のからだが透き通ったり、金魚鉢のようにその中に水が漂っていたり、世の中全部に木目が浮いていたり、とにかく、実際には映像化できないようなことを、想像し、書く。

(7) 色、について書くと、詩ができやすくなる。見慣れたものを何かの色で表現する。色の名をつけると、なんでもない言葉がそれだけで詩に近づく。

(8) 空間も、詩になりやすいもののひとつ。距離感、高さ、遠さ、など描けば、豊かな詩空間が広がる。自身の視点を、描くものから遠ざけるのも、作品を広げるこつ。

まだまだきっかけになるものはある。自分にとってはどんなものが詩の入口になるのか、整理して見るのも楽しい。

234
「詩を読むとは何か」

詩の読み方
というものがまず私の前にあって
それを個々の詩にあてはめているわけではない

考え方はおそらく逆

個々の詩がまず私の前にあって
その個々の詩が私に
その詩の読み方を示してくれる

あるいはこうも言える

あらかじめ詩は私の前にはない
私に読まれ
それが詩と了解されることによって
詩は成立し
それがそのまま読まれるということになる

詩を読むとは
なにものでもなかった書き物を
私が詩と了解すること
まさにそのことをいう

詩というのはそのような意味で
ひとつのジャンルではなく
ある種の評価である

これが詩である
と言う思いこみの器に言葉を流し込むことは
詩を作ったことにはならない

それは単に詩のあやうさを失った
何かの複製でしかない

あるいは
何ものともよべないものなのだ

果てのところで揺れているもの
それだけを詩と呼び
それ以外は決して詩と呼んではいけない

235
自分が書いてきたもの以外には
書くべきものはないんだ
その「外」なんて
どこにもない
もっと領域を広げるなんて
絶対に無理
違う自分なんてありえないし
そんな夢を見ちゃいけない
書くことは決まっていて
いつもそこにいるしかないんだ

236
新しい発想っていうのはいつも
ごく当たり前の発想の
すぐ近くにある

土台から別の世界を広げる必要は何も
ない

もしそういうことをしても
詩は持ちきれないし
読者はついてきてくれない

抽象的な言葉なんか使わなくても
同じようなことはできるんだ

たとえば
「空が晴れる」っていう文章の「空」を「人」に置き換えるだけで
ちょっと変わった文章になる

詩を書くっていうのは
遠いところへ
出掛けて行くことじゃない
   
237
もちろん詩人になったところで
なにが変わるわけのものじゃない

呼吸器を通過する気体の密度はそのままだし
頬をなぶる風の冷たさも
なんら変わりはしない

そんなことはじゅうぶんにわかっているけど
それでも詩を書いて自分を
この世界へとどめておきたいと
思ってしまう心

そんな心をうまれながらに持っている人が
ほんのわずかに
この地上に生息している

あなたが日々
わけもなく言葉にひきつけられていて
わけても詩を書いてゆこうと決意しているものであるとしたら

そしてその思いが激しく募りはするものの
めざす表現にたどり着いていないと
かなしむなら

そしてそれによってあなたが
生きている限りたえまなく
言葉に胸震えるこころを持ち続けられるのなら

そしてそれによってあなたが
作品にささえられた真の詩人に
なりうるものであるのなら

238
先日の詩の教室で、日々が忙しくて詩を書く時間がない、致し方なく電車の中で詩を携帯に打ち込んでいるという人がいた。

私も同じように書いていたことがある。

では、「初心者のための、朝の電車の中での詩の書き方」を。

前夜:眠りに入る前に、翌朝の目覚まし時計の起床時刻をいつもの5分前にセットします。

翌朝:目覚ましが鳴ります。本当に起きなければならない時刻まではまだ5分あります。眠ったあとなので頭は活発に回転しています。世界は新しく与えられ、五感はそのひとつひとつを丁寧に受け取ります。

(発想のチャンス1)その間に、なにか気になることに集中します。必ずなにかあるはずです。目はとじたまま思いを深めます。大それたことでなくていい。ちょっと気になることでいい。その「ちょっと」が、その日の詩になります。

朝の準備:歯ブラシを口に入れます。トースターの中ではパンがいい香りに焼きあがります。紅茶の湯気がやさしく上がっています。どれもが生きていることを切なく感じさせてくれます。テレビをつけます。お天気お姉さんが予報を語っています。

(発想のチャンス2)お天気お姉さんの言葉に集中します。世界のひろがりについての説明をしてくれているのですから、かならず詩につながる言葉を与えてくれます。

早めに家を出ます。坂道を降りてゆきます。バス停に着きます。バスの到着予定時刻の10分前にたどり着きます。

(発想のチャンス3)バスの到着を待つ10分の間に意識を集中します。その日はじめての風に触れ、その日はじめての日差しに触れるのですから、かならず新しい考えが湧いてくるはずです。

バスが到着します。先頭に並んでいましたから、たいてい座席に座ることができます。

発想のチャンス1,2,3でつかんだ詩への取っ掛かりを、そのまま素直にスマホに打ち込みます。内容がいいとか悪いとかは気にしません。途中で読み返さないで一気に最後まで書き上げてしまいます。

鴨居駅:横浜線に乗ります。混雑しているので詩の続きは書けません。それでも車内アナウンスに意識を集中します。例えば、「まもなくシンヨコハマに到着します」の「まもなく」という言葉の感触。そこから、今までとは別の視点が思いついたり、詩の膨らませかたがわかったりします。早く続きを書きたくてしかたがなくなります。

菊名駅:乗り換えの階段を降りて行きます。運行状況の表示や、壁に貼られた旅行案内も、思わぬヒントになります。だから意識は常に集中したまま。コノヨのなにものも見逃さない。

東急東横線:渋谷行の各駅停車に乗ります。間違っても混雑した急行には乗らない。そんなにあわただしく生きない。ゆったりと吊革につかまります。横浜線の中で思いついた詩の続きをスマホに一気にうちこみます。

日吉駅:うちこんだ詩をはじめから読み返します。スマホの文字はできるだけ小さくしておきます。画面の中で詩の全体が見渡せるほどに。つながりの悪いところだけをなおします。

武蔵小杉駅:そこそこできたと思ったら詩の完成です。完成って、たいていその程度のものです。フェイスブックに転送します。

自由ヶ丘駅:やっと前の席があきました。やれやれと思って座ります。スマホを再びフェイスブックにつなげます。詩がアップされていることを確認します。しばし、眠ります。

渋谷駅:目が覚めます。改札の前まで来ます。電車は遅れて着きました。念のために遅延証明書を受け取っておきます。

「遅延」という題の、もう1つの詩が改札を通る瞬間にできあがります。

239   
では「初心者のための詩の書き方」、中間テストです。時間は無制限。できたら屋外で解いてください。

問一 自由詩の自由は、どこがどんなふうに自由なのでしょうか。

問ニ いわゆるポエムと言われている詩は、戦後詩の中でどのような位置を占めるのでしょうか。

問三 若い頃から書いている人と、老年になって学んだ人と、言葉の選び方に違いが出るでしょうか。出るとしたらどのような。

問四 優れた詩とそうでない詩の、判断基準はどこにあるのでしょうか。具体的に書いてください。

問五 「現代詩」の「現代」とは、いったいいつのことでしょうか。

問六 なぜ大正時代の詩の方が、身近に感じられるのでしょうか。

問七 しあわせな人は本当によい詩が書けないものでしょうか。例をあげて答えてください。

問八 詩はわけがわからないから読まない。そのように感じている人に、どのように対処しますか。

問九 詩というジャンルはいつも消え入りそうですが、なかなかなくなりません。その理由は?

問十 もし詩を書いていなかったら、なにが君をそこまで、支えていてくれたでしょうか。

240
ふつうの詩を書こうよ
どんな驚きもない
目をみはるほどの輝きもない
すぐれた比喩がおりこまれているわけでもない
読んでためになるわけでもない
どこといってめだつことのない
読んですぐに忘れられてしまう
だれからも褒めらることもなく
ひどく貶されもしない
作者の記憶にさえ残らない
ことさら今日書かれる意味もなく
なにを訴えているわけでもない
怒りの対象があるわけではなく
特別な悲しみをたたえているわけでもない
気のきいたフレーズがあるわけでもなく
謎めいた一行だってどこをさがしてもない
ふつうの場所で
ふつうに改行し
ふつうの題がつけられて
ふつうの長さで終わっている
ひどく難解でもないし
かといって誰でもが理解できるというわけでもない
中途半端な努力のあげく
日々の愚痴にあけくれる
それがまさに私なら
無理してかっこつけることなく
私らしい
ふつうの詩を書こうよ

241
詩を書いていると、身も心も、かすかに自分のところからずれてきたと感じることがある。詩が書けるのはこの、ずれた自分であって、いつもの自分ではない。だから、「このところ詩が書けなくて」という言葉はありえない。もともときみが、きみの詩を書いているわけではないのだから。

242
では、どうやったら自分をずらすことができるのか。たぶん、世界に触れたら簡単にやぶけてしまうような薄い皮膚が必要なんだと思う。自分の感性にこだわりすぎない。ものを作るって、自分の中から何かを生み出すことじゃない。世界のきれいなところを取り入れる、その手さばきのことだと思う。

243
「どんな評論もつまるところ自作品の擁護でしかない」って、よく言われるけど、それのどこがいけないんだろう。その方がずっと素直だし、人としてわかりやすい。ものを作るって、寄りかかるものがないってこと。きみの詩を守ってくれる人なんて、どこにもいない。

244
詩ってもともと、おとなしいジャンルなんだと思う。晴れがましくはない。じっと黙っている、その深さが詩につながってゆく。だから個人的には、朗読会にはいつも違和感を持つ。ほんとうによいと思っているわけでもないのに、よいところを無理やり探しあっている。
そんな感じがする。甘すぎると思う。

245
いやな奴なんだけど詩だけはすごい、というのがたまにいる。日々のおこないと詩の良し悪しに関係はない。詩って、解明のできない事柄の脚をすくうことだから、道徳からは遠い。そのためにどれだけ身を低くできるかどうかは、詩の教室ではなかなか教えられない。

246
詩は、ずっとは書けない。しばらく書いたら逃げたくなる。詩と一緒には暮らせない。適当にうまくやってゆくなんて、無理。1人になりたくなる。魂の抜け殻、という言葉があるけれど、魂に何かが詰まっていたことなんてない。僕にとっての詩は、そこからみっともなく逃げてゆく後ろ姿、たぶん。

247
詩を書いていて幸せになったことはない。でも、投稿詩が初めて「現代詩手帖」に掲載された時には、震えた。自分の言葉を分かる人がどこかにいるなんて、信じられなかった。石原吉郎が選者だった。初めてわたしの国語が通じた。しばらく呼吸を、とめた。

248
詩には効用なんてない。まれにあったとしても、それを目的に付き合うものじゃない。何かを求めたら、かわいそうだ。何もしてくれない。そんなものにわざわざ手をさしのばす自分を、そっとしておきたい。夜があけたら、その日のわたしにただ耳をすましていたい。

249
詩って、書きすぎないことだと思う。我慢できるかどうかが、作品の深さにつながってゆく。前へ出るために書くんじゃない。世界から言葉を消す作業をしているのだと思えばいい。この世の解説書を虫食い状態にする。その向こうの空を見せてあげる。

250
詩を書くことは入眠に似ている。いつもやり方を忘れてしまう。書こうとするほどに詩から遠ざかる。

詩を書くことは行為ではなく状態だと思う。書かれた詩はそのまま君の中にしまわれる。

詩にはなにもできない。だからこそ恐いと思う。何をしでかすかわからない。

251
雑誌の投稿欄には、あまりいい思い出はない。たいてい落とされた。めったに掲載されたことはない。投稿者にとっては、投稿欄の詩は本欄の詩よりも眩しく、深く入ってくる。採られた人の詩と、落とされた自分の詩との距離をはかることは、結果として勉強になった。負け惜しみかも、しれないけど。

252
言葉に意味がある、というのが驚きだった。それぞれにそれぞれの熱い実体がついている。漏れがない。世界はなぜ線状のカキワリで出来ていないんだろう。僕はそもそも、言葉を書こうとしているのか、その意味を書こうとしているのか。なんの意味も持たない言葉ってホントにないのか。

253
いつもと同じ出来の作品が書けてしまうことって、よくある。どんなふうに読まれるかも、手に取るようにわかってしまう。自分の背丈を自分で決めてなんになるだろう。やらかしちゃったかな、と恐い後悔にさいなまれている。そういうものだけが君を伸ばす。

254
小学生の時、「黒板」という詩を書いた時にヨシムラくんが、「松下くん、そういうのギジンホウっていうんだ」と教えてくれた。こんなものにまで名前がついているのかと驚いた。手垢にまみれた国語で、わざわざ自分が詩を書いてなんになるのか。今でもずっと考えている。

255
丹念に試みていると、感覚が意外に深まることがある。でも、それを言葉で表明しようとすると、単純な物言いでしかできなくなる。情けない。感覚って、たまに言葉の能力の線を越えてしまう。踏み外した足裏のその感触を、詩にすればいいのだとわかってはいる。

256
ところが、その感触を言いあらわせるのも、所詮は言葉でしかない。でもその言葉は、本来それ自身にあてがわれた意味から抜け出したものであったりする。あるいは奇態な組み合わせであったりする。そんな言葉を見つけ出す明確な方法はない。発想とか才能と、ひとまず言っておこう。

257
一般的に言って、その立ち向かう姿の危うさと脆さが詩であるならば、ホントの詩が書けるのは、十九才までかもしれない。それから先はなんだろう。繰り返しのまがい物。だからどうだというのじゃないが。

258
では、詩の才能とは何か。言いふらされていない言い回しを心地よく即座に見せてくれる能力のこと。その能力はどのように育つか。単純だけど、国語を知ること。知ってからいったん放り出すこと。それくらいしか言えない。

259
オノマトペって最近見ないな。やっぱり恥ずかしいのかな、つかうの。「のをあある」まで書けたら、やった感はあるのだろうけど、こんなの思いつきやしない。頭に浮かんだ言葉を次々書くとか、疾走する詩行とか、迷惑にしかならない。そういえばリフレインって、最近見ないな。

260
自分が書いたものを読み返すことはない。
呼気と同じだから。

人の思想は信じない。
立派に見えるだけだから。

自分の頭でしかものを考えられない。
ときどき飽きる。

ぜんたいがいつもかわいそうだと思う。
こまかいとこも。

261
僕も詩の教室をやってたけど、ホントのところ詩なんて人から教わるものじゃない。毎日5編の詩を全霊を込めて書く。日曜日は10編。そのうちにだれも君に教えられないことが、おのずとわかってくる。生意気な口をきく前に、それを五年やってみる。詩なんかのためにこのご時世、それができるか?

262
なんにも考えていない。考えているふりもしない。考えていなければコトバは消える。コトバが消えれば私も消える。私が消えれば野原も消える。野原が消えれば一本の木も消える。一本の木が消えればもたれかかる背も消える。もたれかかる背が消えれば、やっぱりなんにも考えなくてすむ。

263
「明日は君たちのもの」というテレビ番組が、かつてあった。番組の最後にサトウハチローの詩が流れる。詩とは何かを私はそこから学んだ。でも、大人になって、ずいぶん月日が経ってから読んだら、正直物足りなかった。作者も読者も当時、相応に勘違いしていたなんてことが、ありえるはずもないのに。

264
百人の読者におもねるために、一人を憂鬱にしてはいけない。書いてはいけないことって、たしかにある。そのものを書かずにおくことで、むしろ輝いてくる部分。君の中にはあるはず。そんな資質を持たないなら、もう物書きなんてやめたほうがいい。

265
廿楽さんのFBに、語源や古語で詩を書いてもたいていつまらないと、あった。書いている本人はそれに気がつかないのだと。気をつけよう。まさにわたしのことではないか。家族の写真や親戚の自慢話のような、ものか。読み手にとってはどうでもいい。手が伸ばしやすいものには、成人病に気をつけよう。

266
詩はダンシ一生の仕事かとかなんとか、昔、三好達治が考えていた。違うと思う。読点にはなり得ても、人生の本文にはなれない。大きな通りを幾度か曲がったその先の、湿った横丁だと思う。曲がったあとでホット息をする。だから詩は呼吸器で書く。腕っぷしは使わない。

267
「詩を回覧板に載せるわけにはいかないだろう?」清水哲男さんが言っていた。どこで言ったのだろう。思い出せないけど、ビールは飲んでいた。どんなに平易な詩も、カタギの人にはわからない。今日は家人も出かけていて、僕は昼からウィスキーを飲んでいる。酔うと無性に、清水さんの話を聴きたくなる。

268
アレルギーが、世界に対する違和感の表明であるなら、私にとって「ものを書く」とは、まさに季節ごとの発疹だ。向かう先もなく、理由もない。ただ止むに止まれず掻き毟る。二ヶ月前にFBとtwitterを始めたのもそのため。アレルギーが止むまで書く。詩は素敵だ。向かう先もなく理由もない。

269
誰しもその人独特の文体と思考の流れを持つ。個性とも言う。個性を脱ぎ去ることはできない。できるのは単に自覚的になること。ただ、いくら自覚したところで、個性に抗うことはできない。不思議なのは、まれに派生的な広がりを持つ個性があること。なぜかそのような個性を持つ詩人がいる。羨ましい。

270
自分の個性に付きすぎない、というのは大事だ。これぞ書きたい発想、という自信の詩行は往々にして読者に通じない。読者が読みたいのは個性そのものではないから。なにげない物言いに粉のようにまぶされた個性こそが、読者に通じる。そのカラクリ、わかってはいるけどいつも勘違いをする。

271
発想のつかみ方は人によって違う。でも、べったりした日常からそっちの世界へ裏返る接点は間違いなくある。この世界のようでいて微妙に違う。例えば夜の風呂に浸ると発想へめくれやすい。水の表面で私がほどける。うすくはがれる。きれいにしずまる。ミズモノに近づくと、たしかに詩はできあがる。

272
以前詩人は、労働者のために書くかどうかの判断をせまられた。中ソが本来の姿をなくしてからその判断は無用となってしまった。眼差の方向が決まっている詩、プロレタリア詩はさぞ創作が困難だろうと思う。では私にとっての労働者はなんだろう。詩行の背筋が伸びていない理由は、そのへんにある。

273
有頂天になっているか 絶望して顔も見たくないかの
どちらかでしかない
自分の作品って

そこそこの出来の詩より
むしろ見事に失敗作を書けって
そんなわけないだろ

一度書いた詩行は二度とは使えない
でも
一度はこんな詩が書けたんだって
ひそかな勇気はもてる

274
書いてみて、やっと何を感じていたのかを知る。
歩いてみて、そうかここへ来たかったんだとわかる。
恋愛をして、かすかに人に触れることの悲しみを知る。
喧嘩をして、一人で支えきれないものがあったんだとわかる。

275
言葉をじっと見つめていると、つらくなって言葉の方が目をそらす。 廊下をいくつか曲がっていると、知らない別館への渡り廊下が現れる。 雨のそばで考えごとをしていると、通り抜けて日本語の裏側に濡れてしまう。 発想を得る瞬間って、そんな感じかな。再びは思い出せない。

276
馬術の障害物競技を見ていた。勢いよく走り、バーを落とさずに終了した学生が減点を言い渡された。馬のことを考えたら、あまり速く走ってはいけないのだと。思いやりを点数に換算することができるのかと、驚いた。詩も同じか。言いたいことを思う存分表現すると、却って伝わらなくなることがある。

277
日本語は幼い。平板な挨拶はできても、そのままで詩は書けない。君だけの眩しい言語に育てあげる。そのためには大量の窓辺で大量の詩を書く。地平線が盛り上がるほどに書き損じを積み上げてゆく。ある日、窓が開かなくなった頃に、言葉が剥けてくる。見た目同じ言葉だけど、俯けた顔はもう違う。

278
沢山の詩を書いていると詩は薄まってくる。
でも沢山の詩を書かなければ深い詩に届かない。

5年前に書いた詩のひどさに絶望する。
また次の5年後がある。

人に捧げた詩だから、というのは 言い訳ととられるかもしれない。

279
詩が個性的であることは、事の本質とは無関係だ。むしろ危険なことだと思う。個性の流れに流された先には、結局何も残らない。真っ直ぐな詩行は自立した思考を支えるためにある。どんな個性も排除した透明な文体が、言葉を盛る真の器だと思う。

280
なぜもっと自暴自棄になれないのだろう。現代詩には、すでに守るべきものができてしまったのか。

地上には溢れるほどの固有の名がついているのに、なぜ空は、いつもただの空なのだろう。

次の一行が前の一行を殺してしまうような詩を、書こうとしていた時期もあった。

281
詩は純文学だと、思っているうちは見えてこない。

思想をナマで持ち込んでもかまわないけど、詩ではないものが出来上がる。

自分を苦しめない書き物など意味がない。

全体が1つの疑問になるように、生涯をかけて書いている。

282
詩ができない時は、それを詩に悟られないこと。追えばそれだけ逃げて行く。もう今夜は書かないと決心して扉の向こうへ行こうとすると、向こうからやってくる。

悲しみは市役所から配られてくる。電子レンジで温めてから、悲しむ。それ以上に必要な時には、自分でタネを買ってくる。

283
君が今書いている詩を好きになってくれる人は、君である必要はない。

そういえば一昨日降った雨の音が、まだ聞こえている。

それからこちらではたまに、雨も積もる。

あとはここで、小さじではかるように生きていたい 。

284
多くの詩集は最初の詩を読めばわかってしまう。だから巻頭詩に、出し惜しみをしない。

舞台役者になった夢をみた。公演が迫っていたので必死にセリフを覚えていた。目が覚めてから朝のテーブルで、そのセリフが言えてしまう。

忙しいと、時を忘れる。
暇になると、時の姿がみえる。

285
もしもぼくが生まれていたら、という詩を、だれが書けるだろう

窓を開けて、ホンモノの地平線が蝶々結びになっていたら、たぶん窓を閉じる

人のことを好きになるカラクリを解明したら、まずは君を忘れよう

286
独りよがりでない詩なんて、面白みがない

幸せな人にはよい詩が書けないと、はじめて気づいた人は幸せか?

砂時計の内側の時間は、どうして外側より遅れてしまうのか

出来損ないの中也でしかないと、気づいてからの人生が長い

もしもまぶたがなかったら、魚とどうやって見分けよう

287
晩年の朔太郎は朔太郎らしさを失う。普通の詩人のようなありふれた詠嘆で詩を書き始める。しかし朔太郎はそのことに気づいていないらしい。朔太郎らしさとは何かを朔太郎は知らなかったのだろうか。おおよそは知ってはいたのだ。そうしたのは、詩のありかをさらに考えさせてくれるためであったか。

288
辞書を読んでいても詩は書ける。むしろ現実なんて、ない方がいい。

言葉のこどもを探している。育ち上がるところを詩にしたい。

十二月になると、みんな十二月に入ってしまう。入りそびれたものと暮らしたい。

お詫びに差し出されたような、陽気だった。

289
詩人だった時には、そのことに気づいていなかった。詩人でなくなった頃から、詩人と呼ばれるようになった。

初めの詩集で書きたいことをぜんぶ書いた。次の詩集でどうしたかを、思い出したくない。

詩を書くには一生は長すぎる。行数を数えるように、あとは季節を数えている。

290
詩の発想というのは一つ思い浮かぶと数珠のようにもう一つ出来る。特に風呂上がりにそうなる。カラダを拭いた後で一つ目を書いている間に、でももう一つを忘れている。どうしても思い出せない。だから思い出せない詩が、頭蓋の空き地にたくさん溜まっている。俯くとたまにその空き地を感じる。

291
生まれてきた時には言いたいことなんてなかった
言葉なんていらなかった
だから詩を書きたがっているのは僕ではなくて言葉の方だ
この世を信じられないのは僕ではなくて言葉の方だ
書けば書くほど遠ざかる病に罹っているのは僕ではなくて言葉の方だ

292
詩は、当たり前のところから書き始める。報告書をまとめるように書く。地道な日本語を使う。凄いことをしようとしない。大向こうを唸らせようとしない。最低限、理屈を通らせる。奇異な言葉遣いは虚しい。普通の言葉が普通に使われることの恐さを、簡単じゃないけど見つける。

293
初めての詩集を送付する時に、郵便局へ持って行くのが恥ずかしくて、夜を待って近所のポストを回った。おかげで家の近くのポストはどれも、喉元までわたしの詩集が詰まっていた。

命がある物とない物があって、そのどちらでもないものがあるかときかれたら、小さく手をあげたい。

294
随分昔のこと。高校へ通う僕は、いつも一冊の詩集のことを考えていた。まだ書かれていないその詩集の判型や色や紙質はすでに決められていた。その本を読み終ったあと、恐らく読者と世界はしばらく身動きができなくなる。あとは中の詩を書くだけだった。あの頃の僕を思い出すと、優しい動悸がする。

295
詩を読むという行為は、読者が手元で詩を書き直すということ。
だからどんな詩も、いつまでも未完。

私は固有のものではあるが、しかしその固有には大した意味がない。
だからこそ、私でいたい。

バスの中は人生よりもましだと思う。
せめてつかまるところがある。

296
言葉で言えないことの方が多いと、言葉が一番知っている。

詩なんか書いていられない、という気持ちを書くのが詩だと思う。

生きる目的とか、あったら辛くて生きていけない。

雨の中を降る雨を見ていた。ぐっしょり濡れて降る雨を。

297
遺書を書き直すたびに一編の詩ができてしまう。

自動筆記でない詩なんてあるだろうか。

言葉ってつまりは名札のこと。詩を書くとはひたすら、札の底を揃えて輪ゴムで留めること。

接続詞のない文章が目標。どんなふうに読まれようと、息を詰めて飛び移ればいい。

298
特に秀でたものがあるわけじゃない。壇上に上げられて自慢をしても構わないと言われても、何も思いつかない。流行には中途半端に流される。選抜にはたいてい落とされる。親戚の中でも目立たない。見た目も普通。担任によく名前を忘れられる。そんな、いやになる程当たり前の人にしか、詩は書けない。

299
かつて、日本の詩人は3000人と言われていたけど今はどうなのだろう。それほど変わっていない気がする。この世に存在する一定量の鉱石。だから、一人の詩人が死ねば、一人の若者が静かに引き継ぐ。3000の窓辺に3000の自意識を培養する水槽。世の中がどんなふうに変化しても、詩は死なない。

300
流行り廃りのないものは信じられないと言ったのは荒川洋治だっただろうか。どんなジャンルにも全盛期はある。日本の詩が最も輝いたのは「櫂」の時代だった。茨木のり子、川崎洋、谷川俊太郎、大岡信。これらの光の届く場所まで、私たちはなんとか歩いてきた。次の街灯が灯る日は、いつかくるだろうか。

301
自由詩という呼称は嘘ではない。形式も内容も自由だ。でも、ただ言葉を吐き出しても詩にはならない。言葉も内容も、どこかで「死」と結びついていなければならない。それは一見、ただの甘ったるい恋愛詩に見えるかもしれない。でも優れた詩なら、死んだ先からこちらを振り返って、書いているはず。

302
「なぜ僕は水しぶきをあげてまでもあの柵のむこうに行こうとしたのだろうか」と書いたのは三橋聡。水しぶきの飛沫は、いまだに僕の眼鏡についていて、こんなものを性懲りも無く書いているよ。死者はどんな後悔もしない?いつもの見事な比喩に紛らせて、君の詩が教えてくれないか。

303
昔、「鳩よ!」という雑誌が出ていた。初めて詩の雑誌が、本屋で晴れやかに平積みになった。編集も装幀も立派だったけど、詩人達は気恥ずかしげだった。素人がテレビに出ると変な顔に見える。あんな感じだ。雑誌は徐々に限界を感じて終わった。誰のせいでもなかった。ただやっぱりと、みんな思った。

304
生涯は一冊の詩集のようなものか。でも、日々を俯瞰した目次がない。生きる意味を説いた前書きがない。安堵の場所へ導く後書きがない。ページは時に煽られ、過去は顔を嬲りもするが、それでも生涯は一冊の詩集のようなものか。読者とともに滅んでゆける。

305
映画の中の会話は、日常の会話とは声の張りや間合いが違う。何が自然かは状況によって決まる。散文と詩の関係も、それと似ている。ベツモノなのだ。詩の言葉は、いつも大人しくしていられない。大抵イライラしている。急に黙り込む。甘ったれている。眠れないのだと、詩人に訴える。

306
詩を読む時には、その詩のために真っさらになるわけではない。読者は、その時の関心の在りどころのままに読む。今、何が気に掛かっているかが読みを決めてしまう。書評を書く時にも同じだ。つまり書評とは、対象の本をきっかけにして、自身を吐き出しているに過ぎない。

307
中原中也は夜中、布団の中から急に起き出して詩を書き出したという。詩を書いたことのある人なら、その状況はよく分かる。布団に横になった時って、気持ちが世事から急速に遠ざかるから、詩情が訪れて来やすい。そんな時が詩を書いていて、一番の喜びだと思う。出来上がりは中也ほどではないにしても。

308
詩集の評価はともかく、詩集の中の個々の詩の評価も気になる。ページが足らず、埋め草のように入れた作品が破格の評価を得た時に、詩人は喜ぶべきだろうか。自分の作品のよさもわからずに、書き続けていてよいものか。騙されたような気持ちで、改めてどこが良いのか読み直す悲しさ。

309
独り言を言い始めたということは、私の中に別の人が住み着いたということか。

詩を書くということは、私から抜け出て私に語りかけたくなったからか。

独り言を言っているその人が、人に語り始めた時に、私は除け者になる図式だろうか。

私を除け者にすることを、つまり詩作と言うのだろうか。

310
詩を書く時に力を抜くことはできない。クタクタになって書く。書き上がった詩は、勘違いでも傑作として読みたいと思う。でもその次の日に、もう一つオマケのような別の詩を書いてみる。疲れているから力は入らないし、昨日までの興奮の残りが容易に言葉として出てくる。多分そちらの詩が、君を救う。

311
句を見れば実力がほぼ分かる俳句と違って、詩には師徒の関係が成り立たない。大御所を中心にした雑誌はあるが、ただ作品が並ぶだけ。総ては個に帰す。巧まずして平等を実践している。困るのは、年をとると自分よりもすぐれた年若の詩人が増えてくること。会った時に、どんな言葉遣いをしたらよいのか。

312
憶えている現代詩は少ないけど、口に出る歌詞は沢山ある。歌の詞って、曲なしでは立てない。でも、優れたものは間違いなく気持ちを支えてくれる。どんな精神状態の時にも、同じ場所に連れて行ってくれる歌詞の力には、現代詩は敵わない。人生を終える時に思うのは、多分単純な優しい歌詞の方だろう。

313
姉の影響で小学生の頃から詩を書いていた。萩原朔太郎とサトウハチローから学んだ。現代詩文庫を知ったのはずっと後。高校でも大学でも、校内の詩誌には参加できなかった。私の詩は随分幼く見えた。だから恥ずかしくて入れなかった。ずっと一人で書いていた。幼くても、自分の詩は変えられなかった。

314
朔太郎は、好きな詩人というよりも私自身のように感じた。詩を書く者の多くは似た体験を持っていると思う。朔太郎の詩を読んでいる時は、自分が書いたような錯覚を持つ。その詩を書いた時の室内の様子や、窓の外の風の強さまで記憶している。詩の隅々まで、枝葉まで、それを書いた時の記憶がある。

315

何を書くかではなくて、ともかく書きたかった。書き上げた詩の質ではなくて、書いている時間の総量が問題だった。書くために私があり、書かれるために世界はあった。なにものとも比較のしようがなかった。感覚は詩に直結していた。私の詩で私は、いつだって溢れていた。

316
蒲田駅から国電を乗り継いで高校へ通学していた。通学時は詩のことばかり考えていた。勉強に夢中な生徒からどんどん引き離された。通学するフリをして、神保町の東京堂に逃げていた時もあった。2階の隅の椅子で制服の私は身を小さくしていた。詩で人生をやっていけるとは、思っていなかったが。

317
若い頃の方がずっと無口だったし、暗かった。詩を書いているということが、密かな自負心になって、私を救っていた。表現に関わっていると考えることで、勇気が持てた。日が変われば、今日はどんな詩が私を訪れてくれるかと、楽しみでもあった。ならば、私なりの溌剌とした青春と、言えなくもなかった。

318
岩田宏の詩ほど、詩とは何かを考えさせるものはない。現代詩の枠とは何かを、感じさせるものはない。一見平易に見えて、肩の力が抜けた日本語がどうして詩として成立するかを感じ取るためには、詩を学ばなければならない。濡れずに溢れる涙、というものもあるのだと、知らなければならない。

319
詩集のタイトルで好きなのは、阿部(恭久)さんの「生きるよろこび」。何しろ現代詩って、放っとくと暗い顔をしたがるから、これは新鮮だった。 正面を堂々と見つめて、大きく爽やかに呼吸の出来る詩がもっとあってもいい。読めばかすかに背中を押してくれる、明るく鮮やかな詩がもっとあってもいい。

320
軍歌や応援歌ではないのだから、詩は元気だからいいというものではない。でも、人皆等しく辛く寂しい思いを抱えて生きているのだし、詩集を開いてさらに落ち込む必要もないと思う。カラッと晴れ上がった詩がたくさん書ける、谷川俊太郎のような詩人が、日本にあと100人くらいいたら素敵だろう。

321
中也を読む為に人からの説明はいらない。イヤでも詩は君の溝に流れ込んでくる。でも、戦後の多様な詩を俯瞰する為にはそれなりの勉強が必要。人それぞれに合ったテキストがあるけれど、私は清岡卓行の「抒情の前線」から凄いものを受け取った。本自体が一篇の、切ない詩でもあった。

322
ここに私があるって、とんでもない出来事だ。適度な高さと重さがあてがわれているって、驚くべきことだ。朝が私にまで訪れて、1日が忘れずに届けられるって、なんて厳かなんだ。目が覚めれば書きかけの詩が、私のためにまだ残されているって、これ以上何を望むだろう。

323
せっかく生まれ出たのに、一度も褒められたことのない詩って、沢山ある。人から注目されることなんて、普通ない。だから自分の詩はしっかりと抱きしめてあげる。愛情を注いだ分、独り立ちも早い。書いている時も、書き上げた時も、自分の詩には常にウットリとしている。遠慮なんかいらない。

324
一篇の詩は世界を根底から覆す力は持っていないかもしれない。でも、詩を書くたびに君は、確実に変容してゆく。詩を書く前の君とはいつも微かに違う。書き終えて帰って来た君は、似てはいるが別の人になっている。ちょっと詩を書きに行った君は、だからもうこの世界には戻って来ない。

325
同人誌の仲間の詩はどれも良さが分かるのに、商業誌の詩はなかなか入ってこない。そういうことって、ある。読む時の集中度のせいもあるけど、やはり作品の多様性が1番の理由。今や現代詩って、かなりの広がりを持っている。感性のネジを緩めて受け入れる。読みの幅を広げることが、自作を強くする。

326
私は子供の頃に詩を始めたから、まずは近代詩に触れた。でも、今の高校生はいきなり稲川さんから入るのだろうか。詩への通路は人それぞれで構わない。近代詩と今の詩って、確かにかなり隔たったものを感じる。でもしっかりと通底するものがあり、それを感じることができれば迷いは減る。

327
「朝は夕方よりも賢い」という諺がある。つまり詩人は、愚かな時に詩を作り、賢い時には髭を剃っている。でも詩を書くって、賢すぎるのも邪魔になる。素直に世界を受け入れるためには少しだけの知恵でいい。理屈を組み立てる能力で詩は書けない。単純な道筋をよそ見しながら帰って来る、そんな能力。

328
定期的に、詩にうんざりすることがある。顔も見たくなくなる。口もきかない。詩のことなんか考えたこともないようにして暮らす。それまでの自分に勇気を与えてくれ、心を取り囲んで守ってくれ、ダメな自分に自信を持たせてくれて来た。分かっているけど無視をしたくなる。好きであればあるほど。

329
モノを書く私は私ではない。ここに書いている雑文も真に思って書いてはいない。不用意であり割り切っている。やり過ぎを楽しむこともある。後をフォローできないこともある。モノを書く私は私よりも複雑であることもある。驚くような才を垣間見せてくれることさえある。

330
酒なんか飲むよりも酔っていられる。詩を書くってそういうこと。目の前のあらゆることにうっとりできる。たくさんの疑問にたじろぐことができる。言葉の端々が眩しくてしかたがない。一生分の涙を詩の一行に流し込める。生涯の美しいところを掴んで放さない。人と自分の見極めをサッパリ捨てられる。

331
昔、文学全集の付録に、全集と同じ装丁の、中は白紙の本が付いてくることがあった。自分の作品を埋めて、全集の一冊として飾ってもいいけど、なんだかミジメ。むしろ白紙のままにしておきたい。何が書けるかと考えている頃が一番幸せ。それから一編の詩を書くたびに、幸せが目減りして行く。

332
同世代だから知ることのできた詩人って、いる。時代を超えることはできない。でもその時の震えは見事に表現している。そのうちキレイに忘れさられる詩人達。ヒット曲ではないけれども、アルバムの中に収められている洒落た一曲のように。詩はたぶん、同じ空気を吸った人でないとわからない湿度を持つ。

333
鉛筆をHBから2Bに変えたら、違った詩ができたことがあった。四百字詰から二百字詰めにしたら、楽に書けたことがあった。モノを書くってホントに繊細な行為だと思う。最近はPCでしか詩を書かないけど、たまにノートに戻してもいいのかな。取りこぼしてきた別の自分に再会できるかもしれない。

334
昔、H氏賞の選考委員をやったことがある。最後の所で、候補Kさんの詩集は賞を逃した。選考会の帰り道、電車に乗ってからも後悔をしていた。凄い詩集だったのにとKさんはその後も、素晴らしい詩集を次々に出版した。あの時賞を逃したのは、実は選考委員の方だったのかもしれない。

335
個性が邪魔をして伸び悩む詩人は少なくない。個々の作品の出来の良し悪しを、強い個性が打ち消してしまう。つまり、どれを読んでもその人が書いたということで感想は終わってまう。個性から抜けたくても抜けきれない時は、眼差しを高く持って個性ごと軌道修正をする。つまりは開き直れということ。

336
詩への思いは強いけど、いつも正面から表現するだけで工夫がない。ちょっと言葉を折り曲げれば詩は別の世界を見せてくれるのに、そんな技術は持ち合わせていない。来る日も来る日も真っ正直な詩ばかりが出来てくる。でも、そんな無骨な詩人のその先こそを期待したい、というのはキレイゴトだろうか。

337
詩を書くとは、

ありふれた言葉を味わいなおすこと。

繰り返される挨拶と毎朝あらためて向かい合うこと。

言葉の顔かたちが見えてしまうこと。

どんな言葉も恥ずかしくて、うつむいて何も言えなくなってしまうこと。

338
同じ日本語なのに、この詩人が扱うとどうしてこんなに素敵になるのだろうと思うことがある。材料としての単語も特別なものではないし、構文もありふれている。それなのに、その詩人の手捌きが言葉を別の色に染めてしまう。優れた詩人はまるで手品師のようだと思う。心にいつも白い鳩とウサギを育てる。

339
ポエムという言葉は単に詩を英語にしたものだけれども、最近は詩をからかって呼ぶ時にも使われる。軟弱で、自分の切なさと好きな人への思いを夢見心地で描いただけの詩だというのだろうか。いいじゃないかポエムで。どんなからかいを受けようと、その夢見心地が君の生命の、手がかりであるならば。

340
分かってもらいたいけど、大体は独りよがりの詩ばかり書けてしまう。どうして同じ人が同じようにして書いたのに、たまにひとに繋がるものができてくるのだろう。詩を書くって進化の仕組みに似ている。ありふれているうちに、その端っこに哺乳類の指が生えて、突然変異のように読者を掴む。

341
駅に着く前に発想が浮かんで携帯に打ち込む。落ち着いた所でさあじっくり完成させようと思ったが、なぜかまとまらない。さっきの興奮はなんだったのだろう。諦めたところに別のちょっとした発想がやってきて、詩が簡単にできてしまう。もし最初の発想がなかったとしても、この詩は生まれたのだろうか。

342
詩の質だけではなく、量も才能の内だと思う。毎日書けるだけの能力は誰にでもある。それを信じてあげる。自分の能力を侮ってはいけない。思っている以上のことはきっとできる。自分の才能を信じることなしに、詩作なんてできない。よいものを沢山生み出すためにわざわざ生まれて来た。単純なことだ。

343
別になにをしたいわけでもない、好きな人がただ近くにいるだけでワクワクする。別に読む時間があるわけではない、それでもバッグに好きな詩集をしのばせるだけで違った時間が流れる。当たり前の世界に住むありふれた自分ではあるけど、バッグに手を入れて、いつでも詩集を握れるという震えは忘れない。

344
詩の雑誌を電車の中で広げている人は滅多にいない。たまに見つけると一体どんな人だろうと見てしまう。それでも詩の雑誌のすごいのは、女子学生の膝の上でも文学博士の膝の上でも違和感がないところ。詩の雑誌がどんなふうにでも受け取る人によって変われるのは、一篇の詩を体現しているようなもの

345
自信を失った詩人は、自信を失った綱渡り芸人よりもましだろうか。足を踏み外して落ちるのは、せいぜい言葉の隙間くらい。

自信を失った詩人は、さて一日をどうしよう。この世で一番下手くそで不幸な詩人を探し出して、安堵のため息つくくらい。

自信を失った詩人は、優しくその日に栞を挟む。

346
私は逃げる姿を2度も曝したが、詩は途切れることなく書き続けていた方がいい。先が見えなくなっても、同じようなものしか書けなくても、詩はいつも書いていた方がいい。どうしても辞めたくなったとしても、辞めると宣言しない方がいい。ただ立ち尽くして、次の詩を待っているふりをしていればいい。

347
詩を書く能力とは驚く力だと思う。今ここにあることに腰を抜かすほどに驚けるか。目が覚めて最初の息が入り込むことに驚けるか。詩を書く能力とは気の利いた言葉を繰り出す力ではないと思う。生まれてきたことに、いつまでもビクビクしていられる心だと思う。

348
詩はどこにでもある。通勤時の車内アナウンスの寂しげな一言にも、地下通路の電気の切れた化粧品の広告板にも、車窓から垣間見られる空の切れ端にも、隣でスマホに俯ける疲れた顔にも、降車駅でつり革から剥がされる指先にも、扉に書かれた指詰めに注意にも、詩はいつでも、あふれるほどに襲ってくる。

349
昨夜書いた詩を読み直していたら、最後の行から虫が走り出すのが見えた。虫のことなんか書いていないから、自然と湧き出たのだろう。虫の湧く詩を自慢していいものかひた隠しにした方が良いのか。これで詩集を出したら、どれほどの虫が頁を跨いで往来するのか。

350
昔、雑誌の新人特集のために詩の依頼を受けた。しかし、雑誌が出てみると、十人ほどの新人の作品が並んでいるが、私の詩がない。編集部に聞くと、没になったという。ショウモナイ詩だからだと。読み直してみたら確かにショウモナイ詩だった。私の詩は大抵その境目にあるのだと、それで知った。

351
自作品と適度な距離を保つことは容易ではない。何しろ自分から出てきたものだからかなり密着している。密着しているから正しく観ることができない。腕を伸ばしたきれいな距離に置いてみる。他人のように読んでみる。トンデモナイ詩を発表してつらい思いをする前に、詩を抱きしめていた腕をまず開く。

352
当たり前ではあるけれども、君の才能を育てられるのは君しかいない。自分はこれくらいのものだろうとたかを括らない。生きていることの意味を真面目に受け止める。自分のところにあてがわれた人をしっかりと育てあげる。手を抜かない。信じ切る。一生青くさい想いに包まれている。

353
中学校で習う英単語だけで英会話ができるように、詩を作るためには、それほど多くの単語はいらない。身の丈にあった気の合う言葉がいくつかあれば、それが素敵な詩を作ってくれる。辞書を引かなければ意味のわからない言葉を詩につかうのは危険。君の詩であって、もう君の詩ではない。

354
発想に2種類ある。

1つは言葉に引っかかりを感じる時。詩はその言葉を源にして生まれる。そのような詩は大抵上滑りする。

もう1つはこの世の成り立ちに違和感を覚える時。こちらはその違和感を言葉に変換する必要がある。ただ、その変換は思ったよりも容易にできる。詩の技術があれば。

355
岩成達也の微細な構造のひたすらな描写は詩の特異な体験を齎す。まるで顕微鏡で結晶を覗いているようだが、読者が感銘を受けるのは、プレパラートの上の対象物ではなく高価な顕微鏡そのものに対してだ。岩成達也を読むとは、個々の詩を読むのではなく、詩へ向かう方法にうっとりすることに他ならない。

356
詩の評論に秀でるためには、詩を読んでいてはダメ。詩の評論をひたすら読むこと。

詩の評論を読むと、詩が書けなくなる。詩を書くことが面倒くさくなる。

何も知らなければ詩は書けない。でも、何かを知ると詩から遠ざかる。

357
気がつけば編集者は私よりもずっと若い人になっている。私にとっての歳月とは、会うごとに若くなって行く編集者のことなのかもしれない。

あれだけ分かっているのだったら編集者が詩を書いた方が手っ取り早いだろうと思った。コーヒーのこちら側で間違いのような詩を渡した日から。

358
すごく感動したことは、なかなか詩に表現できない。完結した事象は手に負えないということ。もっとわけがわからなくて、自信がなさそうでいて、叱りつけたくなるようなことを、冷静に言葉に置き換える。詩を書いてあげて、やっと一人前になれるようなコトを探す。たぶん探さなくても、すぐ近くにある。

359
人より秀でたいと思っている訳ではない。書いたものが読むに値するなんて思い上がりはしていない。ただ、何もない所から詩を作り上げることのできる自分を誇りにして、何が悪いだろう。出来上がる過程に身を添わせ、誰のものでもない私の言葉を生み出せる日々を持てることに、激しく感動をしていたい。

360
ただ元気の出ない日ってある。そんな日は、独りになって自分のことを考えろよというお達しなのかもしれない。あれを早くやらなければとか、あんな所がダメなんだと、自分をあげつらってしまう。だったらそのついでに、そのままの言葉を導いて、素直な詩をつくってしまう。そんな時にしかできない詩を。

361
いうまでもなく詩は、どこそこの会に入っている詩人だからとか、なんの賞を受けているからとか、どんな有名な出版社から詩集をたくさん出しているからとか、高齢だからとか、押し出しが強いからとか、むずかしくてわからないことを言ってくれるからとかで、判断してたら悲しくなる。

362
詩を書くことは過激な行為だから
その行為に突き進むためには覚悟が必要

詩人の思い通りに通じても危険だし
常に読み違えられる可能性だってある

どんなに他愛のない恋愛詩でも
詩人は身を滅ぼしても詩を守り抜く覚悟が必要

363
いつまでも進歩のない詩を書き続けていていいのか。あるいはきっぱりやめてしまうか。そんなふうに悩まない詩人はいない。

でも、とにかく一篇書き上げているさなかは、まったく新しい局面を携えているのだと興奮してしまう。

書き終えた途端に、また慣れ親しんだ同じ悩みに帰ってゆくのに。

364
自分の詩についての感想を聞くのはつらい。どうせ分かって貰えないだろうと思っているから。でも、そうとも限らない。読者によっては、詩人が意図していることなんかとうに承知していて、その先を考えてくれてさえいる。詩の世界って、捨てたもんじゃない。

365
洗った手を乾かそうと、風の出てくる装置に手を差し伸べても、私の時だけ作動しない。

組み立て家具が送られてきても、必ずネジをひとつ無くして、まともに完成できたことがない。

生きることにつくづく不器用だと思う。

でも、と思う。不器用でも詩は書ける。

不器用だから詩は書ける。

366
傑作にしたいなんて贅沢な望みはない。とにかく何かが書ければそれだけで与えられた気持ちになる。だから書けることって、正面から見つめられるものではない。通りすがりに見かけた記憶の後ろ姿だったりする。わたしの枝葉の先っぽにうっかり引っかかってしまった、その時の寂しさだったりする。

367
近い党派ほど激しく憎み合う

性格の似ている人ほどぶつかると手に負えなくなる

好きだったものほど顔を背けたくなる

詩を書かなくなったのも
同じ理由

詩のことは考えないし
読まないし
書かない

それでも立派に生きて行けたのが
なんとも情けなくて
しかたがなかった

368
自分よりも優れた人はいつだっている。
だからって黙っている必要はない。

自分なんかが書く詩になんの意味があるかと悩むことはない。
選ばれなかった者だけが書ける世界があるはず。

書いた詩を嘲られることを恐れることはない。
嘲られる詩を書き上げることの困難さを知っているから。

369
普通の声の大きさで説明するのなら、わざわざ詩を書く必要はない。

涙ながらの叫び声か、絶え入るような囁きで、詩はありたい。

メロディーやリズムがことさら必要だとは、思わない。

でも詩は本来、歌であることを、どこかで切なく思い出したい。

370
書いた時にはそれなりかなと思っていて、発表した後でひどいデキだったとわかることがある。どうしてはじめからわからなかったんだろう。元気がなくなって自信を失う。でもそれって悪いことばかりでもない。自信を失った回数が詩人を深くする。うまく書けないことのつらさが入ってこそ詩は本当に輝く。

371
当たり前のことを当たり前の場所に静かに置いてあげる。そんな詩を書いていたい。

なんでもないことになんでもないことの尊厳を思い出させてあげられる。そんな詩を書いていたい。

豊かでないそのことが極上の豊かさであるような、そんな貧しい詩を書いていたい。

372
優れた一編の詩を書くためには、100編の駄作を必要とする。

ところで君に似ているのはたいてい、100編の駄作の方だ。

優れた一編は、もう君のことなんか振り向かない。どこかで楽しく暮らしている。

次の優れた一編に繋がるものは、なぜかその100編の駄作の中に隠れてある。

373
昔書いた詩を読みすぎると、書けなくなる。自分に酔ってしまうから。前の詩の続きを書くわけではないのだから、昔の詩なんかに頼らない。そもそも昔の自分って、なんだ。せいぜい遠い親戚のようなもの。読むべきは、これから書こうとしている詩。まさに血を注ごうとして、肌に触れている詩。

374
世界が震えるような詩が書けるとは思わない
でも
できあがった詩を差し出す手は
細かく震えていたい

大きな悩みがない時は
ちょっとした悩みが気にかかる
こんなの悩むほどのことでもないのにと
結局一日中
囚われている

ずっと待っていたのに
いざ咲き始めると
興味を失う

375
人と会うのは面倒。気を遣わなくてはならないし、たまに傷つくことさえある。それでも部屋から出たら出たなりの、光るものを抱えて帰ることができる。詩の教室になんか行かなくても詩は書ける。でも、どんなものかを体験してあげてもいい。何よりも君の詩のために。詩の教室、まだ空きがあります。

376
投稿欄の選者が変わると、採られる詩の傾向も変わるのじゃないかって考えた。無理もない心配だけど、そうではなく、もっと根本の、詩に惹かれる理由を思い出すべき。ひたすら詩のありかを深めることに集中していればいい。投稿欄は夜の車窓に流れる通過駅。気にかかるけどたどり着く場所ではない。

377
詩が上手くなってくると、つい長い詩を書いてしまう。どの部分もそれなりに気が利いているから、いくらでも書けてしまう。何かを書いているというよりも、なんとなく気持ちのいい言い回しを続けている。それでも大したものだとは思うけれど、たまにはクッキリとした形の、短い詩も書いてほしい。

378
事情があって昔出した詩集が必要になった。しかし手元にはない。図書館に行った。

「書庫のこの本の複写をお願いしたいのですが」
「はい、でもこの作者の著作権問題がありますし、生きているかもわからないですし」
「いえ生きています」
「どうしてわかるんですか」
「ここに生きています」

379
最近の現代詩手帖の投稿欄の詩はどれもすごい。文芸って、いつの時代も進歩のない世界だと思いがちだけど、必ずしもそうではない。昔の選手が4回転ジャンプができなかったように、詩のレベルも間違いなくあがっている。昔の単純な叙情に惹かれるのも、それはそれでわからないではないけれど。

380
この言葉は面白いなと感じる。その言葉を膨らませて詩を書こうとする。上手くいかない。はじめに感じた「面白いな」に捉われすぎているから。でも書こうとする気持ちはすでに高まっている。詩にはならなくても、その言葉が詩の方へ連れて行ってくれた。それだけでも有難いと思う。あとはじっと待つ。

381
人の詩が上手く見えるのは、選りすぐったものしか目の前に出てこないから。でも自分の詩は、無惨な書き損じも含めて知っているから、比較にはならない。書き損じの詩のレベルを上げる必要はない。自分しか見ないのだから、なりふり構わない。普段着の幼稚な語彙でいい。そこから、よそゆきに着替える。

382
詩を書く時って、頭の中は熱くなっているから冷静な読みができない。かといって、冷静な気持ちのまま詩を書くこともできない。書くことと読むことはなかなか同時に同居できない。堀川正美は壁に詩を貼って眺めて直したという。いったん自分から引き剥がす、冷徹な工夫が必要なのだろう。

383
もっと肩の力を抜いて楽しめばいいのに、いざ詩を書こうとすると身構えてしまう。訴えたいことは全部言い尽くしたいから、いつも複雑になってしまう。垢抜けていない。不器用すぎる。こんなのいくつ書いたって何になるだろう。それでも悲しいかな、書かずにいられない。程度の差はあれ、みんなそうだ。

384
あらかじめ何らかの知識や思想を知らなければ読み切ることのできない詩って、ある。素直に読んでいるだけでは核心にたどり着けない。待っていたら詩が謝って変わってくれるならいい。でも人生そんなことはない。読者が努力して読む。その努力の間に、それまでの詩の理解の狭さに気づくこともある。

385
若い頃に私は何をしていただろう。ある時期の写真がごっそり無くなっているアルバムのように、うまく思い出せない。若さは私に似合わなかった。早く青春が去ってくれないかと、息をつめて待っていた。若さ不適合は治しようがないと知っていた。詩だけが、その時期の私をやさしく理解してくれていた。

386
学習を怠らないでいることは大切。多少面倒でも学んだだけ明るくなることがある。でも、言いづらいけど、すぐれた詩が書けるかどうかというのは、どこか別の所で決まってしまうような気がする。それは人の触れられない領域の問題であり、あるいは辛いけど、持って生まれた要領のよさによったりもする。

387
ただ、そうも言えないこともある。ある時から急に詩が伸びて、別次元へ移って行く人をこれまで何人か見たことがある。何かを掴んだのか、与えられたのか。そういう人ってたいてい詩が好きで仕方がない人。昨日言ったことと矛盾しているのは知っている。だから人智を超えている。

388
詩が書けなくなった時は、寺山修司の少女詩集を取り出す。甘ったるいその言葉の粒を眺めていると、たいてい泣けてくる。この世には詩というものがあったのかと、初めて知った日のことを思い出す。その時に胸に入り込んだ冷たい空気を感じることができる。詩は難易度を競う競技ではないと、叱られる。

389
現代詩は今、様々な有りようが並列的に存在している。江戸川橋近くの喫茶で、その人は語っていた。ビジネスの世界ではそういうのを、サイロと言う。見渡す限りの平原に、詩のサイロが空へ向かって建っている。美しいじゃないか。伸びやかじゃないか。それぞれが豊かに、立ち尽くそうじゃないか。

390
たまに、いつもよりずっと上出来の詩が出来上がることがある。神に感謝して、ウットリと見とれるほどだ。でも、仲間に見せると、好評ではあるが、反応はさほどではない。そういうことって多々ある。自分の作品の評価については、いつも大げさに振れる。振り落とされることさえある。

391
わかるわからないというよりも、読んでいるソバから流れていってしまう詩がある。水のようだ。ならばと、一行一行区切って読んでも、何も残ってくれない。目の前に言葉は豊富にあるのに、読者へ届くのを、詩が手を突っ張って拒んでいるようだ。その姿勢なら確かに読める。現代詩って時折、厄介。

392
夜の犬の散歩では、目線は自然と上へ向く。まんまるではなかったけど、いい月だった。いい月だったからなんだろう。なんでもないけどそれでいいんだ。理由のないことの方がいつだって信用できる。目が覚めたらそれだけで祝われた気分。難しいことじゃない。グッと来るかどうかだ。人生も、詩も。

393
書けない時は、好きな人に手紙を書くつもりで書き出すといいと考える。でも、やってみるとうまくはいかない。

あるいは昨日見た夢の奇妙さなら、書けるんじゃないかと思う。でも、人にはそれほど奇妙には感じられない。

結局、詩を書くぞと、正面からぶつかるしかない。一番困難な方法を選ぶ。

394
思い入れが強い詩はなかなか完成に至らない。あと一息なのだが、どうも一人前の姿にならない。出来た感じがない。満たされた感じがしない。どこか、無理な恋愛に似ている。そんな時はいったん手放す。自然でないものはいったん離れる。月日が経って、ひょんなところでまた巡り合って、それからの話だ。

395
ツイッターのための文章を書いていると、文字数が制限を超えてしまう。そんな時は、たいてい頭の文章を削る。走り高跳びではないのだから余計な助走はいらない。むしろ書き出しの屁理屈がない方が大切な部分が際立つ。自分に合った行数を見つけてあとはバッサリ捨てるのも、詩作の醍醐味。

396
詩を書くために周りを気にしない。詩の状況はどうだろうとか、詩の世界で生き延びる方法とか、考えるのはくだらない。とにかく自分の詩といつも二人きりでいる。夢中になっている。辺境の果てまで行って、そこで住む。そうすれば状況は君を訪ねてくる。ともかく君を生き延びることができる。

397
ベランダの植木にたっぷりと水をあげておいてと言われた。

「たっぷり」という言葉が新鮮に聴こえる。鉢の縁から温かい水が溢れる素敵な響だ。

たっぷりと呼吸をしながら考えていると、私という器からも溢れだしてくるものがある。

詩を書くって、溢れてきたものを優しく、掬い取ること。

398
デキソコナイの詩は、丸めてゴミ箱に捨てられる。

でもデキソコナイでない詩なんて、どこにあるだろう。

どんな詩も、程度の差はあれデキソコナイ。

そう思ったらキモチが軽くなる。

軽くなってもデキソコナイ。

デキソコナイはデキソコナイ。

399
書き上げた詩と、ことあらためて向かい合うことは普通ない。書いている時に全力を尽くしているわけだし、それで充分。でも、自作について何も言えないなんて、情けないし、ありえない。言葉で言葉を説明するって、無駄ではない。どうしてそんな詩になったのか、たまには真摯に自分に聞いてみようか。

400
もちろん詩の剽窃はまずいけど、好きな詩人の詩に似てきてしまうのは避けられない。フレーズではなく、志を真似る。生きるってそもそも、憧れている人のあとをついて行くことだから。呼吸だって歩行だって眠りだって愛しかただって、うまくできる人をうっとりと見つめてしまうのは、仕方がない。

401
詩集は、布団に入って読み終わって眠れるくらいがいいと、言ったのは郷原宏。

ぶ厚い詩集は詩集らしくないという意味とともに、途中で眠くなるような詩は書くなよと、そうも言っているのだろうか。

確かに読みかけの詩集を膝に乗せて、気持ちよく眠ることはよくある。この季節のせいではなく。

402
画面が上へ流れてゆくテレビ、音が揺れて聞こえるトランジスターラジオ、パンが焦げるトースター、すっぱいミカン、渋い柿、あおっぱなを垂らした子供、吸い殻だらけの道、汲み取り式トイレ。

時代そのものが仕掛品だった。その頃に私は詩を書き始めた。すぐれてきれいなものは、だから歌えない。

403
机に向かって本を読むことだけが詩を学ぶことではない

この世に生まれ出た時の驚きを忘れない

あらゆるものにウットリとできる心を保つ

だから家族とテレビを観ながら口を開けて笑っている時にも 詩はそばにいる

普通を普通のまま際立たせる詩を
しっかりと書きたい

404
こんな時にはだれでもこんな感じ方をするものだなって、思うことがある。感覚って均一でつまらないと。でも、ほぼ同じでも、細かく見ると人それぞれ違う。君の思いはほかの誰の思いとも別だし、かけがえのないもの。その細かい違いをなんとか分かりたいというのが、詩を書くということなんだと思う。

405
いつもと違ったタイプの詩ができてしまうことがある。いつもの詩なら扱いも分かるが、この詩はどうしたらよいのだろう。もしかしたらとんでもない傑作とみなされるだろうか。あるいはただの笑い者にされるだろうか。目をつぶって発表してしまおうか、やめようか。できてからの方が、疲れてしまった。

406
数日前の夕方、テレビから中原中也の詩の朗読が流れてきた。解説者が的確な分析をして司会者は泣いてさえいる。有名な詩だが、ほとんどが単純な詠嘆詩のように聴こえた。私も中也病の一人だが、あのようにまっすぐに歌い上げることはもうできない。そう考えることこそが、時代に侵されている所以か。

407
詩を書くことはいつも
きれいな問を提出すること

明解な答を導き出すことじゃない

生まれてきたら
こんなことさえ分からなかったのだと
恥ずかしげに表明すること

もどかしさを掻き抱くこと

詩を書くことはいつだって
美しい問を吐き出すこと

完璧な答をもとめることじゃない

408
どんなに短い詩でも、最後に来るとまとめたくなる。まとめることはゆるむこと。だから詩を書いたら、あえて最後の連を削除する。そうすれば緊張のままで詩は残る。でも削除された最終連が、引き出しいっぱい溜まってくる。いつか最終連をつなげて、たった一人の映写会。

409
書きあがったけどくだらないなと思った詩は、でも捨てない方がいい。君自身を捨てないように。くだらないのは単に、扱う手さばきの問題だから。しばらく経ってあらためて見直せば、どうしてあげたらよいのかがわかってくる。よい部分だけ抜き出せば、いつか別のみずみずしい詩ができる。

410
昼ひなかも堂々と家にいるので、倉本聰の「やすらぎの郷」を毎日観ている。どこが面白いのか分からないまま、さらに観たいという気持ちが湧いてくる。詩も同じか。明確に説明できる良さは、漠然とした良さにかなわない。鋭く胸をうつ魅力は、そう感じられた時点ですでに限界を持ってしまう。

411
詩を書くとは
いつもの考えの道筋とは違った道を探すことだ

自分の考え方を裏切ることだ

下へ流れてゆく水を強引に上へ向かわせることだ

自分の詩の中に他人の思考を見いだすことだ

私らしさを嫌いになることだ

自分の詩をはるかに遠く
よそよそしく感じることだ

412
詩を書く喜びは、人から褒められることにはない。発想を得た時の、心の小さな震えにある。

日々の瑣末な出来事のほころびが貧しい感覚に触れてゆく。この違和感はなんだろうと俯いた顔の奥で思う。

ある瞬間に、その違和感が一粒の日本語をとらえる。

これほどの喜びを、私は他に知らない。

413
すぐれた詩ができた時は、全身が鞭のように鳴り響く。

「小さい秋みつけた」を書き上げたサトウハチロウは、深夜の廊下を走り回った。

でもたいていの詩は、私自身のようにそれほどのデキではなくて、静かに完成される。

私は詩をなぐさめるために書き、詩は私をなぐさめるために生まれる。

414
感動もなく生きていては
よい詩なんか書けるわけがない

生きることに慣れてしまわない

今ある自分にドキドキしていたい

新鮮な夜があけることを当たり前と思わない

人を見つめることができる仕組みに涙ぐみたい

与えられた日々のひとつひとつに
あらためて驚いていたい

415
ほとんどの人は若い頃に1つか2つの印象的な詩を読んで、あとは生涯詩に触れることはない。だから時折「現代詩にもヨシアシはあるの?」というすごい質問に出会う。答えるのもつらいし、そんなの詩に答えてもらうしかない。明らかなのは、詩を読む人だけのために詩はあるということ。

416
「私は可能性の中に住む」と書いたのはエミリーディキンソン。これまで不器用な詩ばかり書いてきても、今日どんなものが書けるかを、私もカミサマも知らない。谷川俊太郎にはなれなくても、谷川俊太郎の一編ほどの詩がひとつ書けるかもしれない。そのことの想いの強さが私を救ってくれないはずはない。

417
詩の価値は長さに拠らない。詩を書き始めの頃は、とにかく短い詩をたくさん作る。10行以内で勝負する。小刀ほどの長さの詩行の、先端をひたすら尖らせる。読者にどこまで入り込めるかだけを考える。血管のように詩行がかけめぐる、逃げ場のない短詩を目指す。

418
自分の袋から自然とよいものは出てこない。学ぶことが大切になる。詩集のコーナーの充実した図書館に行く。これまでに書かれた日本語の見事な短詩を片端から探す。見つけたら、あたかも自分が書いたもののようにして心を込めてゆっくりとノートに書き写す。どうやって出来上がったのかが、見えてくる。

419
片想いほど崇高な愛はない、という言葉がある。それってたぶん、異性に対する想いだけではない。詩に対しても、生きることに対しても、きれいにあてはまる。いつもひたすらな片想いでありたい。詩を書こうとしてうつむく瞬間にも、目覚めてまだいつもの私をやっているのだと気づく時も。

420
ありふれたことしか思い浮かばない。これでは今日は詩なんか書けないな。そう思うことってある。でも、そう思うことが詩を書くための通り道でもある。ありふれたものの心が分からなければ、ありふれていないものを生み出すことはできない。だから堂々と、ありふれた発想に身を浸す。

421
履歴書の資格の欄に「詩作」とは書けない。でも、詩作にも簿記や英検のように身につけておくべき基礎がある。乗り越えなければならない明確な基準はある。そうでなければ充分な表現にたどりつかない。いつまでも同じ場所に安住して詩は書かない。日本語をよそよそしく感じることなしに詩は書かない。

422
読者はこれくらいで満足するだろうと
タカをくくること

手垢にまみれた感覚を
誰でも好きな叙情だと勝手に思い込むこと

誰でも書ける詩を
自分だけの世界だと思い込むこと

思い浮かぶことを優しく書けば
簡単に詩になるのだと思い込むこと

時々点検し
安上がりな詩と私を排除しよう

423
自分ができることは急には広がらない

与えられた才能は取り替えがきかない

でも
自分ができることはもっとあるはずだと信じる

そう信じることなく
優れた詩は書けない

もっと自分にしつこくなる

もっと自分に嫌われる

私はこんなものではないはずと
そこだけはワガママを通す

424
自分の型にはまりすぎていて
詩が面白くない

いつもの流れで書き
いつものまとめ方で終わっている

そんな時は
詩の後半を捨てる

そこから
どんな曲がり角があるかを探す

立ち止まって考えれば
無数の小路が見えてくる

優れた詩は
見知らぬ街を歩いてきたような足の痛みを持つ

425
命が永遠に続くものなら
詩なんか書きはしない

命に果てがあるから
その折り返しが輝いてくる

「命がなくなったら生も死もなくなる」
と書いたのは寺山修司

生も死もないということは
私たちはすべてを持つということ

その感動を見つめるために
詩を書く

426
昨日の教室で話したのは、詩にも2種類あるということ。両腕を伸ばして読む有名な詩人の詩と、隣に座る級友のささやかな詩。どうして同じ時に同じ場所にいる人の詩は、こんなに深く染み込んでくるのだろう。同時代に濡れ、同じ場所に溺れることの恍惚。詩は何人に読まれるかを、問題としない。

427
もう一つの話は「自分の声を聞こうよ」ということ。講評を聴いているだけではなく、ともかく声を震わせたい。感想を言おうとすると、感じていることを言葉に置き換えることの困難さに戸惑う。もどかしく感じる。そのもどかしさが、詩を書いている時の「思い」と「言葉」の隔たりにそっくりだから。

428
詩を書く人や読む人は
言葉に選ばれた人

だから詩が書ける自分を粗末にしない
詩が読める自分をぞんざいに扱わない

水中で生きて行くための水かきが
進化の過程でできてきたように

詩を書く人や読む人は
言葉の奥行きに触れる水かきを

てのひらのなかに
育ててゆく

429
詩の教室で話したことは、詩の教室がなければ考えなかったこと。不思議だと思う。どこかへ行くという行為が、私にものを考えさせる。

部屋の中でじっと詩を考えていても、出てくるアイデアは堂々巡り。どこか別の場所が、詩を与えてくれる。

世界の広さだけの詩篇が、私を待ってくれている。

430
人の言葉に傷付きやすい人は
自分を言葉で慰めるすべを知っている人

自分を言葉で慰めるすべを知っている人は
まわりを言葉で隙間なく包み込める人

人の言葉がうるさく感じられる人は
自分の中が静かな人

自分の中が静かな人は
言葉と沈黙をわけへだてなく受け入れられる人

431
ひとりきりの時は恥ずかしがらずに思い上がっていたい。

日本語を忘れた人のような詩を書いていたい。

熱い思いが見破られそうな恥ずかしい詩を書いていたい。

どんな自分も好きなのだと悟られても平気で詩を書いていたい。

でも、だれにも勝たずに一生を終えたい。

432
なぜかわからないけどワクワクしていて、自分を抑えられない時がある。そんな時に詩は書けない。

ひどく気になる心配事があって、思いは常にそっちへ向かってしまう。そんな時にも詩は書けない。

詩が書けるのはなんでもない時。なんでもない自分を、少しだけそうでなくするために書いてみる。

433
さんざん悩んで一篇の詩を作る。苦労した作品だから大切にしたいけど、行間に疲れが滲み出ている。そんな時に、別のアイデアが浮かんであっという間にもう1つの詩ができてしまう。あっけないほどで、苦労知らず。でもどうしても愛着がわかない。才能を超えてしまった作品は、自分のものに思えない。

434
朔太郎を読んで思うのは、詩を書くというのは扱える日本語をどれほど集められるかにかかっているのだということ。蛤とか犬とか地面とか竹の根っことか、1つずつ見つけて詩の囲いの中に入れて行く。挙句に商業とか貿易とかも調教できるのだと思いついた時には、どれほど震えたことだろう。詩作は投網。

435
詩を書くことは人との勝ち負けではない
ただ
せっかく生まれてきたのだから
より鮮やかに生きたいと思う

生まれてきた身体の形は変えられない
でも
生きる姿勢はなんとでもなる

私なりに
どれほど地べたから持ち上がることができるか

涙ぐんでまでも願う願いは
たったそれだけ

436
自分はだめだ
欠けているものが多すぎる
人の詩を読むとその見事さにため息がでる

詩は好きだし
よく読むし
毎日書こうと努力はしている

でも
出来てくるのは誰でもが考えつくありふれた詩ばかり

と そんなふうに考えている人だけが
いつかホンモノの詩人になれる

信じていい

437
自分の足りないところを全部埋めようなんて
しなくていい

図書館の本は全部は読めないし
分厚い雑誌は読み切る前に次号が出てくる

できないことはできなくてもいいのだと
そんな簡単な助言さえ聞けなくなったら
自分の所にしばらく帰る

まわりを温かくして
詩はもう書かないほうがいい

438
ある詩人の下書き用のノートを見せてもらった。くだらない詩の断片が書いてあった。でも、いつも出来上がってくる詩は信じられないほど美しい。あの断片のどこをどうしたらあれほどの作品ができるのだろう。詩作ってそんなもの。ありふれた自分から、のたうち回って際立った自分を紡ぎ出すことだから。

439
小学生の頃、同じクラスに吉村君がいた。吉村君は大人びた詩を書く生徒だった。ある時、吉村君が詩の中に 「新聞配達の足音を365回聞いたあと」と書いた。一年のことをそんなふうに言えるのかと、子供の私は感動をしていた。あれから配達の足音をどれほど聞いただろう。私は今も書いている。

440
まだ詩集を出したことのない人は、自分の詩を知っているとは言えない。バラバラな場所で佇んでいた詩は、集められると別の顔を持つ。独りでは目立たない詩が、綴じられると俄然役割を発揮する。すべての詩が詩人のためを思う。具体的なこの世の形を持つ。費やして来た時を、掻き抱くことさえできる。

441

友達は褒めてくれるし
ツイッターにはいいねがたくさん来る
詩を書くことは心地がいいし
心の安定になる
今のままの詩で構わない

そう思っている人はそっとしておく

でもある日
友達の言葉が疑われ
いいねの数が虚しく感じられたら
やっと自分の詩が
人の詩のように読めるようになる

442
単純なことだ。足が冷たいなと感じたら靴下を履く。自分の感覚を尊重する。

特に不満があるわけではないけど、この毎日には手ごたえがない、こんな私にも書けることがあるような気がする。そう感じる自分を尊重する。

生きて行くって、育てて欲しいと願う自分を、ごまかさないことだと思う。

443
「夢」とか「鏡」とか「眠り」とか
詩の入り口を容易に開いてくれる言葉がある

何も思いつかない時は
ともかくそこから書き始めてみる

手垢のついた言葉で遊んでいるうちに
モノを作る君が出来てくる

君を超えた人が
呼び出されてくる

掛け替えのない詩は
その人が書いてくれる

444
詩のためにもっと時間を
費やしたい

でも限りなく命があるわけではないから
いつも焦っている

焦ってばかりいるから
落ち着いて書けない

でも
それでいい

詩って
欠けたものがそのやり切れなさを表すものだから

限りなく命があるわけではないことに
じっと思いを致すことだから

445
何も表現しなくても清々しい人生は送れる

それなのになぜ
わざわざ自分の中身をさらけ出したいと思うのだろう

一篇の詩はひとつの恥ずかしさを生み
一行の言葉はひとつの後悔を生む

出来上がった詩を
人に見せてよいものかどうか

その悩みの中だけに
生きる震えを感じるようになる

446
死んでいることを忘れるな

書いたのは
細田傳造さん

つい忘れがちなのは
メガネの置き場所と
私がここに 生きていること

生きていることを
つい忘れて
生きていると
トントンと
背中をたたいて教えてくれるもの

詩を書くって
そういうもの

447
行替えは詩人の呼吸だと思う

思い入れの息さえ整っていれば
言葉は自然と折れ曲がる

もしも最終行が伸びていって
地平線にたどりついてしまったとしても
拾いに行かなくても
いい

そうさせておく

これまでの人生のように
曲がるべき時には
人がなんと言おうと息を詰めて
曲がる

448
ミュージカルとかオペラとか
現実とはかけ離れた所作だと思う

詩を書くという行為も
実は似ている

歌いあげる心がなければ
詩を選んだ意味がない

言葉の技術よりも
生きることにうっとりとできていること

胸熱く言葉を発していられること

穏やかでない優しさを
身に持つ

449
人の人生は引き継げないけど
詩なら続きが書ける

例えば谷川俊太郎の「かなしみ」

透明な過去の駅で立ち尽くした後に
君ならどうするだろう

とんでもない落とし物
って
いったい何だろう

しばらく試みて
この詩はとても引き継げないと
諦めをもつのも
今日の透明なかなしみ

450
書くことがないなんてありえない

書くことって
引き出しの中に整理してしまわれてなんかいない

むしろ引き出しの奥にたまった
埃のようなもの

生きていればいやでも日々の埃はたまってくる
四六時中降ってくる
感覚のオクソコをただ見つめる

書くことがないなんて
だからありえない

451
出来上がって発表した詩は
もう自分のものではない

でも書き損じの詩は
まだ自分のもの

デキソコナイでも
捨てないでとっておく

デキソコナイの息づかいを
真摯に聴く

デキソコナイを作ってしまう自分から
目を逸らさない

掛け替えのない発想を無駄にする生き方も
大切に思える心

452
すごいアイデアが浮かんで、これは連作詩ができるのではないかと夢は広がる。例えば商店街をテーマに、一軒に一つの詩を書いてゆけば、どんなに素敵な詩集が出来るだろうと思う。でも、夢は夢。連作詩を作ろうと思うほどの情熱で、一篇の詩に立ち
向かう。ずっとそうしていれば、別の夢へたどり着く。

453
一冊の詩の雑誌を読んでも
すごいなと思える詩はたいていひとつかふたつ
他の詩は
素通りしてしまう

自分の詩も素通りされるのは嫌だ
是が非でも読者の特別な一篇になりたいと
思う

その思いの深さが
君を特別な詩人に向かわせる

あまりに単純なことを言うようで
恥ずかしいけれども

454
長年書いてきたからこそ
詩がわからなくなってしまうことがある

そんな時には八木重吉にもどる
淀む前にもどる

言葉を煮たり焼いたりしなくても
詩は立派に出来上がるのだと思い出す

なんのために言葉が詩に使われるかが
そこには証明されている

八木重吉は悩む詩人の
薬箱でもある

455
同人誌は詩が整列をしているように見える

でも商業誌の詩はそれぞれがそっぽを向いている

多島海に浮かぶ都市国家のようだ

それぞれの大砲を雑誌の空に打ち上げている

読者は俯瞰する

それからそのうちの一篇に落ちて行く

詩を読むことは気を失う落下

456
昨日は神楽坂で友人と詩の話をした。詩は読んでいて、時に途方に暮れることがある。自分には全く響かない作品が他の読者には深く入り込んでいる様子。その落差は俳句や短歌の比ではない。一篇の詩の前で何の手がかりも与えられずに立ち尽くす。そんな佇み方に慣れてはいけない。どうにかしなければ。

457
詩人は時代とともにある
というよりも
詩人は同人誌を通じて時代とともにある

一人では体現できない時の波を
同人誌が揺りうごかす

あるいは
詩人は時代を無視する
というよりも
詩人は同人誌を通じて時代に鈍感になる

一人なら触れて来る時の波から
同人誌が目を閉じさせる

458
詩は時間をかけて読む。一冊の詩誌には様々な定義の詩が並ぶ。これらをいちどきに読み通すのは無謀。一篇を読んだら、次の詩は気持ちを整えてから読む。生まれて初めて呼吸をする時のように、次の詩の一行に向かう。特に優れた詩に出会ったら、しばらくは何も読まない。その詩の中でじっと生きる。

459
優れた同人誌には
優れていない詩人もいる

でも不思議なのは
優れていない詩人も
その同人誌の中で
優れた詩を書くようになること

さらに不思議なのは
もともと優れていない詩人が書いた優れた詩は
優れた詩人の詩よりも
際立って優れていること

同人誌とは静かな
人の
孵化器か

460
自転車乗りと同じで
一度身につけた現代詩を読む能力は
いつまでも忘れない

若い頃には身を入れて詩を書いていたのに
年とともに離れて行く

詩は青年の文学だなんて
昔の話

年老いて再び書き始めることに
勇気はいらない

昔書いた能力は
そのまま残っているはず

詩は生涯の
文学

461
詩の教室で私は
君の詩についてありのままの感想を言う

でもその感想に君は
過剰に反応をしてはならない

次に書く詩の
向かう先をそのたびに変えてはならない

人の感想は別の
物置小屋にぞんざいに放り込んで置く

いつも同じような詩が書けてしまうことに
うっとりしていてかまわない

462
詩を書くために
あらかじめ身につけておくことなどなにもない
ことさら物知りでなくてもかまわない
人に誇れることなんてなにもいらない

ただひたすら
ひたすら詩のことばかり考えてしまう
そんな性分だったら
それでいい

詩を書くために
人に威張れることなんて
あってはならない

463
知らない詩人の詩は
読みながら
分類をする

まず一行目が
日本語を壊す詩人か
そうでないか

それから二行目が
前の行を引き継ぐ詩人か
そうでないか

この分類があることを
詩を読みなれない人は
理解できない

このスリリングな前段階は
おそらく詩以外では
経験できない

464
投稿した詩が落とされるのは
たいてい本人の問題だけど
選者の感性が届かないということもある

この選者ならわかってくれるだろうという期待は
往往にして叶わない

自分の詩と系統が似ているかどうかは
関係がない

なぜこの人が
という選者が君の詩を
望外にわかってくれることがある

465
詩を作っている間
私はどこへ行っていたのか

我を忘れるって
忘れられてどうしていたのか

どんなに独りよがりにできあがっていても
どんなにささいな思いを扱っていても

詩を作りおわって私は
どこから帰ってきたのか

出来不出来じゃない
捨てに捨てられない詩が私を見つめている

466
いつまでも終わらない詩を
書いてみたかった

最後の行が許しもなく
次の詩へ受け継がれてしまうような

「初心者のための詩の書き方」は
だから私にとって
紛れもなく詩へ吐き出された呼気

増殖し
掴むことのできない詩こそ
私の生涯

詩を書いていない時にこそ
詩人は多くの
詩を書く

467
頭の中で出来上がってしまった詩は
大したものにはならない

できたモノを
ただ説明するだけだから

詩は頭よりも
指先で考える

何を書きたいのかわからないけど
書きたくて仕方がない

そんな時がまさに
書いて良い時 書くべき時

指先が切なく言葉を生み出し
頭が脇で 節度を担う

468
どんなに詩のことが分かっていても
実際に書けるかどうかは
別の話

だから詩人は
学者とは違う

むしろ詩のことがわからないから
日本語の中庭に
迷い込むことができる

むしろ詩のことがわからないから
ざわざわしたものに
手を触れることができる

幼稚な質問を
呟くことができる

469
ツイッターに文章を書くようになってから
余計なことまで
書くようになった

文字数に制限があると
むしろ制限いっぱいに言葉を
埋めたくなる

あと8文字だけ書いていいのだと
示されると
意地でもその8文字で
この世を言い当てたくなる

470
詩と俳句は似ている

発想のつかみ方や
現実のありふれ方の恐ろしさ
意味の遠ざけ方など
驚くほど似ている

でも
俳句では並の作品しかできない人が
秀でた詩を書くことが
ある

自分の背丈は見えないもの

どの長さの言葉のために生まれてきたか
やってみないとわからない

471
ジャンルの成熟度は
評価の明確さに比例するか

俳句や短歌はかなり
その良し悪しを正確に計ることができる

でも詩は
まだまだ採点競技の域を出ていない

ジャッジの技量によって
優れた詩が負けることはよくある

どこかの国の
ボクシングの採点のように

472
形のないものを
見えるように描くのが
詩の役割だと思う

命のないものに
かすかな呼吸を始めさせるのが
詩の役割だと思う

威張った抽象語に
おのれ自身を具体的に語らせるのが
詩の役割だと思う

473
生きることに不器用だなと
感じている人は
詩人になれる

人に話をするよりも
人の話を聴いていたいと思う人は
詩人になれる

何かことが起きると
自分のせいではないかとまず思う人は
詩人になれる

自分を含めた人見知りは
詩人になれる

これが初めての人生の人は
詩人になれる

474
詩は自己表現のためにあるのではない

詩は精神を安定させるためにあるのではない

詩は逃げ場としてあるのではない

詩は選び取られるものとしてあるのではない

詩はそのありかを語られるためにあるのではない

つまり詩は
君とともに生まれ
君とともに
どこにもいなくなる

475
昨日の詩の教室で、桑原薫の詩を2編紹介した。「若い頃にこんなに素敵な詩を残して、この詩人は書くのをやめたようです。詩との関わり方は色々です。」すると参加者の一人がおそるおそる手を挙げた。「桑原薫は、実は私のことです。名前を変える前の。」驚いた。嬉しかった。全員から拍手がおこった。

476
先日の詩の教室で
「私は自分のために詩を書いている」
という人がいた

誰のために詩を書くかなんて
長い間考えたことがなかったから
思わず顔を上げてしまった

自分だけのために
(生きてゆくために)
よりよい詩を書こうとする

生涯のただ中
しっかりと私を守り抜くために
詩を書く

477
人を一人好きになるということは
つらさをひとつ心に貯めること

それでも朝がくれば
生きてる息苦しささえいとおしく
詩と背中合わせに
暮らしたくなる

478
読者をケムに巻いているうちに
自分もなにを書いているのかわからなくなる

それも詩といえるかといえば
悲しいかなそうなのだけど
私はそうしない

底も天井も見え見えの詩を
書いていよう

無防備で
あけすけで
堂々と幼稚であれ

自分の才能にうんざりするから
書き続けられる

479
詩の教室では通常の批評はしない

心掛けているのは
提出された詩が何を求めているかを察知すること

教室で詩は順位付けをされない
不安な個々の詩はその先を導かれるためにある

詩に悩むのはやめる

何が書けるかをただワクワクするために
その思いを取り戻すために
教室はありたい

480
どんな言葉も相手を傷つける失言だと思う

いつも余計なことを 言ってしまう

言わなければよかったことばかり
寝る前には考えてしまう

そんな人は詩を書いてみよう

言葉で世界にきれいな傷口を
残せるのだから

傷ついていたのは
思い過ごしの自分の方だったことも
わかってくるし

481
詩を書くために
立派な言葉を探してこない

詩を書くために
よそ行きの考えを持ち出さない

詩を書くために
よりよい自分を見せようとしない

いつものテーブルの
いつもの頬杖

手垢にまみれた言葉に
あらためて出会いなおす

詩を書くためには
貧しい自分しかいらない

482
昨日は国会図書館で昔々の同人誌を読んでいた。気になるのは、今よりもずっと貧しい時代にこの人達はどうやって生き延びていたのだろうということ。詩を書くというのはお金が出て行く行為。生きることにも時代の詩にも適応できなかった詩人たち。それでも熱いモノを伝えてくる詩を、疎かには読めない。

483
できあがった詩が
幼稚に見えることがある

でも幼く見えるって
むき出しでありのままの表現であることが多い

飾り立てることが
技巧ではない

だから幼稚であることを
勇気をもって隠さない

自分の中に
何かがあるように見せかけない

それらしい詩を
目指したわけではないはず

484
戦前の詩を読んでいると
見開きに短い詩が3編も載っている

あっさり終わって
すましている

どうして詩はこの頃
長くなったのだろう

どうして詩は
書いても書いても書き尽くせない渇きを
垂れ流すようになったのだろう

自らの手で自らを
終えられなくなったのだろう

485
どんな文章でも
発表する時には躊躇う

自分が考えたことなんて
何の価値があるだろうと思う

書くことと人に見せることは
ホントに一連の繋がりなのだろうか

でも躊躇いがまさに
書くことの意味でもあるような気がする

わからないことだらけだから
書き続けていられる
生きていられる

486
詩を読むって
個人的な行為だ

だから
人より広範囲に読んだからといって
偉いわけではない

指し伸ばす指先を握ってくれた詩人から
読み始める

そこから辿っていけるだけの鮮やかな繋がりを
すでに日本の詩は持つ

むろん たった一人の詩人を読み続ける人生も
さわやかにある

487
特別なことを
書こうとしない

書けることを
書ける書き方で書く

知ったかぶりを
しない

いつも同じことを書いていても
なんらかまわない

大きく飛躍しようと
しない

だれかにわかってもらうことに
すがらない

とにかく自分の詩をしっかり分かってあげる
そこから始まる

488
指に指紋があるように
詩にもやさしい詩紋がある

言葉の溝の淵近く
作者の吐息が残っている

昨日は老犬に触りながら
どんな話をしようかと考えていた

指に指紋があるように
詩にもさびしい詩紋がある

勝野睦人と好川誠一
そんな話はどうだろう

本日は夏の中
それから私の詩の教室

489
だれにでもわかる詩を書きたいと
思うのはかまわない

でもそれによって
書きたいことを狭めるのはどうかと思う

だれかがわかる詩を
書いていたい

言葉に触れるたびに
恐いほどの震えを感じられる人

そんな読者と一緒に
詩は作り上げて行くものだと思う

490
昨日はロシナンテに関連して「詩と人生」の話をした。当たり前だけど、詩は私たちにとっての喜びでありたい。 文学に関わることによって、感情が耐えられないほど揺れてきたと感じたら、自分できちんと制御できるようにしようよということ。 詩にいじめられる人生なんて、ありえない。

491
欠けているところが多い人ほどよい詩が書ける

そこへ詩が流れ込むから

どれくらいひどい詩が書けるかやってみよう

悲しいかなそれほどひどい詩は書けない

詩は君の思い
そのものだから

詩の雑誌の半分もわからずに
書いていていいのだろうか

もちろん
かまわない

492
私はつくづく不完全だと思う

でも不完全でない私なんて
どこにもいない

不完全なままの私が
不完全な詩を書く

不完全だから感じられることを
そのまま書く
不完全だから慈しむ思いを
そのまま書く

こんな私がここにいる

そのことの驚き以外に
詩を書くためには
何もいらない

493
先日の詩の教室で
一つの質問があった

詩を書いていても楽しくありません
苦しいことばかりなんです
どうして私は詩を書いているのでしょうか

それはたぶん
君の中に
まだ書かれていない君の詩が
しっかりとあり
君を手放してくれないから

小さな命を与えてくれと
せがまれているから

494
書きたいことがわかっていたら
詩なんか書く必要はない

ありかが見えないから
手をさしのばす

日々に感動できていなければ
詩なんか書いている場合ではない

まずは君自身を
詩よりも大切にする

明るい方へ顔が向く
詩をめざしていたい

両手で顔を
無理やり向けるようであって

495
気がつくと
人の素晴らしい詩に圧倒されて
自分の詩の限界ばかりに目がいっていないか

どうしてもっとのびやかに
書きたいという心を
放し飼いにしてあげられないのだろう

表現がありふれているのも
語彙が少ないのも
与えられたひとつの才能

詩に触れられる喜びに
ただ戻りたい

496
際立ってすばらしくなくてもいいから
せめて現代詩のレベルに達した詩を書きたいなんて
思うのはやめる

いったい何に遠慮してそんな思いに
捉われてしまうのだろう

陳列品の一つをこしらえるために
詩を書いているのではない

生きるって
もっと横柄に
この世の成り立ちに立ち向かうこと

497
立派な詩を書こうとするからなかなかできない

そんな大げさなことではなく
忙しくてしばらく会いに行ってあげられなかった自分の
目を見てあげる
言葉を聴いてあげる
そばにいてあげる

このところの自分を
傷つけてはいなかったかを
点検することが
詩を書くという行為

498
好きな詩人の詩を
実際に書き写すのもいいかもしれない

写している間に
言葉の出方やリズムが入ってくる

発想のきっかけさえ
見えてくることもある

でも
そこから生まれるものには限界がある

詩を書くことは
その都度
技術や学びを忘れて
空っぽの器になりきることだから

499
評論の中に引用された詩句に
深くうたれるのはなぜだろう

ならばとその詩句が入っている
もとの詩全体を読んでも
さほどの感激はない

前後から切り離されただけで
命が輝きはじめる

詩は
連れ去られた時の心細さのようなもの

詩は
守られていないさびしさの
微かな抵抗のようなもの

500
単純さは
詩作の大切なひとつの指標になる

物を書いていると
ついこねくり回してしまうから

こねくり回していると
いつ終わってよいものかわからなくなる

そういう迷路に入り込んだら
いったん諦める

はっきりと先の見えるひ弱な単純さの中で
詩を作り上げる覚悟は
必要だと思う

501
詩ができない時には
だれか特定の人に向けて
手紙を書くようにしてもいい

思いは熱い方向を持つし
言葉は容易に
出てくるようになる

でも
そうするなら
自分のみっともないところまで晒して
捨て身にならなければ
本当の思いは伝わらない

責任をもって人を
愛する時のように

502
絶妙な言い回しや
綺麗な表現
気の利いた比喩や機知にとんだ理屈も
大切でないとは言わないけど

何よりも忘れてならないのは
どうして自分は表現にとらわれてしまうのだろうという
まっすぐな疑問

生まれてきたことの意味さえ
その中にある

だからいつもそこに戻って
詩を書く

503
やることが思い通りにいかなくて、立ち直れないほどに落ち込むことってある。なにをやっても中途半端で、人の思惑ばかりを気にしてしまう。自分らしさっていうものに、そもそもうんざりしている。 そんな夜には そのままの自分を詩に書く 元気になんてならずに 自尊心なんて取り戻さずに

504
人と同じようなことしか感じられないし
考えられない

そんな自分が特別な詩なんか書けるわけがないと思う

それって明らかに
間違っている

人と同じようなことしか感じられないから
人のことがしっかりと分かる

人と同じようなことしか考えられないから
人の奥底へ下りて行ける

505
詩は泣く前に書くか
泣いたあとで書くか

窓の外を見ながら考えていた

古いクーラーの音を聞きながら
老犬とうたた寝をしていると
ほとんど動かずに一日は終わる

人は夏に
おとなしい木になれる

まぶたの水面に葉脈が微細に現れ

つぼめた呼吸の辺りから
光合成は厳かに始まる

506
詩は
何かを説明するためのものではない

書いていて
どうもこれは正しい理屈だなと感じたら
違うところに来ている

詩はむしろ
説明を要求するもの

何を知りたいのかと
おそるおそる自分に近寄って行くこと

詩は生きていることの
ひたすらなインタビューのようなものだと思う

507
偶然にも
ちょっとしたコツがわかって
詩がひとつできてしまう

ああ こういうのならいくつも出来るなと
得した気持ちになる

勝者のような
気分になる

でも
たいていそういうのは
勘違い

生まれ出る苦しさを
迂回したいと願った自分に
しっかりと向き合うべき

508
かつて書いた自分の詩に
引きずられることってある

一度は書けたのだから
また書けるはずだと思う

でも
そんなことばかり考えていると
息苦しくなる
却って書けなくなる

一度通った道を辿るのは
別の方角に向かうよりも難しい

昔の自分を尊敬しすぎない
今の自分を信じてあげる

509
詩人にとって人生は
長すぎる

この溢れるほどの詩情は
一生続くだろうと思った瞬間に
突然尽きてしまう

むしろ
ああもう書くことはないのかなと
諦めたところへ
また滲み始める

からかわれている気分だ

書けるか書けないかに
悩まない

じっと私を広げて
寡黙な一枚の皿でいよう

510
詩を書くことの喜びは
作品を発表して評価されることだけにあるのではない

もしも自分が詩を書いていなければ
こんなことを思いつくなんて
知らないで人生を終えてしまっただろう

もったいないと思う

人が創作に触れることのできる喜び

自分の発見した言葉に
うっとりとなれる喜び

511
幸福な人はよい詩が書けない
不幸な人はよい詩を書いても甲斐がない

窓の外を静かな雨が降っている

それだけで
詩を書くには充分だと受け止められる心

いつかきっと死ぬ
それに対する抗議なのかな
すべての詩は

下手な詩を書いた夜にだけ
自分のことが分かる

512
自分の詩の至らない所は
いくらでも見つけることができる
あげつらうことができる

いったい私は
いつから自分の詩に対して
これほど意地悪になったのだろう

それなのに
ふと目にした昔の自分の詩が
なぜか深く入り込んで
涙が迫り上がるほどになるのは
私に対する
けなげな復讐か

513
詩は
凄くないことの凄さを
書くもの

詩は
ありふれていることのあきらめを
書くもの

詩は
どこにでもあることの羞らいを
書くもの

詩は
たどり着けないその帰り道を
書くもの

詩は
何も言いたくないその理由を
書くもの

詩は
生きることのまぶしい無意味さを
書くもの

514
家庭が落ち着いていないと仕事に身が入らないように
差し迫った心配事を抱えていたら詩なんか書けない

人に頼らずに詩を書いて行くつもりなら
だから行き着く所は生活力と生きようとする力

人生を手際よく処理する事務能力と
呑気さが大事

明るい方へ向けた顔を
俯けたところに詩がある

515
若い頃には
文学で表現をしない自分なんて考えられなかった

それが生きることだった

でも
ある日突然書くことをやめても
平気でいられた

むしろ世界の震えに
じかに触れられた

詩はいつやめてもいいし
それを後ろめたく感じることもない

人生の
空白行に入ったと思えばいい

516
美術に長けている人は
優れた詩を書く

感性が似ているのだろう

それなのに

俳人と詩人との間には
それなりの距離がある

呼吸の長さだけの問題ではない

自分がいったいどの表現方法に向いているかを判断するのは
難しい

何のために生まれてきたかを
間違えてしまわないように

517
自分がなにものでもないと心底信じていなければ
詩なんか書けない

生きることに不器用なのには
それだけの理由がある

詩が書けること以外に特段の望みはない

そんなにいろんなことはできないし
したくはない

へこんだ斜面だけに
感性は落とし込まれる

詩が書ければ
迷いなんかない

518
昔、渋谷西武の地下にポルトパロールという詩書専門の本屋があった。会社帰りによく立ち寄った。大切な空間だった。詩集ばかりが並んだ本棚の前で、長い時間うっとりと立ち竦んでいた。そこには大抵背中合わせに私のような人がいた。人生をそこで交換してしまっても、ちっとも困らないような人がいた。

519
詩人っていうのは
ことあらためて詩をつくりますというのではなくて
生きていることが

そのものになってしまう人のこと

目がさめればそれがそのまま
冒頭の湿った一行になってしまう

書くものはいやでもぜんぶ詩になるし
栓の壊れた君の蛇口から
生涯とめどなく詩が落ちてくる

520
ある日
空の詩を書こうとする

でも
高いとか
果てしがないとか
みんなが感じることしか浮かばない

でも
そこで諦めない

なぜ空のことを詩にしたいのか
その理由を考えてみる

果てしのないものが目の前にある
そのことを感じてみる

衝撃でないものなんて
もともと
どこにもない

521
忘れっぽい人は詩人に向いている

ことの成り立ちや物事の感じ方
はては詩の書き方まで
目が覚めると忘れている

だから一から感じ直せる
驚ける

しつこくなくてこだわらない人は
詩人に向いている

生きるって
ぜんぶがいつも新しくて
あらためて君に体を押し付けてくること

522
詩を書く元には次の3つがある。

一 胸を打つ出来事
二作り物に触れた後の感覚
三奇妙な言葉そのもの

一はいったん一を通して三に行き、その後やっと詩になる。

二はやはり三を通過してから詩になる。

三はじかに詩へ向かう。

発想とは繋がる感覚。
一と詩が、二と詩が、三と詩が。

523
詩を作ることよりも
その詩を見極めることの方が難しい

自分の姿は直接見えないし
自分の声は違って聞こえる

大抵の場合評価は過大か過小に振れる

どこかに
書いた詩を見てもらえるお店が欲しい

詩の出来というよりも
とんでもなく恥ずかしいものではないという保証をしてくれる

524
昨日、無声映画を観た。「大学の若旦那」という藤井貢主演作。のちの「若大将シリーズ」の原型。無声映画のたった数行のセリフは、コミュニケーションとはなにかを考えさせてくれる。ざっくりとしか説明されないから、鋭く伝わること。

なにを書くか
ではなく
なにを書かないでおくかが
詩のコツ

525
自分が詩に向いているかどうかなんて
わからない

でも
そんなことに悩んでいること自体が
詩人のよう

だれかに保証されるのではなく
適度なところで支えられるのではなく

向いていないなら
向いていないなりのすごい詩を書く

苦労なく詩に向いている人なんて
どこにもいない

526
それを読めば
今日あったつらいことから気が逸れる

そんな
明るい方へ顔が向く詩を
書きたい

立派な思想なんて
いらない

部屋の隅のストーブみたいな
押し付けがましくない温かさ

本物でなくてもいい

とりあえず今夜だけでも
幸せだと騙せる
安っぽい手品のような詩で
構わない

527
ひらがなばかりの詩って
ひらがなに助けてもらう詩であってはならない

ひらがなばかりの詩って
ひらがなのやわらかさに頼ってはならない

まともに漢字を扱えるようになるまでは
ひらがなばかりの詩で
楽してはならない

人のことは
言えないけれど

528
人の見事な詩を羨んで
自分にはあれも足りない
これも足りないと
追い詰められるようにして書いてはいないだろうか

持っていないものよりも
今 持っているものに
目を向けてみよう
信じてみよう

私であることの
そのひとつひとつの価値を
知りつくしているかどうかを
確かめてみよう

529
詩は
しばらくぶりにさて書くぞと
身構えても
なかなかできない

勝手に大袈裟になるだけで
内実は以前に書いたものとさほど変われない

できることなら
毎日書いていたい

書斎へ行って机の前で
改めて書くのではなくて

行く途中の廊下で
軽く
書き終えたい
誰にも威張らない詩を

530
りんご
という言葉を使わずに
りんごの詩を書いてみよう

目をそらした時にだけ
見えてくるものを
詩に書いてみよう

いつも使っている言葉
だけで
詩を書いてみよう

人の目よりも
シンに書きたいものを思い出して
詩を書いてみよう

自分を好きで
いられるような
詩を書いてみよう

531
無理をすることはない

ガムシャラになんかならない

編集者ではないのだから
読みたくない時に詩集を開かなくていい

でも
なんとかしてこの気持ちを自分の言葉で言い当てたい
分かりたい

願うのなら

せっかく生まれてきたのだから
好きなものの方へ
しっかりと向かわせてあげたい

532
詩の最後の行って
どうしても決めたくなる

でも
そうすると妙に力んでしまう

かといって命のように
ただ終わるのも物足りない

ではどうしたらいいのだろう

とにかく幾通りもの終わり方を考える

そのうちに
悲しいほど身の丈に合った収まり方が
見つかる

見つかってしまう

533
しばらく夢中になって書いていると
急に嫌になってしまう

それから全部窓から捨てて
背を向けて逃げる

腰を落ち着けてなんていられない

いつだって詩は
必死の片手間

どこをほっつき歩いていたものか
ある夜
苦笑いの私が帰ってくる

その苦笑いの中にだけ
私の詩はある

534
自由詩という名前が好きだ
口うるさい権威もない
報酬も与えられない
何をやっても構わない
すっからかんの
気楽な
でもいざという時には頼りになる
命だってかけられる
開けっぴろげの
ときめくほどの
めちゃくちゃやってもいいんだと
肩に優しく手があるような
自由詩という名前が好きだ

535
どんな詩を書こうかと考え始めて
でもいつだって
つまらないありふれたことしか思いつかない

というか
つまらないありふれた考えだけは
嫌になる程浮かんで来る

がっかりして

でもこのがっかりがとても大切

目を逸らさない

とことんがっかりしていれば
呆れかえって
詩ができる

536
詩って
ああそうか私は生きているのだったと
そんなことをあらためて思い出させてくれる
その為のものなのではないだろうか

だから無理して奇異なことを
書く必要なんかない

どうして今日1日
自分のことを見てあげないで平気で過ごせたのだろうと
そんな疑問から
書き始めればいい

537
詩の集まりに行くと
必ず来ている人がいる

それが何になるのだろうと
思っていたが

でもある日
そういう人がなぜか
いつのまにかすごい詩を書いていることに
気づく

どうしてだろう

通う足裏から
学ぶ叙情があるのだろうか

大切な場所に自分を連れて行く
その行動力は
軽くはない

538
昨日話をしたのは、いつもの自分のパターンで気持ちよく詩が書けてしまった時の危険について。そんな時は読み直す。くどい所や並列描写やリフレインをチェック。ホントに必要かどうかの点検をする。そうしなかった場合の詩と見比べる。面倒臭がって自分を手放すような生き方は、やめようよということ。

539
単語帳の話もした。詩って、詩人それぞれの勝手な外国語のようなもの。外国語が上達するためには単語帳をつくる。同じこと。ノートを買って来て、日本語の単語帳をつくる。その中に、自分の詩を手助けしてくれる、味方になってくれる言葉を集める。創作に辛くなったら、いつもそのノートに相談をする。

540
私は君の詩について助言をする
でも
君はその助言に従ってはならない

君は君の詩の
辿り着いた地点を信じるべき

驚くことに
君は君の書いた詩を全部読んでいる

私は君ほどには君の詩をわかってはいない

私の助言は
はるかへ遠ざけてくれ

遠ざける腕っぷしが
君の詩を鍛えてくれる

541
「見上げてごらん夜の星を」という映画で、定時制高校の生徒が昼間の生徒と同じ机を使っている。机の引き出しに手紙を入れておくと、その返事が翌日入っている。昼が夜を読み、夜が昼に書く。見たこともない人へ向けての、でもすぐそばにいる人への、思いの丈。詩の読者と似ている。

542
何を書くのも自由だが
それが書かれて発表されるべきものであるかどうかは
別の話

基準 というのではないものの
心のざわめきが決めてくれる

どこかに躊躇いがある
時には
いったんしまい込む

戸惑う隙もなく
迷いもなく
晴れ晴れと差し出されてしまったもの
だけが
結果
私の詩

543
詩を書くというのは
何もわからないということを
平気で表明することなんだ

何かをわかるべきだなんて
偉そうな言葉を
信じないことなんだ

何かがありそうな
ところを
敢えて避けて通ることなんだ

詩を書くというのは
何者でもなくなってゆく
その気楽な道すがらなんだ

544
ひ弱な詩の世界だけど
優しく守ろうとしない

まだまだやれることがあるはず

むしろこんなジャンル壊れてもいいや
くらいの志をもって
書いてみる

間違っても詩を書こうとしない

書いたものが詩になるんだ

遠慮ばかりの日々の中で
手加減をしないでいられる場所が
ここにある

545
私が詩を好きなのは
しがらみが何もないから

誰にも会わなくてもいいし
結社もない

徒党を組む必要もないし
年をとったからといって偉くもならない

ただひたすらに一生
うっとりと言葉に見とれていればいい

誰かに理解されようが
されまいが気にもならず

飾りを全部
捨てられる

546
詩の教室にひとり
正直な若者がいる

「僕は長いものは読めない。小説は無理なので詩を書いている。」

聞いている私も
似たようなもの

でも
たくさん読むの たくさんは
本の厚さにはない

限りある人の命がしっかりと向き合えるのは
この世の風に微かに靡く
魂の切れ端でしかない

547
君のために
透き通った言葉で詩を書きたい
持つ手が次第に震えてくるような
そんな詩を書きたい

細い詩行の溝の中を行き来する
小さな虫たち
そのざわめきを手のひらで掬って
しっかりと覗きこみたい

あるいは盥いっぱいの魂を
一気に流しこめるような詩を
生きている間に
書いてみたい

548
「初心者のための詩の書き方」は
初心者のためではないですねと
言われたことがある

でも初心者って
書くときにはその都度
初めのゆらぎに戻れる人のことを
いっている

生まれたばかりの世界

そのつやつやしさを受け止められる心持で いられるのが
詩人にとっての理想だから

549
詩を作ろうとして
考えを巡らし
でも結局はできなかった
ということは よくある

でもそれって
本当はできなかったのではなくて
細い水の流れは引かれている

詩ってたぶん
諦めの先にしか
ないのだと思う

だからある日
発想が与えられて
詩ができたのには
それなりの理由がある

550
だから
詩ができない自分に
がっかりしていても仕方がない

詩が容易にできる自分が
どこか別の空の下に
いるわけでもなく

今ここで
できずに足掻いている人と
一生付き合うほかはない

だったら
徹底的に悩んで
悩みごと受け入れてみる

一旦こちらへ引き下がることが
詩への近道

551
昨日の話で興味深かったのは
詩の作り方にふた通りあるということ

1つは
ものの見方の切り口が見えた時に
その切り口があっという間に詩へ導いてくれる場合

もう1つは
気になるフレーズに出くわして
それを長い間こねくり回しているうちに
詩ができてくる場合

どちらも幸せな
過程

552
自分が考えていることなんて
つまらないことばかり
だから価値のある詩なんか
書けるわけがない


思っていたら
それは大いに間違っている

詩を書くから
自分が考えていることを
知ることができる

詩を書いてから
こんなものが書けるんだと
詩が君の顔を
下から照らしてくれる

553
なぜだろう
好きな人の詩を読むと
自分の居場所に座り込んだような
気持ちになる

一日に数本しか出ていないバス

焦って飛び乗って
楽しく揺れているような
気持ちになる

言葉は言葉
詩は詩

もう一つの血液が
確かに巡っている私に
倒れ込ませてもらえるような
そんな気持ちになる

554
思いついたことを書くことは誰にでもできる
でもそれだけでは詩にならない

ああこんなことが
こんなふうに書けるのかという
鮮やかな発見が
少なくとも必要

大げさなものでなくていい

自分の背中にまわって
ちょっと驚かせてみる

振り向いたところに
誇らしげな詩ができあがっている

555
立ち向かい方はいろいろあっていい

自分に厳しく接することも
たまには必要だろう

でも
苦しんでまでも詩を書くなんて
賛成できない

詩を書いていれば
空の背丈が伸びたことにだって
気づくことができる

せめて詩は
味方

帰ろうとしたがる君の手を
黙って引いてくれる

556
書く時には
四百字よりも二百字詰の原稿用紙を使った方が
心の負担が軽くなりますよ


編集者に言われたことがある

何もない所に何かを生み出すって
確かに尋常じゃない

負担の軽くなった心は
どうやってこの詩を作らせてくれたのだろう

そのたびに記憶は
きれいに失われる

557
初めて詩を書こうとしていて
でもとっかかりが見つからない時には
まず手頃な動詞を
思い浮かべる

動詞は手っ取り早く君を
詩へ
連れて行ってくれる

そうしたらその動詞と
君の人生を少し
繋いでみる

どんな町中を
どんなふうにぎこちなく操られてきたかを
無表情に
書いてみる

558
休日の
さしあたってなにも予定が入っていない日には
午前中に十篇の詩を書いてみる

人に見せるわけではないから
ヘタクソでかまわない

どうして決まりきった表現に
こんなにがんじがらめにされているのだろうと
絶望するのが
目的だから

午後は空を見て
なんとかする

559
書き上げられた一つの詩は
その中から
必ずもう一つの新しい詩を
いつか
生み出す

小さなお母さんが
大きな息子を産むように
世代の不思議な仕組みが
美しく
宿っている

だから一つの詩は
半分はその詩のために書かれ

あとの半分は
受け渡される次の詩のために
書かれている

560
わからないからこの詩は私には関係がないと
顔を背けるのは
もったいない

わからないからしっかりと
読んでみる日があってもいい

英語の聞き取りのように
ある日それぞれの単語が
区切られて
入ってきてくれる

感性を丁寧に広げてくれるのは
いつも読んでいる親しげな
詩ではない

561
詩を書いていて時々
こわくなるのは
これが
勝手な
独りよがりの妄想ではないかということ

行った先でそんなことが気になりだしたら
もう書き進めない

でも
独りよがりを避けて
詩なんか書けない

研ぎすまされた自分勝手は
きっと通じる

読者はとぼとぼ
ついてくる

562

投稿をしていた頃は
周りを賢く見ることができなかった

ただ湧き出してくる発想に
夢中になって
書き殴っていた

だから私のは
採られなかったのだと
今はわかる

わかるけど
どうしようもない

不器用でもそれが
私の立ち向かい方だったし
今でもそれ以外の詩を
知らない

563
先日の見舞いで
気になっていた話

自分の書ける範囲で
詩を済ましてしまうことの
安易さ

確かにそういうことって
あるな

恥ずかしげに差し出す自分
ではなくて
いつもの手慣れただけの

詩の伸びしろって
実は
自分にはわからないはず

身についた能力を
打ち消す努力

564
詩を書くというのは
虚空を見て
なにか気の利いたことが思いつかないかなと
待っていることではない

詩を書くというのは
単に
思い出すという
行為でしかない

今日はいったい
どんなものに私は心を
動かされたのか

自身の感覚の細部にわけいって
単に
思い出すことでしかない

565
あたりまえのことだけど
書く前には
読むという静かな行為が
ある

吐くための新鮮な息を
まずは吸って
君をふくらませる

ある日ある場所で
この詩はすごいな

うたれてしまう

すべては無条件な憧れから始まるものだし

つまりはその時点でもう
君の詩の半分は
できあがっている

566
おせっかいかもしれないけど
書くっていうことには
その都度
新しい驚きをもって
向かい合った方がいい

書くということは
別の君を見つけ出すこと
あぶり出すこと
透き通らせること

昨日まで気がつかなかった君が
やってくること

そっちへ向けて
恥ずかしげに手を
伸ばすこと

567
どんな詩を書くか
悩むよりも
どんな言葉も詩になってしまうように
生きてしまう

そうしてしまった方が
ことは簡単
ことは単純

言葉に重りはつけないし
風船に結びつけもしない

言葉はその重さのまま
持つ

私であることは文体

夕暮れの歩行はそのまま
詩行の移りになるだろう

568
詩は普段着でありたいと
思う

詩に特別な服を着せたくはない

舞台にあがって声を張り上げるのでは
なくて
ここの
この場所でかまわない

なんでもない朝の
あたりまえの挨拶のような
詩を書いていたい

通りすがりの
だれにも気づかれない吐息のような詩を
ずっと書いていたい

569
詩でもっとも美しいものは
作品の中にあるのではなく
書きたいと思う心
そのものだと思う

まだできあがっていない詩を
背伸びをして覗き込もうとする
つま先の痛みだと思う

だから詩の教室で目指しているのは
教室の帰りの夜道で
もう次の作品が書きたくなっている

そのものだと思う

570
発想はいくらでも浮かんでくる

だから選別すべきもの

せっせと詩をこしらえている途中で
その未熟さに気付くことは
重要な能力

気付いたら立ち止まって
つらくても
今は生まれ出ないようにしてくれと
説得する

いったん別れた発想に
再び巡り会えたら
もう
詩のできあがってよい日

571
私の詩は褒めないでください
そうでないと勉強にならないから
という人が
いる

でも
それは君ではなくて
詩が決めてくれること

生れてきたそのありように
うたれるほどの見事な詩を 認めてあげることもせずに
細かな不手際ばかりを責め立てるなんてことは
作者だってしては
いけない

572
「詩のための詩」

私の中で
詩と精神の関係については
正直
整理がついていない

でも
少なくとも
精神がすべての体重をかけて凭れ掛かるほどには
詩は強くはない

むしろ
場合によって詩は
精神の傾きを助長する手助けをし
それを正当化する理由付けさえ
してしまう

気持ちよくなるのは
あくまでも創作の喜びに対してであって
自分の弱さに対してではない

凭れ掛かるもののひとつとして
詩があってもかまわない

でも
おとなになったら誰しも感性を持ちこたえ
守り抜く術を
それぞれの所でなんとか見つけて
生きている

詩のために鈍くありたい

そうすればまさに

だけのための詩を
作ることができる

573
細やかな感性の人は
詩を書くことができる

でも
細やかでない感性の人だって
詩を書くことはできる

詩のために生きているのではない
それを言ってあげなければならない人が
たまにいる

いつだって詩は
明るくよそ見をしながら片手で書いていたい

もう1つの手は
しっかりと窓枠につかまっているべき

574
やりたくない時に
やりたくないことをするのが仕事

詩はそうではない
無理をしてまでも書かなくていい

むしろ君から
どんな心の負荷も遠ざけてあげる
_書かないでいる方が君の濃さが増してゆく
という日もある

書きたくなる日は
きっと来る

その時には
身勝手で小さな誇らしさを感じよう

575
いったん出来上がったものでも
読み返せばどこかを書きかえたくなる
直したくなる

なんだか詩は
永遠に完成しないみたいだ

ところで
詩が完成するって
どういうことだろう

私のすきを見て逃げ出すこと

私ではなくなること

だから
しがみついてきている間は
まだできあがらない

576
オトナになることは
ひとつの病気だと思う

心配事は無数に
やってくる

だからというわけでも
ないけれど

時間があれば
明るみへ向かうような詩を書いていたい

くだらないことを
恥ずかしげもなく言えるような詩を書いていたい

なにも教えない
あっけらかんとした詩を
書いていたい

577
言葉で表せないものを書こうとするのが

なのだから
もともとありえないわけ

辿り着けない場所が日々の
奥まったところにあると感じるのは
素敵

どんなつかみ方からも
ガムシャラに逃れようとするもの

どんな明るさの中でも
頑なにまとめられまいとするもの

578
昨日は上手宰さんの主宰する同人誌「冊」の合評会に参加してきた。

杖をついて電車に乗ったら、生まれて初めて席を譲られた。一瞬躊躇して、それからありがとうと言って、座った。

で、合評会で私が話をしたこと

(1) 詩の発想というのは作り出すものではなく、見つけるもの。
(2) 詩をつくるために考えたことよりも、真に感じていることを詩にする。
(3) 話しことばはこわいほど強い。

(4) 詩は、ちまちましたことを書いている方が似合っているし、よく見える。だからといってそれだけでいいというものではない。
(5) 一つの詩にいくつもの出来事を詰め込んでしまったなと感じたら、章にわける。一つの詩には、たった一つのことを書く。
(6) 詩の書き方を学ぶということは、自分の詩をどこまで読者の目で読めるかを学ぶこと。
(7) 具体的なメッセージがそぐわない詩もある。一般的な出来事を美しく置く。あとは読者に任せる勇気。
(8) ありふれた副詞を取り去る。
(9) 肉親のかけがえのない死を作品にするためには、死の周辺の個別な体験を持ち出さざるをえない。
(10) 生き生きとした子供は物静かに描く。死にゆく人を描くときには鮮やかに描く。
(11) 自分が見ているその視線で自分を見つめてみる。そちらの方を詩にする。
(12) 比喩があっての実体ではなく、しっかりと実体を描いてこその比喩でありたい。

579
松下さんも書いていなかった時期がありますが
どうしてなのですかと
聞かれた

だから大切なのは
詩を書くか
書かないでいるかではなくて
ちからの弱い生命が
感情のまっすぐな入れ物に
どこまでなりきれているかなのだと
思う

なんでもないことの驚きに
こぼれるほどであったかどうかなのだと
思う

580
特に誇れるものはない

だからせめて地味に
詩を書いている

それほど多くを望んでいないけど
せっかく心を込めて書いたのだし
少しはわかってもらいたい

自分を守るために
自分を支えるために
自分をここに留めておくために

詩は生涯のてのひらになり 
椅子になり 
私をつつむ ものになる

581
15の考え事
(1)詩人の思いは詩の中にどこまで込めてよいものなのか。「思い」だらけは鬱陶しいし、「思い」のないのは物足りない。
(2)書きたいと思っていることは書いてしまっていいのだろうか。書くことがない時に書いた詩よりも、なぜか後ろめたさがつきまとう。
(3)これまで、すでにほかの詩人によって書きつくされているテーマとか発想を、さらに自分が書いてもよいのだろうか。むしろそのほうが、よいのだと思う。
(4)詩の題名はまぎれもなく詩の大切な1行目。すぐれた題は内容よりもモノを言う。
(5)いきなり特異な詩の世界に飛び込んでゆくよりも、現実のつまらなさから少しずつ移ってゆく。そうした方が親切。
(6)極端に短い詩をたまに書いてみる。長さでごまかすことの出来ない厳しさを思い出す。
(7)書きたいことがある時って不幸だと思う。書きたいことに縛られる。
(8)詩に壮大なものを求めるって勇気がいる。書き初めの頃はこうではなかったのに。
(9)生真面目すぎる詩を書いている人はその生真面目を貫くしかない。悪ぶらないで生真面目をまっとうする。
(10)この人は詩を書くことが好きなんだなと、感じてくれるような詩をめざす。
(11)詩に物語を入れる時には簡潔にしてはならない。むしろ修辞的に。
(12)読者をやさしく包み込むばかりが詩ではない。時に強引に感性を引っ張ってゆく詩があってもいい。
(13)無理に作ろうとしなくても思考の流れを書けばそのまま詩になるという幸せな詩人がいる。そういう人こそ定期的に質の点検が必要。
(14)詩的でない言葉をひとつずつ詩でつかえるようにする。後の詩人たちのためにも。
(15)真にすぐれた詩は、どこが優れているのかが見えない。

582
詩が
いつまでも上手くならない方法を
探すことが
詩を学ぶこと

なにもしていないから
人生は短かすぎると
感じる

器用でないからゆっくり学べる

行きつくところは変わらない

言葉はだれも説得できないし
言葉はなにも伝えられない

詩を書く理由は
そこにある

583
先日の詩の教室で
再読に堪える詩でありたい
という議論になった

たしかにそうだなと
思ったけど
でも
たった一度でも読んでもらえたら
それで御の字じゃないかとも
感じていた

たいていの詩は作っている間に
何度も自分に読まれて
出来上がることも 生まれることもなく
いなくなってしまうのだから

584
下手くそでも
たくさん書いた方がいいというのは
言葉の感触を
しっかりと獲得するため

言葉って
ただ話をするために
あるわけじゃない

真剣に書いているうちに
ある日
PCを開いただけで
言葉がこっちを向いてくれる

名前を書かなくても君の詩だということが
切なくも
わかるようにしてくれる

585
言葉は置かれるもの
言葉はしまわれるもの
言葉はひき戻されるもの
言葉はとどめ置かれるもの
言葉は滲むもの
言葉は溜めるもの
言葉は透かされるもの
言葉は打ち寄せるもの
言葉は沁み渡るもの
言葉は触ってくれるもの
言葉は黙っていてくれるもの

586
思いに素直になればいい

楽な方を選ぶと
どうしようもない詩を書いてしまう

恐いのは
人に指摘されるまでそのひどさに
気づけないこと

自分の書いたものには
どんなものでも感動できてしまうという
大きな落とし穴が
詩には
ある

つい自分を甘やかしたくなる

全部わかっては
いても

587
詩の発想って
ひとつだけぽつんと浮かんだだけでは
なかなか作品にはならない

その発想に折り目がついて
ちょっとねじれて
別の形が見えてくる

あるいはその発想が
もうひとつの似た発想を呼び込んできて
からみあってくれる

そこまでいったら
やっと詩ができる

わかりづらい
言い方だけどね

588
詩を読むことは
書くことと
違わない

読んでそのまま与えられるものは
まだ読みの
手前でしかないと
思う

読みにもその詩のための
発想が
必要

受け止めるための感性は
作りあげてゆくもの

やわらかく引くことは
かすかに押すことと
違わない

589
詩なんて知らない
書いたこともないし
才能があるとも思えない
国語が出来たわけでもないし
言葉を大切にしてもこなかった

ただ大人になってから
私なんて

すぐ思ってしまう

正直ここに自分があることに
毎晩
イライラしている

だから
だからさ
そういう人こそ
向いている

詩を書こうよ

590
できることばかりやっていては
ちっとも高まらない

もっと頑張らなきゃと
自分をせめてばかり

時間がないことを言い訳にして
でもいざ時間ができても
たまにはと
緩めてしまう

頑張れない自分に
後ろめたさを感じているまま
年ばかりとってゆく

だからさ
そういう人こそ
向いている

詩を書こうよ

591
茨木のり子の詩を読んでいると
それぞれの詩に
書くべき内容がしっかりとあることに
驚く

詩が
詩の形でなくても読むに堪えるということ

それって
当たり前ではない

書くべきものがないのに
私は無理にも書いてはいなかったか

いや
もしかしたら茨木さんだって
順序は逆であったのかも
しれないが

592
山奥の美術館
脇に小さなギフトショップがあって
画集や小物が並んでいる

その中に「長田弘全詩集」がなにげなく
置かれている

ガラスの向こうには林の緑が迫ってきていて
ページを繰れば長田さんの言葉が
その姿をひとつひとつと現してくる

詩は
生まれ故郷に帰ってきたかのように
ほっとしている

593
少しでも自分に期待しないでは
生きていけない

だから詩を
書こうとしているんだけど

いつもロクなことしか考えていないのに
急に気の利きたことが思い浮かぶなんて
ありえないと思う

ところが
そうでもないから
不思議なんだ

詩を書く君は
君ではなくなる

どうしてそうなるのかは
わからなくても

594
昨日
興味深かったのが
詩は一つの療法にもなりうるという話

行き惑って失われた心が
詩を書くという行為で
居場所を見つけだせる

確かに
そういうこともあってもいいかなと
思いはするものの

どんな薬も服用しすぎては
いけない

詩の一行に凭れかかって
もろともに倒れぬように
気をつけねば

595
いい発想をつかんだなと
思っても
切れ端だけで
ひとつの詩には育たないことがある

かというと
こんなのだれでも感じることだからと
諦めたそばから
あれよあれよという間に
一篇の詩ができてしまうことがある

ところで
詩を書き終えると
宿題をひとつ
すました気持ちになる

締め切りのない
宿題を

596
詩人には両腕が
ある

仕事や
すぐそばのできごとや知り合いを
そのまま書き記したいという右腕と

奔放な観念を
思う存分遊ばせてみたいという
左腕

間違っても
両腕を組んで
バランスよく立っていようなんて
思ってはならない

その時々に
どちらかの腕に身を任せる

バランスを失った先に
詩はある

597
詩の教室へ行けば
書いた詩がどうだったかを
人に聞くことができる

でも
残りの詩と 君の人生は
だれも評価をしてくれない

長く生きていると
つい
これまではどうだったかなと
考えてしまう

望むことはいつも
かすかなこと

詩の教室の帰り道
もう次の詩が書きたくなる
せめてそんなふうに生きたい

598
そもそも
君自身が
いやになるほどの奇跡


目がさめることだって
皮膚の細い毛が
揺らぐことだって

だから詩を書くって
日々の奇跡にひるむ気持ちを
静かに受け止めて
あげること

大げさに書き始めた
詩は
いつだって途中で悲しくなって
完成できない

この詩のようにね

599
齋藤恵美子さんの詩を読んでいたら
「そそぎたての秋のまみず」
という言葉があった

「そそぐ」も「秋」も「まみず」も
そこらに転がっている
言葉なのに
どうしてつながると
こんなにきれいに見えるのだろう

詩人の願いって
ささやかなもの

おとなしい言葉を入れ替えて
この世の秘密に
触れること

600
いろんな詩があっていいと思う

ただ
個人的には
暗いことを書いて逃げない
抽象語を入れて逃げない
意味を壊して逃げない

単純にそういうところから
始め直したい

弱さを
誇らない

単純であることを
恐れない

目を細めてしまうほどの明るさの方へ
言葉と身を
ずらして行くこと

601
つまりどんな詩も
先達との共作と言えるわけで

だからと言って
おおもとから人の詩に凭れて
しまわないように

創作の出どころは
貧弱でも
自分の言葉で始めたい

生命に切り込んでゆこうという志は
みずからのオクソコから
取り出したい

等身大の
現代詩

そこからずれてしまわないように

602
教室の参加者から
時々メールが来る

たいていは詩作の
先っぽの問題ではなく
ネモトからどうするかの
相談

気の利いた答はいくらでもみつかる

でも
本当のところはどんな質問にも
たじろいでしまう

詩の一行は
大きなものの前で
膝を深く折り曲げるために
書いている

603
心をこめて書き続けているのに
わかってもらえないのはなぜでしょうか

こんなに正直な質問は
めったにない


感動しているのではなくて
答えなければ

どうしたらよいのだろう

そのうちに‥

気にすることはない‥

いいものさえ書いていれば‥

思いつくのはヒトゴトの
ガッカリさせる返事ばかり

604
擬人法
というのは昔から
あって

今どきは
動物や植物を人に擬することには
驚かない

でも
風が髪をなぶって
すぎていった時に
風が私の
取り調べをしていたのだと
感じることには
胸をつかれる

木坂涼さんの詩は
生命のアルナシを
無視して歌う

たぶん創作のずっと
手前で

605
加島祥造さんの詩を読んでいたら
なま暮らし
という言葉が
思い浮かんだ

くりかえし独りが
出てくるからだろう

さびしがる暇なんて
なさそうなのは
いない人が頻繁に訪れてくるから

三好豊一郎や
黒田三郎や
北村太郎

人よりも冷たいふとんが
人をあたためる

606
思いついたフレーズが
ありきたりのものなのか
それとも新鮮なしずくを
たらしているものなのかは
わからない

いったい
意識してすぐれた詩を書ける人なんて
いるのだろうか

その日
凡庸な才能の持ち主であったと
知ってから
ほんとうの詩を
涙ぐんで書けるようになった

607
巨きさがなければ
おまえをだきしめることもできる

地球に向き合っている

鈴木ユリイカさんの詩を読んでいた

ちっぽけが身をかがめたところに
詩を置いている
僕としては
すがすがしくも打ちのめされる

せばめた指は
地球でさえつまみ取れる
ということか

巨きいものほど
うな垂れる首は
深い

608
詩がわかる
っていう言葉は
すごく微妙

どこまで受け止めれば
わかったと言えるのだろう

そのための定規なんて
ない

この詩はわからないと
感じながらも
離れてくれないフレーズが
ある

感じてもそれを
説明できない

詩の世界では
それもわかったと
言ってもいいと
思う

609
細心の注意と技術をもって
言葉を選び
組み上げてゆくのが
詩をつくるということ

そうで
あるならば

無表情に言葉を捨て去ってゆくことも
詩の姿でありうるか

江代充さんの詩を読めば
見えてくるもの

てのひらにのせた鍵が
水紋をたててしずみはじめ


書かれてしまった鍵の
鍵らしからぬ
困り顔

610
ふつうの詩を書こうよ
どんな驚きもない
目をみはるほどの輝きもない
すぐれた比喩がおりこまれているわけでもない
読んでためになるわけでもない
どこといってめだつことのない
読んですぐに忘れられてしまう
だれからも褒めらることもなく
ひどく貶されもしない
作者の記憶にさえ残らない
ことさら今日書かれる意味もなく
なにを訴えているわけでもない
怒りの対象があるわけではなく
特別な悲しみをたたえているわけでもない
気のきいたフレーズがあるわけでもなく
謎めいた一行だってどこをさがしてもない
ふつうの場所で
ふつうに改行し
ふつうの題がつけられて
ふつうの長さで終わっている
ひどく難解でもないし
かといって誰でもが理解できるというわけでもない
中途半端な努力のあげく
日々の愚痴にあけくれる
それがまさに私なら
無理してかっこつけることなく
私らしい
ふつうの詩を書こうよ

611
できふできの
はっきりとした詩を
書いていたい

つまらない詩を書いた時には
糾弾してもらえる
そんな詩を書いていたい

くだらないものを作り上げてしまう
可能性に
おそれを抱きながら
詩に向きあっていたい

生涯
要領をつかめずにいる

その不器用さこそが誇りなのだと
信じて詩を
書いていたい

612
「しかしわたし以外にも
なぜこの世にはたくさんの人がいるのだろう」
と書いたのは
江代充さん

詩を書いている人は
たいてい似たようなことを考えていて

だから自然と
この世のいいあてっこのように
なってしまう

先に書かれてしまうことを
たぶん
感動と言う

613
詩はどこにあるか
っていうフレーズが浮かんできて

今日は一日
そのことを考えていよう

どこにでもありそうでいて
どこにもない

すぐそばの
遠くのようだ

大学教授の講義録の中
朝の掃除機が吸い込んだ埃の中

詩はいったいどこにあるかって
探していて

詩の中にさえ
たまに
詩はないのだから

614
ノートに向かって
手をすぼめて書いた詩と
PCに向かって
両手で言葉を拾うようにして書いた詩は
姿が違う

たぶん詩は
頭で作ってはいない

わたしを含めた
道具たちが小さなあたまで
せっせと
考えている

詩を書いていて
威張れることなんてなにもない

たぶん才能って
指先の行く末でしかない

615
人生なんてその人生を生きてしまった人のものじゃない

書いたのは
辻仁成さん

そうか
この人生は僕のものではなくて
少しばかり
借り受けているもの

だったらもう少し
ちからを抜いてもいいのじゃないか

やわらかくものを見
おおらかにものを聴き
せり上げてきたものだけを
書き留めてゆく

616
心に入ってこない詩
というのは
詩自体に価値がないか
自分にその価値がわからないかの
2つに分かれる

わからない
というのは
意味不明なのか
意味は明瞭だけどどこがよいのかわからないかの
2つに分かれる

意味不明
というのは
奇妙さを伴うものと
奇妙でさえないものとの
2つに分かれる

617
同じ自分が書いているのに
詩に
出来不出来があるのは
不思議

出来不出来って
わたしの中の
でこぼこ道のようだなと
考え

だからすごく揺れるし
この揺れは
生きている証拠でも
あり

ならばもっと素直に
楽しんでもいいのかもしれない

あと幾篇の
心を込めた道すがら

出来もよし
不出来もよし

618
キリンを丸ごと食べたら
遠くのほうがよく視えるようになった


書いたのは高岡修さん

でも詩は
キリンの遠い
視界にあるのではなく

とじたまぶたの裏の
明るみにこそあるのだと
教えてくれる

だから詩は
キリンを食べる想像力に
あるのではなく

さびしい満腹にこそ
ある

619
きみの両の目から空があふれ出たとき
ぼくも鳴り響いたことはいいことだ


書いたのはツェラン

若い私は鉛筆で
「いいことだ」
の傍に
線を引いている

あれから随分と経ち
いろんなことがあって
古びた私はどこに線を引くだろう

当時の感性から
何も育っていないと
知ることは
悲しくもいいことだ

620
教室の後の飲み会で。一人の女性の言葉。

「四十才の時に、ふと思ったことがあったの。仕事をして、結婚をして、子供を育てて、一生懸命だった。でも、でもね、それだけだなって。それだけしかないなって。何かをしたくなったの。生きていてむしょうに何かをしたくなったの。」

だから教室に来ている。

621
お前が死体なら
それ以上お前を殺すやつもいはしまい


書いたのはランボー

先日の詩の教室でも言ったんだけど
時に
当たり前のことを
あらためて言いつのることが
当たり前ではないと
いうこと

死体でさえ
さらに殺されつづけると
苦しく書きとめるばかりが
詩では
ない

622
一篇の詩を読んだだけで
一人の詩人を称賛することは
できる

でも
一人の詩人を貶めるためには
その人の
ほとんどの詩を読んだ後でなければ
できない

どんなにすぐれた詩が書けたとしても
それを書いた自分が

ここにあることの驚きには
かなわない

623
泣きそうな心持ちの時にしか
詩は書けない

そうなのかな

書き損じの詩のような
僕の生涯

って
すぐにこんなこと
言いたくなったらオシマイだろ

平日午前中の
明るいバスの中で
揺れながら詩のことを考えるトシに
なってしまったよ

嘆き節の詩だけは
断じて書くまい

あの断じては
どこへ行ったか

624
何をやったって
自分よりも優れた人はいる
羽生君や小平さんは別にしてもね

仕事はもちろん
好きな詩だって
すごい人は
あっちにもこっちにも
いる

でも
それがなんだというのだろう

思い出せば
詩を書き始めた頃は
不器用でも
晴れがましかった

迷ったら何も持たずに
そこへ
戻ってこようよ

625
ざわざわとした会場で
無理に朗読を聴いてもらうよりも
その内の
たった1人に持ち帰って
穏やかに読んでもらいたい

詩の望みって
そうだと思う

詩は
わかりやすければいいと
いうものではなく

でも
作者でさえ素通りしてしまう魅力的な詩行は
大抵
あまりにわかりやすいための
暗闇のせいだったりする

626
勤め人の頃
プレゼンテーションの前に
たびたび上司から
言われた冗談があった

「きみの詩のようには
わけのわからない説明にならないことを
願うよ」

詩がわからない

多くの人が感じている

それをどうこうしようとは
思っていない

支障なく
生きていけるし

こっちに来たい人だけ
来ればいい

627
この本をおとなに捧げてしまったことを
こどもたちにあやまらなければならない


書いたのは
サン=テグジュペリ

同じ言葉を使っているのに
どうしてこう
文章が生きているんだろう

語り言葉とか
文体とかの
問題ではなく
たぶん込められた魂と
血液の量じゃないかと
思う

精神論じみて
いやだけど

628
降りだしたばかりの夕立を受けとめて震えている
あたらしい水面のように


書いたのは松浦寿輝さん

夕立を
ドキドキしながら受けとめている水面
なんて
詩の中でしか出会えない

この水面がどんな顔をして
どれほどこころぼそいかを
感じとる

一日のうちの
ほんの少しを
そうしたことにつかいたい

629
ひとつひとつの詩は
個性的で
面白いんだけど

でも
どの1篇を読んでも
同じ個性の延長で
面白さが変わらない
という
詩人がいる

かと思うと
ひとつひとつの詩は
さほどでもないのに
いくつも読んでいると
ヒトの中心が見えてくる
そういう詩人も
いる

もちろん
だれのせいでもなくて

630
先日は岩佐なをさんと
詩人の代表作
という話をしていた

では私にとっては
どれだろう

思いを馳せた

この詩を書くために
たゆまず学んできていたのだったか

思ったことが
かつて一度
あった

でも
そんなわけはない

まだまだ見つからない

これが書ければ
という
私を滅ぼさせてくれる1行が

631
日常のなかでやせほそっていることば
目立つことないことばたちが
ぼくは好きだ

書いたのはリルケ

詩は大げさなことを
書くものではなく
ハイテンションに叫びあげるものでもないと
僕は常々思うのだが
どうだろう

つまらない言葉のその劣等感に
あてはまってしまう
心の寸法にこそ
詩はある

632
初めて知らない人から詩集が送られてきた日の感動は
憶えている

でもそういうのって
すぐに慣れてしまう

今でもたまに
送ってくれる人がいて
丁寧に扱うけど
すぐには読まない

読まなければ

用事を済ますようには
読みたくはない

私と同じ背丈の詩集は
すぐにわかる

持った掌に
凭れかかってくる

633
詩誌の投稿欄に掲載されることは
簡単じゃない

掲載されている人の詩はどれも
眩しくて
自分の詩がみすぼらしくも
感じてしまう

それって
しかたがない感情だし
なぜ自分の詩が落とされたかを考えることは
重要

でも
もっと重要なのは
自分の詩をひたすら確立すること

その過程に
投稿行為はある

634
余計なお世話だけど
僕は強く
詩を書くことをすすめる

特に
かつて夢中になって書いたことのある人は
自転車乗りと同じで
すぐに戻ることができる

当時は見えなかった自分が
まざまざと見えるし
昔よりずっと深みにまで
たどりつけるはず

言葉を操っていれば
大切な人への触れ方も
きっと
変わる

635
詩はどこにあるかって
雑誌の特集のような
言葉が
思い浮かんできて

ひどく疲れた仕事帰りや
子供に添い寝しているうちに
日々は暮れてしまい

なんだか情けない気持ちばかりで
詩なんか入り込む余地は
ないよな

だからそんな時
詩はどこにあるかって
言葉が
思い浮かんできて

涙なんか流れてきたよ

636
ほんとうは詩人だって
人の書いた詩をそんなに「わかって」なんかいないのである。


書いたのは
渡邊十絲子さん

ここしばらくで
いちばんすがすがしい
言葉

わかっていることと
わかっていないことを
選り分けよう

あけはなってよいものと
そのままにしてあげたいものを
選り分けよう

637
ほんとうにめちゃくちゃな詩を書くのは
それはそれで
難しいことなんです


言っていたのは廿楽さん
だったか

かすかなめちゃくちゃが
入っている詩は
どうして私を
これほど惹きつけるのだろう

日常の枠組み
とか
がんじがらめ
とか

そういうことを言い出して
すましてしまうのではなく

638
彼女はじぶんのからだから
何を編みだすのかしれたものではない

書いたのは吉岡実

今日は岩佐さんと会う予定を
していたのに
雪が降り出したので
やめた

体温って
自分を温めるものでは
なくって

それから詩は
あたまで考えて作るものでは
なくって

そんな話を
古瀬戸で
するつもりだったよ

639
詩の発想
というのは
どこかから突然下りてくるものでは
ない

もっと地味に
できている

その日に感じた
様々な違和感を
ただ
思い出すこと

その思い出しを
ひきのばしたり
ねじ曲げたり
ひっくり返したり
していると
詩につながる

だから大事なのは
単に日々の
呼吸の丁寧さ

それ以外にない

640
山田兼士さんが
最近の現代詩離れについて書いていた

そうなのか
現代詩って
しっかり掴まれたことがないから
手放されることもない
そう思っていたのに

人に生まれてくれば
だれにでも
書けるものだし

生きていればたまに
寝返りをうちたくなる

そんな時の
背中の小さな筋肉にも
なるのに

641
もう
きちんと頭が働いている時期は
それほど残っていないわけだし

だから
日々にどうしてもやらなきゃならないことは
やるとして

それ以外の時間は
両手で囲って
大切なことだけのために
費やしたい

何が書けるかは
問題ではなく

もしもこの世に誰もいなくても
書いておかなければと
思うこと

642
不安は要りませんか
私の不安


書いたのは
三角みづ紀さん

道端で突然
花を差し出すように
そう言われたら
いくらですかと
聞いてしまうかもしれない

ウリモノではないんです

言われて
ポケットの中で触れた小銭が
急に湿ってくる

たいていの詩の理由は
だから
このあたり

不安は要りませんか
私の不安

643
ふつうの日本語で
ふつうのことを
ふつうに
詩は
書きたい

大げさにならない
いばらない
ごまかさない

詩にたどり着く手前や
詩を書いたあとでは
なにも言わない

そんなこと
誰だってできる
その
誰だっての
ひとりになりたい

そんなのいつだって
できる
そのいつだってを
まじめに生きたい

644
詩が
すぐれているかどうか
ということと

詩が
読む人に入り込むことができるかどうか
ということは
違う

とことんありふれていて
誰でも書けそうなのに
どこか気になる
という詩が
ある

たまたま書かれている
内容と
同じ経験を持っていたら

詩が
全身で読む人を
そちらへ押してくる

645
独特の世界に遊ぶ
詩人がいる

詩は所詮
口先のものだから
なんとでもなる

方言で書いてもいいし
武士言葉でもいい

古代の言語だってありうるし
コトバが成り立つ前の
呻きや叫びを並べても
詩といえば

もちろん

この時の日本語を
つかっても
かまわない

そのさびしさに
耐えられるのなら

646
雨の日に鳥は
何をしているだろう


書いたのは
清水哲男さん

では
詩が書けない日に
詩人は
何をしているだろう

後ろめたさの枝に
とまって
生きてる途中で
ふるえている

薄いまぶたの
血管に
書けない詩行を
捨てている

647
つまりね
詩は
なにかを書かざるを
えないんだけど

でも何かを
書いたら
それはもう純粋には
詩ではないのではないかっていう
考え方も
ある

指しているそばから
指先を
押し包んでしまいたくなる
つらい衝動

あるいは深く屈んで
後ろ向きに
自分の足跡を消してゆく膝の痛み

詩を書くって
妙な運動

648
「わたしは詩」 その一

ほとんどの詩は
書かれても
なんだかうまく伝わらなくて 捨てられてしまいます

でも
少なくとも書かれている間は
あなたから熱く
注がれていた抒情を
受け止めることができていました

失敗作でも
捨てられ
忘れ去られることは
つらいのです

いつかあなたに
いちにんまえの詩が書ける日が
きたとしても
いちどきにそこへ 行けたのではなかったことを
思い出してください

どんな詩も
それまでのたくさんの
幼稚な詩のあつまりの
おかげであることを
思い出してください

どんな詩も
いちどは命を
持とうとしたのだということを
思い出してください

649
「わたしは詩 」 そのニ

私は何かの生まれ変わりでは
ありません

あなたに書かれて

この時がはじめての

だから何もわからないのです

詩としてうまれ出ることの
よろこび
だけを
たずさえてきました

あなた以外の人に
書かれたのではないという
奇跡に
まだ震えています

650
「わたしは詩」 その三

人を作るために
人は人の中に
少しだけ入ります

詩を作るために
人は詩の中に
入る必要はありません

詩はあなたに
何も求めません

詩があなたの重みを
受けとめてくれます

倒れるということは
それまで立っていたと
いうこと

信頼をあかすために
私に倒れてきてください

651
「わたしは詩」 その四

わたしをととのえることができるのは
あなたです

わたしをいちから育て上げることができるのは
あなたです

わたしをそっと書き換えることができるのは
あなたです

でもわたしを
恥ずかしく思い
ひと目から隠してしまうのも
あなたです

わたしは詩

わたしにかすかな
息づきを

652
詩の発想を得て
ああこれは書けるな
と思って
翌日会った友人に
ついそれを話してしまうことって
ある

でも
話してしまったら
なんだかその発想が
けがれてしまったようで
いやになってしまう

まだ詩に
育ちあがってもいないものを
むき出しのまま外に放り出してしまった

反省をしても
もう遅い

653
「詩のわからなさについて」

「これから詩を読み
書く人のための詩の教室」の
1回目を僕は
観に行っていて
講師の小池さんに
質問をしていた人が
いた

「詩って
わからなくてもすごい詩って
あるじゃないですか
その
わからないっていうことの
程度
というか
塩梅はどんなふうに
したらいいのですか」

実際はこんなふうには
聞いていなかった
けど
僕が解釈した要旨は
こんなとこ

この質問
詩を書いたり
読んだりしていない人には
何のことだかそれこそ
「わからない」かも知れない

でも
一度でも詩を書いたり
読んだことのある
人にとっては
とんでもなく切実で
だれでもがぶつかる
疑問でも
ある

「わからない」って
なんだろう

当然のことだけど
料理に塩を振るようには
手加減のできるものじゃ
ない

それにハナから
分からなさを目指している詩
なんて
ありはしない
あるはずがない
(そう信じている)

詩と
「わからなさ」
って
昔からどこか
すごく
親しいもので
しっかり繋がっているように
感じられて
しかたがない

わからないことに
鮮やかに手を伸ばすことが
詩を書くことでも
あるような
気が
するから

654
詩を読むときに
書かれた内容と似たような経験をしていた方が
理解が深まるというのは
本当だろう

ただ
その時の理解
という言葉は
私たちの
受け止め方の一つでしかない
というのも
本当

辛苦の量だけでは
優れた詩は書けない

かかえ込む胸の広さと
ゆかに置く静かなちからを
ともなわなければ

655
対句とかリフレイン
とか

隠喩とか換喩とか

いろんな詩の技法が
あるけど

「呼びかけ」
というのも
ワザのひとつらしい

親しみをおとなしげに出すことが
技法だなんて
なんだかおかしい

おもねり
とか
突き放し

だったら詩の武器に
なるのだろうか

ホンジツの後ろ手の
自分を握る細かな震えも

656
詩手帖の投稿欄の担当を
やってみて
感じることが
多い

どこか
大きな国の中に
必死に塀を囲って作った
自治区のよう

独特の空が上がり
独特の風土を持つ

地続きではあるが
風の匂いが違う

通りすがりに
無意識な
美しい動作に出会う

ここだけで完成された
詩行が
あちこちに立て掛けられている

657
先日の教室で
歌の歌詞と
詩との
違いについての質問があって

歌の歌詞って
隅っこのない詩かな

目の端に読み終わった行の
後ろ姿が見える

とは違って

聴けばきれいに
流れ去ってしまう

いわば短冊のようなもので
その一枚一枚が
それぞれの詩になっている

音にいくつもの
詩が
しまわれている

658
休日の朝
掃除機をかけていたり
お茶碗を洗っていたり
していると
ふと
詩が小さく
頭の中に出来てしまうことがある

そんな時はあわてて
書きとめようとしない

そのまま掃除機をかけ続ける
お茶碗を洗い続ける

しばらく遊ばしておくと
詩は育ってくれる

遊ばされているのは
こちらかもしれないけど

659
詩の題材というものは
詩の外にあって
出かけて行って
つかまえてくるものではない

詩にまつわる動作や
思考

それらがまさに

そのものであるという
妙な関係性

だから雑誌に詩を投稿して
落とされたときの
心の傾斜

詩への
うらみにも似た情けなさ

それをも
次に書くべき詩の
大事な題材となる

660
大それた詩を書こうとして
大それた詩が書けたためしはない

だからといって
私なりの詩で構わないと思っても
それも簡単ではない

ものを作るって
ままならない

私が作ろうとしている詩は
私だけが作っているのでは
ない

この世に
生まれ出てきたところから
遠いなにかが
手を添えてくれたのだから

661
詩はだれにでも書ける

という残酷な事実を
時々思いだそう

谷川俊太郎と
その他の人がいるのではなくて

どんな人も
ある所までの谷川俊太郎

詩を書ける人と
書けない人がいるのではなくて

書く人と
書きたくない人がいるだけ

詩はだれにでも書ける

だからこそのむずかしさと
かわいさが
ある

662
現代詩を書こうとするから
いらぬ力がはいる

書きたいのは
ただの詩

いや

なんてたいそうなものでも
ない

もっとありふれていて
でも
いいようのないもの

いいようのないものが
たしかに
君の生を
どうにかしようとしている

その感じを書くしかない

詩とか
現代詩とか
名前なんてずっとあと

663
言葉との距離を測る
というのは
言葉の姿かたちが
見えているということ

言葉の愛され方を
知っているということ

単に言葉が
意味への道具になりさがるのではなく
その伝達に
色つやを与えてくれること

言葉の面倒を
みてあげたくなること

言葉のいらない仲にまで
なること

664
詩を作ることは
どこか
苦手な外国語を学ぶことに似ている

語彙の少なさに
いつも悩んでいる

でも
さしあたって今日
すべきことは
自分から遠くにある
単語を
無理に覚えようとすることではなく

これまでずっと
そばにいてくれた言葉だけに
集まってもらい
この気持ちの表し方を
素直に尋ねること

665
与謝野晶子の
「ひらきぶみ」に
目を奪われる

封をしていない手紙だから
勝手に読んでみれば

「私はまことの心をまことの声に出だし候」

ある

覚悟がなければ声は上ずり
まことの声こそ
なかなか出てこないもの

つまらぬ配慮にあけくれて
まことの心の見えない詩ばかり
書いてしまう

666
あまりに感情の細々した詩
ばかり書いていると
我知らず
時代に流されてしまう

だからもっと知性的であれ
という
観念にとらわれているのは
先の戦争から

でも
知性でさえもが
流されやすくもあり

ならば一度
感情の水底に棹を深く
突き刺す気概で
やってみるもよし

667
才能をみせつけることと
よい詩を書くことは
違う

その詩の
身の丈にあった才能さえ
あてがってあげれば
いい

書き上げた時の達成感に
だから
頼りすぎない

おとなしい詩に
君らしいたった一滴の
能力を
こぼしてあげれば
じゅうぶんにみちわたる

668
失はれたもののみが美しく


書いたのは
黒田三郎さん

つかんでいたものを
はなす
瞬間

美しいのは
覚えられない頭脳のうつむきなのか

あるいは
失われたものの形なのか

それとも
探し求める心向きなのか

私自身が失われている

感じる時
つまらないいきものでいることの喜びが
満ちてくる

669
ぼくの仕合わせは
その資格がなくても
詩を書かずにはいられないという
そのこと


書いたのは
山之口貘さん

この言葉
僕はときどき思い出して
もたれかかる

たぶん
その資格をもっている人なんて
世界中
どこにもいない

どんな資格も
身につけることを潔しとしない人だけ
せめて
詩が書ける

670
腹の立つときでないと詩を書かない


言ったのは
金子光晴さん

腹を立てるって
どうやるのだったろう

腹を立てることと
悲しくて仕方がないことは
トナリドウシ

このところずっと
腹を立てたことが
ないな

まっとうな詩が書けないことと
まっとうな人生を送れないことと
どちらが腹が立つだろう

671
僕も若い頃は
投稿した詩をずいぶん落とされた

自分が落とされた号に載っている人の詩くらい
輝かしく見えるものは
ない

自分だってあっち側にいきたいと
真に思う

でも
そうは簡単に
この世は出来ていなくて

何とかしてあげる手だては
思いつかない

今は今

落ちるほどに
深まれ

言えるばかり

672
自分の書いている詩が
いわゆる現代詩とは
違うと
感じている人は
多い

実は僕も
そうだった

でも
そんなことは気にすることはないのだと
その内わかってくる

現代詩と違う
ということは
むしろ現代詩に
新しい地平を見せつけること

もしも君が
君の詩に沿って歩み
自らを突き詰めようとするならば

673
山村暮鳥の

「真実
ひとりなり」

という詩行が
忘れられない

真実

わざわざ断らなくても

ひとりは
ひとり

つまりはひとりより
もっとひとり
ということか


というのは
なにも突拍子もないことを
思いつく
必要はなく

そのものが
そのものであることの恐さを
単に示すこと

674
「幸せにならない方法」
という
本があったら
つい買ってしまいそうな
そんな日

言葉の内容と
その言い方の
どちらにどれだけ傷ついただろうと
あとで点検したくなる
そんな日

やることをやったら
ともかくも
開いてみようか

傷口のひとつと
詩集を一冊

675
人の詩に打たれて
あこがれを持つことは
かけがえのない喜び

でも
人の詩を羨んで
ああいうのになりたい
こういうのも取り入れたい
などと
迷い始めたら
危ない

自分の詩のそばにいてあげる

自分の詩をわかってあげる

自分の詩に失礼な態度をとらない

詩を愛するって
むずかしいことじやない

676
ふつうのことを
ふつうに書いても
詩はできない

だからと言って
ふつうは書かないことを
あえて書いたところで
詩はできない

詩を書くって
努力をして取り憑いてもらうこと

おそれずに
優しく自分に
取り憑かれてしまうこと

さすがにそこまですると
ふつうのことを
ふつうに書いても
詩ができる

677
生まれた意味のない詩なんて
ない

つまらない詩だって
ここにいてかまわない

月曜日の朝
接続詞だけで話をしようか

もう勤めにも行かないから
月曜日は月曜日ではなくなってしまった

週明けの雨は
遅刻に注意

僕は家でひたすら詩のそばに
いてあげよう

生まれた意味のない詩なんて
ないのなら

678
言葉がやってきてくれて
掴まえているうちに
詩ができた

自分で書いた
というより
何かに手を添えてもらっていた感じ

それでもその詩は
褒められて
自信をもってしまいそうになる

でも
自信なんかもったら
あとでしっぺ返しをくらう

だから偶然なのだと
考えよう

素敵に書けたこの詩も
生きる私も

679
いつまでもへたくそな詩を書いていたい

比喩として言うのではなく
正真正銘
へたくそな詩を
書いていたい

気の利いたところのない
謎のない
逆転のない
伸び代のない

言葉そのままの
それだけの
見え見えの詩を
書いていたい

私に似合う
世界のどこにもない
ひとつの
ど真ん中の詩を
書いていたい

680
好きになる仕組みを
学んでから
好きになったわけではない

その人も
詩も

気がついたら
好きになれていた

許可を得てから
好きになったわけでは
ない

その人も
詩も

ただ身勝手に
好きになってしまっていた

欠けているから
求めたわけではない

その人も
詩も

欠けた所を
見つめていたかった

681
詩は端から端まで
詩が満ちているべきで

ただ説明している行は
よろしくないと言われている

その言葉はたしかに
正しいと
思うんだけど

だからといって
極力説明を省いて
誰にも通じない詩は
詩でも
なくなってしまう

説明しろと
言っているのでは
なく
通じてもらうための綺麗な引きさがりも
必要

682
チカラのない方へ
身を寄せるのが
習性になってしまった

詩の世界って
全体がチカラがないから
それだから
好き

たまによくできた
詩が書けたり
どうしようもないものを書いてしまったり

結局は
どんな詩人も
それだけのこと

チカラのない
詩の
さらにチカラのない部分に
手をあてて
生きる

683
一篇の作品の動機というのは
驚くほどささやかなものだ


言ったのは辻征夫さん

辻さんが亡くなったのは
十八年前

新聞でそのことを知った

そのままの姿勢で
動けなかった

若い頃
詩が書けなくて
辻さんに
相談にのってもらったことがあった

真剣に聴いてくれていた表情が
ぼくの大切なたからもの

684
「わからなさ」が私に詩を書かせる因子なのです


書いたのは
吉野弘さん

生きていると
これは面白いなと感じることがある

でも
いったい何が面白いのだかがわからない

その「わからなさ」を
たぶん言っている

しっかりと向き合って
自分に分からせてあげる

それが詩を書くっていう行為なのかな

685
文学にたずさはる事を、人間の他の諸々の活動よりも何か格段に貴い事のやうに思ふ迷信


書いたのは
石川啄木

僕は文学を
他のことと比べてどうだ
とか
考えないけれども

貴い事の一つであるとは
受け止めている

本日は横浜で初心者のための詩の教室

見ればすごい初心者たちが
ひと部屋に集まる

686
どんな詩を書いていても
一度はたどり着くべきレベル
というものがある

ただ
まだそこに
たどり着いていない人に
それを説明するのはむずかしい

詩を書く時に
言葉を信じきっている人
あるいは
言葉に恐れを持っていない人は
そこに到達できていない

もっと明解な説明が見つかったら
また話をしよう

687
優れた詩が書けなかったとしても
さしあたって
君のせいではない

あえていうなら
よくわからないもののせい

だから自分にがっかりなんか
しなくていい

優れた詩が書けたとしても
さしあたって
君のおかげではない

あえていうなら
よくわからないもののおかげ

でもそんな時は少しだけ
いい気になる

688
しゃがんでもいいのだと思う
そういつもいつも背筋を伸ばして
立ち向かってなんていられない
そうしたいと願うなら
しゃがんでもいいのだと思う
半分の高さになって
普段は顔に吹く風を
やりすごしてもいいのだと思う
誰にも申し訳ないと思うことなどないし
どうどうと
しゃがみこんでもいいのだと思う

689
むずかしい舟に乗ろうとしていた

と書いたのはF
川口晴美さん

この一行を読んだだけで
この詩がことさらに素晴らしいものなのだと
感知することができるのは
なぜだろう

詩というのはつくづく不思議なものだと
思う

こうだからとは
説明のできないもの

ただ
生きている真ん中で
じかに受けとるもの

690
まだ目ざめたばかりの
海を持って
君に会いに行く


「ガーネット」で書いているのは
高階杞一さん

これだけでは
そうか
そうきたか

済んでしまうかもしれない

高階さんの
すごいのは
そのまま詩の最後まで
海を持ったままでいるところ

だれも高階さんを止めようとしない

高階さん自身でさえ

691
やさしさとは
ほうれん草の根元の
あの紅の色のようなものだ


書いたのは
高田敏子さん

うかつにも
僕はほうれん草を
じっと見つめたことなど
なかった

見つめたことがなかった
物たちが
今夜僕のまわりに
集まって

やさしさとは
無理をしなくていいのだと
言葉以外で
しめしてくれること

692
詩を書くなら
選ばれた詩人になりたいと願うのは当然

でも
選ばれた詩人になれるかどうかは
悲しいかな意思とは関係がない

才能とか機会とか要領とか
そういうのに
かかずらっているヒマはないはず

するべきは
自分の個性に寄り添って
それをしっかり育てあげること

きれいごとかもしれないけど

693
その時代の
雑誌に投稿していた多くの人たちの詩は
次の時代が来るとともに
忘れ去られてしまう

それって昔の
ことだけではなく

この時の詩人にも
あてはまる

長い目でみれば
どんな詩人も
無名性のせいくらべ

だからどうだと言うのではないけど

それでもつい
熱情を作品にしっかり込めてしまう

694
投稿詩を読んでいると
不器用で
つまらない詩ばかり書いてしまう人がいる

そんなときは
走って行って
その人の背中越しに手を包み込んで
詩の方向を
具体的に示してあげたくなる

でも
そうしてもたぶん
手を放した途端に
もとの方へ戻ってしまう

つまらないことの意味を
自身で深く
理解しなければ

695
詩というものは
意味が通じるかどうかを
競うものではない

書かれているものの
意味が通じようと
通じまいと
そんなことはどうでもいい

ただそれは
通じなくても
読者を強くつかみ取るものを
獲得できている詩だけについて
言えること

特段の長所を
持たない詩は
ともかくも通じる詩で
ありたい

696
一連目で
状況の説明であったり
なぜ書かれたのかをまず
説明している詩がある

いわゆる導入部

詩を書き上げたら
その一連目を思い切って
捨てる

もとは後ろの方で
安心して俯いていた詩行を
先頭にさらすことによって
流れている血液に
触れることができる

詩はいつだって
じかに
触れるもの

697
いいなと思う詩は
たいてい直喩が優れている

だから日曜日
もし暇なら
直喩を磨く練習をしてみるのもいい

あらゆるものを
何かに喩えてみる

自分の人生でさえ
例外でなく

何を
何に喩えるかは
知性そのものによるものかもしれない

知性を超えた直喩が
たまにできてしまうところが
創作の不思議

698
詩を書けばその詩が
褒められることを願うのは
当たり前

詩集を出せばそれが
賞をとらないかと夢見る人を
誰も笑えない

でも
詩って
それだけではないはず

比べられるために
うまれたのではない

書き上げられた時にその詩が
どれほど興奮して
愛されたか

いつも冷静に
そのことに身を寄せていたい

699
詩を書く人って
もしかしたら
言葉に一番嫌われている人のことを
言うのかも知れない

だからやむにやまれず
言葉に手を差しのばす

詩を書く人って
もしかしたら
誰にも愛されない人のことを
言うのかも知れない

だから言葉巧みに
人へ分け入ってゆこうとする

誰でもいいから
もたれかかろうとする

700
自分の才能がどれほどのものかなんて
知ったところで何にもならない

そりゃあ詩の書き方を必死に学んで
ある程度のところまでは行ける

でも
それから先どんなものを書くことができるかは
自分ではない何かが
決めてくれる

だからじっとして
ただ書けるものを
書いている

それだけ
それだけだ

701
幸せな人には詩が書けない
っていうけど
だったら私は何を書いている?

幸せな人には素敵な詩が書けない
ということだと言われれば
なるほどと思うけど
でも不幸な時には素敵な詩が書けていたのか

充分に幸せな時には
それを知られてはならない

知られたら
無くすから
腕で隠すように詩を書いている

702
自分に飽きる
ということが
たまにある

そういう時は
詩を書く

でも
自分が書いた詩に飽きる
ということも
ある

というより
たいていは飽きているし
うんざりしている

そのうんざりが
結局のところ
新しいものを生み出すのだから
不思議と言えば
不思議

703
余す決断
というのも
詩作には必要だと思う

興が乗ったら
書きたいだけ書いてしまう

というのは
それ自体仕方がないことだとは
思うけど

そうすると
過剰な作品が
出来上がってしまう

読む人が抱えられないものが
できてしまう

書かれなかった行(ぎょう)を
いくつか持つ
詩でありたい

704
もしもどこかに
「優れた詩を作る」機械が
一台売っていたとしても
買わずに通り過ぎるだろう

詩を書くって
思うようにならないことへうつむける志に
ほかならないから

なぜ同じヒトが
つまらない詩を書いたりそうでもない詩を書いたり
するんだろうと
問いかけてゆく一途さに
ほかならないから

705
この人生を終えるときに
後悔をしないためには何をするか

いろいろあるけど
一番は
「本当に書きたいものを書いてきたか」
っていうこと

そんなの簡単じゃないかって
思う人もいるかも知れない

でも
そうでもない

だから日々
軌道修正しなければ

本当に書きたいものを
書きたいように書いているか

706
詩には
向こう側に
それを作った人がいる

でも
そうではなく
誰がいつ
作ったものとも知れず
あらかじめあったような詩

その詩がなかったら世界は
こんなふうには出来上がっていないだろう詩

そんなのが心底
書きたいんだ

一つの詩が
この世の隅々までと
うっかりつりあってしまうような

707
ここに生まれてきたって
いうことはね
せいぜいそっちでうっとりとしてこいよって
背中を押されてきたって
いうことだと
思うんだ

だからせっかく詩を書くんなら
いつだって涙ぐんで
書いていたい

命に限りがあることは
素敵なこと

限られたその内側を
丁寧に私の言葉で
満たすことができるから

708
国会図書館で
昔の文章を調べていたら
当時書いた自分の詩に
でくわす

中には
全く記憶にないものがあり

あちこちに目を配って
どうしようもない詩ばかりを
書いていたな

思い出せなかったのは
なにものかであると勘違いをしていた
奇妙な人が書いていたから

せめて私は
私の詩を書くこと

709
(問い)すごくない私の体験や感覚から作る詩に意味があるだろうか

あると思う

自分のことをすごくないと思っている人は
人のことをすごいと
思える人

そういう人にしかすごい詩は
書けない

詩は体験の大きさにも
勉強や仕事の要領にも
無関係

人の詩のすごさにうたれたことがあるなら
それで充分

710
(問い)詩はある程度の分かりにくさが必要でしょうか

くだらない質問に見えるけど
詩の世界では
実はそうでもない

もちろん
わかりにくいかどうかで
詩の価値は決まらない

わかりやすいというだけで
その詩を軽視するような人を
感動させられるかどうかは

こんな答えではなく
君の詩が担っている

711
(問い)詩作には経験の積み重ねってないのだろうか

新しい一篇を書く時には
初めの所に戻る

内容だけではなく
どんなふうに
という
入れ物から作り始める

言葉の扱い方
という面では
積み重ねはある

でも
詩を書こうとする衝動のところは
いつだって初心者

そこにこそ詩作の意味と
恐さがある

712
(問い)現代詩は一般読者ではなく詩壇のものになってはいないか

言いたいことはたぶん
難解な詩がはびこっていると
いうこと

でも
詩壇の中心に何があろうとも
優れた詩は
その眩しい個性によって拾い上げられるだろうと
僕は信じる

大切なのは
どんな一篇の詩も
今夜
書くことができるということ

713
(問い)現代詩というものと、私が書いているものは違うもののような気がする。どうしたらいいのだろう。

気にすることはない

現代詩と違う
ということは
むしろ現代詩に
新しい地平を見つけようとしていること

君の詩に沿って歩み
自らを愚直に突き詰める

既存の詩に身を寄せない

そのままでいい

714
(問い)よい詩集が沢山埋もれています。むしろ有名な詩人の詩集よりも。なんとかならないでしょうか。

賞だけが評価ではないし
有名になることだけが本望ではない

少数の読者が
どこかで君の詩に深くうたれている

それ以上に何を望むだろう

そんなきれい事の貧しい答えしか
僕にはできない
ごめん

715
(問い)詩はPCで打つのと手書きで書くのに差異はありますか?

ある

詩は顔の後ろだけで作っているのではない
指先だって
考える

思考から文字へ
優しく受け渡す
その作法が影響を与えないわけがない

画面につらく立つ文字を
みっともない手書きにして
ノートに寝かしてみれば

流れ込む詩情もある

716
(問い)「推敲がいつまでも終わりません。いつか、これで完成と判断できるようになりますか?」

なります

予め書かれるためにあった詩は
この言葉がここにありたい
というのが決まっている

見つかるまではひたすら試みる

それでも見えない時には
推敲するほどの詩にも
なっていなかったということ

717
(問い)詩を詩たらしめているものは何でしょうか?

じかに触れること

むしょうに表現したいことを
手づかみで言葉に置いてゆくこと

形式や方法をバカにして
生のままでこの世に触れること

誰にでもできて
いつまでもたどり着けないもの

回り道をしたくない人の
面倒くさがり屋の文学

718
(問い)
「自分がなりたいと思っている詩人の詩と、今書いているものとは違いがある。そのうち、書きたいと思う詩が書けるようになるのだろうか」

たとえば僕は
ずっと清水哲男さんになりたいと思っていた

清水さんのような詩を書きたいって

でもしばらくしたら
それは無理だってわかった

近づきたいと思っていい詩人と
思ってはいけない詩人がいる

資質とかタイプとか
そういうふうに言ってしまうと身もふたもないけど

自分が書ける詩
というか
書いてしまう詩って
自分で決められる部分と
どうあってもそうなってしまう部分があって
思い通りにはいかない

個性って
自分で作るものではなくて
いつのまにかまとわりついてくるもの

だから個性
というものは
ぬぐい去ろうとするのではなく
活かすようにしてつきあってゆく


僕の個性を活かしても
どうしたって清水さんの作品には近づかない

清水哲男にはなれない

僕の書く詩は
清水さんのよりずっと泥臭くて
泣きべそで
センスのないものだった

そんなものでも
僕の大切な
個性ではあるわけで

僕には僕の書き方があり
書くものがあるんだって
当たり前のところにもどってくるわけ

影響を受けることと
似ることは
違う

だから
自分がなりたいと思っている詩人のようには
なれない

でも
なれないから与えられるものが
たくさんある

なりたい詩人のようには
なれなくても

いつか君のような詩人になりたいと
思われる詩人には
もしかしたら
なれる

719
(問い)
「人が面白いという小説を読んでいても、すぐに飽きてしまう。長いものが読めない。詩もホントにいいなというもの以外は退屈で、詩集も途中で放り出してしまう。こんな状態で詩を書き続けてゆく資格はあるのだろうか。」

本を読めば読むほどに
失われてゆくものもある

なまけものの勝手な言いぐさだけどね

実は僕も
すぐに飽きてしまう

でも本を読む行為って
人と比べるものじゃないのではないだろうか

その人の人生と
飽きっぽさに見合った読書量
というものが
たぶん
生まれたときの目次には
書かれている

だから僕は
実際にはたくさんは読んでいない

それはたぶん
読むことよりもむしろ
本を眺めること
本を膝に乗せること
本にやさしく触れること
本のことを考えているのが
好きなだけじゃないかって
思う

詩を書くってことは
それに似ていて
書くっていうことに
ちょっと触れるだけで満足してしまう

僕が詩を書くっていうのは
あこがれるものに軽く触れる形でしか
世界とつきあってゆくことができないからなのかなと
思うわけ

好きな本を選んで
選んだ時点でもう
なにごとかを成し遂げたように疲れてしまう

そんな自分のことを
なんてダメな人間なのだろうと
自分にがっかりしている方が
僕の性分に合っている

なんてダメな人間なのだろうって思う
その後ろめたさが
ものごとのとらえ方にもつながっていて
それが詩を書く根拠にもなるんだって
今は思っている

詩集を途中で放り出してしまったってかまわない

自分のふがいなさを感じられる人だから
人の気持ちに通じる詩を
書くことができる

720
ちょっとした思いつきを詩にして
自然と出てくる言葉を書いて
いつもの信念で詩を終わる

楽しいならそれで構わないんだけど
もっとうまくなりたいなら
立ち止まってみる

詩はみんなとおんなじであることを書くことで
それでいて
みんなと違うということを書くことなんだ

この謎々を
まず解いてみる

721
(問い)
「詩を書こうとすることによって、見ている風景や言葉を、「詩になる/詩にならない」に(意識的にであれ結果としてであれ)選別することになってしまうことについてです。
選別・選択する者であり続けることは、快感と同時に、不快もつきまとうように思います。「偶然性」や「言葉が降りてくる」といった詩の語り方は、選択の不快への裏返しのようにも見えます。
詩を書こうとすることによって生まれる「選ばれなかったこと」「選ばれなかった言葉」は、詩にとって何なのか。」

(答え)
質問の意味は分かるんだけど
書かれている内容がわからないところがある

というのも
詩を作るときに風景や言葉を選ぶことが
なぜこの質問者にとって不快なのかがわからない

選択をしてはいけないという前提がどこかにあるのか
そこがわからない

詩を書くときに
自分が惹きつけられるものや言葉があるのは当然なわけで
その当然な感情に
不快感や罪悪感のようなものを感じるのだろうか

言葉を選び取る
題材を選び取る
という「選び取る」という行為はそれほどに汚れた行為なのだろうか

だれだって世界をまるごと抱きしめることはできない
選んだものだけを自分のそばに置いておきたいと思う

それに
作者が言葉を選んでいるのか
言葉が作者を選んでいるのかさえ
不明なところがある

選ばれなかった言葉は
いつか選ばれることを
どこかで所在なく待ち続けているのか

あるいは詩になることをさらさら望んでいない
君に背を向けた言葉であるのだろうか

こんなことを感じてしまう僕は
おそらくこの質問者ほどの細やかな感性を持ち合わせていない

あらゆる人を愛することはできないように
あらゆる言葉を詩にすることはできない

問題をすりかえるようで
申し訳ないけど
選ばれなかった風景や言葉に
これほどの思いを託せる君ならば
その感じ方に見合った詩が
まちがいなく書けるだろう

722
(問い)
「無自覚に表出していく詩語は誰でもなんとなく表現としては似通ってくる一方、表現に留意すると今度は真情が表出されない・本当の気持ちが書きたいのに書けないという、ある種の考え方について、どのように考えているか。(そもそもその考え方が違うと思う、など)」

(答え)

そもそもこの考え方が違うとは
思わない

言葉の先鋭さ(ここでは表現と言っている)を求めると
書きたいことから離れてしまうという
ことなのだろう

言いかえるならば「言葉」と「心情」が両立しないと
いうことなのか

おそらくこれは
詩の完成度の問題とつながっているのでは
ないだろうか

というのが
僕のさしあたっての
感じかた

平たく言えば
「言葉」と「心情」
あるいは「方法」と「内容」が
両立していないなー

感じているあいだは
まだ一人前の作品ではないのだと思うんだけど
どうだろう

つまり「言葉」と「心情」がともに
十全とした姿で詩にぴたりと収まっている作品を
傑作というのでは
ないのだろうか

すぐれた詩を読んでいるときには
言葉が突出しているとか
心情ばかりが目立つとか
そんなことを感じることは
ない

たったひとつの詩が
ここにある

というだけで
そのものの部分を引きはがすなんて
考えもしない

「言葉」と「心情」が
たったひとつの「物」として
ある

創作物って
なんてすごいんだって
詩の前で
涙ぐみもする

723
(問い)
「詩の教室って、興味がないわけではない。でもたくさんの人の中で自分の詩をさらすのは恥ずかしいし、先生に何を言われるのか恐い。先生に、事前に私の詩を見てもらって相談したほうがいいのでしょうか。」

(答え)

僕は今
月に一度横浜で詩の教室をやっているけど
自分が生徒として通ったことはない

だからこの答えには
説得力がないかも知れないけど
今思い返せば
もう少し勇気を出して参加しておけばよかったなと思っている

詩を書くっていうのは
言うまでもなく孤独な作業であるわけで
でもそのこと自体は別に問題とすることでもなくて
自分と向き合うためには
基本
自分だけしか必要ではない

ただ
どんな物事でも自己流というものには限界がある

あるいは
自分のよさをわかっているのは
必ずしも自分ではない

詩を書く人って
まあ例外はいるけど
人と付き合うことが苦手な人が多い


詩を書いていて
さしあたって誰とも接触しなくても問題はない
自分がいて
紙とペンがあれば
あるいはスマホがあれば詩はできる

詩はできるけど
でも
それで充分だとは必ずしも
言えない

変な言い方だけど
さしあたって必要がないからこそ
だからこそ
出かけたほうがいい

自分以外の場所で
詩のあるところへともかく行ってみる

行って見ることの意味無意味を
自分で判断したほうがいい

詩の講演を聴きにいくのもいいし
同人誌に入ってもいい
詩を書く友人と話をするのもいい

そういうのも悪くないんだけど
やっぱり詩の教室なんかで
定期的に
あるいは継続的に詩を通じて会話をすることは
間違いなく自分の詩の成長に役立つと思う

詩の教室って言うと
たいてい書いたものを持っていって
講師の講評を受ける形になると思う

そんなとき
自分の詩のだめなところを指摘されるとホント元気なくなるし
だったら一人で好きに書いていたほうがいいやと思うかも知れない

そういう気持ちが強いなら
それはそれで構わない

でも
講師が言った言葉の切れ端に
何か次の詩へ向けたヒントになるようなものが
ホンの少しでもあると感じたら
続けて通ったほうがいい

人の言うことって
ばかにならない

講師って
自分ではろくな詩が書けなくても
人には的確なことを言ってくれることが
あるもの

真にすぐれた詩を書きたいと願うなら
ひとりで格好つけている場合じゃない

忙しい時間を何とか工夫をして詩の教室へ通ったり
あるいは詩人の座談会を聞きに行ったりしてもいい
ともかく詩のために外へ出かけることは
君の詩を育ててくれる

詩の教室って
初めから参加を申し込まずに
まずは見学っていう形で一度見に行ったほうがいい

そこで講師の質もわかるし
参加者の態度もおおむね分かると思う

いやな思いをしてまで行くところではない

自分が心地よくいられるのであれば
自分の詩のためには
行ってあげたほうがいい

724
(問い)
「詩を書く姿勢、態度のようなものが自分のなかで二つあります。それは、詩を書くものとしてブレているでしょうか。その二つとは具体的には、ポーズとしての自分の詩。もうひとつは、なんの考えも構えもない詩。どちらの態度、姿勢で書くべきなのかという疑問です。例えば、著名な詩人のようなものを書きたいというときはフォルムのようなものがあって、そのポーズを大事にして書くわけです。それとは別の、もうひとつのほうは簡単に言えば自己満足の詩。この二つってなんなのでしょうか。」

(答え)
長い質問だけど
要約すると
詩を書くときに
場合によって二つの方法をとっている
ひとつは自然発生的に書きたいと思うから書いているもの
もうひとつは
こうしたら「いい詩」になるのだという方法に則って書いているもの

そういうことだろう

でもこの二つって
本当に二つだろうか

二つではないと
僕は思う

自然発生的に書くもののうちにも
「いい詩」になりたいという欲求はいやおうなく含まれているはずだし
方法に則って書いている詩も
君の個性に裏打ちされているはず

どちらかの道を選んでいるつもりでも
もう一つの道がその中にきちんと
ひそんでいる

だから
安心していい

どちらの思いが強くあるべきかは
その都度作品に決めてもらう

というよりも作品ごとに
君がすでに決めているはず

だって
これは作品にたどりくための
避けられないひとつの
ステップでもあるわけだから

だからこういう思いを持つっていうのは
決してブレていることとは思わない

むしろどちらにも身をもたせかけることができるという
創作の喜びでもある

この質問には
間違いのないことがひとつあって

つまり
君が詩について正当に悩んでいるという
あかしだということ

725
(問い) 詩の中で句読点がつくことについて、どのように読むか。(詩をたくさん読んできた方の経験から考えていること、感じていることを聞いてみたい)」

(答え)
こういう質問もくるんだ
というのが
僕の率直な驚き

というのも
そんなこと気にも止めていなかったから


この質問が来てから
さてと
机の前に座り直したわけ

世の中には
ひとにとってはどうでもいいことでも
自分にとってはどうしても
気になって仕方がないということがあるわけで

この質問者にとってはもちろん
大切な問題であり

そういえば詩には句読点のある詩と
ない詩があったなと
あらためて気づかされたってわけ

普通に考えるなら
詩においては
改行が読点(てん)がわり
空き行で連を区切るのが句点(まる)がわり
ということなので
だから僕は詩には
必要と感じないから句読点はつけない

でも
改行の息の止めかたの大きさ
激しさ
切なさ
とは
違った種類のものを欲しいときには
(てん)をそっと打つっていう行為も
あってかまわないと思う

広っぱのように何もない空き行よりも
ここではっきりと止めたいという時には
(まる)を重く置いても
かまわない

要は人によって
詩によって
自由なわけだし

自由
というよりも
それによって思いの丈が表されるのであれば
(てん)だって(まる)だって
好きなところに好きなだけ置いたってかまわないっていうこと

では
読むほうはどうするかっていうと
(そもそもこれが質問だったかな)
当たり前の答えになってしまうかも
知れないけど

詩のあるがままに読む
ということに
尽きると思う

表した姿をひたすら尊重して受け止める

句読点の真意とか
なんとか
よりも

1篇ごとに
何も考えずにまっさらな状態で受け止めていればいいと
思う

726
(問い)同人誌って、合評会で辛辣なことを言われるのだろうか。どんな雑誌に入ったらいいだろう。

(答え)
今更言うまでもないことだけど
同人誌って
日本の詩の世界ではすごく重要なもの

今このときに詩は
どんなところにいるかっていうことを知るためには
同人誌を読んでみるといいって
いうこと
あるいは読んでおくべきだって
いうこと

詩以外のジャンルは知らないけど
詩の世界では
詩誌 
同人誌っていうのは
大切な発表媒体であるわけ

もちろん商業誌も発表する場ではあるけど
一年に何度も商業誌に
詩を書ける人なんて
それほど多くはない

そうなるとたいていの詩人にとっての発表の場は
詩集と
同人誌になる

詩集はもちろん最強の武器であるわけだけど
出すのにお金がかかるし
生涯でそんなに頻繁に
出版することはできない

だからさしあたって
書いたものをすぐに発表できるのは
同人誌ということになる

同人誌って
ただ詩人がたまたま集まった
というだけのものではなくて

そこに集まる人たちの詩が
束ねられて読まれたり
全体で評価されることもある

つまりこの雑誌のこの詩人の詩はこうだって
いうだけでは
なくて
この雑誌はこうだって
いうこと

同人誌そのものが
一人の詩人のように扱われる

詩の歴史を見てみると
なんでこんなにすぐれた詩人ばかりが一ヶ所に集まったんだろうって思われる
奇跡のような雑誌が時々
出てくる

それって
もちろん個々の詩人が素晴らしいっていうこともあるけど
その同人誌に参加することによって
その人のよさが
さらに引き出されたのだろうと
思わざるを得ないことが
よくある

集まることによって
お互いのできることが
さらにせり上がってくる

たとえ喫茶店で集まって
黙っているだけでも
お互いの背中が熱く影響をしあってゆく

それから同人誌は
すでにあるものに参加するのもいいけど
できたら
この人となら
という詩人に声をかけて
自分たちで新しく始めたほうが
素敵だと思う

同人誌で出会った出来事は
同人誌を始めなければ知ることのなかったもの

みんなでまなざしを同じほうへ向けるなんてことは
生きていてそんなには
ない

なによりも
もっと一緒にいたいと思える人と
孤独を共有できる

727
お金がたまったら
詩集を出そうかと考えている人がいて

でも
キッチンのリフォームもしたいなと
家族は思っている

その人が
どうすべきかなんて
僕には決められない

対面式で朝食をとることの利便性
窓に付かなくなる結露
家族みんなの笑顔に
まさるほどの詩が書けているかを
冷静に
検証してみる

728
(問い)
詩で表現された事柄が、読み手にフィクションと受け取られたり、事実もしくは真情と受け取られたりすることを、意識して松下さんは詩作するか。(表現の虚実を操作して、読ませたい読み方に誘導するような意識をもつか。)またはそういうことは考慮しないか。

(答え)
それは個々の詩に決めてもらっている
というのが
正直な答

というのも
基本的に何も書くことがないという位置から
ものごとを発想し
それを書いてきたつもりだから

だからその発想が
何かの事実をなぞっている場合にも
その事実をそのまま伝えようとするのではなく
どんなふうに書いたら言葉が美しく見えるか
ということをまず考えて
詩を書く

ただ
詩が書き上がったあとで
これが事実として読まれたらどうするかと
気になることはある

特に
特定の人を連想してしまうような詩を書いてしまったときには
すごく意識する

そういう場合は
書き直したりもする

でも
通常書いている時は
事実として読まれるかフィクションとして読まれるかは
意識しない

というのも
(いろんな読者がいるから)
万が一その詩が事実として読まれても
だれも困らないことを書くように
戒めているから

ただ
一度だけ
亡くなった人のことを長い詩に書いたことがあるんだけど
それを書いたときには
さすがにこれは事実として読まれてしまうだろうなと
気になった

その時だけは
つらい例外

あとは気にしない
誰が読んでも
だれも傷つかないことだけを
書くように心がけている

729
(問い)
詩の商業誌って難しく感じますが、読んだほうがいいですか

(答え)
一冊の中で
心奪われる所が一ヶ所でもあるのなら
読んだほうがいい

全ページを丹念に読む必要は
ない

自分には難しいと
思われる所は
その理由を知るためにも
あるいは
いつか読むことができるようになる日の
ためにも

730
(問い)
「一度書いた発想はもう使えない。だから詩はだんだんつまらないものになってくる。それでも書き続ける意味はあるのだろうか。」

(答え)
これは詩に限らず
ものを作る人間にはとても厳しい質問ではある

書き始めの頃は
何を思いつき
何を書こうとも
初めてのことだから
すべてがういういしい

でも
詩集を2冊ほど出す頃になると
たいていの詩人は悩み始める

もう自分から生み出されるものは何もないのではないか
それなのに無理をして
ただ書きつづけているのではないのかと
考えてしまう

いや
2冊目の詩集どころか
最初の詩集にすべてが盛り込まれてしまうと考えたほうが
いいかもしれない

だからたいていの詩人は
初めての詩集だけが衝撃的なものになる

そこから先は
言葉の角が取れて読みやすくなったりはするけど
驚きは
失われる

とはいうものの
では
詩人には第一詩集だけがあれば
もういらないのかって
いうと
モノゴトはそれほど単純ではない

ずっと晩年に
とんでもないものを書き上げた詩人だって
まれにではあっても
いることはいる

ある時
それまでとは違った激しさで
突き上げてくるものを与えられる日が
来ないとも限らない

そういうのが来るか来ないかっていうのは
君自身にだって
わからない

君がこれからできることを知っているのは
君ではない

すぐれた詩を書こうと願い
ひたすら書き続けていれば

もしかしたら
最初の詩集よりずっと前に書いておくべきだった詩を
思い出すことだって
あるかもしれない

731
(問い)
倦怠感、不安感、重たい気持ち。生きていれば直面するさまざまな負のもの。詩を書くときに、素直な気持ちであればあるほど、そうしたものも道連れにしてしまうもの。詩を書くときだけ喜びを感じる。そんなふうになれたらいいけど、そう単純じゃない。複雑なわたしとずっと付き合っていく。こんなわたしは、どんな詩を書いたらいいのか、わからなくなるときがあります。

(答え)
これは確かに
詩に関する質問ではあるけど
むしろ
詩を書こうとするその前の問題を
問うている

質問者は
人生の倦怠感、不安感、重たい気持ちを
詩に
引きずらずに済ませたい

思っている

気持ちは分かるけど
そんなの無理

無理だと思う

程度の差はあれ
だれだって
実人生の悩みを引きずったまま
もやもやしながら
詩に向かう

詩に
もやもやが透けて見えないなんて
ありえない

詩を書くときに
実人生の苦しみをすべて忘れる必要はないし
そんなふうに書かれた詩は
さぞ薄っぺらなものにしかならないだろう

生きるっていうのは
やるべきことに次々と襲われ
やったあとの後悔をひたすら引きずる
そういうことだと思う

詩は
悲しいかな生きている人が
書くものであるわけだ

かといって
実人生の倦怠感、不安感、重たい気持ちは
詩を書くことで多少なりとも
緩和できたらいいのだけど
そういうこともないわけではないけど
保証はできない

それよりも
詩を書き続けることには
別種の苦しみがあることを
おぼえておこう

将来
君の詩が誉めそやされることもあるだろう
特にそういう時には
気をつけよう

もっと誉められたいという
みっともない気持ちに
負けてしまうことがある

もっともっと誉められたいという気持ちは
限りがなくて
無限に続く

その無限が
ゆくゆくはひどい苦しみに変わってゆく

話が飛んでしまったので
もとにもどそう

対処できない現実の悩みを抱えながら書く

つまりはそれを
詩というんだ

732
(問い)
目次が最後にくる詩集がたまにあるが、あれはなぜか。

(答え)
こんなことを疑問に思っている人がいるとは
思わなかった

だって
生きていると
もっと切実に知りたいと思うべきことが
やまほどあるから

それはともかく
たしかにたいていの詩集の目次は
初めの方にある


この質問に対して
僕のトクベツな見解なんて
あるわけがない

だから
常識的に考えてどうなのか
というものを
並べてみよう

(1)みんなと同じなのがいやで、人と違った順番にしたかった。
(2)篇數がたくさんあるので、目次を見ただけで読者が読む気をなくしてしまうのではないかと心配になった。
(3)目次よりもなによりも、とにかく最初の詩に自信があるので、すぐに読んでもらいたかった。
(4)本来は詩集に目次は必要ではないと思っている。それでも編集者が載せろというから仕方なく最後に置いた。
(5)詩の題をつけるのが下手だから。
(6)気まぐれ

こんなところかな


つまり
まだまだいろんな理由は考えられるけど
真の理由は作者にしかわからない

僕はもともと
目次なんていらないと思っている

おとなしく整列した詩なんて
詩ではないように思えるから

本の
どこを開いてもいきなり
恥ずかしげな詩がでてくる

それでいい

733
「人が死ぬと
人に詰めてあったことばのいっさいは
舟に積んで流す」


書いたのは
時里二郎さん

時里さんの詩は
想像力をたくさん舟に乗せて
向こう岸からこちらへ
押しやってくれる

今朝もわが家の
ダイニングテーブルの
縁までただよってきた

人はきれいなことばの
詰め物ですか

734
「どうしようもないほどの
あなたたちのかたまり」


書いたのはタケイ・リエ さん

これほどのびやかな日本語は
詩の外の
ふつうの生活では使われない

タケイさんはたぶん
言葉をうすくのばす機械を持っている

のばしすぎて
うっかり言葉のむこうがわが
透けて見えてしまうことも
あるのだろう

735
(問い)
「詩がわかりづらいというのは、日本だけの問題でしょうか。」

(答え)
もちろん土地土地の状況の違いは
あると思う

でも

というものが
母国語の可能性を広げようとするものならば
詩はおのずから
わかりづらくもなる

本来あるべき言葉の役割をないがしろにしていると
思われることだって
ある

つまりね
普通に歩いている人たちの中で
一人だけ飛び跳ねて行く人を見れば
なんだあの人は

怪訝に思われることもある
ということなんだ

ただ
思い違いをしてはいけないのは
わかりづらいから詩なのだ
ということではないこと

わかりづらくすれば詩になるんだ
ということではないこと

わかりづらさの向こうに
わかることよりも深いものがなければ
詩ではないということなんだ

先日
図書館で読んだ詩に次のようなのが
あった

バングラデシュのアル・マームドという人の詩の
抜粋だけど

「詩なんかわからない、このベンガルのだれも、
この国の数えきれない農民も小間使いも、
医者も法廷弁護士も事務弁護士も、
警官も警部も学生も教授もみな
詩に関しては語るべきものをもたない!」

この詩人はこうも書いている

「詩なんかわからない、ベンガルの虎も
犬も猫も黒い山羊も、
兎もカメレオンも賢い猿も
とぐろを巻くすべての蛇も!」

だから
どんな国でも
詩を共有できるのは一部の人だけ

詩が
その本来のあり方であり続ける限り
時に
詩は読者を追い越してしまう

日本だけの問題ではないと
思うよ

736
「泣く以外に体の使い道がないかのように」

書いたのは
野木京子さん

詩を読んでいて
はっとさせられるのは
そんな1行を
僕に書けなかったと
思う時

詩を読んでいて
ほっとするのは
この1行が小引き出しに
ずっとしまわれていて
やっと見つけられて
出てきたように
感じる時

737
(問い)
詩を書いているんですけど、きちんと勉強したことがないんです。何を読んだらいいですか。

(答え)
この質問は
メールで受け取ったわけではなくて
先日の詩の教室の帰りの
飲み会でのこと

隣に座っていた女性から
こんな質問を受けたわけ

飲み屋だからがやがやしていたし
たぶん途中までしか答えられなかったから
その続き

詩の解説本や
評論や
詩の歴史の本を読むのも
悪くはないんだけど

やっぱり詩は
詩をじかに読んでいたい

読む本はいくらでもあるわけで
だからこういう質問が出てきたんだろうと
思う

詩の初心者にとって
さしあたって
読んでおくべき本は
思潮社から出ている「現代詩文庫」なのかなと
思う


「現代詩文庫」だって今や
何百冊も出ていて
どれから読んだらいいか
迷うだろうから

これは僕からのお薦めの
十五冊パック

もちろんまだまだあるんだけど
ともかくこれから読んだらいいのではないのかな
というもの

心を込めての
十五冊

1田村隆一
3岩田宏
5清岡卓行
6黒田三郎
12吉野弘
14吉岡実
20茨木のり子
26石原吉郎
27谷川俊太郎
33川崎洋
52寺山修司
67粕谷栄市
68清水哲男
75荒川洋治
155続・辻征夫

738
ぐみ ということばが好き
なみだぐむ
めぐむ


書いたのは中本道代さん

こういう詩はね
ことばから生まれたように見えるけど
そうではないんだ

ある日
ひとつのぐみが
中本さんの目の端に映っていた

映ったそのことが
力も入れずに詩をこしらえてくれた

力をこめたら
すぐに詩は
だめになるから

739
真夜中と真昼が
ぴったり重なったような
奇妙な美しい青空


書いたのは
大橋政人さん

真夜中と真昼が
両方のてのひらみたいに重なるなんて
やさしくて
素敵だ

ありえないことを書いて
みせられると
なぜか切なくなる

たぶん
わたしたちはここに
いやおうなく
ひとりぶん
あるから

740
「虹はいらんか」
雨あがりの顔をして歩く


書いたのは
北川朱実さん

こういう詩を読むと
だれしも
長い虹を肩に掛けて売り歩く人を
思い浮かべてしまう

買うのは人だろうか
空だろうか

思わず窓の外を
見上げてしまう

一冊の詩集を
読み終わって
首が下に向くものと
上を向けるものがある

741
断崖の病院から青くひろがる海を見た
平らだった


書いたのは
さとう三千魚さん

海が平らであることに
何の驚きがあるわけでもないのに

海が平らと
受けとめるこころの傾斜に
息をのんだ

「貨幣について」は
読んだ方がいいと
僕は思う

だんだん引き込まれてゆく詩集って
そんなにはない

742
詩は
言葉にならないことを
言葉で書く

でも
考えてみれば
毎日生きていて
無理をせずに
そのまま言葉になることなんて
ほとんどない

たいていは
言葉ではとうてい
言い当てられない
ことばかり

いったい
言葉でしっかり言えたこと
なんて
何があっただろう

743
詩を書くときに
心がけているのは
大それたものを書こうとしない

いうこと

ほうっておくと
つい
わけのわからないところへ
行ってしまうから
おしとどめて
ひきもどすこと

大それたものを書こうとしない
という
思いのくぼみに
溜まったしずくを
ひとつ
こぼせれば
それでいいんだと思う

744
それからもう一つ
心がけているのは
わたしは悩んでますよ
という詩を
書かないっていうこと

苦悩
という言葉には
なにも入っていないから

なんとかしてもらいたい
なんて気持ちで
詩は書きたくない

暗闇とか
底とか
裏側とか
溶け込むとか
落ちてゆく
とか

できたら詩に
持ち込みたくはない

745
軟弱な詩を書くことを
恐がっていたら
その先には進めない

いかにも詩
という詩を書き始めたら
いったん立ち止まる

本当の自分をさらけ出さなければ
人に見せるものには
たどりつかない

誰かと比べるために書いているのでないなら
下手だとか
幼稚だとか
言われてうろたえることは
ないはず

746
「流れる時は
どこを流れているのか」


書いたのは
愛敬浩一さん

時が
どこを流れているかなんて
考えたこと
なかったな

あらゆるところを
もれなく流れているものだと
思っていたから

もれなくって
いい言葉だ

詩を書くって
この
もれなくあるものに
あらためて
目を凝らすことなのかな

747
毎月
詩手帖の編集部から
沢山の投稿詩が送られてくる

すごい詩もあるけど
たいていは
不器用で
自分が見えていない詩

僕も投稿していたから
どうしてそうなってしまうのか
わかる

詩がへただというのは
悪いことじゃない

へたのまわりを
ずっとうろうろしていて
できてくる傑作のために
生きよう

748
寺山修司展を観ながら考えてしまうのは
今さらながらジャンルの境目
ということ

俳句や短歌
あるいは川柳で表現に触れてきた人が
詩を書くと
その中に
どこか違う家の
侮れないしきたりを感じることがある

人の気持ちにつながるために
日本語をどうにかしたい

せつない思いの熱量は
同じであっても

749
あなたは詩にとりつかれている

編集者に言われた

頭もいいわけじゃないし
生まれも普通

では何が残っているかっていうと
ずっと詩のことを考えている以外に
取り柄はないって
いうこと

いつもいつも
詩のことばかり思っていると
詩の方もさすがにあきれて
そこそこの詩を
書かせてくれるものさ

750
スカシタ言い方は
やめる

ヨソユキの漢語は
つかわない

気分よくリフレインを
しない

なんでもかんでも人に擬することを
やめる

体言止めも
やめる

沈むとか落ちるとか
深刻ぶるのを
やめる

自分をよくみせようと
しない

やさしさの安売りを
しない

暗鬱とか陰鬱とか
暗がついた方へ
向わない

751
歌はどうして作る
じっと観
じっと愛し
じっと抱きしめて作る

書いたのは与謝野晶子

若い頃は
なんにも抱きしめようとしなくても
向こうからいろんなものが
腕の中に飛び込んできてくれた

歳をとると
腕の中がからっぽになる

弱い力でも抱きしめられていて
くれるものを
愛するようになる

752
あまりおもしろいことを書くのはよそう


言ったのは
辻征夫さん

書いたものが大抵
おもしろいものになる辻さんだから
言えるんだな

最初は思っていたけど

そうではなくて
おもしろくしようとして書いたものなんて
おもしろいわけがないと
いうことかな

書けるものを
ただじっと書いていよう

753
Fさんと話をしていた時に
「日本の詩の背骨」
と口走った

口走ってから
そんなことを考えていたのかと
気づいた

詩の多様性や
個性の熱さは認めたうえで

時代や状況を超えて
読者を選ばず
にもかかわらず先端を行こうとする(した)詩人

谷川俊太郎
清水哲男
辻征夫

ここに日本の詩の背骨がある

754
教えてあげる

しゃれた詩が書ける人の
頭の中には
いつもしゃれた詩句が
たまっているわけでは
ないんだ

普段は空っぽ

それが
いざ詩を書く段になると
指先と
紙の間に
なぜか詩が
恥ずかしげに膨らんできて(カルメ焼き)
できてしまうんだ

だから
いつも心もとない人のことを
詩人っていうんだ

755
たとえば映画を観て
うっとりとして
でもその感動って
自分の中に収めておくには
もったいない

どこが
どういうふうに狂おしいほどに素敵だったかを
言葉で
この世に伝えようとする

詩を書くって
そういうことだと思うんだ

おおげさに考えることはない

ただ単に
好きな人に
好きなことを運びたい

756
無理をしない
自分を追いつめない
ただ書けるものを書く
だれに負い目を負う必要もない
自分の詩はダメだと思ってなんになる
人の優れた詩ににじり寄らない
卑屈にならない
ありふれていようが
へたくそと言われようが
無骨に書けるものを書く
書きたいと思うから書く
無性に書きたいと思うから
書く

757
咽喉のやさしいまがりかどでとけていく
角砂糖のような倦怠よ


書いたのは
大野新さん

どんなにたくさんの
比喩でできている詩だって
かまわない

だって
僕の命そのものが
どこかの詩人が書きとめた
何かの比喩でないとどうして言えるだろう

この人生は
とびきり愉快なひとつの
比喩でありたい

758
つい忘れがちだけど
オトコとかオンナとかの
前に
僕たちはただの

として
ここにあるのだということ

つい忘れがちだけど
「現代詩」を書いている
という
前に
僕たちはただの
「詩」を
書いているのだということ

一歩さがれば見えてくるもの

いやになるほど
単純なこと

759
詩にはね
詩に詳しい人だけがわかる
詩の世界の中の
詩と

そうではなくて
いつもは詩なんか興味もないという人でもわかる
詩の世界からはみ出した
詩が
ある

前者を僕は
否定をするつもりはない

そうでなければ伝えられないことも
たしかにあるから

ただ
行き過ぎないこと
行き過ぎないこと

760
質問
この頃何を書いたらいいのか
分らないのです

答え
何を書くべきか分らない
というのは
何を書いてもいいのだよという
お許しのようなもの

暗い詩はいつだって
だれにでも書ける

せっかくだから
鮮やかなもの
のんきに明るいほうへ自分を向けてくれるものを
書いたらどうだろう

せっかくだから

761
お前はまたうそをついて
お前のものでない物語を盗む
それが詩だといひながら

と書いたのは
立原道造

いったい
詩に書くほどの私の物語など
あるだろうか

いったい
一片の嘘も混じらない言葉など
あるだろうか

いったい
私はありふれた嘘つきだと
白状する以外に
詩を書く理由はあるだろうか

762
猫を描く

書いて
猫と描が
似た文字なのだなと
気づく

似た文字のことは
吉野弘さんが大抵
詩にしてしまっているから
二つの文字をむすびつけるのは
やめておこう

だったら吉野さん

やめておこう

引き下がってばかりいるこんな心持ちを
丁寧に詩にしてゆくというのは
どうでしょう

763
詩を書く
という行為は
詩人であるということの
ほんの一部でしか
ない

じゃあ詩人であることの
大部分はなにか
っていうと

単に
ありふれたわたくしである
ということ

764
詩をたくさん読んで
研究して
突き詰めて
言語にも哲学にも造詣が深くなって
いろんなことを知って
という人が

ロクに本も読む習慣のない
知性に欠けた人よりも
すぐれた詩が書けるか
というと
必ずしもそうではない

そこが詩の
不思議なところ

もちろん
必ずしも
というところを
忘れてはいけない

765
頭のいい人が書けないような詩を
書きたい

読んでもためにならない
詩を書きたい

誰が書いてもかまわないような
詩を書きたい

自分をきびしく見つめない詩を
書きたい

だれもが感じることから
一歩も出てゆかない詩を
書きたい

だれも不幸にしない
この世になにも付け加えない
詩を書きたい

766
わたしはやっぱり生きたいなって思って
ひとでなしになってもかいぶつになっても

書いたのは柴田千晶さん

ところで
こんな時に思い浮かべるかいぶつって
どんなだろう

すごくいやなことがあった夜にも
「やっぱり」

よわっちく立ち直ってしまうかいぶつ

ぜんぜん立ち直ってなんか
いないのに

767
どんな言葉遣いをして
詩の見栄えをよくするとか
目立とうとか
そういうことではないんだ

もちろんそれも大事でないとは
言わないけど

だれのために
なにをどれだけ迎え入れて
受け止め
丁寧に生きていられるかっていう
ことなんだ

言葉を身深くに
たずさえて
生きてゆけるかっていう
ことなんだ

768
詩に触れて生きる
というのは
なにも特別なことではなくて
すぐれた詩の
すぐれた箇所を
途方もなく素直に感じとることができる
それだけのことなんだ

ところで
自分にもいつか
すぐれた詩が書けるようになるかどうか
というのは
そのあとの
誰にも予測のできない
震えるような出来事でしかない

769
今夜が〆切なのに
どうしても詩ができない時って
ある

カケラもできてない

そういうときは
むしろ
できないっていうことを
嬉しく思ってみる

なにもできていない
というのは
これからどんな詩を書いてもいいのだよ

はてしもなく許されている状態

ひとつも詩を作ったことのない詩人が
私の理想

770
どんな詩でもかまわない

そりゃあ人が作るものだから
上手もあれば
へたもある

でもそんなこと問題ではない

心がけるべきは
リコウぶらずに
みずからをさらけだして
ただうっとりと
書くこと

その瞬間の価値だけは
だれにもなにも
言わせない

詩はたまに
私が私であることの
お礼状でありたい

771
詩を勉強するなら
まずは「現代詩手帖」の最新号を買ってくる

載っている作品を3つに区分けする

A すぐれている
B わからない。たぶん読みがとどかないから
C わからない。たぶん詩がつまらないから

時をおいて読み直すと
CからBへ
BからAへ
移ってゆくものがある

今の感性を信じすぎない
ことか

772
たくさんの投稿詩を読んでいると
たまに
ぜんぜん力みがなくて
ただ起きたことをそのまま書いた詩に
出会うことがある

言葉はそのまま

飾られてもいないし
工夫もない

あるがままの言葉が
すごく新鮮に感じられる

悲しくなるほどなんでもない言葉で
すごい詩が書けたら

いうのが
私の生涯の願い

773
私の才能はささやかかもしれない

有名な詩人のような煌びやかな詩は
書けない

でも
私だけのことを
私だけの言葉で
詩にすることはできる

人より秀でたいなんて思わない

どこにでもいる人でかまわない

目立たない人でいい

私には
生きている間に誰にも書けない詩を
少なくとも
書くことはできる

774
たとえば
鮮やかに受け止めた印象を詩にする時に

一連目で海に喩え
二連目で風に喩え
三連目で星に喩え

だれもがきれいだと感じるものを並べた詩は
多い

いけないというわけでは
ないけど
並列は
書き手が思うほどの効果を
持たない

並べずに
たったひとつの
大切な言葉を差し出せば
詩は充分

775
歯を磨く
という一行を書いたら
次に何を書くだろう

たのむから
口をすすぐ
なんて
書かないでくれ

歯ブラシを動かしながら
思っていたことが
あったはず

それを何かに喩えるのでもいいし
さらに
喩えたもののこまごました事情に
突き進んでしまうのでも
いい

連を変えたら
視線の遠さを
変える

776
投稿詩を読んでいると
高齢者の方が多いことに
気づく

詩は青春の文学だと
誰が言ったろう

年をとっている
ということは
若い頃が去ってしまった
ということではなく

若い頃をも ふところ深くに
合わせ持っていると
いうことなんだ

だから
詩は青春の文学だと言われようとも
ちっとも
かまわない

777
ホントに忙しいときには
忙しいなんて
言っている暇もなかった

ホントにつらいときには
つらいなんて
言うほどの元気もなかった

ホントに好きな人の前では
なんて言ったらいいのか
わからなかった

言葉は無力

何もできない
言葉で
詩を書いていきたい

778
必要なものはなにもない
これができなければ
という条件はない

歳をとっていてもいいし
男でも女でも
あるいはどちらでなくてもかまわない

ろくな親戚がいなくてもいい
平凡な学校に行っていてもいいのだし
見た目も地味でかまわない

言葉をそれほどに知らなくても大丈夫

それから
人と接するのが極度に苦手だったり
ちょっとしたことに傷ついて落ち込みやすくても
いい

立ち直るのが遅かったり
いつでもぼーっとしがちだったり

やらなきゃいけないことに限って
ほったらかしにしていたり

こう生きるべきだと言われることが
うっとうしく
感じがち

つまりね
生まれてきて
自慢のできることなんてこれっぱかしもない
なにもない

そういう人にしか分からないことを
詩は狂おしく
書いてもらいたいんだ

779
現代詩は
ある程度の分かりにくさがなければ
ダメなんでしょうか

こういう
まっすぐな質問を受けるたびに
途方もない悲しみに襲われる

いったい
どこのだれが
素直に詩を書こうとしている人を
こんなことで
悩ませてしまうことになったのだろう

そんなことは
もちろんない

ない!

780
ひとつだけいい詩が書けたんだけど
そのあとはまたつまらないものばかり

わたしには才能があるんだか
ないんだか


悩んでしまうことって
ある

わかるけどね

その時だけ書けてしまうのも
立派な才能

なぜか書けてしまったというのも
まぎれもなく才能

信じて
書き続けていて
かまわない

781
たしかに詩は
とじこもって
一人で書くものではあるけれども

ずっとそうしていると
一人きりの
においがしてくる

だから
助けてもらうというわけではなくても

同じように一人きりの人たちの
そばに行って
じっとしていたくなる

モノを書くことに取り憑かれた人は
たまにそうして
かまわないんだよ

782
さびしいっていう言葉も
さびしいんだ

詩を書くっていうのは
むずかしいことではなくて

さびしい時には
さびしいと書く

さびしいという言葉のところまで行って
とことん話を聞いてあげて
なにがそんなにさびしいのかを
いやになるほどわかったうえで

ひとこと
さびしいと
書く

783
一人で長年書いてきて
誰にも読んでもらったことのない詩って
偏ってきてしまうことがある

その偏りは
本人にはわからないものなんだ

悪い意味で言っているのではなくて
たまに
今までにない方向へ
見事な偏りを見せているものもある

そういう詩は
投稿すれば選者が驚いて
君はすごいと教えてくれる

784
擬人法っていうのはね
たとえば風や
木々を
人にしてしまうこと

でね
姿かたちを
そうするだけではなくて
内側にも
人の心を
持たせてしまうことなんだ

いのちをひとつ
気軽に
与えてしまうこと

だからとても
こわいことだ

擬人法の詩をひとつ
つくるたびに
私のいのちは
減ってゆく

785
自分よりもうまい詩を書く人は
たくさんいる

たくさんいるけど
それがなんだろう

本来
詩を書く
というのは
だれかと競い合うためのものではないと
いうこと

もっと手もとのこと

もっとわたし自身に近いこと

生まれてきて
少しだけ泣けてきて
それから勇気をもたせてくれて

ただ
それだけのこと

786
子供に手がかかるから
詩を書くなんて
できない

仕事のプレッシャーに
押しつぶされそうな日々に
詩のことなんか考えられない

人生の
そういう場所にいる時に
無理に詩を書こうなんて
思わなくていい

書けなかった思いが
相応に深みを齎してくれるから
あとでゆっくりと
ひとつひとつ
書けばいい

787
ひとつの方法

詩を書いたら
漢字二文字の熟語を取り除く

困惑
暗闇
焦燥

その取り除いた空欄を
例えばどんな困惑で
どれほどつらいところへ追い込まれているものなのかを
いつも遣っている日本語で
埋める

詩でしか遣わない言葉を
詩の時だけにもってくるなんて
したくないから

私の詩
なのだから

788
雑誌の発売日には
まず投稿欄を見る

自分の詩が載っているかどうかを
確かめる

落ちているとわかると
落ち込む

そりゃあ落ち込むだろう

深い思いを込めて
送った詩なのだから

落ちた理由が様々に頭を駆け巡って
でも結局
当分書くのがいやになる

僕はそんなふうだったよ

でも
書き続けたけどね

789
詩は頭でつくるものじゃない

膝っこぞうの
小さな丸みでつくる

だからたいした詩なんか
できるわけがない

しょせんは
膝っこぞうから
すべり落ちてきた言葉なのだから

それでも責めたら
かわいそう

膝っこぞうが
詩をつくる間だけでも

悩みだらけのつらい頭は
ゆっくり休んで
いられたのだから

790
「詩作のススメ」

出来ることより
出来ないことの方が多い
そんな能力

でも充分だった

毎日が
どれほど心細くなっても
いやなことに巻き込まれても

かたがわでは
なんとか私らしい詩は書けないものだろうかと
あっけらかんと生きてきた

だから
詩を書こうよ

ずっと
うっとりとして生きていける

791
書いているのは
ここにいる
自分だということ

ほかのだれでもない
自分がこの詩を
書いているのだということ

詩とふたりきりであることの
尊さを
しっかりと感じていたい

だから人の詩に
あたふた
きょろきょろしない

もしもこの世に
だれも詩を書く人がいなくても
きっと書いただろう
詩を

792
「詩を書いていて一番大切なことは」

詩を書いていればいいこともある

たまに褒められることもあるし
自分でも
どうしてこんなに素敵なのが書けてしまったのだろうと
驚くこともある

だから
それはそれで
かまわないのだけど
いつもいつもいいことばかりでは
ない

詩を書いているからこそ
悔しくて苦しい思いをしたり
ひどいことを言われたりすることも
ある

詩を書いていて
一番大切なのは
有名になることでもなく
褒められて有頂天になることでもなく

まずはなによりも
自分が傷つかないように
してあげること

守ってあげること

それができないと思ったら
やめる

ぼろぼろになってまでも
やることじゃない

詩なんか
やめること

793
褒められれば
有頂天になってしまう

ダメだと言われれば
どん底の気持ちになる

そんなことの繰り返し

もっと自分の詩については
どっしりと構えていたい


思う気持ちは
わかるけど

無理だと思う

みんなそうだし

心の激しい揺れは
それだけ真剣に詩に取り組んでいる
あかしだと
思えばいい

794
「詩」っぽい詩を書くな

書いたのは
伊藤比呂美さん

僕は全面的に
賛成だけど

だったら「詩」っぽい詩の
立場はなくなる

かわいそうになる

「詩」っぽい

しっぽ

響きにも聴こえてきて

詩を作ることの
思うようにならないもどかしさが
尻尾のように
手で払っても払っても
頬にかかる

795
くものある日
くもは かなしい
くもの ない日
そらは さびしい


書いたのは
八木重吉

一行目に
「くもの ある日」

空白を入れなかったのは
意味が
「ある日のくも」
になってしまうから

つかってもらえなかった空白は
かなしい

それだけでは見えない空白は
さびしい

796
投稿をして
一度も
採られたことがなかったとしても
投稿した日々には
意味がある

選考から落ちるたびに
なにが悪かったのだろう

つらく振り返った
その背中にも
意味がある

詩が伸びる時期は
本人にも
わからない

だけど
きっとくる

自分の詩はだめだと
まじめに絶望をすることが
できるならば

797
すずめが とぶ
いちじるしい あやうさ


書いたのは八木重吉


この詩を読んで
思うのは

「いちじるしい」
という言葉が
すでに詩人に
抱え込まれ
飼いならされているということ

日本語ではあるけれども
もう
八木重吉語

普通の言葉で
なぜ詩が書けるかと
いうのは
そういうカラクリなんだ

798
おとなしくして居ると
花花が咲くのねって 桃子が言う


書いたのは八木重吉

重吉の話をしようと思って
読んでいるんだけど

苦しくなって
読んでなんかいられなくなる

詩を読むって
読んでなんていられなくなる
ってことなんだ

ひた向きに書いていると
僕の詩も
いつか咲いてくれるだろうか

799
押し出しの強い人の前では
うなだれてしまう人で
かまわない

理詰めでこられると
なにも言えなくなってしまっても
かまわない

ちいさな人間だと
言われても
さほど傷つかない

勉強不足だと
わかっているけど
なかなか手がつかない

そんな私でも
詩を書いていていい

だからこそ
詩を書いていていい

800
詩がへたなうちはね
書くことが楽しくて仕方がない

そのうちに
詩がうまくなってくるとね
苦しくなってくる

人より目立ちたいなんて
思うようになる

それは自然ななりゆきでは
あるんだけど

暗くなる

詩がうまくなっても
あっけらかんと書いていられるようで
ないなら
気をつけた方がいいよ

801
詩を書いていて
見事な作品を生み出したいと思うのは
大切なこと

でもね
生きて行く上での
一番大切なことでは
ないんだ

一番に
してはいけない

そんなの個人の勝手だと
わかってはいるけど

詩を書くために
どけたものが
あったはず

詩を書くことができるように
してくれた人たちが
いたはず

802
人より秀でるために
生まれてきたわけではない

わかってはいるけど
これという取り柄もなく
ここにいるのはどうしてだろうと
思うことも
ある

その理由を
考えてみることが
詩を作るっていう
こと

見向きもされない
自分を
しっかり見つめてあげることが
詩を作るっていう
こと

803
真白い鳥が
鳥の形だけ別の世界をはこぶように


書いたのは
高橋順子さん

これを読むと
鳥の背の上に
通ってきた向こうの街がしがみついているのが
見えてくる

空からぼろぼろこぼれてくるのは
鳥の背から
悲鳴をあげて落ちてくる
別の世界の
私のかけら

804
詩はね
作るのが簡単なんだ

もしも
難しいと感じているなら
別のものをつくろうとしている

詩はね
言葉を生(なま)でつかうものなんだ

ああだこうだと
ひねくりまわしはじめたら
違うものになってゆく

詩はね
君が作るものなんだ

もしかしたら
君でさえその存在に
気づいていない
素敵な君が

805
どんなに経験をつんだあとでも
たまに
目も当てられない詩を
書いてしまうことがある

それも
すでに発表してから
やっと気づく

とても恥ずかしいことだけど
言い訳のきかないことだけど

引き受けるしかない

わたしがこの世に産み落とした
詩なのだから

実は
これこそが
わたしなのだから

806
ずっと先
ずっとずっと先に
太陽が滅びる日も
いつか来るのだろう

そうしたら地球だって
冷たくなる

人もいなくなる

だから日差しを
今のうちに
きちんと浴びておこうと
思えるし

だれもいなくなったあとの
地上に吹く
風に
舞い上がる詩を
書いておこうとも
思う

807
僕は詩を書くときに
暗喩も直喩も
めったにつかわない

派手な形容詞も
むずかしい言い回しも
いらない

すかすかで
風通しのいい
骨格だけの
言葉のたてもの

昔からずっとそばにいる
幾つかの
飼いならした日本語と
一緒に詩を書いてゆこうと
決めた

808
詩を書かなければ

あせると詩は
書けない

そういう時は
むしろ
今日は書けなくてもいいや

思う

(真実
詩なんか書けなくてもいいわけで)

そのかわりに
詩の
少し手前まで行けるように
断片や
気分に
近づいてみよう

思う

実のところ
断片や
気分が

そのものでもあるわけなんだ

809
何かができなければ
詩が書けない
というものではないんだ

何もできないから
詩を書く

何かをもっていなければ
詩を書いてはいけない
というものではないんだ

何ももっていないから
詩が書ける

一人前でないから
詩を書いてはいけない
というものではないんだ

だれかにもたれるかわりに
詩を書く

810
自分で嫌ひな作は人に讃められ
自分で好きな作は人から認められない
奇体なものである


書いたのは
朔太郎

ほかでもない朔太郎が
こんなことを思うなんて
にわかにちかしく
感じられてくる

ましてや私ごときがと
思えば気が
楽になる

「かすかにけぶる繊毛」のような
心持ちで
いつも評価を待つ

811
けれども詩は
このつまらない現実を
常に新鮮に保たなければならぬ


書いたのは
西脇順三郎

詩が現実を新鮮に保つ
とは
詩人が現実を新鮮に受け止める
ということで
あり

日々のできごとや
慣れてしまった人間関係を
こぼさずに受け止める深い皿を
しっかり小脇に
かかえていることでも
あり

812
むかし豪傑というものがいた


書いたのは中野重治

のっけに
むかし何々がいた
と書き出されれば
読者は身を乗り出さざるをえない

見事な書き出しだ

詩というのはつまり
わたしの中に何がいた

吐露することに
尽きるか

むかし
鬼というものがいた

むかし
妙に私というものがいた

813
人のいる場所に
身をさらしているだけで
臆してしまう心があることを
僕は知っている

詩の教室に来て
座って過ごした一日は
これからの君の
何かの手助けになるだろうか

何か
というのは
詩作と
生きることに掌を温かくあてること

呼吸をするように
詩を書き続けてください

深呼吸でなくていいから

814
詩を書くことをやめたら
生きていけるだろうかと
若い頃の僕は
考えていた

だから詩を書かなくなることが
恐くて仕方がなかった

表現に関わるって
そういうことだと思う

ただ息をするために
生まれてきたんじゃない

ある日
詩をやめようと決心することは
それだけ深く
詩に惹かれていると
いうこと

815
どんな一篇の詩も
幸せなのだと思う

どんな一篇の詩にも
それを作った人がいるのだから

つまり
どんな一篇の詩にも
生まれつき最上の読者がいる

どんな一篇の詩にも
守ってくれる人がいる

どんな一篇の詩にも
寄りかかれる太い指がある

だから
どんな一篇の詩も
安心して生まれてきて
かまわない

816
つまりね
君にとって
くだらない君の詩なんて
ありはしないということなんだ

気をゆるめて
書いているのでないかぎり

そのつど
思いのたけを
吐き出しているのならば

まさにここにいる君が
思い
考え
文字にして
丁寧に書き残した詩に
意味のないものなんて
あるはずがないんだ

あるはずがないんだ

817
詩を書いていると
ああ
いつものと同じやり口だな

感じることがある

わかっているんだけど
そこから抜け出すって
容易じゃない

そのやり口は
ありふれていて
もうだれも面白いと思わない

いつものやり口が
中空の
別の場所から見えて
自分を他人のように注意できた時にだけ
それなりの詩ができる

818
室生犀星『抒情小曲集』の
「小曲」
とは

4、5行から20行くらいまでの
小さな抒情詩ということ

なんだかツイッターって
小曲のための
ぴったりとした器のように
みえる

生きていれば
時折に感じる
この世への違和感

身をねじって
その角を小さく曲がるわたしが
書くものだから
小曲
なんだな

819
「不器用のすすめ」

いつも同じような詩を書いていよう

進歩のない詩を書いていよう

人からのアドバイスは分るんだけど
書けばまた
似たような詩しかできない
そんなふうでいよう

自分が書いた詩に
せめて私だけは感動していよう

好きになってあげよう

詩と

お互いの不器用を
見つめあおう

820
君が思いつくようなことは
ほかの人がとうに考えている

思ったほうが
間違いがない

自分なんか
ろくな詩が書けるはずがない

思っているのが
ちょうどいい

これはつかえるな

見つけてしまったフレーズも
冷静に
押し返してみる

それでも君を
見放さずに
ついてきてくれる言葉で
詩ができる

821
言葉が足りなかったかもしれない

君が考えるようなことは
ほかの人がとうに
考えている

言ったけど

それにもかかわらず
誰もが
本気で詩を書いていて
いいんだ

人と同じ考えであっても
君の中で生まれたものは
君のにおいが
している

生きて
君のにおいが
残る

詩は勝ち負けじゃない

822
気持ちを売っている店がある
という詩を

書いたことがある

つまらない詩だったけど
あれはどこに
いっただろう

お店はどこに
あっただろう

びしょ濡れでバスに乗りこんだ

人も
降ったりやんだりする

ところで
バスの中は人生よりもずっとましだと思う

せめて
つかまるところがある

823
うちあけたこころをそっとうつす水鏡


書いたのは
吉行理恵さん

この一行
ひらがながずっと続いていて
そのひらがなが
水鏡に吸い込まれてゆくようだな

うちあけたこころは
いつだって
ちょっとの安堵感と
たくさんの後悔

では
うちあけられたこころは
どうだろう

水鏡をのぞいても
わからない

824
詩なんか
のんきに書いている場合じゃない
という
焦りを書くのが

だと思う

子どもたちは
急いでおとなにならなくてもいい
という
あらがいを書くのが

だと思う

どんな詩も
帰り道だと思う

なにを書いても
ひどく懐しい

825
へたくそな詩を
書いてしまうこと自体は
恥ずかしくはない

だれだって
いつもいつも
傑作を
書けるわけではないのだから

ただ
へたくそにも
二種類あって

自分らしい顔の
へたくそなら
むしろ
かわいいんだけど

手柄をもとめて
まるで人の詩のような
へたくそは
手でおおいたくなる

826
詩にとって
読む人にとってのわかりやすさは
必要だと思う

独りよがりに
ならないためにも

でも
だれでもが了解している美しさばかりを
書く
というのは
わかりやすさではなく
安易さ

そんなこと
ヒトがとやかく言うことではないかも
しれないけどね

詩の外で
僕はわかりやすく
生きてこれたか

827
詩の初心者が
詩の教室に参加して驚くのが
すでに見事な詩を作る人も
そこにいること

臆してしまい
なんだか続けるのが
いやになってしまうことも
ある

でも
ほかの人の詩の
すごさがわかる
ということは
自分の詩の欠けているところも
見えてくるということ

大丈夫

見えたものは
なんとかできる

828
蟬が鳴いてゐる、蟬が鳴いてゐる
蟬が鳴いてゐるほかになんにもない!


書いたのは
中原中也

この中の
どこに「詩」がしまわれているかと
いうとね

もちろん
「ほかになんにもない」
の所

なんにもないことの
すごさの中に
腕を入れて
手探りしているうちに
詩人の手を握ってしまうのが
読者

829
詩の教室に参加しようとして
申し込んで
楽しみにしていたのに
いざ
その日になると
緊張したせいなのか
たまたまなのか
わからないけど
体調が悪くなって
行けなくなってしまう

そういうふうにできている人に
参加してもらいたい

そういうふうにできている人だから
詩が書ける

830
しなやかな才能を持った若い詩人と、長時間話をした。時を忘れるという言葉があるけれど、時がなくなってしまったようだった。詩に惹かれ、うっとりと生きてきた人は似ている。さよならをして信号を渡る。竹で編んだ同じカゴが、ずっと心にぶら下がっている。溢れた時に詩ができる。その人も、私も。

831
昔、路上に本を積んでその横に座っている人を見た。「わたしの詩集、読んでください」。言葉を売る人は、売ってしまえば言葉を失う人。売れ残った言葉はカバンにしまって持ち帰る。乞うものがあることのまっすぐな幸せ。路上には立たなくても、今でもちっとも変わらない思いで詩を書いている。

832
詩を書くコツを知ってしまった人の詩は
つまらない

そういうものだと思う

詩の書き方を忘れてしまうから
その忘れたところに
新鮮な詩ができてくる

そういうものだと思う

こころぼそくて
やりきれなくて
いやになるほど自信がもてない

そういう人にだけ
かけがえのない詩が与えられる

833
ひとりで生きているのではないから
ここという時に
邪魔をされることがある

ああ今なら
よい詩が書けそうだという時に
声をかけられたり
用事が舞い込んだりする

そんな時は不機嫌にならずに
喜んで詩作を中断する

私は必要とされているのだと
受け止められるし

不自由こそが
創作を磨き上げる

834
つまらない詩を書いてもいい

それが君の
生きて感じるそのままを
差し出そうとするものであるならば

思い上がった詩を書いてもいい

それが君の
魂のすべてを言葉に
押し込めようとするのならば

誰にもわかってもらえなくてもいい

それが君の
根底をあからさまに
さらすものであるならば

835
ずっと全力でやってきたかって訊かれると
うなだれてしまうこともある

それでも人生の節目の
やるべき時には自分なりに
真剣に立ち向かってきた

それを中途半端だって言われれば
そうなのかもしれない

でも
中途半端をかき集めたような私だからこそ
感じとれる柔らかい感覚があり
それを詩に書ける

836
生きるための詩作であること
生き延びるための詩作であること

積み重ねなどなくていい
いつだって初めからのやりなおしでいい

生きるためにつかみとろうとする詩作であること
生き延びるためにしがみつく詩作であること

せめてもうひとつの貧しい朝を
私らしく抱こうとする詩作であること

837
仕事をやめて2年が過ぎた

時とともに思うのは
当たり前のこと

残ったのは
ひとりの私であり
達成した仕事ではない

ましてや役職での上下や
焦りではない

残ったのは
手を伸ばせば触れることのできる家族と

誰のものでもない
私の詩

むろん
詩の世界での上下を求める愚など
するはずもない

838
単純なことなんだ

書くことがつらかったら
すみやかにやめることだと思う

それ以外にない

やめても生きていける

かわりになにをしようかなんて
考えなくていい

自分から目をそむけてあげる

寄りかかれるものに
寄りかかって
そこから見えているものを
ただ見ている

それだけでいいんだ

839
詩を書く時に
最近心がけているのは
隙(すき)があってもかまわない
ということ

綿密なものをこしらえようとして
結果的に
言いたいことを控えてしまうよりも

底の浅さをさらけ出しても
あえて
隙のある詩を書こうと
思う

そうでなければ
伝えられないことがあるのだと
つくづく思うようになった

840
「かつて
夢中になって詩を書いていたことがある

でもいつからか
詩作から遠ざかってしまった

それでも折りにつけて
詩を目にすると
心が小さくざわつく」

そういう人は
詩から去った人とは言わない

そういう人は
ひたすら待たれている人

またいつでも書き始めてもいいのだと
詩に
待たれている人

841
どんなメールも
たったひとりの読者へ向けた
詩のようでありたい

その人だけに送る言葉を
選んでいるという行為に
驚いていたい

送信ボタンを押す前に
いつもたじろいでしまう

そのたじろぎが
一行目に入り込んでいるような
生きている人の
伝達文でありたい

842
詩には
一行目の前に
目には見えない別の一行目が
ある

言い訳だったり
心の守り方だったり
臆した気持ちだったり

大抵は
自分が傷つかないための
囲いのようなものがまず書かれている

でもたまに
言うにいわれぬ勢いに
押されて
つんのめるようにして
本当の一行目に落ちて行くことも
ある

843
最近は家内と
昔の映画を観ることが多い

エンディングテロップの
最後の方の
小さな役割を与えられた
小さな名前までもしっかりと読む

そのひとつひとつに
それぞれの人生が
あったのだ

詩を書くことも
同じだと思う

無名であること

知らぬ人が振り向いた
さびしげな顔のような
詩であること

844
一昨日は
国会図書館でかなり古い詩誌を
画面に出して読んでいた

どこでも手に入る著名な詩人の詩を
抱きしめるようにして
生きることは
素敵だけど

それだけではなく
時間があれば
はるばる図書館へ行って

もう
きれいに忘れられてしまった
過去の
ひそやかな詩人の吐息に
耳をすましても
いたい

845
私が
友人に求めるのは
たったひとつのこと

その人が決して
私を傷つけるような言葉は言わないだろうという
安心感

話のはじっこにまでも
心配りが行き届いている人

間違っても勘違いでも冗談でも
ひどい言葉から
はるかに遠ざかっている人

私も友人に
そうありたいし

そういう詩を
書いていたい

846
さて詩を書くぞ
という意気込みで
めったに使わない言葉ばかりを
持ち出すのではなく

きどらない言葉で
書きたい

気がついたら詩になっていた

それくらいがいい

とても詩にはなりそうもない
がさつで
手垢にまみれた
言葉たちも
呼んであげたい

わたしの命そのままの
詩だから
意味がある

847
生きて行くって
ただでさえ悩みに満ちているわけだから
せめて詩を書くときは
安堵感の中にいたい

だから詩を書いて
焦ったり
くやしがったり
威張ったりは
したくない

詩は
常に私を
遠巻きに守ってくれるもので
ありたい

詩は
迷いがちな私を
真っ当な考えに引き戻してくれるもので
ありたい

848
詩はひとりで書いていられる

もともと
ひとりの意味をしっかり知るために書くのだから
それでかまわない

でも
ひとりから出てくるものは
いつものひとり

かわり映えがしない

そんな時は
詩の教室に
自分の詩を連れて行ってあげる

詩のためになることを
してあげられるのは
自分しかいない

849
人が書く
あらゆる詩を
尊重せよ

よりよい詩を書きたいという
まともな願いを
尊重せよ

努力をしても
思うような結果が出ない
あきれるほどの不器用さを
尊重せよ

小さな褒め言葉を
繰り返し読んでしまいたくなる
悲しい執着心を
尊重せよ

私が生まれて
書こうと試みた
全ての書き損じを
尊重せよ

850
いくら努力をしても
つまらない詩しか書けない


思っている人は
がっかりしなくていい

書いている詩がつまらないと
わかっているだけ
ましだと思う

自分の詩に満足をしていない人は
幸せ

生きてやるべきことが
まだしっかりとあるということ

いつか
できたときの喜びは
震えるほどになる

851
そっぽを向く勇気
というものも
詩作には必要だと思う

まわりで書かれているすぐれた詩を
追ってゆくことも
意味があるとは思うけど

時には何も
見ようとしないで
でき上がってしまうものに寄り添って
詩を放し飼いにすることも
大切だと思う

一篇一篇の詩
よりも
全詩集をたったひとつの作品として

852
詩が書けない
でも書きたい
という時がある

そういう時はあせらない

ひたすら書きたいという思いを信じてあげる
待ってあげる

私はこんなに詩を求めているのに…
という思いに
切なくなってくる

その切なさの中にこそ
次の詩が
育っている

書きたいという思い
以外に
詩作に必要なものはない

853
目線を上げず
等身大の詩を書こうとすることは
大事だと思う

明治時代の文豪の
大層な文章でもあるまいに
僕らには
人を教え諭そうとするものなんて
何もない

読む人と同じ知識を持ち
読む人と同じ時代の
ささやかな呼吸をしている僕らが
その呼吸の先端で
おとなしく言っておきたいと
願うこと

854
優れた詩を書ける人って
沢山いるんだなと
最近思っていて

その沢山は
個々に
すごいことだ

でも
多くの人が
人生の途中で詩をやめてゆく

ところで
僕には
六十年前に会った時と
同じ瞳でいまだに詩を見つめている友人が
いる

詩を生涯捨てない
というのが
すごい詩人になる条件のひとつ
なのかな

855
昔のことだけど
吉野弘さんが
僕の詩についてひとこと言ってくれたことがあった

それはほんとにひとこと
だったけれども

すごく褒められたわけでは
なかったけれども

あの時に感じた嬉しさは
忘れない

受け取る側の気持ち
というのは
よわよわしくて
発した側の思惑を超えて
ありがたく
揺れ動く

856
結局のところ
詩作にいちばん必要なのは
才能でも器用さでもなくて
単に
詩に向かう熱量だと思う

どれだけ詩に
取り憑かれているか
そのしつこさと
はげしさに
かかっていると思う

人がなんと言おうと
気にならず
自分の詩のことしか眼中になく
生涯
自分の詩に夢中になっている人に
だれも敵わない

857
自分の詩が伸び悩んでいると
思う時って
ある

そういう時って
何か外に解決策を求めても
迷走するばかり

詩が伸び悩んでいる
というより
むしろ
才能をさらけ出す覚悟が
ないだけなのではないだろうか

たいていの解決策は
すでに自分の中に
たっぷり用意されている

858
詩をたくさん書いていると
いつのまにか
個性ができてくる

個性
といえば
聞こえはいいけど
慣れ
のようなもの

ここをこう発想すると
次は大抵こう書いてしまう

通い慣れた曲がり道

詩を書くって
自分の個性をどうやって制御できているかに
かかっていると
思う

つかず
離れず
振り回されず

859
詩を作る時に大切にしたいのは
ちょっとした違和感

ほんの少し
あれ?

思うこと

たとえば
これも
あれも
私と同じ時にこの世の中にいるんだな
という
かわいそうな感覚

いつもの感じ方の
まま
ほったらかすように生きるのではなく

一歩引き下がって
その感じ方をあらためて
見てみる
ということ

860
思わず書けてしまった素敵な詩行は
自分の手
ではなくて
どこかからやってきた大きな手が
手を包みこんで
書いてくれた

そんな感じがする

だから
いつもの私には
思いもつかない言葉遣いが
出てきてくれたり
する

待っていても
なかなかやってこない
その大きな手は
一心な私への
たまの
ご褒美

861
教室で僕は
褒めすぎだと言われる

無理に褒めてる
わけではなく

提出された詩の
ある箇所がさらに輝いて
ふくらめば
美しい詩になるだろうと
するのなら
そこを褒めてしまう

かすかにでも
よいところがあれば
その
あり場所をしっかり教えてあげる

自分の
素敵なところだけを
見つめていてほしい

862
まだ
だれも書いたことのない
世界が椅子から落ちてしまうような詩を
書いてみようとすることは
大切だと思う

そんなこと
できるわけがない

やる前から冷ややかに見ている人に
なるのではなく

誇大妄想の
おかしな人に
たまには
なりたい

結果的に
いつものちっぽけな詩が
書けてしまってもね

863
そりゃあへたより
うまい方がいい

でも
詩を書くことの大切さは
そんなところにはない

なによりも
わたしがここにあるということを
あらためて
思い起こさせてくれる

切なくも
思い出させてくれる

そのためにこそ
一篇の詩を書く

だから
臆せずに
詩を書こうよ

なによりも君が
ここにあるために

864
どんな詩を書いたらいいのだろう

迷っている人は
単に美しい詩を
めざすのがいい

美しいだけで
あとはなにも持っていない

見事にからっぽの詩

笑いが込み上げてくるほどに
なにもない詩

単に美しい詩に
まさるものはないし

単に美しい詩になら
一生もたれかかっていられる

865
詩は
選ばれた人のためのものではない

だれも排除しない

だれが書いてもいいし
可能性を持っている

ろくに本を読まない人も
勤勉でない人も
気まぐれでも
飽きっぽくても
元気がなくても
めんどくさがり屋でも
書いてかまわない

むしろ
そういう人の
自分にがっかりする気持ちが
詩を作り上げる

866
なにも自慢できるものがない

いうのが
詩を書くための
たったひとつの条件なんだと
思う

自分なんか

思ってしまう
その
「なんか」の奥で縮こまっている
弱々しい心を
大切に扱ってあげる

もっとわかりやすく
言うなら

人より秀でることのなにもない
すばらしさ

そんな人のために
詩がある

867
ほんとうに書きたいものを書いているか

自身に問うてみることを
忘れてはいけない

ただ書くために
書いていないか

ただこちらを向いてもらうために
書いてはいないか

それがいけないと
言うのではないが

時折
ほんとうに書くべきものを書いているか

声に出して
問うてみる

868
これを習得すれば
すぐれた詩人になれる
という
これ
なんて
どこにもない

ただ
しゃにむに好きなことをやっていると
ご褒美のようにとどく場所がある

詩の教室で
前よりもずっと見事な詩を書くようになった人を
見ていると
たいてい
よそ見せず
ひたすら自分であることに
夢中になっている

869
詩人はいつも心配だらけ

だって
これだけの詩が書けたのだから
もう心配はない
ということは
詩作にはありえないのだから

次の詩を書く時には
また初めの場所にもどされて
何をどうしていいのか
分らなくなっている

心配で仕方がないところから
作りあげること
だけを
創作
と言うのだろうか

870
すぐれた詩を書ける能力は
誰にでもあるというものではない

だから
自分の才能は大切に扱って
育ててゆくべきものだと
思う

でも
生きて行く上で
ものを書く能力を過大に考えない
というのも
大切なこと

詩を書く才能なんて

思っていたほうが
しっかり生き延びることのできる時期も
ある

871
詩は
読んで学ぶ
よりも
書いて学ぶことの方が
大きいように思う

ともかく詩を書く
たくさん書く

書き上がったものが
目もあてられないものでも
この詩はまぎれもなく
私が書いた詩

少しでも
ましなものを選んで
詩集のように束ねてみる

その喜びを忘れないことは
どんな勉強よりも
大切だと思う

872
詩が書けないことは
もちろんある

でも
書くことが見つからない
というのは
ありえない

さしあたってこの一時間
君の頭の中を占領していたものとは
だったら
なんだろう

自分が何者でもないと
わかっていて
それでも気になることがあるという
悲しみを
知るなら

書くことがないなんて
ありえない

873
昔はすごい詩を書いていたのに トシをとると 気の抜けた詩を書くようになる 若い頃にぼくは そうはなるまいと願った 叶わなかった と 散歩途中に 見上げれば 虹 トシをとって書いた ひどくゆるんだ詩にも 掌で囲うほどの 生まれてくる意味は あるのだろう
昔はすごい詩を書いていたのに
トシをとると
気の抜けた詩を書くようになる

若い頃にぼくは
そうはなるまいと願った

叶わなかった


散歩途中に
見上げれば

トシをとって書いた
ひどくゆるんだ詩にも
掌で囲うほどの
生まれてくる意味は
あるのだろう

874
詩を書くっていうのはね
お稽古ごととは
ちょっと違うと
ぼくは思っている

生きていることそのままを
なぞることだし
特別なことではない

具体的には
日本語を知っている人が
短い日本語を生み出すこと

世の中に
これほど簡単なことって
あるだろうか

ときどき
泣きだしたくなるほど
簡単なこと

875
さて私は
詩になにを書こう

身構えたって
ろくなことは思いつかない

私に何が書けますか

問い合わせるところから
始める

例えば
うっかり右と左のスリッパを入れ違いに
履いてしまって
歩いた時の
違和感

それを書く

そんなところに
生まれてきたことの不可思議が
ぎっしりと詰まっている

876
僕が
詩を書こうとする時に
いつも思うのは
なんて贅沢なお許しをもらっているのだろうと
いうことなんだ

命を与えられて
こうして生きていることについて
感じたことそのままを
かけねなしに
まっすぐに
時には涙ぐんだりもして
書いてもいい
なんて

これ以上の望みなんて
ありえないと
思うんだ

877
絵に描かれた風景が
ほんものの風景よりも
惹きつけるものをもっているのは
なぜだろう

考えていたんだけど

ひとつは
枠があるからなんじゃないかと
思う

切り取られているから
枠の外への
あこがれが
生まれる

詩も同じ

手で囲えるほどの
ことを
顔をうつむけるようにして
書いていれば
いい

878
いつも
つまらない詩しか
書けない


いうのにも
ちゃんと理由がある

いつの日か書けるだろう
生涯に一篇の
生きた証のような詩を書くための
練習なのかも
しれない

練習だと
思えば
できが悪くても
愛することができる

うまくできなかったことには
そうであらねばならない
あたたかさが
ある

879
どんなに心を込めて書いた詩も
だれもが気にいってくれるわけではない

好きになってくれるのは
ほんの数人

あとの人は
なにも感じない

そういうものだし
仕方がない

僕の詩に
なにも感じない人がいるって
とても
素敵なこと

無視をしてくれた人の感性ために
さらに心をこめて
次の詩が書ける

880

詩の投稿をしていたときに
なかなか入選しなかった

そんな時
僕の詩を
石原吉郎だけが
かろうじて選んでくれたことがあった

選者と投稿者
というのは
もちろん単なる偶然の出会いではあるけど

石原さんが
僕に
詩にとどまって書き続けてもいいんだよと
言ってくれたのだと
勝手に
解釈をしている

881
詩は
どんなに幼稚に見えても
書きたいことを率直にぶつけているなら
それでいい


言っているくせに
いざ自分が詩を書くときには
ためらいがある

まだどこかに
少しでも賢く見られたい
という気持ちが
残っている

自分がちっとも賢くはない

みんなにばれてもいいなら
ほんとうの詩が書ける

882
かっこいいことは
なんてかっこ悪いんだろう


言った人がいた

詩を書きながら
僕は時々
それを思い出す

レトリックに向かいすぎない
想像力に頼りすぎない
見ばえを偽らない
つよがりばかりを見せない

今日
実際に
感じてしまった
実にどうでもいいことに
目を据えて
その端っこを書いてみる

883
むしろ
ものを知らない方が
詩を書くためには
向いているのかもしれない

自分をダメだなと
いつも感じているのに
なんとかしようと動き出さない

そういう
自分に対するいらだたしさが
どこかで
詩と通じている

どうして自分は
これほどだらしがないのだろう

正直に
見つめたところに
詩がある

884
今度の木曜は
池袋教室

「言葉は生きている」という題で
川崎洋さんの話をするつもり

川崎洋さんの詩を
あらためて読んでいると
忘れていたことを
いくつか思い出す

好きだった曲を
なぜかずっと聴いてこないで生きてきて
ずいぶんしばらくぶりに
街でふと耳にして
泣きそうになる

そんな感じかな

885
詩の推敲って
もちろん大事

でも
やり方を間違えると
詩を台なしにしてしまう

ひと晩に
詩を追い詰めるようにして
何度も書き換えて
元の姿がわからなくなるのは
単に詩を
いじめていることになる

詩の推敲は
いちどきにしない

日を変えて
何日かに亘って
さらっと
知らぬ詩とすれ違うように
する

886
ひとつの手法を見いだして
それに則って詩を書く
ということができたら
迷いの一端は消えるし
詩に統一感が出てくるだろう

意味のひねり方とか飛躍のしかた
文章の脱臼のしかた

特殊な文体にも
同じことが言える

ひとつの手法を
都度
継続すべきかどうかの迷いだけは
持ち続けていられるのならば

887
詩を書きながら
これはしょうもないな

感じることがある

感じつつ
頭は次の詩に
向かっている

きちんとした詩に
たどり着くためには
いったんは
しょうもない詩を
通過しなければならない

詩の完成って
直線ではできていない

頭の中で
あっちこっちにぶつかって
それから
奇跡的にできあがる

888
それからもっと
つらいのは
しょうもない詩を
それと気づかずに発表してしまった時

だから慎重に
していなければならないんだけど

仕方がない

その詩を書いたのは
この自分なんだし
いさぎよく受け止める

もっとましな詩を書く日のために
身をもってこの世に
できあがってくれたんだと
思う

889
詩を書く
という行為は
小説よりも俳句よりも短歌よりも戯曲よりも川柳よりも
身近にある

なにも学ばずに始められるし
どんな規則にも従う必要がない

素手で
じかに触れられる
文学だ

師も必要とせず
友もいらない

小さな存在である私と
それを見つめる私だけが
寄り添うように
いればいい

890
詩が書きたい

焦るような気持ちはあるんだけど
いったい何を書きたいのかが
わからない

そういう時が
一番きれいにモノを作れる時

書きたいことが
はるばる
やってくるのを待つのではなく
ともかくも今夜
書いてしまう

書いた詩が
私に
書きたかったモノを
しっかりと教えてくれる

891
わからない詩がたくさんあるから
私には
詩を書く資格がない

悩んでいる君へ

そんなこと
ちっとも心配しなくていいんだ

悩まなくていい

ひたすら自分が
詩と
信じるものを
書いているだけで
いい

自分の詩を
とことん極めることが
わからない詩を
こじ開けてくれることにも
なっているんだ

892
汚い言葉で
吐き捨てるように書いても
詩は黙って
出来上がってくれる

腹を立てて
やつあたりをするように書いても
詩は怒りを受け止めて
出来上がってくれる

毎日がつらくて
詩なんか見向きもしなくなっても
詩は見捨てずに
そばにいてくれる

生きのびるために書く
身勝手な詩であって
かまわない

893
詩にしようとして
詩にならなかった
書き損じの詩は
捨てない方が
いい

いったんは
しまっておく

なにものにもなれなかったものを
むげに捨てるなんて
忍びない

なにものにもなれない
なんて
まるで僕のようでも
あるし

そんな
だめな詩こそが
次の詩のありかをさししめしてくれることが
ある

894
あの人は最近
いい詩を書いているな
とか
うまくなったな
とか
嫉妬心を感じてしまうのは
仕方がない

それだけ詩にかけている証拠だから
真剣だから

でも
本当に大切なのは
詩と
自分の関係だけ

ほかには目もいかない
というふうに
なりたい

世界でたったひとり
生きていても
ぼくは詩を書くだろう

895
詩を書くための
基本的な勉強法は
人の詩を読みっぱなしにしない
ということ

どんな詩も
素通りしない
ということ

正面から受け止めること

いいな
と思うフレーズや
行には
線を引くか
書き写す

どんな詩にも
なんらかの感想をひとこと書く

わからない詩こそ
どんなわからなさかを
懸命に書く

896
詩ってね
自分は賢くないって
きちんと認めるところからしか始められないと
思う

ほとんどの人は
自分はダメだって思っているのに
外に向かっては
そぶりにも見せない

そりゃあそうだよな

でもね
いったん自分の暗い根のところまで引き下がった
反動の
勢いからでないと
本当のことは書けないと思う

897
そこそこの出来の
恥ずかしくない詩を書く能力なんて
いらない

詩を書こうとする時には
今度こそ
とんでもない傑作にしようと
していたい

思い上がった心

いうのではなくて
あきらめない

望みが叶わない
ときは
目も当てられない無残な詩を書いてしまう
そんな怖れの
すぐ近くで
書いていたい

898
だれも考えないことを書こう
なんて
意気込んでいると
詩なんかできない

だれでも思いつくことから
書き始める

人の思いに沿うところから
書き始める

書いているうちに
詩行が徐々に
柔らかくなってきて
君独特の感じ方へ
曲がってゆく

曲がり角の向こうは
もう
だれも考えたことのない世界になる

899
うんざりするほどありふれた言い方だけど
詩を読むことと
詩を書くことは
車の両輪だと思う

だれの詩も読んだことがなくて
いきなり詩を書き始めた人は
いない

自分が書いている詩は
人の詩の素敵なところを拾ってきて
自分の心へ通過させたものであって
かまわない

それを
自分の詩と言う

900
さらけだす
というのは
とても大事

人の胸をうつ作品には
通りいっぺんのきれいごとではすまされない
踏み出した覚悟の一歩が
ある

でも
さらけだす
って
口で言うほど簡単じゃない

どこを
どういうふうにさらけ出せばいいのかを
見つけることが
できた時に
詩がひとつ
おごそかに生まれる

901
詩を書いていることは
別に自慢にはならない

でも
元気が出ないときや
つらいなと思っているときには
うつむいて
自分には詩が書けるんだと
思い出すと
いい

それで元気回復
とまでは
いかないだろうけど

自分には詩が書けるんだ

目に映る木々や
耳を過ぎる風くらいには
小さく自慢をしても
いい

902
認められたいから
詩を書くって
自然な感情だし
だれも非難はできない

でも
あまりに前のめりになってしまうと

あるいは
すぐに認められたいのだと

そういうふうになると
詩を書くことの
本来の喜びから
遠ざかってしまう

よそ見をせずに
ただコツコツと詩を書いている人の
凄さを
学びたい

903
詩は理解するものではなくて
感じるもの


よく言われる

間違ってはいないと
思うんだけど

どうやって感じるのかが
分からない時には
どうするのだろう

詩は好きなんだけど
実は
分からなくて感じない詩がたくさんある
という人は
悩まなくていい

きわめて正常だし
そのまま書き続けていて
いい

904
詩でも書こうかと
ダイニングの椅子に座ると
左隣に
昔の
少年だった頃の僕が
あわてて座りにくる

当時
僕は
もう詩を書いていて
でも
ひとりきりだったから
詩について
分からないことが沢山あった

自信がなかった

僕は今
ほかのだれにでもなく
隣に座る少年だった頃の僕に
詩のことを
話している

905
自分なんかに
人に読んでもらえるようなものが
書けるわけがない


思っている人の書く詩だけを
読んでいたい

自分なんか
人と会っても面白いことなんか
なにもないし
話せない


思っている人と友人になり
その沈黙を
ただ
聴き取っていたい

906
たくさん詩を書いていれば
ああだこうだ考えるから
自分が書いた詩から
学ぶことは
もちろんある

ただ
それではやっぱり
足りない

ちょっと背伸びをしても
「現代詩手帖」は
読み始めた方がいい

わかるところからで
かまわない

日本で
詩を書いているなら
めざすものの一端は
必ずそこに
あるから

907
いつも似たような詩しか書けない

悩んでいる人への
提案

なりきってしまう詩

試してみるというのは
どうだろう

「今日私は魚だ」

書き始めれば
詩は
君の人生の水をたたえた一つの入れ物になる

水面を見上げる
肩のやるせない痛みを
書けばいい

「今日私は
涙の止まらない
鬼だ」

908
今週の木曜日は
池袋で
「こじんまりとした詩の教室」

夜の教室だから
いちどきには集まれない

仕事帰りに
ひとり
ひとりと
ドアをあけて入ってくる

その
はいってきかたが
いいなと
思う

詩と
日々の生活が
しっかり繋がっている人たちの
きかただ

さて
詩のことだ

仕事を脱いで
やってくる

909
寝ても覚めても詩の事ばかり考えている

そういう時期はあってもいい

確かにそういう時期に
詩が伸びる

でも
夢中になるのはいいとして
詩に
狂ってきたら
あぶない

立ち止まろう

詩が書いていられる
オオモトの生活の基盤や
人との柔らかな接し方を
壊すほどに
もたれかかるものではない

910
台風の被害のニュースを
胸のふさがる思いで観ている

なかでも
「長いこと世話になったな」

奥さんに言い残して
泥水に沈んでいった人のことが
頭から離れない

すごい言葉だなと
思う

生まれでて
真摯に生きぬいたのちに
出てきた「本当の言葉」を
受け止めて
詩を
書いて行きたい

911
詩を書こうとして
何かありふれていないことは
思いつかないだろうか

頬杖をついても
詩はできない

もともと
ありふれた考えからしか
ありふれていないことは
出てこないもの

自分の考えることは
なぜいつも
ありふれているのだろう

悲しくなる

その悲しみ
こそが
君の
ありふれていない場所

912
テレビのドキュメンタリーで
事故に遭って
片脚を失った人のことをやっていた

「今ある自分を
受け止めて生きるしかない」

その人は決意して
脚が二本の奇妙な人たちの中で
過ごした

詩作も
同じ

みばえのいい
人の詩の
マネをするのでは
なく

今の能力で
今の感じ方を
信じて言葉に
すればいい

913
人を茹でたことはないけれども
ブロッコリーならある

雨の日は窓を閉めて
ガスレンジのスイッチを
しめやかに入れる

ブロッコリーが茹であがるまでには
一分半

一分半あれば
さみしげな詩だって
ひとつできる

人を茹でたことはないけれども
詩なら
ある

なんでもない言葉が
いい香りに
茹で上がる

914
ともかくも
まずはコツコツと
詩を書く

コツコツって
地味だし
一見
なにごとも起こらないから
つらいかもしれない

でも
コツコツの先にしか
とどく場所は
ない

人のことが気になったら
目を強く
閉じる

コツコツと詩を書いているなら
人のことで頭を
わずらわせている暇なんか
ないはず

915
劣等感って
自分のこの部分は
みんなのようではない
ということなのだと
思うんだけど

みんなのようでないから
恥ずかしいし
つらいのだと
思うのだけど

詩って
この恥ずかしさやつらさを
知っているから
書けるのだし

劣等感にも
少しは取り柄があるんだなと
許してあげても
いいと思う

916
なにもしなければ
恥をかくことはない

どこにもでかけなければ
いやな人に会うこともない

SNSをやらなければ
心ない言葉に傷つくこともない

詩を書かなければ
感想に気落ちすることもない

でも

思う

朝起きたら
今日はわたしに
どんな恥をかかせてあげられるだろうかと
考えることにしている

917
あの人はすごいな
詩の
いろんなことを知っている

だから
とてもあの人のような
詩は書けないな


あきらめてしまいそうになることって
ある

でも
やってみればわかるけど
そうでも
ないんだ

なんていうか

あの人はすごいな

素直にみとめる心
こそが
詩を作り出すみなもとで
あるからなのかな

918
詩を書く理由はどこにある?

詩を書く理由は
詩の中に

一行目をめくった後ろの方に
じっと隠れて
うずくまる

詩を書く理由はどこにある?

詩を書く理由は
君の中に

生まれてはじめてむかえた朝に
まぶしく見開くまぶたの中に

最終行までしっかりと
生まれた理由も
書かれてる

919
わたしには才能がないから

うつむいてしまう人が
いる

でもそんなの
みんな同じ

詩を書きたいという
衝動の前では
どうでもいいじゃないかって
思う

何も考えずに
ただ
書いていたい

もっとたくさん歳をとって
もうすぐおしまいって
頃になって

やっぱり才能なかったなと
笑えれば
それでいい

920
いろんな詩を毎日
目にするけど
わからない詩がたくさんある

そんな自分には
詩を書く資格はないのではないかと
悩んでいる人が
いると
思う

とりいそぎ
ひとつだけ言っておこう

詩を書く資格は
ある

じゅうぶんにある

なにも心配することなく
思う存分
自分の信じる「詩」を
書いていればいい

921
詩が書けない時って
大抵
顔のない大勢に向かって
声高に訴えようとしている時だ

そういう時には
目の前にいる
たったひとりの人の顔を見つめて
しっかり語りかけるように
書けばいい

あるいは
自分自身に向き合って
その日に受けた たくさんの傷口に
ひとつずつ手をあてるように
書いてゆけばいい

922
「いつも
書かなければと
せっつかれている感じがする

詩を書くことは
楽しくなんてない

むしろ
恐い方が先立つ

なんのために詩を書いているのか
わからない」


感じている人は
潔く
詩を捨てる

恐がってまで
することじゃない

詩集も詩誌も捨てて
その分
部屋と
自分の生き方を
広げる

923
詩は青春の文学だと
よく言われるけど
必ずしもそうではないと
思う

僕のことを言えば
学生の頃にも
詩を書いていたけど
正直
生きることの肝心な部分が
わかっていなかった

ろくなことを考えていなかった

ここまできて
やっと
書くべきことが
与えられた

詩は定年後の文学だと
心底
信じている

924
私は
現代詩を
書いているのではなくて
私の命の
あるがままを
書いている

だから
詩を書くぞ

身構えたことなんか
ない

どこにでもある
フツウの日本語で
フツウの言葉遣いで
書いている

フツウに生まれ出たことの
ありがたさと
怖さ
以外に
書くことはないと
思っている

925
投稿詩は
そのままの姿で選者に届く

だから手書きもあれば
PCに打ち込んだものもある

詩の内容が大切なことは
言うまでもないけど
どんな姿か
というのも
選者の「読み」に影響を与える

丁寧な手書きか
活字なら標準的な形式とフォントであることが
詩そのもののよさを
引き立ててあげることになる

926
もう
投稿をしてもいいでしょうか

訊かれることがある

君の人生なんだから
君か
君の詩がそうしたいなら
もちろんしてもいい

かりに入選
できなくても

いや
入選しない方が
自分の詩と今
しっかり向き合える

自分の書いたもののよさが通じない

つらく知ったところから
君の詩は深まってゆく

927
自転車乗りと同じで
若い頃に詩を書いたことのある人は
年老いても
すぐにまた
書ける

ずっと書いていなかったし
勉強も怠っていたし
詩の状況もわからないから
まともな詩はできないだろう

あきらめることはない

ずっと書いていなかった
その間に
豊かに育ちあがった詩が
生まれるのを待っている

928
時々
人の詩がすごく立派に見えて
とてもこんなの書けやしない

思えてしまうことが
ある

いったんそうなってしまうと
自分の詩が
やけに惨めに見えてくる

でも
それくらいが
物を作る姿勢としては
ちょうどいいのかもしれない

自分の書いた詩が
やけに立派に見えてしまったら
そのほうが危ない

929
旅行に行ってから
風邪がなかなかぬけない

咳は苦しく
くしゃみはうっとうしい

風邪薬のような詩は
書けないだろうか

熱っぽい頭で考え始める

袋を開き
大きく口をあけて
粉末状の言葉を水で流し込む

生きてゆける薬のような詩は
書けないだろうか

生命の
すみずみまで
明るい方へ向けてくれる

930
投稿で落ちた時に
入選した人の詩を読むのは
つらい

自分よりも優れているということが
わかるから
よけいに
つらい

では
どうしたらいいのだろう

残酷なようだけど
解決策なんて
ない

俯いて
自分の詩に帰ってきて
もっと詩を楽しもうよ

詩の肩を抱いて
いちからやり直すしか
ない

931
詩はわからない

言っている暇があるのなら
詩はどうあるべきかを
具体的に
提示しよう

目が覚めた時には
詩の世界はもうできあがっていた

考える必要なんか
ないのだし

詩を動かせるのは
どんな宣言でも
声高な声でも
なく

止むに止まれずに書いた
たった一篇の
君のせつない詩だと
思う

932
せっかく生まれでて
何かをしようとすれば
できる体をもっているのだから

うっとりとすることもなく
一日を終えてしまうことは
もったいないと
思う

直接
命のありかに触れてくれるのは

なのだから

眠る前に一篇の
小さな詩に
目を落とせば

生きていることを
あらためて振り返らせても
くれる

933
生きてゆくために
詩を向こうへ
押しやったこともあった

仕事がうまくいかなくて
詩を逃げ場に
したこともあった

都合よく扱ってきた

申し訳ないことを
してきたな

六十七歳で会社勤めをやめた時に
これで詩と
向き合えるのだなと思った

そうしてもよいですか

問うような詩を書いてゆこうと
思った

934
書いている詩に
自信が持てないんです
って
言うけど

自信をもって詩を書いている人なんて
どこにも
いない

詩を書くっていうのは
書いたものが
せめて何かでありえますようにという
祈り
そのものなのだから

自信がないという
おびえた心が
詩の中にきちんと入っているのが
当たり前だと思う

935
有名な詩から
でなくても
自分が書いた詩から
学ぶことは多い

なぜ
めざすものに
たどり着けないのだろうと
もどかしく感じてしまう

そのもどかしさをこそ
きちんとした手つきで
ときほぐすことだと
思う

過度に作ろうとしていないか
普通に呼吸ができているか
生きているか

まずは点検したい

936
書いている詩はまだ
人に見せられるようなものではないから
詩の教室には
いけない

いつか
もっとましになってからにしよう


思う気持ちは
理解できる

自分でつくった詩って
たしかに
とんでもなく恥ずかしいものなんだ

この恥ずかしさが
生きているってことなんだって
わかっては
いるけど

937
これは詩に書けるな
という
発想をつかんで

でも
どうしても適切な言葉が思い浮かばなくて
諦めてしまう

そんな時
書き損じの
出来上がらなかった詩は
捨てないで
しまっておく

いつか詩になることへの望みは
クリアファイルに
しまっておく

書き損じのような人生を送る僕に
似た詩
ばかりで

938
やわらかく生きていたい

連れ合いを生涯守り切る
なんて
不遜な心は持ち合わせていない

ただ
雨が降ってきたら
その人を包み込む何ものかでありたい

それから夜毎
ちびた鉛筆をつかんで
丸みをおびた言葉だけで詩を
書いていたい

書いた詩と同じほどの
鈍感さをもって
やわらかく生きていたい

939
どんなにつまらない詩でも
最後まで読んだ方がいい

こうしたらつまらなくなるんだよと
恥ずかしげに
教えてくれるから

どんなにつまらない詩でも
最後まで書いた方がいい

つまらないものとして生まれ出ることの
情けないうつむきを
与えてもらえるから

どんなにつまらない日々も
だから‥

940
何を書くか
っていうのも大事だけど
どう書くか
ということの方が
ずっと大事

なんでもないことなのに
言い方によって
ひどく相手を傷つける人って
たまに
いる

詩は
あれの裏返しだと
思う

なんでもないことなのに
書き方によって
心を美しい角度に
傾けてくれる

詩って
そういうものだと思う

941
作品ができてから詩誌を作ろう
ではない

順番は逆

あの頃
ともかくも佐々木安美さんと阿部恭久さんと
一緒に詩誌を始めたかった

詩誌を始めることにしたら
「火山」が書けた

自分が動かざるをえない場所にまず持っていく

持っていってしまう

そうでなければ
人ひとり
生きただけで終わってしまう

942
何かの折りに、一度でも「いい言葉だな」と心が震えたことのある人は、詩を書いてみたらどうだろう。書いたことのない人は、自分には書けるのだということを知らない。知らないまま一生を終えても何を失うものでもない。でも、生きて、自分だけの詩が書けることに気づいてみるのも、悪いことじゃない。

943
意味がわかる言葉で書いては
ダメなのでしょうか

そんな質問を
されたことがある

驚いた

もちろんそんなことはない

いやになる程 意味のあからさまな言葉で
詩を書いていいんだ

ただ 心うたれることがあったら
それを詩にする

それから
意味がわかるっていうことの恐さを
のぞき込む

944
詩っていうのはね
弱いものの味方なんだ

前へ出るのがいやな人が
指名されそうな雰囲気の時に
人の後ろへ隠れようとする

そんな気持ちを
わかってあげるものなんだ

目立つことは
なんだかいやだけれど
熱い思いは常に内側を巡っている

その栓を
抜いてあげることが
詩を書くっていう
ことなんだ

945
目がさめたからといって
生きているとは言えない

ただ死んではいなかったと
いうこと

生きていなくたって
それなりに一日はすごせる

ほかでもないこの私をいきいきと生きるって
なんだろう

詩を書くって
いつまでもあおくさくいられること

かけがえのない私が
ここに
いたのだと
思い出させてくれること

946
詩をつくらなければ
知ることのなかったもどかしさがある

詩をつくらなければ
知ることのなかった言葉への距離がある

でも
詩をつくらなければ
知ることのなかった喜びがある

詩をつくらなければ
知ることのなかったわたくしがある

詩をつくらなければ
知ることのなかった震えるほどの命がある

947
詩を書くというのは
特別なことではありません

素っ頓狂なことを書いたり
賢く見せることではありません

皮膚と心の
痛みを痛みとしてとらえること

人と私の
あつかいのさかいめをなくすこと

あとは何があるだろう

退くこと
貧しくあること

それからつらい思いをしてまでも
無理には書かないこと

948
詩を書いているという
意識が強すぎると
つい
言葉を省略しすぎてしまう

気がつけば
最も熱い思いでさえ
追いやっていたりする

まずは散文で
書きたいことをもれなく書く

それから正面から
見つめて
いらないところを削る

詩を書くって
大切なことから外れずに生きてゆく方法と
同じだ

949
詩を書くというのは
とても控えめな行為ではあるけれども
だからと言って
じっと待っていてもなにも起きない

こうして生まれてきたのだから
せめて大切と思えることには
控えめになんて
しない

原稿依頼は
外から来るものではない

途切れなしに自分へむけて
内側から原稿依頼を
ひたすらし続ける

950
詩を書くって
簡単

詩を書いてみたい

思った人なら必ず書ける

こんな詩を書いてみたい

願う人は
こんな詩の近くに
佇んでいられるような詩が
きっと書ける

読んだあとで
ため息とともに詩集をとじた人は
その日
ため息のしめりけの中に
書かれたなかったひとつのサビシイ詩を
もう書いている

951
使い古された言い回しは
避けようよ

教室では言っているけど
そうなんだろうか

いつも使う言葉は
ありふれているからこそのなめらかさを
持っているし

使い古された言葉の
疲れきって元気のない表情も
嫌いじゃない

使い古されていようが
いまいが
詩を書くその都度
選び直してあげることなんだ

952
詩を書いて有名になりたい
詩で人よりも抜きんでたい

思うことは
決して恥ずかしいことじゃない

何をしても
人並みにできなくて
詩を書くことが
自分が生きていることの最後の手がかりだと
したら

それくらいの願いを持ったって
ぜんぜんかまわないと
僕は思うよ

953
もうずいぶん長く
詩を書いているのに
なかなか上達しない

どうして私はダメなんだろう

人のすごい詩を見るたびに
ゆううつになる

という気持ちは
よくわかる

そんな時は
どうしたらいいだろう

まずは
書いてきたダメな詩を呼んで
もう一度
つよく抱きしめることから
始めたらどうだろう

954
自分には
詩を書く才能がないから
もうやめた方がいいでしょうか


しょっちゅう言っている人がいる

やめたっていい

ただ
まだ才能を
見出せないから
詩を書いているのだとも
言える

自分ではない自分を
信じて
目を見張るような自分を
探して
詩を書いているのでは
ないだろうか

955
詩の心得:
「かっこいい詩を書こうとしない」

かっこいい詩を書こうとしなければ
それだけで
見えてくるものがある

書ける内容が
深く与えられる

自分を守ろうと
しなくなる

かっこいい詩を書こうとしない

意識するだけで
しばらく忘れていた正直で弱い自分に
会うことができる

956
詩の心得:
「何度も推敲しない」

推敲ばかりしていると
何を書こうとしていたのか
わからなくなる

そういう時は
いったん手放す

詩はもともと
単純にできあがってしまうものなのだから

あっけないほどに
容易にできてしまうものなのだから

心配になるほどに
ありふれたことを書くことなのだから

957
「朝はどこから来るかしら♪」

歌うたびに
子供の頃の僕は
胸を熱くしていた

たしかに朝は
えっちらおっちら
どこから来たのだろう

生涯を空に
かざして見れば
僕はいつも同じことを
詩に書いてきたのだと思う

「朝はどこから来るかしら」
という
すきとおった感じ方は
どこから来たのだろう

958
すねている暇はない
不機嫌になっている暇はない

やりたいことをやるためには
意地でも
涙ぐむほどに
いつも上機嫌でいたい

詩を書こうと思うのなら
一生書いて行こうと思うのなら
世界に熱く面と向かっていたい

感じられることを
もれなく
全身で浴びていたい

なにものも嫌っている暇なんか
ない

959
詩は手づかみの文学だと
思う

食器を用意する間もなく
書きたいことに食らいつける
遠慮のいらない文学だと思う

生きていることの痛みに
じかに触れることのできる
普段着の文学だと思う

だから
表現を鷲掴みにできる
肉厚の掌さえ持っていればいい

詩は
命の胸ぐらをつかめる
文学だと思う

960
自分の詩が停滞しているなって思うことはある。でも我々は機械じゃない。このもどかしさも、生きているという意味に則っているわけで、それほど繊細に出来上がっている世界にいられるんだということをしっかり感じていたい。どこかに、だれかよりも先にたどり着くために、詩を書いているわけではない。

961
勉強しろ、優しくあれ、結婚しろ、子供を作れ、とやるべきことにいつも追いかけられて、なぜ詩を書くところにまで人との競争を持ち込まなければならないのか。詩を書くというのは、自分と詩とのたった二人きりの世界だということを常に意識していなければ、また妙な具合に苦しんでしまうことになる。

962
自由詩、という言葉は一筋縄では行かない。「自由」なのだから、どんな詩を書くこともできる。それはそうなのだけれども、これまで書いてきた詩を見れば、どれも私そっくりの顔をしている。のがれられない。セツナクも、イトオシクもなる。不自由詩だから、時折むしょうに抱きしめたくもなる。

963
若い頃は、クセのある文体を持った作家に惹かれた。文体を確立することが、詩人の目指すべきことだと思っていた。ところが、長く生きてくると、文体らしきもののカケラさえ見えない文章に憧れを抱くようになった。ただここに書かれてあるもの。なんでもないもの。作者さえ寄せ付けようとしないもの。

964
俳句でもなく
短歌でもなく
川柳でもなく
小説でもなく

つまり詩は
「その他」

「その他」をわたしは
せっせと書いている

「その他」の塔を
命がけで
建てようとしている

ジャンルからはじき出されているからこそ
存分に書けること

「その他」の扱いを受けてきた人が
瀬戸際の溜息で
書けるもの

965
詩は二種類に分けられる。一つは言葉の可能性を広げようとする詩。もう一つは生活や日常のこまごました感覚を拾い上げる詩。この2種類の現れ方はひどく違う。けれども、その「現れ」の向こうへ通じる細道は、同じ場所に行き着くのではないだろうか。優れた詩かどうかは、その細道の伸びやかさにかかっている。

966
自分の詩に自信が持てない
なんて
気にすることはない

自信なんて
もてなくていい

だって
自信たっぷりの人が書いた詩なんて
読みたくないし

もともと何につけ自信がないから
詩が書けたのだし

自信なんて
似合わない

詩は書くものではなくて
書けてしまうもの

自信がない方が
静かな詩が書ける

967
ある詩の会でしきりに僕に話しかけてきた人がいた。「私は誰それという詩人が嫌いだ」。嫌いな詩人がいるのはわかったけど、だから何なのだろう。詩という、これほどひそやかで小さな世界なのだから、もっと単純にありたい。「私は誰それの詩が好きです」と、いつだって目を輝かせて人に言っていたい。

968
詩はね
単純でありたい

単純の「単」は
ひとりきり
ということ

単純の「純」は
すきとおっていると
いうこと

詩はね
ひとりきりが
すきとおっていたい

969
詩に無理をさせない、というのも詩作にとっては大事なこと。どんなふうに書こうかと学ぶのはいいけれど、学びすぎると誰の詩だかわからなくなる。

生まれついて、のがれがたく身についている詩が、人それぞれにあるはず。

詩に無理をさせない。詩をいじめない。詩が書きたいように、書かせてあげる。

970
詩は
単に「さびしい」って
書くことではないんだ

そのさびしさが
どの辺りから来て
どれほど君を打ちのめしているかを
具体的に
書くことなんだ

ヤカンのさびしさと
コップのさびしさは
違う

それと同じだと思う

人間の
実に奇妙な形に
君のさびしさが
どれほど窮屈に入り込んでいるかなんだ

971
詩にとって
言葉は小さな家畜だと
思えばいい

テーブルの上の牧場で
放し飼いにできる

「朝」も
「空」も
君の詩のためににだけ
命を与え直される

こよなく愛らしくて
いつも適度に
言うことをきかない

だから思い通りの詩なんて書けないし

君の能力を超えた詩が
君を通して
たまに書けてしまう

972
詩って
ありふれていることを
ありふれてなんかいないと
感じさせてくれるものだと思う

ずっとありふれていると
人間も言葉も
元気がなくなってくる

生きている意味などないのではないかと
思い始める

そんなことはない

ありふれた詩人が
ありふれた言葉に
言ってあげることが
詩なのだと思う

973
つくづく思うのだけど
「言葉」には
なぜ「葉」が入っているのだろう

なぜ「葉っぱ」なのだろう

わたしたちに生い茂るものだからだろうか

わたしたちの命に絡みつくものだから
だろうか

ともに生きる者へ向けて差し出す
器としての
「葉っぱ」だろうか

意味は常に
風に揺れてしまうからだろうか

974
空は
空であることに慣れることがない

だからあれほど無邪気に
広がることができる

雨は
雨であることに飽きることがない

だから目を閉じて一心に
降りつのることができる

詩を書くために
大切なのは

君が君に
慣れてしまわないこと

君が君に
飽きてしまわないこと

975
抽象語や観念語を使うと
それだけで詩が
立派に見えてしまうから
気をつけたい

出来るなら
もっとおとなしくて
めぐまれない言葉を集めて
詩を書きたい

ひとつきりでは
なにも言えない言葉を集めて
肩を組むように詩を書きたい

書き終わったあとで
偉そうな単語がいないかどうか

僕は詩を点検する

976

心ひかれているものは

てのひらで囲い込もうとすると
逃れてしまうもの

自分ではないのに
妙に自分に似ているもの

通りすがりに聴こえてしまう
おとなしい息の音

小鳥がいちどきに飲もうとする
嘴の先っぽの水の量

そして
なによりも

人に手渡す詩を
どこまでも磨き上げたいという
透明な願い

977
上級国民という言葉が
あったけれど

詩は下級でありたい

どこにでもいそうな言葉ばかりで
詩を書きたい

大げさであったり
過度にきらびやかな形容詞は
遠慮してもらおう

カッコ良い言葉や
むずかしい比喩は
避けたい

おとなしくて
とりえのない言葉で
下級で地味な
私のような詩を書いていたい

978
詩が上達するためには
なにが大切かというと

(1)書きたいという気持ちがわいてきて、ひたすらコツコツと書き続けられること

それと
(2)なぜもっとましな詩が書けないかと、いつも自信を持つことのできない心

突き詰めると
この二つなのかなと
僕は思う

特別なことでも
なんでもない

979
自分の詩が人に比べて
上達していないな

感じていたとしても
気にしない

気にしないというのは無理でも
こらえる

君の中に押しとどめる

押しとどめたものが
時々
持ち上がってきて
悲しみをせりあげてくることが
ある

その悲しみに
背をもたれさせて
待つ

性急に結果をもとめる心は
だめだよ

980
いつもはたいしたことを考えていないのに
詩を書く時にだけ
深いことを書こうとしても
無理


考えがちだけど
そうでもないんだ

いつもだって
こまごましたことに反応し
心を痛め
わくわくし
真剣に
生と向き合っているはず

自分を軽くみてはいけない

詩は
君から君を引きだしてくれる
魔法なんだ

981
昔は、詩を人に読んでもらうことはとても大変だった。それを思えば今は、なんと素敵な時代になったことだろう。SNSに詩を載せれば、どこか遠くの、見知らぬ誰かの目に届くことができる。大げさな詩集を出すためにではなく、たった一篇の詩を書くために生きる。そんな選択もすることができる。

982
詩に
細かな区分けがあるわけではない

近代詩も
現代詩も
同じひそやかな
言葉たちでできている

思想も
ため息も
同じせつない孤独から
流れ着いている

やなせたかしの
心をつかむ詩に震えてしまうなら
今日は一日
丸ごとつかまれていよう

詩とともに生きるって
それ以外のところにはない

983
たとえば僕は、意味のはっきりとした詩を書く。そうしたいというよりも、それが僕の書けるたったひとつの詩だから。

でも、意味から遠く離れようとして書かれた人の詩に、ひどく惹かれもする。素直に素敵だなと思う。

あたりまえだけど、読む詩と、書く詩は、別々のやり方で愛してかまわないんだ。

984
どうして詩を書いているかって
いうとね

もっと生きていたいから

大きくまとめるとね
そういうことなんだ

雨が降ると
音がするだろ

あんなふうにいろんなものにぶつかって
私の音をたてたいから

私はもっともっと生きてゆくつもりです

大声をあげているような
詩をね
書いていたいんだ

985
ぼくらは
馬を知っています

馬の姿や大きさや
息遣いや声を
にわかに思い浮かべることができます

一般的な馬です

ところが
実際に馬の姿を目にすると

その形の
とんでもない美しさに
驚きます

詩を書くとは
そういうことです

なまの言葉を
目の前にすえて
息をのむことです

986
『詩の書き方』

たとえば
「ガラスのコップ」

書けば
言葉のコップができあがる

簡単だ

そのコップに
言葉の「水」をどくどくと入れる

それから
目よりも少し高い位置に
コップを持ちあげて

斜め下から
水面の裏側を
見上げる

言葉の「水際」が
揺れる

言葉の「さざなみ」が
生まれてくる

987
詩を書くっていうのは
「私は水滴の付いたコップを持つ」

すまして書くことではないんだ

コップを持った時に
にわかにこみ上げてきたざわざわとした焦り

こんなところで
詩なんか書いていていいのかと
椅子を倒してまでも立ち上がる

生きている事を
なんとかしたいという気持ち

それを書くんだ

988
あやとりの詩を書こうと思うのなら
まず
言葉をいったんほどく

一本の線にしてしまう

それから
はじとはじを結んで
輪っかをつくる

両手に引っかける

輪っかの中に
水がたまるのは
ほどく前の紐が
雨という文字だったのだろう

輪っかが
消え入りそうなのは
もとは透明という文字
だったのだろう

989
思いついた言葉があって、でもくだらないかなと思って、書くのをやめてしまう。それ、もったいないと思う。言葉って、書きとめてみると、思っていた時とは違った姿に見える。空気に触れると不思議と美しくなる。ホントだよ。だから、頭に浮かんだ発想は、どんなものでも書いてしまう。

990
詩ができないなんて考えられない。詩はなんでもありなのだから、君の部屋の中に何を引き入れてもかまわない。鉄塔を建ててもいいし、運河を掘ってもいい。波が打ち寄せてもいいし、馬が走ってもいい。詩は君の手を引いてどんなところにも連れて行ってくれる。いうまでもなく、部屋とは君の詩のことだ。

991
どうしても詩が書けない時には

「もしもぼくが」
とか
「どうしてこれほど」
から
詩を書き始めてみる

「もしもぼくが
透明なものをてのひらでうけとめたら」
とか

「どうしてこれほどまぶしいものが
ぼくのそばにあるのだろう」
とか

こんな感じ

やってごらん

詩はいくらでも
書けるはず

992
1 小手先で詩を書こうとしない

2 目先の評価にゆれない

3 人の詩を安易にけなしたりしない

4 へたな詩を書いてしまうことをおそれない

いろいろあるけど
常に心がけておきたいのは
そんなところかな

993
常に詩集を持って歩き
人のすぐれたところを丹念に学び
自分の詩にいかしてゆくのは
大切

でも
もっと大切なのは
人がどんな詩を書いていようと
気にならない
そんな
無関心なのじゃないかって
思う

詩に
真剣に向き合うと
人の言うことなんか気にならないし
抱きしめた言葉以外
何も見えなくなる

994
詩を書くっていうのは
文鳥がある日
頑張って
ヒトの言葉を話し出す
ということではないんだ

詩を書くっていうのは
たくさんいる文鳥の中の
ありふれた文鳥として
今日も文鳥らしく
さえずることなんだ

いつだって
同じさえずりであることの
喜びと
悲しみ

だから
そんなにりきまないで
いいんだ

995
詩というのはね
たとえば
「カーペット」
という言葉を書くと

カーペットそのものを書いたことのほかに
カーペットに託した「わたし」も同時に
書いたことになるんだ

それを意識するだけで
詩作に触れる手つきが変わる

朝のはじっこから
夜のはじっこまで
命がしきつめられるってことさ

996
長年詩を書いていると、書くことが嘘っぽく感じられてくる。詩を書くといううわっつらの行為ばかりに気持ちが行ってしまうからなんだ。そういう時は「自分はなぜ詩を書くのか」と考える。その思いが「何を書くべきか」という場所へ連れて行ってくれる。腹の底から出てきた詩を、書きたいと思う。

997
言葉の意味にとらわれない自由な詩を書きたいと
若い頃には願っていた

トシをとって
さて自分の書いている詩を見ると
なんとも意味にがんじがらめになっている

それでもかまわないと実は思っている

あきらめた
というのではなく
もっと澄みきって
わたしから溢れるそのままのわたしでいようと
思う

998
人はむかし
水滴だったのかもしれない

悩みの重さにいつも揺れている

だから
詩はいつだって
生きていることへの
恋愛詩でありたい

へただろうが
かっこ悪かろうが
どうでもいい

すくなくとも
詩は
生きていることへの
がむしゃらな恋愛詩でありたい

999
詩を書いていると
どうしても
いつもの言葉が浮かんできて
いつもの内容になってしまう

心地いいから

でもね
詩を書くって
ホントはそういうことじゃない

詩を書くって
一行
一行
いつもの自分の詩をなぞらないように
しむけてゆくことなんだ

詩を書くっていうのは
知らない自分に
会いにゆくこと

1000
詩を書いてゆくために大切なことは
肩の力を抜くことだと思う

だれも君の
知識を読みたいわけじゃない

もともと感じていたことを
しっかり思い出すことだと
思う

自分を追いつめなければ
自分をいじめようとしなければ
書くことだけを
愛していられるならば

詩は
だれにだって
いくらでも書ける

初心者のための詩の書き方 1001章から  松下育男

1001
詩人になるための
必読書はなんでしょう

訊かれた

考えてみたけど
思いつかない

そんなもの
探さなくていい

君自身が
たぶん必読書

君の中の
路地を進んだ所にある本屋の店先に
無造作に置かれている
ありふれた一冊

君だけの
きれいな悩みや
きまじめな悲しみが
どこにも売っていない必読書

1002
賢い人から
ダメな詩人だと言われたら
その言葉を
ありがたく受け取ろう

箸にも棒にもかからない詩を
また書いてしまったら
わたしらしいと
笑ってしまおう

目くじらたてて
詩のことを考えるのなんか
もうやめよう

ただ全身で
詩に震えていよう

人生よりもつまらない詩を
いっぱい書いて
死のう

1003
才能って
あるとか
ないとか
ではなくて

自分の中に
探し出してあげるもの
なのだと思う

すごく
おとなしいもの

だから
君の中にも
しっかりとある

ある日
はえてくるもう一本の優しい腕が
あって

それが
詩を書いてくれるし

書くのも
息をするのも
イヤになった時には
命を包んでもくれる

1004
時代を体現した詩とか、時代を代表する詩とか、よく言われるけど、そんなものはどこにもないと思う。詩って、もちろん現実に取り囲まれて書くものではあるけれど、もっと、なんて言うか、いつの時の人も感じてきた、誰もが感じることできる、生きているものの、極く単純な思いから来ているのだと思う。

1005
詩ってね
これを書いたら人はどう読むだろうと
見当をつけながら作る

つまりね
どこまで人の気持ちになって
自分の詩を読み取れるかっていうのが
大事なんだ

でもね
それとは逆に
人がどう読もうがかまわない
という気持ちも
併せて持っていたい

蔑まれることを恐れていたら
ホントのことは書けない

1006
詩はわかるわからないではなくて
感じるもの

よく言われるけど
わからないものはわからないのだから
素直にそう言って構わない

さしあたってできることは
わかる詩に凭れかかって
うっとりしていること

そのうっとりが
心を広げてくれて
わからないの内の一部分が
こっちへ引っ越してきてくれる

1007
自分の感じ方を真摯に書いているのに、こちらに響いてこない詩を多くみかける。肝心の、どうしてそう思うように至ったのかが省かれているからだ。言い換えるなら現実との繋がりが全く見えない。実際に出会ったできごとの細々したやっかいさにかすかに触れていれば、詩は大いに違ってくるのにと思う

1008
もし君が
これからの生涯に
ずっと詩を書いてゆこうとしていて

でも
実際に目にする詩は難しく感じられて

その多くに
理解が届かなかったとしても
心配ないんだ

心細くなる必要もないし
絶望もしなくていい

君が惹かれるいくつかの詩だけを
しっかり受け止めていれば
君の一生は詩に
満たされる

1009
詩は書けるけれども作品ごとに違った印象のものができてしまう。自分の個性がないように感じる。そんな悩みを持っている人って、いると思う。でもね、人が読むと、本人が思っているほど詩の印象はばらばらではない。詩集を作ってみればわかる。君の息遣いでしっかり満たされている。悩まなくていい。

1010
自由詩の自由は
苦しむための自由ではない

詩を書いていて
いつもイライラしているのなら
書くのをやめた方がいい

生きてゆくための順序を
間違えている

自分を守ってくれる詩なら
続けてゆく

でも
自分が情けない人になったと思うなら
そんなもの
両腕で遠ざけた方がいい

ヒトゴトではないよ

1011
詩を書いていることで、家族やまわりの人がなんらかの我慢を強いられているようなら、詩はやめた方がいい。生きていればそのうち、思う存分詩が書ける時期がきっと来る。あとで気づくけれども、書きたくても書けなかった日々に考えたことは、後の創作の深みにきちんと繋がってくる。

1012
現実を現実のままに書いても、はみ出すものがないからつまらない。妄想を妄想のままに書いても、ああそうですかというばかりでついてゆけない。優れた詩というのは、妄想のような現実であるか、現実のような妄想ではないのか。現実を書いていたはずがいつのまにか取り返しのつかない地点に来てしまう。

1013
自慢のできるものを持っている人はどうでもいい。わたしにはなにもないと感じている人が、最後につかもうとするのが詩作であってかまわない。ここでなら自分らしく振る舞えると思えるなら、ずっと詩を書いてゆこうよ。貧しくてまっすぐな思いが特上の詩になる。生まれてきてほかに何を望むだろう。

1014
高校に行かなくても
詩は書ける

言葉をあまり知らなくても
詩は書ける

自分のことを好きにならなくても
詩は書ける

先の見通しがつかない人生でも
詩は書ける

人とうまくやってゆけなくても
詩は書ける

生まれてきた意味を見失っていても
詩は書ける

今日いちにちを
ともかく生きて
書いてみる

1015
詩を書くのはね
自分がなにものでもないということを
知っていますよ

伝えるためなんだ

特別ではない
ということに
甘んじているわけでは
ないけれど

特別ではない
ということの
おそろしさと
ふるえを
きちんと受け止めていますよ
それでも生きていきますよ
いいよね

伝えるためなんだ

1016
単純な人になりたい

人のことが気にならない人になりたい

自分の書く詩に
ただ夢中になっているだけの人になりたい

人にも自分にも
怒りの消えた人になりたい

詩に取り憑かれた 
わかりやすい人になりたい

それだけの
ほかにはなんにもない
単純な一生の人になりたい

自分なりの
賢治になりたい

1017
詩を書いていると
心細くなる

こんなものをいくら書いたってしかたがない
という
気持ちになる

それは一面の
真実ではあるし
とうにわかってはいるのだけど

この心細さこそが
生きている手ごたえなのだと
知ってはいるのだけど

役にも立たないものだから
わたしのつっかえ棒に
なっているのだけど

1018
詩を書いていると
いつも自分の得意な言い回しや
考え方の方へ向かってしまう

そんなときには立ち止まる

自分では面白いと思っているその展開を
避ける
力を抜いてみる

そして
もっと当たり前な言い回しを選んでみる

詩作には
途中での立ち止まりと
ありふれた表現を取り入れることが
大事だと思う

1019
完璧な詩は書けない。でも、だからと言って絶望することはない。君の詩を読もうとする人は、むしろ君のうまくいかない部分に惹かれているのだと思う。完璧な詩というのは、何かが欠落した詩なのではないか。詩を読むとは、作者がとりこぼした美しいカケラを、拾って返してあげることなのではないか。

1020
人の詩や評論を読んで学ぶことは大事だと思う。ただ、学んだことを活かしたら即すぐれた詩が書けるかというと、それほど単純なものではない。詩を書くって、学んだことを一旦きれいに忘れて、もとの自分に戻ることのような気がする。詩のことなんか何も知らなかった自分が、書けるものなんだと思う。

1021
投稿詩が落ちた時に、選者のせいにはしたくない。ダメなのは自分。ただ、特定の選者だけが自分の詩を分かってくれるということはある。ずいぶん昔、石原吉郎が僕の詩を採ってくれた。分かってくれる人がいるのだと驚いた。あの頃、石原吉郎が選者でなかったら、僕は書き続ける勇気を持てなかった。

1022
さて詩を書こうと
力が入ると
ロクな詩が書けない

大それたことをするのではない

まずは一歩
命から引き下がる気持ちを持つ

しっかり息をして
その静かな音を
文字にするだけなんだ

細いくだを
もろ手をあげて
みずから上ってゆく液体の
聞こえるか聞こえないかの叫び

それが詩なのだと
僕は思う

1023
意味のきちんと通じる詩を書いてゆこうと
僕は思っている

できるだけ多くの人が分かる詩を書こうと
心がけている

それはなにも
もっとたくさんの人に
詩を読んでもらいたいと思っているからではない

意味というものの
すごさと
人が分かるということの
怖さに
なによりも圧倒されているからなんだ

1024
自分が言いたいことを
言うのが
会話ではない

いったん口の中に言葉をとどめて
これを言ったら
相手が傷つくことはないだろうかと
確認してから
言う

自分が書きたいことを
書くのが
詩ではない

いったん手の中に言葉をとどめて
これを書いたら
ほんの少しでも心に入りこめるかと
想像してから
書く
14:16 - 2020年4月26日

1025
例えば
朝が来る

朝が来たら
朝が来たな

ただ思うのではなくて

こんな感じの新鮮な冷たさを
「あさ」

名付けたのだなと
あらためて受け止める

言葉と実体の間に身を置いてみる

目に映るもの
耳に聞こえるもの
手に触れるもの

すべてにそういう習慣をつけていれば
書く詩が
深くなってくるよ
14:48 - 2020年4月26日

1026
外資系の会社に勤めていたので英語にたいへん苦労をした。何を話すかではなくて、英語で何が言えるかという所から話をしていた。でも不思議なもので、そうした方が自由に話すよりも的確に物事を伝えることができるようになった。詩も同じか。言葉をあまり知らないという足枷が、むしろ詩を磨きあげる。

1027
自信作ならともかく
自分で言うのもなんだけど
なんとなく書いた詩が
ほめられる
ということが
ある

どこがいいのかわからない

だから
ほめられても
そのよさを次の詩に生かせない

この詩のどこがいいのですか

自分が書いた詩に
訊いてみる

詩を書いている限り
ずっと訊くことになる
重要な質問
13:51 - 2020年4月27日

1028
NHKでチャップリンの無声映画を観た。無声ではあるけれども言葉は少しだけ出てくる。削りに削った後の言葉が文字になって出ている。驚いたのは、それでも問題なく理解し感動できること。何を今さらと思うけど、言葉は量ではないと、あらためて感じさせてくれる。少ないほどに大事に読まれる。
16:46 - 2020年4月27日

1029
詩のある生活を
送ろうよ

ひとつでも
君のために書かれたかのような詩を見つけたら
ポケットにしまう

どんなにつらいことが
待っていたとしても
その詩が救ってくれる
というわけではないけど

何もしてくれないけど
日に一度
その詩と見つめ合うことはできる

そばに詩のある人生を
送ってみようよ

1030
詩にはね
比喩というものがある

詩に潤いをもたらす霧吹きのようなものだ

この霧吹きが
つまりはひとつの湿った比喩なんだ

比喩っていうのはね
世界の
これと
あれを
結びつけるゴム紐みたいなものだ

このゴム紐も
つまりは
しっかり繋がっていることの
比喩なんだ

生きるって
私の比喩を探すこと
13:48 - 2020年4月28日

1031
生活のために時間に追われて
詩を書く余裕なんてない

そういう人の詩を
読みたい

気持ちを込めて泣くようにして書き上げたのに
できあがった詩は
どうしようもない

そういう人の詩を
読みたい

だれにも一生褒められずに
ただむしょうに書かずにいられなくて
書いている

そういう人の詩を
読みたい

1032
詩は一人で書くものだから、詩人どうしは雑誌の目次の上でしか会わない。会う必要なんてない。でもどうしても生きている詩人そのものと会っておきたくなることがある。阿部恭久と高階杞一が、僕にとってのそういう詩人だ。二人は奇跡的な詩をたくさん書いた詩人だ。生きる喜びを与えてくれる詩人だ。

1033
いろんな詩を書くことはできない。書ける詩はいつもひとつだけ。ひとつだけの詩を無骨に書いてゆく。人のことは気にならない。一本調子の、相変わらずの、よくも飽きずにと思われるような詩をただ書いてゆくだけ。願いも望みもほかにはない。つまらない詩をずっと書いていることのほかには、何もない。
15:01 - 2020年4月30日

1034
詩作のために
どこかから
探し出してきたよそ行きの言葉を
使うのではなく

さんざん使い古された言葉を
清潔に洗い直して
詩をつくる

そんなふうでありたい

いやになるほど
ありふれてしまった言葉と
あらためて出会う

涙とか
夕日とか
おはようとか

もう一度アイロンをかけて
使わせてもらうよ
18:44 - 2020年5月1日

1035
詩を作ることは
簡単

身構える必要はない

正面ではなくて
脇を見る
そこに見えたものを書く

どんな言葉でもいいから
真剣に見つめあう

そうすると
言葉が身の上話を始める
それを書けばいい

どんな言葉にも
深い感謝を持って使わせてもらう

その心だけ持っていれば
詩を作ることは
とても簡単
19:54 - 2020年5月1日

1036
詩を書くためには
体にも
心にも
力なんかいらない

自分の栓を開けて
ゆるめる

ただ自分らしく生きていると
その延長線上にのびたところの端っこが
立ち上がり
形を持って文字になり
詩になる

詩は作るものではなくて
自然に滲んできてしまうもの

ふきんでテーブルを拭くほどの力で
詩を書けばいい
19:32 - 2020年5月2日

1037
明るくなれる詩を書いてゆこうと、15年前の僕は決意している。生きる方へ向かえる詩を書いてゆこうと、考えている。書くという行為は、うまいか下手かで判断される以前に、もっと大切なことがある。せめて自分が明るくなれる詩を書いてゆこうと、そうでなければ詩なんかやめようと、僕は思っている。
14:36 - 2020年5月3日

1038
自分の詩に対するアドバイスは
その通りに従う必要はない

従ったところで
詩がすぐによくなるわけではない

ただ
このように読まれることがある
という
重い事実は
受け止める

一度自分の中に収めて
じっくり考えてみる

人が読む自分の詩の
本性が
少しでも見えれば
次の詩は少し
したたかになる
17:35 - 2020年5月3日

1039
詩というのはね、結果報告ではないんだ。自分がいかに苦悩しているかとか、どれほど寂しいかを書くことではない。むしろ、なぜそれほど苦しいのか、どうして寂しいところへ落ち込んでしまったのか、その道筋を丹念に書くことなんだ。詩は心細さのおもりを行(ぎょう)ごとにぶら下げてゆくことなんだ。

1040
読者をあなどらない

この程度の詩でも
受け入れてくれるだろうと
勝手に判断をして
まとめようとしない

創作で楽をしようとしない

能力はとことん使い切る

自分の詩に対しては
どこまでもしつこくつきまとう

究極の読者って
つまりは自分のこと

自分を
正しく尊敬するために
詩を書いている
14:24 - 2020年5月5日

1041
詩はね
ひたすらコツコツ書いてゆくものだ

とても個人的で
まじめな行為なんだ

自分がなにものかであることを
世間に早く認めてもらいたい
という気持ちは
痛いほど
わかるけど

結果をいそいでも
詩は幸せになれない

詩はね
君と
君の詩だけの
とても地味な関係なんだ

お互いを
決して裏切らない
13:36 - 2020年5月6日

1042
詩を作る時に
むずかしい言葉を使うのはやめようよ

僕は言ってきたけど

だからって
子どものような言葉遣いで
読者におもねろうと
いうのではない

飾ることのない
身の丈(たけ)の言葉で
しっかりと自分のありかを
ここに今
自分があることを
詩に置いてゆこうと
いうことなんだ

それだけなんだ
15:39 - 2020年5月6日

1043
自分が崇拝する詩人の詩を、僕は気持ちの真ん中に置いている。僕にとってさまざまな詩を読むとは、その真ん中の詩からどの方向にどれほどの距離が隔たっているかを判断することである。その詩が読むに値するかしないは、その距離と方向によって分かる。ただむやみやたらに読んでいるよりも詩がわかる。
15:54 - 2020年5月7日

1044
書き上げた詩が
どれほどのものかを判断するひとつの手がかりは
詩の中に
かすかにでも
自分が驚くような発見が入っているかどうか
なのだと思う

なぜか書けてしまった詩になっているか
なのだと思う

抵抗もなく
いつもの思考の流れで
なめらかにでき上がってしまった詩は
可愛いけれども
弱いと思う
18:49 - 2020年5月7日

1045
詩を作る
というのは
今までどこにもなかったものを
目の前にあらわすことができる
ということだ

みずみずしくて
じゅうなんで
けがれていなくて
きずつきやすい

ひとつの命を
なにもなかったところに
生み出す
ということだ

それも
どこかのだれか
ではなくて
君が
そうできる
ということなんだ
14:16 - 2020年5月9日

1046
昨年の現代詩手帖賞を受賞した柳本さんは、書いた詩を、投稿する前に人に読んでもらっていたと言っていた。とても重要な発言だと思う。書いた本人だけが気持ちよくなっていてはいけないのだということ。詩には、客観的な読み方なんてないけど、それに近いものはある。自分の詩を突き放す勇気が必要だ。
14:45 - 2020年5月10日

1047
投稿して
自分の詩が選ばれれば
励みになる

素直に喜んでいい

でも
そのうち選ばれるのが
詩を書く目的になってしまわないように
気をつけた方がいいよ

詩を書く喜びは
もっと手元にあるはず

詩を書く幸せを
人の判断にゆだねるなんて
おかしい

君の詩の
ほんとうの選者は
君の中にしかいない
13:33 - 2020年5月11日

1048
詩を書いていて
いつも同じようになってしまう
という時は
たぶん
こんなふうにありえない発想なら
人は面白く感じてくれるだろうと
思うから
なのだろう

ありえない発想って
人からみたら
実は
それほど面白くはない

詩は
そっちへ行くのではなくて
なんでもない現実の姿の
一部を
書かせてもらう
19:00 - 2020年5月11日

1049
自分は弱い
自分はダメだと感じている人

そういう人が
詩を書ける

際立った詩を書ける

別に
際立ってなくても
そんなこと
どうでもいいのだけど

書いて
どうにかなりたいなんて
そりゃあなれればそれにこしたことはないけど
それも結局
あきらめている

そういう人は詩が書ける
ホントの詩が書ける

1050
ドラマ「エール」では、主人公は相変わらずレコードが出せない。人とは違っているもの、自分らしい曲を書かなければと思うからだ。これって、詩作と似ている。個性的であることは、わざわざ目指されることではない。力まずに人に寄り添うつくりもの。そこから感じるかすかな匂い。それが個性だと思う。

1051
人の見事な詩を読んでいると
つい
自分の詩のみすぼらしさに目が行って
いやになってしまう

詩から遠ざかりたくなる

でもね
そうではないんだ

君には君の詩がある
という
恐ろしいほどの事実に
立ち戻る必要がある

なぐさめで言っているのでは
ないよ

それが
書くことの
嫌になるほどの真実なんだ

1052
自己表現
なんて
むずかしい言葉を使うから
肩にちからが入って
詩が書けなくなる

すごいものを書こうとして
書ける人なんて
どこにもいない

人に通じようとすると
却ってなにも書けなくなる

生きていることが
どれほど心もとないかを
みっともないところも含めて
ぜんぶ打ち明ける心で
書いてみる

1053
チャップリンの『独裁者』を観た。すごい映画だ。場面が変わってなんでもない室内が映る。なんでもないセットなのにこれから面白いことが起きることを小道具の一つ一つが分かっていて、輪郭がくっきりしている。つまりね、優れた詩を書くとは、言葉のもともとの姿をくっきりとあらわにしてあげること。

1054
トシをとると声が大きくなるのは、そうしなければ話を聞いてもらえないという焦りからくるのだろうか。トシをとると繰り返し自慢話をしてしまうのは、自分の生きてきたことを少しでも認めてもらいたいからだろうか。僕もそうなってきた。せめて小さな声の詩を書こう。なにも自慢していない詩を書こう。
     (2020.5.23)

1055
いい詩だなと感じるのは大抵、こだわりの強さに関係している。どんな思想であれ、どんな形式であれ、詩の中で狂おしいほどに一つことにこだわって書きとめようとする姿に、僕はどうしても打たれてしまう。こんなに些細なことにまでこだわる必要があるのかと、一緒に覗き込むようにして詩を読んでいる。

1056
詩は感じるものだから分からなくてもいいんだと、言われたところで分からないものは分からない。無理することはない。詩を読んだり書いたりすることって、もっと単純で清々しい行為だと思う。しっかりわかって、うっとり感じるものが、自分にとっての詩だということ。それ以外は詩でもなんでもない。

1057

「僕の詩作の心構え」

構文はとてもシンプルに

形容詞と副詞は掛かる言葉の近くに

主語を曖昧にせず

並列して書きたいことがあるときには
一つだけにしてあとは捨て

比喩にたよらず

書き出しは自らの手が痛むほどの切れ味を

結末はしつこいほどの丁寧さを

そして
みずからの詩をこよなく愛し

1058
詩を理解するためには
いろんなことを試みた方がいいと思う

詩の入門書や詩人論を丁寧に読めば
わかることもたくさんある

ただ
どんなに優れた詩論よりも
一篇の詩に衝撃を受けた日のことを
大切にしたい

その詩の中には
詩とはなにか
なぜ自分が詩にこれほど惹きつけられるかが
すべて入っている

1059
「現代詩手帖」の今月号から投稿欄の選者が変わっている。僕は2年前に選者だった。当時投稿していた人はどうしているだろうと、この欄を見てしまう。この人はまだ頑張っているな、あの人はどうしたろうと、一年間読んできた人たちのゆくすえが気になる。一度採られた人は、きっとまた誰かに採られる。

1060
投稿欄って
なかなか思うような結果が出ない

たくさんの詩の中で、
それなりに目立っていないとならない

でも
たくさんの中では目立たなくても
その詩をひとりにしてあげて
読めば
その良さが見えるという詩も
たしかにある

そういう詩は
変えようとせずに
個人誌で
じっくりと発表してゆきたい

1061
僕は長いこと生きてきた

それでね
なにを一番言っておきたいかって考える

「詩を書いてみようよ」
だと思う

詩はだれにでも書ける

笑ってしまうほど簡単なんだ

自分の考えていることが
必ずしも正しくなくて

自分の書くものが
ほとんど人の興味を引くことはないと
知っていれば

詩は簡単なんだ

1062
詩は書きたい時に書けばいい

無理をすることはない

でもね
詩なんか書く気分じゃない
という日に
ちょっとだけでも書いてみる
っていうのは
あとでやっておいてよかったなって
ことになるんだ

詩を書く気分じゃない
という
暗い気持ちを受け止める手のひらは

君を温める手のひらでも
あるんだ

1063
わかりやすい詩を書く
というのは
恐いことでもあるんだ

つまらない詩を書くと
すぐにばれてしまう

それでも僕が
わかりやすい詩を心がけているのは
詩は
受け渡すものでありたいと
思うから

渡す先には
普通の息をしている人がいると
思うからだ

うけとめやすい言葉

わかりやすさを
みがく

1064
この「わかりやすさをみがく」というのは、実は僕の言葉ではない。40年も昔に記者が僕の詩をこう書いた。記者はそう感じたのだろうけど当時の僕はそういうことじゃないんだけどなと思っていた。わかりやすさなんてどうでもよかった。でもね、自分のしていることは人の方がよく見極めているものなんだ。

1065
「詩の通信教室」では詩がメールで送られてくる。この世に生まれたばかりの、自信なげに目を閉じている詩を読むことができるのは幸せ。送信ボタンを押す時の震えと、伝わって欲しいという願いが込められてくる。仮にその詩が、それほどのものではなかったとしても、込められた願いの輝きは減らない。

1066
前にも言ったことがあるけど
まずはしっかりと
10行以内の短い詩を
書けるようになりたい

一行一行に目を近づけて
手を抜かずに
隅々まで自分の言葉の面倒を見てあげたい

それができてから
思いを引き延ばすように
少しずつ長くして行く

その方が
自分だけの
自分らしい詩が
できてくると思う

1067
僕は若い頃から詩を書いてきたけれども、30代で突如書けなくなった。もう書くことはないと思っていたが、50代のある朝、「本当に書きたいものを書いておこう」と思い、また書き始めた。あの日の思いは忘れずにいたい。人にどう評価されるかは大した問題ではない。人一人、何を書いておきたいかなのだ。

1068
初めての詩集は300部印刷した。その内の2割が読まれたとして60人ほどの読者になる。たったの60人とも考えられるけど、自分の詩を60人もの人が読んでくれたのかと思えばありがたくもなる。詩は読者の数ではない。一人に通じるってすごいことだし、その奇跡を感じるから書いてゆこうという気持ちになる。

1069
詩と長くつき合ってゆこうと思うのなら
無理をしないことだと思う

おとなになってゆくほどに
精神は傷つきやすくなってゆく

ちょっと元気が出ないなと気付いた時には
かなりひどい状態になっていたりする

だから詩は
辛い時に逃げる場所でいい

自分には才能があるのだと
自分が決めてしまっていい

1070
言葉と知り合いになる
ことが
大事

自分に似合った言葉を
見つけたら
少しずつ仲良くなる

とことん見つめて
打ち明け話を
聴いてあげる

気になった言葉を
頭の中で
来る日も来る日も転がしていると
そのうち
「私を詩に書いてもいいですよ」

言ってくれる

そうしたら
見栄えよく
書いてあげる

1071
なかなか詩ができないという人がいる。人それぞれのペースというものがあるから、焦ることはない。そのうちにどうしても書きたいことがやってくるから、それまでは知らん顔をしていればいい。それを無理して書くと、無理して書いた詩にしかならない。詩とともに生きる。お互いにゆっくりやってゆく。

1072
詩を書いていて
忘れてならないのは
誰が
この詩を書いているのか
ということだ

どこかのだれかの見栄えのよい詩を
わたしが代わりに
書いている
なんてことに
ならないようにしたい

ありふれた自分にも
書けるものがきっとあって
それをなんとか見つけて
心を込めて
書いているのでなければ

1073
ただ詩を書いていても
いいんだけど
いつかはこんな詩を書きたいのだと
漠然とでもいいから
欲していることは
大切

どこかで思っていることって
結局はそっちへ向かって
歩み出していることだし

気がつけば
望んでいたものが書けるようになる

大げさに手を
胸の前で組まなくていいから
毎日少し願う

1074
通信教室の詩は、日を置いて二度読む。最初に読んだ時の感想が的外れであることが二度目の読みでわかることがある。

詩集の詩は通常一度しか読まないから、そのたびに読み間違いをしている可能性がある。

一方、一度だけの読まれ方でも読み間違いをされないような明瞭な詩を心がけなければとも思う。

1075
昔は同じ詩人の同じ詩をみんなが読んでいた。でも最近は僕のような老人でさえ中原中也を読んだ5分後には名もない学生のツイッター詩を読んでいる。感動の質は中也も学生も変わらない。これからは「ホントは才能豊かな詩を書いていたのにほとんど知られていない」という詩人はいなくなるのではないか。

1076
多くの読者に向けた詩は
鋭くならない

詩は常に
ひとりから
ひとりに向けた
書き物だと思う

だからネット時代は
詩というジャンルに向いた世界でもある

通勤のバスの中で読むのは
多数決で決められた優れた詩
である必要なんか
ない

その日を生きようとさせてくれる詩は
自分で勝手に
探し出せる

1077
見栄えよく書かれた詩は
がむしゃらに書かれた詩には
かなわない

詩を書こうとして書かれた詩は
書いたものが詩だったという詩には
かなわない

人が書いた詩から学んだことは
自分の詩のダメなところから学んだことに
かなわない

たくさん学ぶことは
すべてを捨てることに
かなわない
(2020.6.11)

1078
詩を書くっていうのは
どんな能力とも関係していない

頭がよいとか
器用だとか
人との付きあい方だとか
いろんな能力があるけど
どれとも関係がない

書いてみるまでは
その人がどれほど詩の才能があるのかはわからない

しいていうなら
与えられた命をその中で
全うしようとするこころざし
だけかな

1079
たかが詩をつくるという行為だけど
その中には
うまくいかなくて自分の限界をみつめたり
それでも人に分かってもらうために工夫をしたり
さまざまな経験をすることができる

詩を書かなくても
生きてゆくことはできる

でも
何かを生み出したいと思う心は
失いたくない

うまくいかなかったと
してもだ

1080
「プレバト」に「キングオブザ凡人」と笑われる句が出てくる。確かに誰もが発想する句に見える。でも凡人であるということは感性がまっとうであるということでもある。凡句は誰もが通る創作途中の踊り場。まずは「凡人の句」を詠んで、これではだめだとそこを抜け出す句に持っていけばいいのだと思う。

1081
ツイッターで詩を載せることは勉強になる。どのように受け止められるかの手ごたえをある程度得ることができる。詩を書くというのは、それがどのように読まれるかを感じ取るところまでを含んでいる。読み手の反応が予測と違っていたら、自分の詩が読めていなかったということ。反省して、なぜかを知る。

1082
詩が書けなくて苦しんでいる人がいる。そんな時には引き下がった気持ちになる必要がある。「何を書くか」ではなくて「何が書けるだろう」と考える。自分にも書けることがまだ微かにでもあるはずだと信じる。生きていることのこまごましたところに目を凝らす。ここにこんな命があるんだと、かみしめる。

1083
頭のいい人は
頭のいい詩を書ける

でも詩って
それだけの世界ではない

頭のよくない人にも
極上の詩が書ける

それが詩の
不思議なところ

美しくも
あてにならないところ

頭の良し悪しとは
かかわりのないところに
詩の中心はある

ではどこが
中心かというと

それを探しに
僕は詩を書いて行ける

1084
さまざまな詩があっていい

さまざまに読んで楽しめる

でも
自分がさまざまな詩を書けるかというと
それはない

見た目を変えることができても
根は同じ

一つの命には
たった一つの詩が与えられている

自分が書く詩を信じてとことん追求する

それ以外にはない

人の詩は人の詩

私の詩は
私の詩

1085
じっと考えているよりも、歩いたほうが詩ができる。夕方の散歩は、僕にとっては詩作の時間になる。

散歩ほど、考え事に身をゆだねることのできる時間はないし、考え事はそのまま詩作につながる。

毎日、同じ五叉路を同じ角度で曲がってゆけば、不思議な道に迷いこむ。

詩は指先ではなく、脚で書く。

1086
詩が少し褒められただけで
有頂天になってしまう

そうすると
もっと認めてもらいたいと思ってしまう

ホントはそういうことではなくて
自分の詩を地道につきつめて行くしかない

分ってはいるのに見えなくなってしまう

だったら
いい気になる時は
いい気になってしまおう

それも幸せの
一種なのだし

1087
かっこつけて
きれいごとばかり書いていては
詩は力を持てない

あからさまに書く
という
覚悟がなければ
人の心に通じることはできない

あからさま
と言っても
ただむき出しにすればいいというものではない

無意識に隠そうとしてしまうもの
それでいて
詩にさらしても
だれも傷つけないものを
書く

1088
吉原さんの詩を読んで感じるのは、詩を書く時に、蓄えた技術や知識とは別のところから書いているということだ。まるで初心者のように、思いついた発想にうっとりとし、見つけた言葉に喜んでいる。それが手に取るようにわかる。優れた詩人は、詩を書くたびに、何も知らない人に戻ることができる。

1089
当たり前ではあるけど、自分がいいなと思う詩人に向かって進んだ方がいい。単に有名だからこの詩人を読んでおこうとするのは、読みの幅を広げてくれるから無駄にはならない。でも、自分が魅力を感じない詩は目指す詩にはならない。書こうとしている詩は、条件なしに自分が惹かれている詩の先にある。

1090
もっと言葉を遠ざけよう

初めて言葉に出会った時のことを
思い出そう

もっと詩が下手になろう

書きたいことの核だけを
放り出した詩を書こう

もっと詩のことが見えなくなろう

挨拶をして
あらためて詩と知り合いになろう

もっと弱くなろう

どんなものにも勝とうと思わない
弱っちい生物になろう

1091
詩を書こうと思えば
言葉は出てくる

出てくるけど
そのまま書いていいのかどうかと
立ち止まる

自分の書くものは
基本
ありふれていてつまらない

わかっているから
うなだれる

つまらない自分の詩は
読んでもらう価値はないかもしれない

ためらいを通過しないと
人に見せる詩はできないと思う

1092
詩の教室にも通っているのに、なかなか上達しないという人がいる。ほとんどの人は、詩が急激にうまくなることはない。時間が必要。腰を落ち着けて書く。10年後の作品のために書いているのだと思えばいい。その鷹揚さが君と作品にゆったりとした表情をもたらし、詩を作る日々が楽しくなる。

1093
母国語だから、詩を書こう思えば何かは書けてしまう。でも、書こうとする何かが明確でないのに、ただ書けばいいというものではない。こんな詩が書きたいという見つめる先があってこそ詩として成立する。言葉の羅列が詩ではない。感動へ向かう眼差しをしっかりと持つ。読み手はその眼差しを共有する。

1094
僕もそうだから人のことは言えないのだけど、ふと思いついた詩の発想はきっと人も面白いと思うだろうと決めてしまうことがある。でも冷静に考えればそんなことはあるわけがない。詩の発想はいくらでも出てくるけど、それが書くに値するかどうかを判断するところが、創作で一番大切なところだと思う。

1095
発表する詩は見事でも、誰だって手元では下手くそな詩をたくさん書いている。だから詩集や雑誌に載っている人の詩と比べて、自分の詩がみじめに見えるのは当たり前。ぜんぜん気にすることはない。たくさんの下手くそな詩が、たまに書けるましな詩を支えている。どんな詩にも書かれる意味がある。

1096
詩を書こうとする時に
今ある自分よりも
よい詩を書こうとしない

そんなことをすると
妙な力が入って
薄っぺらな言葉の詩ができてしまう

言葉に錘をつけるには
身の丈の詩を
書けばいい

それでいい

よそ行きの詩ではなくて
普段着の詩

今ある自分を超えさせてくれるのは
その
あるがままの詩だ

1097
ここはうまく書けたな
ここを読んでもらいたいという
自信たっぷりの詩行は
人から見たらさほどでもないことがある

さほどでもない
というよりも
自信が垣間見えて
なんだかこれ見よがしで鼻につく

詩を書いたら
ここが一番自信のあるという行を削る

勇気がいるけど
自信のない詩行の素直さを信じる

1098
なかなか気づかない落とし穴が
詩作にはある

書き上げた時に
自分では上出来だと思っていた作品が
単なる勝手な空想の産物で
なにものでもなかった
という時だ

人に指摘されるまで
気づかない

現実に胸を打たれた出来事や
心底感じたことの
カケラでも入っていれば
そんなことには
ならない

1099
詩を書くために、ある方法や技術を見つけることは有効だ。でもその方法が必ず優れた詩を生み出すなんてありえない。どんな方法によっても出来不出来ができる。詩の良し悪しは微妙な所で決まる。不明なもの。そのありかに巡り会うために私たちは創作する。信じられるのは書きたいという思いの根源だけ。

1100
たった一つの人生訓では生き延びられないように、一冊の詩の入門書で詩は身につかない。つまるところ自分の感じ方と考え方に戻ってくる。自分のありかを真剣に問おうとしているなら、どんなに言葉を知らなくても優れた詩は書ける。詩を書くためには何も学ぶものはないということを、知るための手引書。

1101
子供の頃、詩は青春の文学だと思っていた。若者になって、張りのある詩が書けるのは50代までだと思っていた。60代になって、まともな詩が書けるのはあと10年だと焦った。もうすぐ70になる。歳なんて何の意味もないと感じる。詩は呼吸音の文学だ。焦らなくていい。生きている限り、いくらでも書ける。

1102
言葉は不完全なものだと思う。書いたことが、その意図とは違って受け止められることがたびたびある。どれほど膨大な言葉を費やしても、伝え切れることはない。

詩は、言葉の不完全さに触れることによって、言葉の向こう側を伝えようとしている。言葉を一番信じていないのが、詩なのではないだろうか。

1103
昨日のForumで詩の難解性についての話が出た。仲間内だけが分かり合って満足している詩のことだ。僕はそれもあって構わないと思っている。詩を書く者は、読み手との関係性をそれぞれの責任で選びとるものだし、作品がその姿勢を体現することになる。皆がこうすべきだという詩の難解度はない。自由だ。

1104
自分とは全く違った傾向の詩がある。到底受け入れられない詩もある。でもそんなことに目くじら立てたところで何も生み出さない。向こうだってそう感じている。目指すものはてんでバラバラでいい。自分の詩を突きつめることにひたすら時間を注ぎ込む。人の詩にイライラするのは集中できていない証拠。

1105
僕が書きたいのは
無防備な詩

なにものにも守られていない詩

知識も 経験も
まとっていない詩

僕が書きたいのは
無教養な詩

鼻で笑われて
そのまま捨てられる詩

僕が書きたいのは
言葉を知らない詩

どんな言葉の意味も
知らない詩

僕が書きたいのは
凍えた詩

だれかの両手の中で
震える詩

1106
詩の発想は、何もないところに浮かんでくるものではない。詩の発想は、気になる出来事や考え方についてああだこうだとひたすら考えていると、浮かんでくる。考えごとをそのまま書いてもつまらない。考えごとの反対の考えを持ち出してみると、新たなものの見方が出てきたりする。それが時に、詩になる。

1107
習慣づける、というのは詩作にとっては大切なこと。この席でPCの蓋を開けたら詩を書くと決める。バスに乗ったら詩を書くと決める。目覚めたら詩を書くと決める。決めたら必ず詩ができるというものではないけど、書こうとする気持ちは湧いてくる。特別な出来事ではなく、毎日の繰り返しが詩を生み出す。

1108
つまらない個性は詩をダメにする。書きたいように書いていると、似たような半端な詩しかできない。そうしたくないなら、詩を書いている途中で自分の考え方をせきとめる。そこからは個性的ではなく、一般的な人のものの見方で書く。すると詩が腑におちてくる。ああこれなら人に見せられるなとわかる。

1109
言葉の意味はその意味のままで詩を書く

大げさな比喩は避ける

形容も節度を持つ

文と文の飛躍に頼らない

毎日使っている退屈な単語だけを使う

余計な飾りはいらない

表面の奇妙さはいらない

人と違った文体を作らない

一番地味な創作方法でいい

それが実は
最も困難で
強靭な詩になるから

1110
詩は書いていないけど、いつか書きたいと思うだけの日々は無駄ではない。詩は君の脇腹あたりに溜まっている。雨の窓辺で、誰にも見せなくていいから、短くて簡単な詩を書いてみる。向こうの景色が透けて見えるほどの単純な詩でいい。詩に人生を託さない。君らしい詩を書けるなら、それ以上を望まない。
      2020.07.17

1111
詩が書けないと感じるのは正常

あらかじめ書き方を習得していて
それに則って書いたものなんて
詩ではない

どうやって書いたらいいのだろうと
悩んだ末に
気がついたら書けているのが
詩なのだ

詩が書ける自分は
どこか遠くにいるのではなく
書けない自分の
すぐ背中合わせにいる

心配ない

1112
気の利いたことを書こうとするのは構わない

でも
そればかりだと
うわっついた詩になってしまう

詩の中のどこかで
気持ちに正直に書こうとしなければ
詩にしっかりとした錘ができない

一篇の詩の中には
うまく書こうとする部分と
うまくなんてなくていいから正直に書こうとする
両方の部分が必要

1113
詩との関わり方は人それぞれだと思う。ずっと書き続けることにこだわることはない。僕の場合は書くのをやめていた時期が二度ある。合わせて20年間も詩を書かなかった。長いこと書かないでいた分、人生と向き合えたし、その向き合い方が今の詩を作り上げている。書かない時期こそ秘かに詩人でありたい。

1114
若い人には将来詩を書いて生計をたてたいと願っている人がいる。どう生きてゆくのも自由だ。不可能とは言わない。ただ、かなり困難な選択だし、まわりに迷惑をかけてしまうことがある。人生をしっかり組み立てて、その上で詩を書くことも悪くない。それで悔いのない詩を、作り上げればいい。

1115
詩なんか書いていたってなんの役にもたたない、と思っている人がいる。そういう人に反論をするつもりはない。思っていればいい。でも、一度でも書いたことのある人はわかっている。書くこと自体が、生きる意味をつかむことだと。折れそうになる心を支えてくれるのだと。私を生かしてくれているのだと。

1116
詩を書くっていうのは
声は小さくても
それぞれの
雄叫びなんだ

頬を精一杯ふくらませての
生きている
雄叫びなんだ

悲しみはさらに
悲しみの方へ

喜びはさらに
喜びの内へ

ぴったり身を寄せようとする
きまじめな
雄叫びなんだ

だからなかなか言葉になれないし

時に言葉を
超えてしまう

1117
この世界に
僕一人しか生きていなかったとしても
僕は詩を書いてしまうだろう

読者として
だれを想定して書くかとか
そんなことを考える前に
詩は
迸り出てしまうから

あふれる容器に
なってしまうから

だから書いてしまった詩は
どうにもできない

いくらつまらないと言われても
どうしようもない

1118
故意に密度の高い詩を
書くのでないなら
できるだけ読みやすい詩を
心がけたい

読んでくれる人の心の負担は
減らしたい

改行は
やさしく折り曲げる気持ちの関節

空き行は
隣の連との静かな路地

ひと文字空けは
言葉の意味を明るませる透明な箱

天井の高い
風の通る詩へ
読む人を導きたい

1119
私は特別頭のいい人ではないから
私が書いた詩なんて
誰でも思いつけるし
書く意味がないのではないか


時々
考えることがある

いえ
そんなことはないのだと
信じたいけど

それでもかまわないとも思う

意味のないことに
一生熱中していたのかもしれないという恐れを
大切に抱いて
生きてゆきたい

1120
詩のテーマは、
今回はAについて書いたから次はBを書く
というものではない

かと言って
Aの次はA’
その次はA’'
というものでもない

Aについて書くのなら
徹底的にAを書く

幾度も書く
飽きるほどに書く

Aがすり減るほどに書けば
すり減ってきたところに
溜まってくるものがある

それが表現になる

1121
仕事をやめてからずいぶん経つ。今でも思い出すのは、会社で一日働くということの困難さだ。勤務というのはドラマで観るほど気楽なものではない。胸がつぶれるような思いを抱きながら、43年間勤めた。詩からはとても遠い日々だったけれど、遠くから見つめていたからこそわかった詩の大切さと姿がある。

1122
会社は、人の能力の少しの違いによって誰かを誰かの上に置く。人が人に指示をする、という構造を作る。人が人の上に立って威張る。それによって利益を生み出すのなら我慢もしよう。

だけど、会社をやめて、これからは詩を書いてゆこうと思っている私は、詩の世界にまで、そのような構造を見たくない。

1123
人に傷つけられたときの言葉は
忘れない

けれど
人を傷つけたときの言葉は
気づきもしないことがある

それでもしばらくして思い当たり
ひどいことを言ってしまったかなと
反省をする

その言葉は相手に繰り返し
思い出されているのだろう

臆病であろう

私は人を傷つけてきた言葉で
詩を書いている

1124
「詩になれなかったノート」を作る。スマホでもかまわない。そこに日々思いついたことをひたすら書いておく。あるいは、詩になれなかった詩もそこに書いておく。創作のゴミ置き場のようなもの。それを時々読んでいると、たまに「これは」というカケラを拾うことができる。それが思いもしない詩になる。

1125
詩を書いて有名になりたい、人より秀でたい、と思うことは恥ずかしいことではない。誰にだってそういう気持ちはある。でも、詩を書く目的がそればかりになって、早く結果を出したいと考えはじめると、書くことが楽しくなくなる。むしろ辛くなる。発想を言葉にできる喜びに、戻らなければいけない。

1126
詩を書いていると、よいものができなくて、自分はダメだなと感じてしまう。人の詩がやけにまぶしく見える。そういう時って、ある。詩を書く日々はそのまま、自分の欠けた部分を見つめる日々でもある。でも、自分がダメだという絶望の中からしか、真の傑作は生まれないのではないかとも考える。

1127
もう一冊のノートを作ろう。「人の詩をつまむノート」。好きな詩の中の好きな行だけを抜き出して集めてゆく。エッセンスだけを並べる。これを時々読み直して、目がくらみそうになりながら、自分がなぜ詩に惹かれているかを思い出す。書き始めた頃の心に戻って詩を書くことは、とても大切。

1128
感動する才能
というものがあると思う

いつも心が動けるように
しておくことが大切

全身をへこませて
生涯をひとつの容器で
あり続けること

詩を書くためには
なによりも
感動する才能が必要なのではないか

なんでもないものの
そばにいても
なんでもないものなどはないことを
感じとる才能が
必要

1129
中原中也は
布団に入って寝ようとしていたら
にわかに思いついたことがあって
腹這いのまま
一気に詩を書いた

詩作の喜びは
その瞬間にある

その瞬間にしかない

中也ほどに
すぐれた詩は書けなくても
にわかに思いつく恍惚は
私たちも持てる

焦ってペンを探す指先

それ以上なにを
望むだろう
2020.7.28

1130
「現代詩」というだけで、むずかしくて近寄りがたいと感じている人がいる。「現代詩」は「詩」と違って、意味のわからないことを書かなければならないと勘違いしている人もいる。もちろんそんなことはない。「現代詩」もただの「詩」。気さくに付き合えるし、いつもの日本語で書いてかまわない。

1131
「現代詩はこういうものだ」と決めつけない。確かにこれまでに書かれてきた「現代詩」はある。でも、そこから学ぶことはあっても、それに則って書かなければならないというものではない。僕は現代詩の続きを書いているつもりはない。僕は「僕の詩」をひたすら書いている。それが「現代」の詩になる。

1132
私にはわからない詩がたくさんある、だから詩を書いてもダメなんだ、という考え方は間違いだ。誰だってわからない詩はあるし、それでも平気で詩を書いている。長年詩を読み続けても、わからない詩は必ずある。その時にわかったふりをしても何も解決しない。自分の読みを信じつつ、楽しみながら鍛える。

1133
私には詩しか書けない、詩の評論が書けない、だからダメなんだ、という考えは間違いだ。逆に、詩についての評論を書く人が必ずしも優れた詩が書けるわけではない。詩を書く才能はそれ固有のものだ。でも詩を書いているからには何か創作の悩みがあるはずで、そこから書けば、まさに君の詩の評論になる。

1134
投稿の結果には一喜一憂してしまう。それが普通だと思う。ただ、選ばれればなんの問題もなくて、選ばれなければどうしようもない、というものではない。選者の読みだって完璧ではない。投稿にもたれかかるのではなくて、賢く利用して行く。ひとつの評価として受け止める。残るのは評価ではなく作品だ。

1135
僕も投稿では沢山落とされた。でも後悔はしていない。落とされるたびになぜだろうと考える過程は、以後の詩作にとても役に立った。人の心に届くことのむずかしさや、振り返ることの大切さは投稿から学んだ。落とされることは多くを学ばせてくれる。自分の詩は溺愛しない。長く静かに愛してゆく。

1136
朗読を中心に置いて、その活動の一環として詩を書いている人がいる。僕は詩の教室を始めるまで、そのような人達の詩を読んだことがなかった。見事な才能の詩人がいることを最近知った。言葉を寝かさない。行間に血液を流し込んでその都度命をあたえる。生きた詩のあるべき姿に近いのかもしれない。

1137
どんな詩を書こうかと考えることは
もちろん大切だ

散文的な意味にしがみついていない
言葉の可能性に挑んでいる
かっこいい詩を
目指したい

ただ
それでも
意図とは関係なしに
できてしまう普通の詩は
もっと大切だ

意味にぶざまにしがみついていても
行間に飛躍がなくても

極めるべき詩が
ある

1138
どんな詩が書けるかは
書いてみなければわからない

やり方をどれほど事前に学んでも
思いもしないものが
できてしまう

詩を書けば
君の能力を
君が知らなかったのだ
ということが
わかる

どうせ私なんか

考えるのは
やめる

そんなことはもちろんないのだし

自分にとても
失礼なことだと思う

1139
自分がもともと書いてきた詩の姿や傾向は
ブレずに
中心に置いておいた方がいい

その上で
商業誌に載っている詩を
自分に引きつけるようにして
少しでも取り入れるものがないか
という観点で読む

無闇に真似をしたり
ただ反発をするのではなく

自分の詩のために
よかれと思う気持ちで
詩誌を読む

1140
自分は人とは違う
その違いを書こう

いう心持ちでは
詩はなかなか人に通じない

自分は人と同じ
違いなんてなにもない

いう心持ちのところから
水面を見上げるようにして
書く

詩は血液と
同じだと思う

比べたり
見せびらかすものではなく

単に血が流れていることだけを
書けばいい

1141
へこんだところに
水はたまる

詩が書けない時期に
私はすごくへこんでいた

へこんだところに
いろんなものがたまった

「詩を書きたい」
という思いも
少しずつたまった

毎日の
勤務の行き帰りにも
たまってゆく

15年目に
あふれだした

詩を書いて
『きみがわらっている』という詩集を出した

1142
詩を書きあげた時の満足感のひとつに、「正直に書けたな」というのがある。正直に書くなんて、簡単にできそうに思うかもしれないけど、そうでもない。書こうとすれば、自分をよく見せたくなるし、かっこつけたくもなる。あるがままに正直に書けるっていうのは、目指すべき才能のひとつなのだと思う。

1143
ビートルズが出てきた頃には、批判も多かった。「好きにならなくてもいいから、ほっといてくれないだろうか」とジョンレノンが言っていたのを思い出す。

自分の好みと違っていたり理解できない詩は、ほっといてあげる。さまざまな詩があるのは健全なこと。読める詩を読み、書ける詩を心を込めて書く。

1144
詩の中に
自分をあまり出すなとか
情感に流されるなとか
ひとりよがりになるなとか
やってはいけないことは
沢山ある

言われていることに
理由はあるのだけど
もっと大事なのは
好きなように書く
ということだと思う

自分だらけの詩でも
情感でびしょ濡れの詩でも
ひとりよがりでも
優れた詩は
ある

1145
いきなり改行詩を書こうとすると肩に力が入ってしまう。まずは普通の散文を語りかけるように書いてみる。気持ちの負担を減らす。何かを書けば、その文字が呼び水になって詩ができてくれる。

大切な詩はすでに生まれていた。どこにいたかは知らない。生まれる前の私がどうしていたかを知らないように。

1146
詩はコミュニケーションではないのだから伝わる必要はない、という考え方がある。僕はそうは考えないけど、そう考える人は考えればいい。人それぞれに詩とは何かの定義を持つ。どの定義が一番正しいかを議論で決めることではない。どの定義を体現した詩が胸を打つか、それだけのことだ。

1147
多くの人に詩を読んでもらいたいとは考えていない。詩に触れていればもっと豊かな心持ちを持てるのに、その機会を持てなかった人に読んでもらいたい。書いてもらいたい。だから詩の教室をやっている。一つの悩みにいっぱいいっぱいになっている時に、一瞬気持ちが飛び移れる止まり木。詩はそれでいい。

1148
現代の詩に出会えたのは雑誌の投稿欄だった。投稿している同世代の人達の詩を読みながら、毎月打ちのめされていた。選者よりも深く、彼らの詩を読み尽くそうとしていた。高階杞一、佐々木安美、阿部恭久、瀬尾育夫、岩佐なを、宮園マキ。投稿欄から学んだものは多く、同世代にしか分らないものがある。
2020.8.12

1149
詩を作るぞ

思わずに
目の前にわかってくれる人がいて
その人に話すように書いても
詩はできる

あのね
とか
あのさあ

始めると
詩はいくらでもできる

思いをそのまま
じかに
書いたらいい

そうしたいのなら
笑ったり
泣いたり
しながら書いたっていい

まじめに語ることだけを心がけていれば

1150
若い頃には、自分が70歳になって詩を書いているなんて考えもしなかった。その頃には日の当たる縁側に座って、昔出した詩集でも眺めているのかと思っていた。とんでもなかった。そんな縁側はどこにもない。こうなったら、創作の欲求にびしょ濡れになりながら、恥多き生涯を全うする以外に考えていない。

1151
詩の教室では
時に
こうして欲しいという感想を
厳しく言ってしまう

元気をなくさせてしまう

それでも
どんなに厳しくされても
ひたすら通い続ける人がいる

簡単には詩を変えない

というよりも
簡単に変えられるようなものではない
ということなのだろう

それでいいと思う

見事な姿勢だと思う

1152
僕が詩を書く時に心がけているのは二つ
(1) 詩のためにわざわざ持ってきたのでない言葉で書く
(2) 人に好かれようとなんかしないで書く

言い方を変えると
(1) 頭の悪い自分をさらけだした言葉で書く
(2) 偏屈な性格のままで書く

もっと簡単に言うと
(1)&(2) 全部あきらめてから、そののちに書く

1153
時代は表現を変える。SNSで毎日書かれている詩は、今までなら、ましなものを選んで雑誌に載せて、さらに厳選して5年ごとに詩集にまとめる、という道筋だったけれど、そんな順序も壊れてきた。SNSで読み手に受け渡されるものが、その震えだけが、詩との接触のすべてになる時代も来るのではないか。

1154
「60代最後の日の夕方の散歩で」

特定の人に
気に入られるための詩を書かない

ギリギリの自分が
真に考えていることなのかを
確認してから書く

強くなろうとするのではなく
弱いことを隠さない

あからさまであること

生命として生まれ出たことの
あるべき姿ににじりよること

私を見捨てないこと

1155
詩をどの雑誌に投稿しようか迷うことってある。掲載されたらどれほど嬉しく感じるかというのが一つの選択基準。選者によって決めるというのもある。でも、その選者がわかってくれるとも限らない。いろんな雑誌に投稿して、自分の詩をきちんと受け止めてくれるところを見つける、というのも立派な選択。

1156
詩についての定義とか、詩はこうあるべきだという考え方は、知っておいてもいいけど、それに縛り付けられるものではない。どんな定義にも違和感を持つのが普通だと思う。詩はこうでありたいというのは、人それぞれに決めること。人それぞれに熱を込めて書いてきた詩が、あとから決めてくれるもの。

1157
これが自分にとっての詩だと信じたら、あとはそれを研ぎ澄まし、深めることに専念する。読み手に伝わる方法をひたすら模索する。伝わる、というのは単に意味が伝わるというだけではなくて、詩の熱情や恍惚や絶望も含む。もちろんそこが創作の一番難しいところであり、だから惹かれるところでもある。

1158
自分の表現を研ぎ澄まし、個性を突き詰めてゆくのが、向かうべき方向だと書いた。でも、詩作なんて楽しければいいじゃないかという考え方もある。そう考える人はそれで構わない。詩作をどのようにとらえるかは、どのように生きてゆくかということと同義だから。生きるために、詩を書いているのだから。

1159
詩が書けない時は、「ホントに書かなければならないの?」と自分に訊いてみる。「詩を書く」という枠組みの中に入ると、なかなか書けるものじゃない。そういう時は、「詩を書く」というオコナイから抜け出して、外から見てみる。やっぱり書きたいんだな、ということがわかった時には、書き始めている。

1160
詩は一気に思うままに書いていいわけだけど、そうすると、何を書いても途中から同じような思考の切り口だったり、同じイメージの繰り返しになってしまう。それが個性ではあるけど、新鮮味は全くない。
詩作では、常に個性を堰き止めることを心がけたい。そうして後でさえ、充分個性的であるのだから。

1161
詩は言葉の効果をどれほど活かせるかにかかっているのだなと思う。どれほど効果的に、読者へ受け渡せるかにかかっている。そしてそれは、必ずしも「技術」と言い切れるものではなく、技術以前のもの、あるいは技術を超えた所にある。どんな背伸びをすれば手が届くのだろうと、僕はずっと試している。

1162
ずっと何もしないでいて
期末試験の前夜になると
急に詩が書きたくなる

詩は
都合のよい逃げ場所だった

いやなことがあるたびに
俯いた先で
「私には詩がある」という思いへ
隠れてきた

人それぞれの
生き方があっていいと
思う

だから心配しないでいい

詩を握って
生き通すことはできる

1163
たいした詩が書けなくて
それでも幸せに暮らす詩人と

素敵な詩がたくさん出来て
それでも幸せを感じられない詩人と

どちらに僕は
なりたいだろう

たいした詩が書けなくて
それでも家族を守れる詩人と

素敵な詩がたくさん出来て
それでも家族を泣かす詩人と

どちらに僕は
なりたいだろう

1164
生涯、詩人でありたいのですがどうしたらいいですか、と訊かれた。そもそも詩人であるっていうのは認可制ではない。心の持ちようでしかない。それに、僕だってずっと詩人だったわけじゃない。生涯のほとんどは勤め人だった。もっと力を抜こう。その気になった時に必要な量だけ、詩人になればいい。

1165
詩はどこかで現実の出来事につながっていないと脆弱になる。例えば、SNSでひとりの女性の子育て日記を心打たれて読んでしまう自分がいるというのは、表現の技術よりも、実際の出来事に伝達の核心があるからなのだろう。詩のでどころは常に、毎日の中の、この現実を生きるわたくしの怖れでありたい。

1166
ながねん詩を学んできて
詩と取り組んできたのに
成果がでない


思う時は
いったんぜんぶ忘れる

やってられないな

呟いて

それから
少し
落ち着いたら

詩は
だれかに手を持ってもらって書くものではない

あらためて確認する

自分にぴったり
入り込んで
そこだけで書いてみる

1167
君は詩を書く人だから
言葉を
家畜のように手懐けて
詩を書いていると思っている

思いあがってはいけない

実はそうではなく
言葉が君を
詩へ
導いてくれているのだ

いつだって
どんな言葉にも
無防備に全身を
開け放していること

詩人って
言葉に手懐けられて
すなおな家畜に
なりきることなんだ

1168
自分はダメだな
好きで書いている詩なのに
うまく書けない


思っているなら

その
好きなものさえうまくできない
ということを

そのやるせない理由を
詩に書いたらどうだろう

それが詩を
見つめることであり
君のありかを見極めることでもある

僕もそうしてきたし
今だって
そうしている

1169
自分に何が書けるか
というのは
自分にはわからないものなんだ

だから
書く前から
どうせ私なんかと
思わない

書いてみなければ
自分の奥底の深さはわからない

私にはいったい何が書けるのでしょう

真摯に問い続けることが
その心細さが
詩を書くってことなんだ

1170
自分の詩について
きびしい評価を受けたときには
落ち込む

ひどく揺れる

詩の評価って
言われたことは言われたことで
いったんどこかに
置いておいてかまわないと思う

大切なのは
常に
自分の詩に立ち戻ること

自分らしさに立ち戻ること

人の評価は
自分に役立つものだけ
覚えておく

1171
もう会社に行っていないから曜日の感覚がない。毎日同じことをしている。午前中も午後も、詩を読み、詩を書いている。それだけだ。ずっと詩のことを考えている。好きな時に泣きたくもなれる。

君に言っておきたいのは、ひとつだけだ。詩を書いて一生を過ごすことは可能だし、後悔はしないってこと。

1172
何も食べたくないけど
何か口にしておかなければ
体に悪いよ
って時がある

ゼリーとか
果物とか
甘いもの少し
とか

それから
何も書けないけど
それでも何か
書いておかないと気持ちがおさまらない
って時もある

そんな時は
「ですます体」なら書けることがあるし

ひらがなだけの詩も
楽に書けるよ

1173
詩を思いついて
すぐに書かなきゃと
スマホを手に取って
打ち始める

そんな時にかぎって
話しかけてくる人って
いる

どうして今なんだよ

一瞬考えるけど

思い直して
しっかり話を聴いてあげる

自分に話しかけてくれる人が
この世に
いる

ということだって
かけがえのない
一つの詩

1174
気持ちのやさしい人が
詩を書き続けていきたいと
思うなら
人と比べないことが
大切だと思う

比べれば
苦しくなる

比べれば
投げ出したくなる

詩を縦に書くのは
ひたすら自分を掘り下げてゆくものだからなんだ

詩は
周りをキョロキョロしながら
書くものではない

1175
ダメだと言われても落ち込まない

ダメな詩なんて
どんな詩人だって書いてしまう

詩を書くことの
大切な部分は
人からの言葉ではなく
私たちのふところの中にある

ただコツコツと
書きたいものを
書きたいように書く

書き続ける

詩を書いても
なにもおきないけど

ほかほかの
私の詩ができ上がる

1176
夢中になって詩を書いている。器用ではないからなかなかうまくは書けない。ひどいことを言われたこともある。書かなければ傷つかなかったのにと思うこともある。でも、そんなこと関係ない。気がつくとまた書いている。書くことの中にだけ私がいる。書かないで生きてゆくなんて考えられない。

1177
書かないで
腕を組んで
人の詩をあれこれ言う人
よりも

書いて
失敗して
うな垂れている人の方が
好き

書かないで
腕を組んで
人の詩をあれこれ言う人も
必要だとは 思う
けれど

懲りもせずに
書いて
進歩のかけらも
見えなくて
それでも書かずにいられない

そっち側の人で
いたい

1178
自分の才能に合った詩を見つけ出して書く、というのが大事だと思う。人の詩集を読んで感銘を受けることはある。でも、だからといってその人の詩を真似ても、必ずしもよい結果にはならない。さまざまな詩を書いてみて、自分の能力と恍惚をしっかり注ぎ込める詩の器を探すことが、大事だと思う。

1179
なんとか楽して詩を書けないかと
考えたことがある

夢に見たことを書くとか
人に語りかけるようにするとか
思いついたことをどんどん書くとか
人の詩を変えて書くとか

いろいろやったけど
僕の詩にはならなかった

あいかわらずの感じ方と
面と向き合って
こつこつと書いてゆくしか
ないと分かった

1180
詩も
生きています

書いたら書きっぱなしで
忘れてしまうなんて
ひどいと思います

上手く書けなくて
うなだれている詩と
語り合ってもいいのだと思います

ダメな詩と
ダメなわたしで
夜通し背中を合わせていても
いいと思います

うまくできあがらない詩こそが
私が生きていることの
手ごたえです

1181
自分には
詩を書く才能があるのだろうかと
詩を書く人はだれでも
考えることがあります

でも
才能がもともとどこかにあるのだとは
思えません

書けてしまった詩の
ひとつひとつが
詩の才能を積み上げてくれるものなんだと
思うのです

みんな
何もないところから
書きはじめているのだと
思います

1182
自分はさびしいのだと
書くのが詩ではないのです

そのさびしさは
どんなもので
なぜそこにあるのかを書くのが
詩なのです

それが
自分だけのさびしさだからです

自分だけのさびしさ
しか
人に伝わらないのです

一般的なさびしさを書くのではないし

一般的なさびしさなんて
なにものでもないのです

1183
すぐれた詩を書くためには
さまざまなものがあると
思うけど

その中の
たったひとつをあげるとしたら
夢中になっている心
だと思う

なにしろ詩が好きで好きで仕方がない
異常なほど詩のことを考えている
普通じゃない

という人の
書くものが
本物でないわけがない

いつか本物に
ならないわけがない

1184
もう読まないだろう
という
古い国語辞典があったら
そのまま捨てるのではなくて
一枚ずつ
捨ててゆく


出がけに
その中の一ページを破って
ポケットに入れる

通勤の電車に揺られながら
辞書をあらためて
読む

山ほどの日本語が
きれいな姿で書かれている

君の手を取って
詩を書かせてくれる

1185
詩を書かなければならない

思えばつらくなる

そうではなく
私から
できあがってくる詩は
書き尽くしてゆこうと
それだけを思う

詩は
書くものではなくて
できあがるものだから

詩が書けない時は
書かない

もしも私に
書いて欲しい詩が
この世にまだあるのなら
いつか恥ずかしげに
やってくる

1186
詩を書くというのは
私にとって
単に文字を書いてゆくことではない

文字の端に
管(くだ)をつなげて
私の願いや
ため息や
恥じらいや
恍惚を
注ぎ込んでゆくことでもある

文字の中に揺れてやまない
こころぼそげな私よ!

生涯を賭しても
一篇の美しい詩が書けるなら
ほかに何を望むだろう

1187
自分の書いているものが
「現代詩」であるかどうかは
気にしなくていい

「詩」であるかどうかだって
どうでもいい

気にすべきは
受け渡したいと願うものを
心置きなく注ぎ込めたかに
ある

じかに生を
つかめているか
にある

何ものかであるか
どうかは
どこに囲われているかによってでは
ない

1188
もっと人の心を打つ詩が
書きたいと思う

ただそのためには
人よりもすぐれた詩を
書かなければならない

人の詩と比べはじめると
苦しくなる
詩を書いていたくなくなる

人は人

意地でも思うようにして

自分の詩を
抱きしめて生きていくように
心がける

つらいけど
ほかによい方法を思いつかない

1189
郵送の場合の投稿詩は、読みやすい形で提出した方がいい。選者も人だから、ひどく小さな文字や、クセの強い筆跡の原稿は、読むのがしんどいなと感じてしまう。その気持は読みに影響してしまう。活字なら普通のフォント。字間も行間も普通がいい。詩の内容だけが、普通をまぬがれていればいいのだから。

1190
投稿で落とされても、なにも残らないというわけではない。選者はたくさんの詩を読んでいても、投稿者がそれまでにどんな詩を送って来ているかを、結構覚えている。だから、一回ごとの新たな挑戦というわけのものでもない。ひたむきに自己に向き合って書き続けることは大切。悪目立ちをする必要はない。

1191
詩の発想は
かっこよくはやってこない

いつもこだわってしまう事柄の
まわりで
ぐずぐずしていると
そのぐずぐずが ほどけてきて
詩ができてくる

無理に新しいテーマを
探さなくていい

ひとつのことを
くりかえし
しつこいほどに書いていると
だれも来たことのない ところに
たどりつく

1192
つらくてしかたがない時期には
詩を書こうなんて
思えない

だから僕も
10年以上も
書かなかったことがある

その間
もし書いていれば
それなりの詩は
できたかもしれない

でも
書かなかった頃の
弱った心が
詩作に無駄だったとは
思わない

ずっと書かなかったからこそ
書ける
細やかな詩がある

1193
長いこと詩を書いていると
いつのまにか
自分でもわけのわからないものを
こねくり回していることに
気づく

どうしてこんなことに
なってしまったのだろう

そういう時は
そもそも初めて胸をうたれた詩を
思い出す

あんな詩を書いてみたい

感じた胸苦しさを
思い出す

なんどもそこへ帰ってゆく

1194
現代詩を書こうとしない

ここちのいい言葉はなんだろう

思い浮かべて
それを文字にしてゆくだけ

ここちのいい言葉は
向こうから
からだにかぶさってきてくれて
生きてゆこうという気に
少し
させてくれる

現代詩を書こうと
肩に無駄な力を
入れない

わたしを生かしてくれる言葉を
さがす
だけ

1195
偉い人の「詩はこうだ」という言葉は
参考にはなっても
自分の詩作の真ん中に据えるものではない

大切なのは
自分自身が培ってきた常識で
詩とは?

真摯に考え続けること

詩も
この世界のおこないのひとつだ

そのためには
多くの人の詩を読んで
自分とは違うタイプの詩をも
しっかりと受け入れる

1196
もしも君が
月や星や
花や恋の
平易な詩を書いていたとしても
それが真に
君の感性を生かすものであるならば
そのまま書き続けていけば
いいと思う

どんなタイプの詩が
優れているとか
劣っているとかの
問題ではない

それぞれの詩の
可能性を探って
読み手と共有するものならば
迷うことなどはない

1197
詩を作ることは
とても個人的なおこないだと思う

誰のとも比べない

人それぞれの手のひらの厚みがあり
その手のひらに乗るべき詩がある

書き上げた詩は
君から生まれたものだし
君のそばで育ってもゆく

生きることに迷い
悩んだ時には
相談にのってくれるほどの詩だって
書けるかもしれない

1198
「現代詩」の「現代」ってなんだろう。「現代詩」があるのなら「現代ではない詩」があるのだろうか。「現代ではない詩」って、むしろひろびろとした感じがする。

「詩」はなんと呼ばれても気にしていない。さまざまに区分けはされるけれども、服を脱いで裸になればみんな同じ。単に言葉の皮膚を持つ。

1199
「個性などといい
なにか一人だけ特別なことをしているようなつもりでも
ほんのひとときを咲いて
たちまち祖霊たちに連れさられてゆく」


書いたのは
茨木のり子さん

この言葉を
僕は
折りにふれて思い出す

生のはかなさとして
ではなく

詩を作る無上の喜びを表してしまった言葉として

1200
昔、僕は自分の詩が好きではなかった。もっときらびやかで、言葉の可能性を探るような詩を書きたいと思っていた。日常とか生活とかとは、遠いところで書いていたいと思っていた。でも、いつからか力が抜けた。書きたいと願う詩よりも、書けてしまう詩を受け入れられるようになった。かわいくなった。

1201
若い頃の僕は、詩をやめてゆく先達を残念だと思っていた。自分はあんなふうにはならないだろうと信じていた。ところが、僕は人よりもずっと早く、見事に書けなくなってしまった。壮年の、一番詩を生み出すべき時に、ただ俯いていた。今、また詩を始めているのは、僕ではなく、あの頃の底知れぬ絶望だ。

1202
いろいろあったけれども、詩集が出せたのだし、生まれてきたことに感謝している。つらいこともあった。そのときどきに救ってくれる人がいたから、なんとかここまでやってこられた。人一人の人生が奇跡でなくてなんだろう。詩を書くことは僕にとって、命をつかみ直すことだ。もうやめない。

1203
高校一年の時に、学校へ行くフリをしてサボっていた時期がある。電車の中や東京堂で時間をつぶしていた。面白いことが何もなかった。勉強も遅れがちだった。好きな人には口もきけなかった。密かに詩を書いていたけど、それだけのことだった。その詩に生涯生かされることになるとは思ってもいなかった。

1204
「詩を書く」と考えるよりも、単に力のある言葉を書こうとすること。その方がやりたいことに近いと思う。この世に詩というものがなかったとしても、書かずにすませられないもの、あふれ出てきてしまうものがある。詩という既存の枠組みで書こうとするのではなく、もともとの私を枠のない言葉へこぼす。

1205
今でも、人に詩を見せる時には緊張する。とんでもない詩を、気がつかずに出してしまったのではないか。勘違いをしていたのではなかったか。自信なんていつまでも持てない。ビクビクとした人はビクビクとした詩を書いてきた。どこかで笑いモノになっているのではないか。それが私の詩ならそれでもいい。

1206
つまりね、詩を長く書いていなかったというのは、悪いことばかりではないということ。詩を全力で投げ上げる叙情の肩を、まだ壊していないわけだ。

無理にそうすることはないけど、若い頃に詩を書いたことがあって、まだやり残したことがあると感じている老人は、また書いてみたらどうだろう。

1207
詩を書こうとすること

それだけでいい

結局なんにも
できあがらなくてもね

詩を書こうとする私が
ここにいるということ

それだけでじゅうぶん
しあわせだと思う

そこに丸まって
できない詩と見つめあって
苦笑いしているだけでも
いいと思う

詩を書こうとすることは
詩よりも
美しい

1208
詩作にとっての重要な一歩は
自分の詩が
ありふれていて
つまらないものだと
知ることなのではないか

才能の凡庸さを
知ってこそ
その意味を深く考えようと
することができる

才能が凡庸だと知ったので
詩をやめようと
するのはもったいない

詩作の楽しみは
それからなのだから

1209
若い頃は家で詩ばかり書いていた。人と話すことが苦手で、いつも一人になりたいと思っていた。修学旅行先で、みんなが楽しく話している時に、わたしの前にはだれもいなかった。恥ずかしかった。今でも、あの時の気持ちを思い出す。生まれてきたのに置いてきぼり、という気持ちが今も詩を書かせている。

1210
僕がすすめたい詩の勉強法は、とても簡単。一日にたったひとつの詩を読むこと。読んだら感想を書いてみること。わからないところはわからないと書くこと。よいと思った詩はたくさんほめること。不思議なことに、感想を書くことによって出てくる感想がある。そのあとでむしょうに詩が書きたくなる。

1211
詩を作るときに、特定の考え方に固執して極端に走る必要はない。例えば、行のつなぎには飛躍がなければならない、という考え方もそのひとつだ。飛躍があれば表現が秀でるところは、そうすればいいだけの話だ。のっぺりとした普通の言葉の並びが、まさにそれゆえに深く胸をうつことも、多くある。

1212
前回の教室でも言ったけど、大切なのは自分の才能が一番輝ける場所を見つけ出すこと。現代詩も、少女詩も、朗読詩も、ポエムも、宗教詩も、人生詩も、どれがどれより優れているというものではない。それぞれに胸をうつ詩があるし、退屈な詩がある。だから、読む立場になったらどれも排除しない。

1213
改行のタイミングは

1 基本的には読点代わりに改行、句点代わりに空き行

2 語が次の語にかかる場合は、紛らわしいので同じ行の中

3 これはという語は単独行

4 呼吸のリズムに合わせる

もちろん言葉の途中で改行するのも自由

何よりも
その詩が際立つように
してあげる

1214
なんだろう、うまく言えないんだけど、ぼくはこのところ「じかに」ということを考えている。ものごとにじかに触れている詩。読む人にじかに伝わってゆく詩。言葉に厚着をさせたくない。ため息そのまま。叫びそのまま。嗚咽そのまま。言葉そのままの詩が書きたい。

心をこめて
おはよう

1215
ずいぶん昔の話。僕が受験生の頃、模擬試験の現代国語の設問にひとつの詩が出てきた。読んでいるうちに、あんまり素敵な詩なので夢中になって読んでしまった。まさかこんなところで、という感じで不意打ちに感動がやってきた。問われているものはここにある。この震えを生涯解いて行こうと思った。

1216
ともかく
詩らしくみえるものを
書いておこう

というのは
気持ちはわかるけれども
やってはいけない

そもそも
ものごとが

そんな詩
だれも読みたくない

詩作って
とても単純な行為だ

書きたくて仕方がないことを
ただ書く

それだけのこと

それがたったの
一行でも

一語でも

1217
自分にはとうてい書けないような詩を
書いている人がいる

読んでいると
すごいな
という気持ちとともに
悔しさも出てくる

人の詩をすごいと思えることは
大切なことだけど
それはそれ

忘れてならないのは
自分には
自分の書いている詩が
いてくれるということ

私の詩は
私よりも 私らしい

1218
言葉は
わたしの中から出てくる

だから
いとおしくもなる

わたしの中は
湿っているから
言葉も
濡れて出てくる

今朝も
しずくの垂れるような

おはよう

1219
なにかいいことを書こうとすると
失敗作になる

だれかを元気付けようとすると
嘘くさくなる

身の丈(たけ)の詩でいい

力まない

いいことなんて
なんにも書いてなくて

単にだれも
傷つけない 詩であれば

それでいい

ここにわたしはいるんですよ

わたしだけに言ってみる

それが
詩だと思う

1220
詩を書いているだけなら
楽しくしていられる

楽しくなくなるのは
たいてい
人と比べるとき

人が秀でているのを
見たとき

人を羨むために
生まれたんじゃない

そういう時は
人の詩なんて読まなくていい

ただ
書きたい詩を
心穏やかに書いて
過ごせばいい

ずっとそうしていけない理由なんて
ない

1221
何回かここでも言ってきているように、僕には長い間書けなかった時期がある。トシをとってまた書き始めたわけだけど、前とはやはり違う。なんていうか、ともかく書けるものを書いていればいいのだと、それだけを思っている。それがどれほどの詩になるかはわからない。書けるだけで幸せ。とても単純だ。

1222
詩を書いていて
早く認められたいと思う人は
多い

大抵の人は
そうなのではないだろうか

だから
焦る自分を
恥ずかしがらなくてもいいし
後ろめたく感じる必要も
ない

やっと自分にも
できることが見つかって
全力で
心を込めて書いているのだから

早く認められたいと
思うくらい
かまわない

1223
詩作には分け隔てがない。年齢も、性別も、性格も、年収も、人種も、血液型も、それから頭のよさも、関係なしに書ける。手を伸ばせばその日のうちに書き始めることができる。大げさな準備や道具はいらない。決意とか決断とかも必要ない。スーパーに若鶏胸肉を買いに行くような軽い気持ちで始められる。

1224
書けることって
今だけの自分が決めているのではないと
思う

それまでの人生での
さまざまな体験や感じ方の
絞り汁のようなものかな

指先から垂れてくる言葉を
詩の器に受ける

だから
これを書くぞと思って書いているわけではない

そうか
こんなことを僕は考えていたんだなって
書いたあとでわかる

1225
才能のあるなしって、どこまで好きでこだわっているか、ということではないだろうか。体のどこかに才能というかたまりがあって、それが詩を作り出すなんて、ありえない。ハタから見たら、どうしちゃったのと思われるくらいに詩作に取り憑かれている。それが紛れもなく、才能と言うのではないだろうか。

1226
「いい詩ってなんでしょう。みんながいい、いいと言っている詩を読んでも、私はいいとは思えないものがあります。自分は詩がわかっていないのでしょうか」

とてもまっすぐで
正直な質問だった

そもそも僕とどこが違うだろう
というところから
答えを考え始めていた

「そんなことはありません」

1227
詩を書く時に気をつけているのは
カッコつけていないか
実際よりも見た目をよく見せようとしていないか
都合の悪いところを隠していないか
おもねって気に入られようとしていないか
かすかにでも自慢をしていないか
作為を持ってへつらっていないか
勝手な読者を想定していないか
思いあがっていないか

1228
昨日までしたことのないことをしてみる、というのは詩作の刺激になる。大げさなことでなくていい。立ち止まったことのない場所で立ちつくしてみる。気にとめていなかった音に耳をすます。見ていなかったもの、触れていなかったものが、まわりにたくさんあるはず。今日をつややかな日にしてあげる。

1229
僕の詩作方法のひとつ

(1)ふと思いつくことではなく、いつも考えていることを正直に書いてみようと決める

(2)まず、なぜそれを書くかの前段や理由をこまごまと書く

(3)そうしているうちに考えていることが明確になってくるから、謙虚に文字にしてゆく

(4)前段と理由を削除する

詩のできあがり

1230
詩で使っていけない言葉は基本的にはない。ただ、毎日たくさんの詩を読んでいると「紡(つむ)ぐ」と「言の葉」という言葉が、多くの人に使われていることに気付く。もちろん使っていけないことはないんだけど、詩の個性が少し損なわれることがある。そのことは意識しておいた方がいい。

1231
いろいろあるけど
詩作は競争ではないのだし

ともかくも
ここちよく書いていられることが
なによりだと思う

そうしようとすれば
できるはずなのだし

みずからつらくなったり
悔しくなったり
しないように
すること

人の詩は尊重して
迎え入れ

自分の詩は気持ちよく
送り出す

それだけでいい
(2020/10/31まで)

1232
詩集を出すというのは特別な行為ではない。書きためていた詩を束ねることだ。単にそれだけのことではある。ただ、出してみればわかるけど、出す前とは違う自分を受け取ることでもある。詩人になるってこういうことなんだと、静かにわかる。詩集とふたりだけになりたくなる。

1233
今朝の「エール」では、音さんが自分の音楽の能力の限界に絶望をしていた。能力の限界って何だろう。どんな人にでもこの問題はついてまわる。何かが足りないからできない、と考えていたら何も始まらない。何かが足りないのが自分なのだ。足りないままにあからさまに書く。それが詩の切実感になる。

1234
いったん書くのをやめても、詩が君の奥深くに巣食っているものならば、いつかまた書き始めるものなんだ。そんな感じがする。それって、強い意志で「また書き始めるぞ」というのとは違う。決断なんかしないうちに気づいたら書いている。重要なことって、決意なしに始まる。だから力まずに生きてゆく。

1235
僕は詩の教室の人に、僕のような詩を書いてもらいたいとは思っていない。もちろん人それぞれに好きに書いてかまわない。自分と違うタイプの詩を見ると、つい否定したくなるのが人間だし、そういう自分がいることも確か。でも、そこを乗り越えられない限り、肝心の自分の詩もたくましくなれない。

1236
例えば一つの発想を得て
第一連を書く

スムーズに第二連も書けてしまう

ところが
第二連はいつものイメージへ向かってしまう

いつものイメージって
もともと好きなものだから
それでいいのだと勘違いしてしまう

そういう時は第二連を消す

第一連を読み返して
まだ行ったことのない方へ
詩を進める

1237
単純なことだ

楽しんで書いている人の詩には
かなわない

それで
楽しめるようにしむけてあげられるのは
自分だけだ

わかったようなことを言っているけど
僕だって書くのがしんどい時期も
あった

今だって時々
ある

だからこそ
確信している

楽しんで書いている人の詩には
かなわない

1238
人の詩や成果を見て
嫉妬したり
いらいらしたり
暗くなったりすることは
だれにでもある

それほど詩に
真剣に立ち向かっているあかしでもある

だけど
それが高じると
生きるための安定が失われてくる

そもそも
なんのために生きているのかと
立ち止まる

詩を捨てた方が
感性の保てる時期も
ある

1239
つきつめるとね、ただ詩を書いていたいと思うだけ。どんな詩でも、書いていられればそれでいい。褒めてもらえればこの上なく嬉しいし、つまらないと言われればひどく落ち込みもする。でも、そんなことはどうでもいいと思いもする。単に詩を書いていたい。なにも見ず、なにも聞かず、ただ書ければいい。

1240
今の僕が書いている詩は
(a)初めて詩と出会った時の感動と
(b)人の詩から学びとってきたものと
(c)幾度もの失敗作

三者の総体と結果だ。

だから、自分の詩に飽きたとか、限界を感じるとか、そういうものではない。
常に(a)を思い出し、丹念に(b)と(c)を積み重ねる。それ以外にはない。

1241
詩作はお金にならないから仕事とは言えない。でも、詩に一生を賭けられるかと訊かれれば、間違いなくイエスと言いたい。ずっと夢中でいられるし、ずっと身につくということがない。いつまでもこころぼそい生き物でいられる。言葉の不完全さと我が身の不完全さが、熱く手を取り合うことができる。

1242
近代詩も
戦後詩も
現代詩も
宗教詩も
人生訓詩も
ポエムも
ネット詩も
朗読詩も
海外詩も

なんの変わりがあるだろう

根っこをたどれば
ただ単に
書かずにいられぬ思いが
あふれ出したもの

人の詩も
自分の詩も
有名な詩も
名もない詩も
わかりやすい詩も
わからない詩も

なんの変わりがあるだろう

1243
強固な常識を基に、自分のダメなところをみつめながら、一つの個として何を考えたかを真摯に表してゆくのが、僕にとっての詩なのだと思う。

もろん人から学ぼうとはするけれども、あくまでも自分の書くものの奥へ向かおうとしてゆく。

そうしてできたものが、評価されるかされないかは、別の出来事。

1244
「誰にも見せずに詩を書くことに意味があるか」という質問が昨日あった。その時に話した写真家はヴィヴィアン・マイヤー。写真を撮ったきりで生涯を終えた人だ。休みの日にカメラを首からぶら下げて歩いている時に、無上の喜びを感じたんだろうなと想像する。詩も同じ。書いている時がすべてだと思う

1245
僕は目立ったところのない少年だった。何をしても劣っていたし、友達も少なかった。昼休みは一人で時間が過ぎるのを待った。でも「密かに詩を書いている」という思いは、僕を支えてくれた。なにもできなくても、詩だけは書ける。「自分は詩人だ」と思えば生きて行けるのなら、気兼ねなく思ってもいい。
      (2020.11.30)

1246
詩の教室に参加している人の中で、急激に上達した人が何人かいる。それってどうしてなんだろう。分かれば苦労はないんだけど、伸びる人の共通点は、詩に賭けていることを素直に出していること。詩を学びたい、上達したいと、全身で表している感じがする。それが伸びる理由なのかどうかはわからない。

1247
わたしたちはわたしたちの思いを伝えるために言葉を使う。ところが、思いを言葉にするというのは簡単ではない。というのも言葉は不完全なものだから。ただ、言葉が不完全であることは悪いことばかりではない。言葉がうっかり落とした意味を拾ってあげることができる。それが詩を書くということなんだ。

1248
だから、いつもの言葉では言えないことを言葉で言おうとすることが詩なんだ。言葉が自分だけでは表現できないことを手助けする。いろんな手助けの方法がある。僕はと言えば「いつもの言葉」そのものが好きだから、あくまでもそのままの意味にこだわる。ただ、ちょっと別の方向を向いてもらう。

1249
言葉の不完全さに気づくのは、詩を書く時ばかりではない。人と話をしていても、多くの言葉を取り違えて解釈してしまい、後始末に苦労をすることがある。言葉を話し、聴くことは、ちょっとした伝達事項でさえ難しい。私たちは、私たちと同じように言葉も不完全なのだと、常に思い返している必要がある。

1250
だれが有名だとか好評だとかは忘れて、自分の読みで詩を読むことは大切。そうでないといつまでも人頼り。詩と向き合うとは、詩の状況を学ぶことではない。自分が書く詩をとことん突き詰めること。そこを通してしか人の詩は受け止められないはず。真摯に詩を読む一人一人の日本の詩の歴史があっていい。

1251
自分はなにものでもない、と感じたところに詩は生まれる。なにものでもないことの震えや息づかいが、詩の密やかな一行になる。だから詩人であることは、だれかの上に立つことではなく、単に自分のありのままを受け止める力を持つことだ。間違っても、なにものでもないところから抜け出ることではない。

1252
詩の教室は、時によって、詩を書かない方がいいということを知ってほしい場所でもある。大切なのは、ともかく生き延びること。詩を書くことが、自らを生き生きとした方向へ向かわせるものなら書けばいい。詩を書くことが、おそろしい方へ引っ張られることであるなら、すぐにやめて全部捨てた方がいい。

1253
まわりを見過ぎずに、わがままに書いていていいのだと思う。わがままも、突き詰めればどこかへ突き抜ける。それが人に評価されるかどうかは、全く別の出来事であるように思う。どうにもならないことだ。書きたいことを書きたいように書く。人に通じたいとは思うけど、おもねらない。それ以外にはない。

1254
欲を少なくして、詩を書くことを楽しんでいたい 、と僕は幾度も言っている。でも、苦悶や焦りや敗北感が詩を輝かせるということもある。だからそういったことに耐えられる内は、思うままに詩を書けばいい。ただ、どこまで心が耐えられるかどうかは、本人にもわからない。苦しくなったら引き返すこと。

1255
詩を書く時に、ここさえ押さえておけば間違いがないというものはない。だから時にひどい駄作を作ってしまう。特に僕の場合は語彙が少ないから、出来不出来が激しい。居直るつもりはないけど、失敗作を恐れない。一定のレベルの詩を目指して書いているわけではない。ずっと自分の詩を書いている。

1256
好きな詩人
というのは
孤独の分量が
私と似ているからなのではないだろうか

なんの検証も
したわけではないけれども

そうでなければ
いくども曲がったのちにたどり着く
心の奥まった水面に
こうして
人の指が触れるはずがない

1257
書きたいことを書く
というのは
簡単なことではない

書きたいことって
なんだろう

書いたあとで
それが書きたいことだったかどうかが
わかるものなんだ

これが書きたい

思って書くものは
たいてい偽物のような気がする

書きたいことは表面には現れていない

不意打ちに
わたしを突き動かす

1258
大学に行って学ぶ詩もあると思う
増えてゆく知識は
大切にたくわえておきたい

でも
詩というのはそれだけではない

だれにでも
手を伸ばせばとどく詩がある

書くことは
切なさに触れること

どんな要件も必要としない

詩は
生きているしるしを書き残すこと

こんな自分に
じかに触れてみること

1259
発表したあとで、つまらない詩を書いてしまったなということはある。もちろん元気はなくなるけど、本来、失敗作というのはありえないのだと考えている。夢中になって書いたのだから、どんな詩にも生まれてくる理由がある。この詩は身を犠牲にして、次の詩のために私に与えられたのだと思う。

1260
僕はこれまでに4冊の単行詩集を出した。それぞれが15篇以下の詩しか入っていない。生涯で55篇ほどの詩だ。「建築物」という詩を中学生の時に書いて、今は70歳だから、一年一篇になる。一年にひとつの詩が、僕の体を通過したということだ。少ないとも、多いとも思わない。僕の人生は僕の詩に似ている。

1261
僕が詩にむずかしい言葉を使わないのは、別にそうと決めたからではない。なにも考えずに書きたいように書いていたらこうなってしまった。だから、人に勧めようとも思わないし、日本の詩が平易な言葉へ向かって欲しいとも思っていない。好きにすればいい。みんな別々でいい。夢中になれればそれでいい。

1262
詩を書くっていうのは
「わたしはここにいます」
という
小さな叫びでもある

そうでないと
なぜわたしが生まれてきたのか
わからなくなる

こんなわたしだから
たいした詩は
できないかもしれない

でも
そういうことではなく

だから
そういうことではなく

1263
書くべきことっていうのは、いつも考えていることでかまわない。どこかから特別なことを探してくる必要はない。いつもとらわれている感じ方や考えごとを素直に書いてみる。工夫などしなくても、それが正直な自分から出てきているものなら、君だけの言葉になっているはずだし、人にしっかり届いてゆく。

1264
人それぞれに詩の適齢期というものがある。だから、詩を始めるのが遅かったことを思い悩む必要はない。若い頃に書かなかったから手付かずのまましまわれていた感性がある。詩をじっくり始めるために、経験と思考を積み重ねて来たとも言える。人それぞれに、詩と出会うためのお年頃は違う。

1265
詩を作ることは
だれかとの競争ではない

でも
もしひとつだけ
競争のようなものがあるとしたら

詩を作ることが好きでしかたがない人が
だれにも増して
詩に愛されるだろうということ

単純に
言葉にもたれかかって
一生を過ごしたい

信じてもらえないかもしれないけど
ほかにはなにも
いらない
    (2020 12 25)

1266

理由はわからないけれども
人には違いがある

頭がよく
器用で
機知にとみ
生きることに向いている人は
すぐれた詩を書く

それは事実だ

けれど
詩というジャンルは
不思議だ

生きることに向いていない人にしか
書けない詩
というものも
ある

時としてそちらの方が
命の核心に
触れることができる

1267

ホントのことを言えば、定年後に何をしたいのかわからなかった。60代から詩を書いてゆこうなんて決めていたわけではない。だれにも気を遣わずにできることはなんだろう、生きていることにじかに触れることのできるものはなんだろう。気がついたら詩を書いていた。おそるおそる老いた手を伸ばしていた。

1268

詩を書こうとして、気の利いたフレーズが思いつかないときは、単に正直に書こうとすればいい

正直にも奥深さがあって、人に向けたカッコつけの正直では足りない。

もっとつらいところにある、孤独まみれの、みっともない、嫌われてもいい正直。

それをありのままに書くことができれば、詩ができる。

1269

詩を書いたら幸せになれるでしょうか
という質問は
受けたことがない

でも
もしもそんな質問がきたら
どんなふうに答えようかと
考えることはある

僕は僕のことしか答えられないけれど
書かなかった人生よりも
ずっと
ましだったと思う

詩を書こうよ

しつこく勧めるのは
たったそれだけの理

1270

詩を書いたらいったんしまう。一週間ほどして読み直すと、人の目で客観的に読める。ひとりよがりに気持ちよくなっていた部分が見えてくる。そこを直す。

と、僕は教室でよく言っているけど、それも程度の問題。

ひとりよがりでもなんでもかまわない、書きたいように書く、という気持ちも残したい。

1271

僕はこのSNSを、子供だった頃の僕に宛てて書いている。

そんなふうに書いていていいんだ。真に自分から出てくる言葉だけで書いていていいんだ。幼稚に見えることを恐れない。背伸びせず確かな思いだけを書けばいいんだ。飾らなくていいんだ。少しずつでいいんだ。君だけの人生、焦らなくていいんだ。

1272

詩について詳しい人が
必ずしもすぐれた詩を書けるわけではない

詩を書く能力は
別のところにあるのかもしれない

だれかそばにいて欲しいと願う
思いの強さと
もたれかかった先に何もないことの
心細さ

かつて
どれほど鋭く孤独に触れたことがあるかが
関係していると
思えるのだけど

1273

最果タヒさんの詩は、視点の角度も、語彙の選び方も、特定のイメージへのこだわりの強さも、これまでの詩とは少し違う。この「少し」というのが我々の感性をスムーズに導く働きをしている。読者ににじり寄るような手加減は見られない。それでも多くの人に受け止められている。そこから学ぶことは多い。

1274

就職が決まらなかったのは、詩を書きながらそっと生きていける勤め先はないだろうかと思っていたからだ。結局、入ったのは全然地味な会社ではなかった。勤めは楽ではなかったし、がむしゃらに働いていたら定年になった。どんな仕事に就いても詩を手放すことはなかっただろうと、今だから言えるわけで。

1275

仮に
詩から遠い仕事をしていても
あるいは
文学どころではない生活が続いていたとしても

その時に感じた絶望や
ついてしまうため息は
いつか
人には真似のできない君だけの詩に
結実する

詩から遠い人生は
その遠さゆえに
深く望まれた詩になる

焦らなくてもいい

いつか
まちがいなくそれが書ける

1276

若い頃に
人と比べるなと言っても
無理な話だろう

でも
結局のところ
ぎりぎり何を書きたいのか

自らに問うところに行きつくのではないか

詩を書くとは
そういうことではないか

自分が何を書きたいのかは
簡単には見えない

書いて
書いて
書いてのちに
やっとかすかに見えてくる

1277

若い頃には、分からない詩に出くわすと畏れを感じた。これほど分からない詩に囲まれていて、自分は詩を書いていけるだろうかと、悩んでいた。

でも、いつの頃からか感じ方が変わっていた。分からないなりの読み方を身につけた。

真に畏れを持つべき詩は、分かるとか分からないを突き抜けている。

1278

昨日「詩のフリーペーパーを差し上げます」と載せたら、一時間で10名以上の申し込みをもらった。で、僕が思ったのは、詩を欲する人はたくさんいるのだということ。とても静かな気持ちになった。詩は、細い線を伝わって送りとどけられる震える願いだ。こんな状況の時代だからこそ、澄みわたった詩を。

1279

だから
自分には分からない詩がたくさんあるから
詩を書く資格はないのだと
思っている人が
いるとしたら
そんなことはないのだよ
ということ

目の前にある詩の
よさに
しっかり目を凝らしていれば
少しずつ開けてゆく地平がある

なにも心配せずに
書き続けていていいんだ

ホントだ

1280

それから
どんな詩を好きになるのも
もちろん自由だ

人からとやかく言われることではないし
人の目を気にすることはない

権威づけられていなくても
見知らぬ人が書いたものでも

自らが
じかに心打たれるものであれば
それが君にとっての

なのだし

それを忘れずに書いていれば
詩作に迷いはない

1281

詩の同人誌に入ってよかったと思うのは、入っていなければ書くことはなかっただろう作品を書き残せたことだ。上手宰や三橋聡からの刺激なしに、その後の多くの詩や散文を完成することはなかった。むろん独りでやっていてもいくつかの詩は残しただろう。でも、そっちの僕のことはもう知るすべもない。

1282

言葉は使うものではなく
味わうものだ

どんな言葉も
あらためてしっかりと受け止める

詩人になるのは
むずかしいことではない

言葉を尊敬できる
それだけだ

1283

詩の発想というのは、降りてくるのではなくて見いだすものだ。もともと君の中には書くべきことはいくらでもある。気持ちがゆるやかな時や、体を動かしている途中に、それが見えてしまうことがある。あっ、これは詩に書けるなと思う。発想を掴むためには、自分の考え事の死角にひたすら目を凝らす。

1284

僕の詩の作り方です

(1) 詩を書いたらそのまましまって一週間は見ない

(2) 一週間後、言葉も内容も忘れている詩を、人の詩を読むように読む。書きすぎや不明な点を直す

(3) その翌日にもう一度読み直して、発表するに値するかを確認する

(4) 上記(3)の確認を数日間繰り返して、それから発表する

1285

昨日書いた「詩の作り方」にしたのはトシをとってからのこと。詩を書いた直後は頭が興奮しているし、よい詩だと信じたい気持ちが読みを狂わす。日を変えて何度も読み返すのは、何人もの自分にあらためて読んでもらいたいから。その日その時の自分が詩を正しく読めているかどうかは、わからないから。

1286

僕は30代後半にもう詩が書けなくなってしまった。かつては、詩を書かない人生なんて意味がないと考えていた。でも、実際にそうなってみると、何事もなく過ごすことができた。

いつかまた詩を書こうなんて決意していたわけではないけれども、書くべきことが残っていれば、自然に書き始めるのだと思う。

1287

詩を書かなくなっていた頃は仕事が忙しかった。だから詩のことを思い出すことはなかった。ただ、本屋に行ってもわざわざ詩のコーナーを避けて歩いていたのだから、意識はしていた。もっとも大切に思っていた詩から嫌われたことがある、という思いは、ぼくを捨て鉢な気持ちにもし、強くもしてくれた。

1288

単純に生きて
書きたいことだけを書いてゆこうと
思えるようになったのは
50代になってからだろうか

それで気が楽になったとか
不安がなくなったとか
そういうことではないけれど

人は人

よそ見せず
やるべきことだけやる

書きたいことに
何度でも戻って
書く

とても単純になろうと
思った

1289

詩を書くことが
苦しくてしかたがない

感じたら
詩はやめた方がいい

それを言うために
ぼくは
詩の教室をはじめた

詩を書き
読んでゆくことは
感動をため込んでゆくことだ

ありふれた命が
その命を
しっかりつかもうとすることだ

1290

わからない詩を
わかったふりをして
読んでいても
いつまでもわからない

わかる詩を
丁寧に味わって
読んでいると
わからない詩も
いつかわかるようになる

1291

この人は二度目の人生なんじゃないかと思える人がいる。若い頃に詩を投稿していてなかなか採ってもらえない時、毎月入選している人を見てそう思った。この人たちは、自分が書いた詩を、距離をとって見つめられるのだなと感じた。離れて、自分の詩を見つめることができている人なのだなと思った。

1292

ところが、ぼくは一度目の人生だから、要領よく言葉から距離をとるなんてできなかった。ただ夢中になって書いていただけだ。そういうふうに生まれてきたのだ。不器用な人は、器用な人をまねるのではなく、不器用を貫いてその先へ踏み込むしかない。今でも、自分の書いたものとぴたりと付いたままだ。

1293

詩を書くことは
ふだんなら人に見せたくない弱みや
話したくない恥を
勇気を持って書いてしまうことでも
ある

だから
詩を読むとは
単に文字を読むのではなく
書いた人の か細い勇気の
けなげさを
受け止めてあげることでもある

1294

詩は弱者の文学だとぼくは思っている。決まりごとも押し付けがましさもない。ただむしょうに書きたいと思うから書く。うまいもへたもない。上等も下等もない。生きてゆくために吐き出さなければやっていけないから書く。みっともなくてもいい。しがみつかなければ生きていけないから書く。

1295

文学部に行けば詩を学ぶことはできる

でも
そうでなくても
詩に触れ
詩を突き詰めてゆくことはできる

何歳からでも
どんな人生のただ中にあっても
詩を生涯書き続けることはできる

ぼくは文学部には行っていない

呼吸 ひとつを
人の声の響き ひとつを
それぞれ
貴重な講義と受け止めている

1296

詩にとっての言葉は
単なる道具ではない

言葉そのものが
どれほど潤い
どれほど力を持っているかが
大切

言葉をおろそかに使わず
どんな言葉も尊敬できるならば
何を書いても
詩はおのずから際立つ

1297

うまくいったかどうか
ではなくて

必死であったかどうか
がむしゃらであったかどうかだ

人にどれほど評価されたか
ではなくて

自分の詩に
どれほどやり尽くせたかどうかだ

1298

詩を書くとは
ひとつひとつの言葉に
本来持っている意味を
思い出させてあげることではないか

そのきっかけを
与えてあげることではないか

もっと伝えられることがあったはずだと
か細い肩を
揺さぶることではないか

1299

同じ人間なのに
人によって人柄は違う

こんな人柄の人が好きだけど
こんな人柄のひとは苦手だ
というのがある

言葉もそれと同じなんじゃないかと
思う

同じ日本語で詩を書いているのに
そこにいるだけで
好かれる言葉がある

言葉の人柄を
よくしてあげるのが
僕の詩の ささやかな目標

1300

私はこんなことを知っている

書くのではなくて

私はこんなことも知らないのです

書くことが

なんだと思う

普通にさえなれない人が
詩を書けるんだと思う

1301

だから、一度も詩を書いたことのない人にも、ぼくは「詩の教室」を覗いてみてもらいたい。才能があるとかないとか、そんなつまらない問題はどうでもいい。誰にでも自分に感動する権利はある。詩はそっちへ導いてくれる。どれだけ自分に感動できるかだけを、考えて書いてみるといい。

1302

「生きている不思議、死んでゆく不思議」という歌詞がある。目が覚めると布団の中で、この歌を思い出す。ぼくが書きたいのはつきつめればこのこと。生きている不思議を身体中に感じながらその日を受け止める。なんにも理由がなくたって、込み上げてくるものがあればしっかり涙ぐめる。

1303

自分の言葉で書く
ということを
心がけている

これだけは心底感じているということを
借り物でない
自分の言葉で書く
ということを
心がけている

人と比べてどうか
よりも
自分の言葉かどうかを
大切にしている

1304

人の詩から受け取ったものが
少しずつ溜まってきて
ある日
わたしの体からあふれてしまう

それが
詩を書くということ

だから
詩作にとって一番大切なことは
人の詩にどれほど感動できるかどうか
なのだと思う

詩をつくるなんて
おこがましいことではなく

ただ単に
めいっぱい受け止め返すこと

1305

そのものになりきってしまう
というのも
詩を書くひとつの方法

ブランコになりきって
向こうの空を書いてもいい

かわうそになりきって
水の震えを書いてもいい

いつもいつも
私になってるだけでは
息がつまる

さびしさになりきって
かすかに残る希望に
もたれかる背中の感触を
書いてもいい

1306

これは
ぼくだけのことなのかもしれないけど

自信がなくて
不安でしかたがなかった時が
伸びていた時
詩が残せていた時

自信がついて
やっと落ち着いた時は
停滞した時
詩が書けなくなる時

1307

賢くない人ほど
自分は賢いのだと
思われたい

ぼくもそうだ

だから
詩を書いていると
つい
賢く見えるように書きたくなってしまう

でも
わたしは賢いのですと
書いてある詩ほど
さびしくて
つまらないものはない

わかってはいるけど
ついそんな詩を書いてしまうのは
やっぱり
賢くないからなのかな

1308

「アスファルトと雪どけ水のはざま
私と通学路がかみ合わない。」

書いたのは
文月悠光さん

文月さんの詩を読むと
詩は
詩を書く人と別にあるのではないと
知らされる

さらに
詩は
静止画であるだけでなく
動画にもなりうるのだと
知らされる

カギカッコが
とても詩になじんでいることに
驚く

1309

日本にはこれまでたくさんの詩人がいた。人生のほんの短い期間に熱く詩を書いて、名もなく姿を消した詩人は少なくない。過去の雑誌や詩集を丹念に探してゆけば真に愛せる詩人に出会うことができる。詩は個人と個人の引き合う力だ。別の時代に生きた自分を見つけることもできる。書く前に、詩を読もう。

1310

ぼくはもう60年も詩を読んでいる。それでもよさのわからない詩はたくさんある。だからと言って、そのような詩をダメだと決めつけたくはない。ぼくでない人がよいと思っているものを、尊重する心は失いたくない。よいと思える詩に、もろ手をあげて称賛することに、残っている時間を使いたいだけだ。

1311

自分が書いてきた詩を読んでいると、新しい詩が書けなくなる。「これまでこんな詩を書いてきたのだから」という思いがのしかかってくる。新しい詩に向き合う時には、過去の作品を忘れる。今の私に何が書けるかに立ち戻って、一から始める。過去の作品は役に立たないどころか、汚れた心が混ざってくる。

1312

詩が書けた時の喜びは、書いたことのある人にしかわからない。ぼくは、沢山の人に詩を書いてもらいたいとは思っていない。ただ、昔から言葉にときめくことがあったり、ちょっとした言葉に救われたことのある人には、一度書いてみてもらいたい。その人だけが書ける詩が、作ってもらえる日を待っている。

1313

だれにでも、じゅうぶんな量の言葉がその一生に用意されているのではないか。

石原吉郎は年齢がいってから書き始めたから、最期まで旺盛に書き続けた。

辻征夫や北村太郎は若い頃に寡作だったから、のちに多くの詩を書いた。

だから、書けない時は焦らずに、その時が来るのを待てばいいのだと思う。

1314

場所が詩を書かせてくれる
ということがある

あの喫茶店の
あの席に着くと
詩ができる

電柱をよけて
曲がり角を曲がる時に
詩ができる

湯船にひたって
水に囲まれると
詩ができる

おぼえておこう

体と頭が適度に揺れていて
わたしの中の
秤のようなものが傾いたときに
詩ができる

1315

評判がよくて
どんなにすごい詩人なのだろうと
読んでみると
何も感じない
ということがある

たぶんぼくの
読みの限界なのだろうけど
それで自信をなくしていては
詩なんか書けない

胸打たれた詩があり
書きたい思いがあるのならば
心配することはない

ともかく惹かれるものだけを
見つめていたい

1316

まだひとつも詩を作ったことがなくて
さて書いてみようかと思っているなら

詩を書こうと思わないこと

詩である必要なんかないということ

肩の力を抜くこと

書くほどのものをなにも持たないこと

褒められようとしないこと

ずっと書いてゆこうなんて思わないこと

深刻にならないこと

1317

時々
詩が書けることの喜びを
忘れて
人よりも褒められたいと
思ってしまう

そういうのって
だれにでも自然に
出てきてしまう思いだから
恥ずかしくはない

でも
人よりも秀でたいと願うなんて
キリがないし
人任せで当てにならない

詩を書くことの中に
一人でもぐりこんでゆくことだけ
考えていたい

1318

たいしたものを書くつもりはない

思うところからでないと
まともな詩にはたどりつかない

あれも書ける
こんなのも書ける

欲張った心からは
まともな詩にはたどりつかない

自分の詩がなにものかであると
思った瞬間に
詩もわたしも
だめになる

低いところからでないと
たぶん 詩は見えない

1319

詩を書いたら
一番よくできたと思っている部分を削除すると
詩がまともになる

何かで読んだ記憶がある

自分の詩のだめなところは
自分にだけは見えない
ということだ

でも

僕は思う

それでもいいじゃないかとも思う

一番よくできたと思っている部分を
削ってまでも
詩をよく見せたいだろうか

1320

もし僕が僕でなかったら
僕の詩をすごく批判しただろうと思う

言葉の意味にしがみついていて
イメージに飛躍がなく
鮮やかな比喩もない

ただあまったるい心情に
まぶされている

ところが
いざ書いてみると
それしか書けない

身をよじっても抜けられない自分自身
というものがあって

あきれている

1321

詩を書き終わった時の
僕のチェックポイント

人の言い回しをそのまま使っていないか

自慢をしていないか

かっこつけていないか

賢いと思われようとしていないか

詩のよさを読み手に探してもらおうとしていないか

詩はこんなものだと、たかをくくっていないか

失敗を恐れていないか

1322

詩を読むというのは
たくさんの詩人をまんべんなく読むことではない

強く惹きつけられる詩人が
たった一人でもいれば
もとめるものは満たされる

一人の詩人の中には
詩のすべてがある

繰り返し
深く読むことによって
詩とは何かが見えてくる

このところ北村太郎を読んでいる

むしょうに楽しい

1323

中也は
ふとんに入っていて
思いつくと腹這いのまま
詩を書き始めたという

ところで
詩を書くために向いた時間って
あるだろうか

僕はやっぱり
目が覚めた瞬間

この世に戻ってきたばかりで
形が
その形に戻ろうとしている時間に
詩が書ける

詩だって
できあがりの暁を
たっぷり取り込みたいだろう

1324

詩を書くのに女も男もない。ただ、女性と男性の違いというものはある。ぼくには三人の姉がいた。観るテレビも、聴く音楽も、読む本も、姉の選ぶものに影響を受けてきた。人を思うとはどういうことか、どんなふうに人と話せばよいのかは、姉を真似てきた。だから今こんな詩を書いている。後悔はない。

1325

子どもの頃に、姉に「中原中也全集」を買ってもらった。ずっと読んでいた。こんな詩が書けたらどんなに素敵だろうと思った。だから書いてみようと思った。もちろん中也のようには書けなかったけれど、それでもかまわない。すぐれた詩を読むと、こんな詩が書けたらと、今でも思う。

1326

詩を書いていて
自信のあったことなんてない

いつだって
これでいいだろうかと
思っていた

自分の書いてきた詩を見ると
だめなところばかりが気になってしまう

それでも

ある日考えた

自信があろうが
なかろうが

自分が書ける詩を
思いをこめて書いてゆくしかない

それ以外にはない

1327

誰とも比べない

考えるようになってから
詩が書けるようになった

すぐれたものを書かなければ

考えることをやめてから
詩が書けるようになった

だれよりもくだらなくて
だれよりもつまらない詩を書こう

決めてから
わたしの詩が書けるようになった

1328

散文のように意味のしっかり通る詩も
言葉の可能性を求めて意味を折り曲げた詩も
詩に何を求めるかが
違うだけのこと

どっちがどっちよりも優れているかという
問題ではない

日によって
どんな詩が読みたいかが
変わるように
様々な詩があっていい

人の詩を受け入れられた分
自分の詩が深まってゆく

1329

吉野弘さんには「奈々子に」という詩がある。北村太郎さんも融理子さんを詩に書いている。吉原幸子さんの詩には純さんが幾度も出てくる。娘や息子を詩に書くってどういう気持ちなのだろう。固有名詞は詩に凄みを与える。詩が読み手の懐深くに入ってくる。僕にも娘がいる。詩に書く勇気はまだない。

1330

詩というものは、個人の中を掘り下げてゆくもので、それゆえ何かと比べられるものではないと、僕は思う。めくらなければ出てこない自分と向き合うことなのだ。比較の外であるとともに、価値の外でさえもある。そのような詩を書く詩人を知ると、身が引き締まる。詩を信用してみようと思う。

1331

自分が書いた詩に対する人の評価は尊重したい。確かに学ぶべきところはあるし、反省の材料にはなる。ただ、「書けてしまうものは仕方がない」という、捨て鉢な思いもある。全力を尽くして作り上げた詩は、その時点で僕のものではなくなる。その詩がどのように扱われるかは、別の事柄のように思える。

1332

毎日、詩集や詩誌が送られてくる。ひとつひとつに願いが込められていて、ぼくの部屋に積み重なってゆく。ただ、これを全部を読むには一生は短すぎる。みんなはどうしているのだろう。「星の王子さま」に、そんな人は描かれていないだろうか。星中、本だらけで、一冊読んでいる間に十冊の詩集が届く。

1333

詩というのは、どんなに精魂込めて書いても、それほど多くの人に読まれるものではない。ほとんどの詩は最後まで読まれることはない。でも詩というのは、作者の知らない時に、知らない所で、思いもよらず深く読まれて、受け止められていることがある。そしてその読者こそが、一番読んで欲しい人なのだ。

1334
具体的に生きているのだから具体的な詩を書きたい。こまごまと書きたい。一般的な人なんてどこにもいない。一般的な人が書くだろう詩なんて書きたくない。意味もなくこだわってしまうことだけを書きたい。私が経験をし、私が感じたことを、私の言葉でしつこく書いていたい。

1335

うまい詩を書こうとしない。もっと地道に書いているものと向き合う。うまい詩を書くためにやってきたわけではない。真に書きたいことはなんだろうと、自分の内臓に手を突っ込んで探すように書いてきた。だから気をつけよう。うまい詩を書こうとしない。

1336

中学生の時、クラス全員でクリスマスプレゼントを持ち寄ろうと決まった。僕はケーキの空き箱の裏側に、小さな文字でびっしりと自分の詩を書いて持っていった。箱は、阿部さんという女生徒の所へ行った。箱を開けて、裏の文字に驚いて読んでいる顔を、今でも覚えている。若いから、あんなことができた。

1337

若い頃は、詩を書かなければ生きていけないと思った。

歳をとってくると、詩を書かなくてもなんでもなく生きていけるとわかった。それでも書いてゆこうと思った。

若い頃は、詩に喧嘩をふっかけるようにして書いた。

歳をとってからは、詩に気づかれないようにして書いている。

1338

「一生
詩を書き続けるぞ」

なんて決意は
なにものでもない

生きていれば
嫌でもいろんなことがあるし
その都度
自分が詩を必要としているかどうかを
考えればいい

詩どころではない
と思えば
引き下がっていてもらおう

もしも 真に
詩が君を必要としているものならば
振り払っても
ついてくる

1339

人のすごい詩を読むと「先にやられてしまった」と思うと、金井さんが昨日言っていた。では、人のひどい詩を読むと、どう思うだろうか。「ざまあみろ」とは思わないだろう。では「こんな詩がはびこっているから現代詩はだめだ」と嘆くだろうか。僕はどうだろう。「さて自分の詩を書こう」と思うだろう。

1340

人の詩について語ろうとする時、その詩を理解しようという気持ちと同時に、自分の批評を見栄えよくしたいという気持ちが出てくる。人の詩を通じて、自分の詩の正当性を確認している。

読むというのは、自分の詩に向き合い、試すことでもある。読むことの中に、書くことがまるごと含まれている。

1341

詩を書いていて
すぐに認められたい

焦る気持ちは
わかりすぎるくらいに
わかる

だれだって
そんな気持ちを抱えて書いているのだと
思う

でも
あたりまえなことを言うなと
叱られるかもしれないけど

人の評価にあまり左右されずに
自分の詩と向き合ってゆくしかないのだし
それでいいのだと
思う

1342

才能に満ちていて
いつもやる気があって
いくらでも傑作が書ける人なんて
いない

もしいたとしても
私はなりたくない

不安で胸が苦しくなるほどで
きまぐれで
いつも自分に似た貧しい詩ばかりが
できあがる

それでかまわない

書きたいという
ひたすらな気持ちが
私を生かしてくれるのだから

1343

自分がどのような詩を書くようになるかは、自分の意思では決まらない。かと言って、読んできた本が決めてくれるわけでもない。あらゆるものが影響をしてはいても、書いてしまう詩は、別の場所で予め決まっていたように感じる。身をよじっても逃れられないもの。知らない自分が詩の水面に湧き出てくる。

1344

そんなつもりはなくても、心のどこかで、これくらいでいいだろうと、たかをくくって書いた詩は、悲しい

読者を決めつけて、甘く見て、こんな感じで書けばこれくらいのものにはなるから、許してもらえるだろうと、作り上げた詩は、悲しい

ともかく精一杯のところでうろうろしていること

肝に銘じたい

1345

それぞれの詩の作り方があっていい

例えば僕の場合は
無理やり詩を作ろうとしないことを
心がけている

特定の手法や型には縛られたくない

言葉は飾ることなくそのまま使いたい

文法もいじらずにそのまま使いたい

言葉の意味を尊重したい

詩を作るというよりも
僕の何かを
ここに少し残してゆく

1346

能力は
人それぞれ

すぐに変えることなんて
できない

だから やれることは
一つだけ

その能力の内で
言葉とまじめに向き合うこと

どんな人でも
それを貫いていれば
言葉は新鮮な姿を
見せてくれる

詩を書かせてくれるのは
今の能力ではなく

よいものを書きたいと見上げる視線の
角度だと
思う

1347

何かコツのようなものをつかんで
これでいくらでも詩が書ける

思ってしまうことがある

でも
大抵そういうのは勘違い
詩らしきものしかできあがらない

もともと詩を作るコツなんて
どこにもない

どうやって作ったらいいのか
わからないところから
心細げに始めるのが
詩という名の
ものなのだから

1348

詩を書く
と言うけれど
詩はできあがってしまうものなんだ

ぼく以外の何かが
ぼくを通して書いている

だから
無理をしなくてもできるし
無理をしたらできない

近くにいて
ぼくの生き方を見つめてくれてるもの

気がつけば
目の前に詩ができあがっている

何かが書いた詩に
ぼくは名前をゆっくり書く

1349

ベッドにひっくり返って
天刑のような一行を待っているわたくし


書いたのは
北村太郎

ぼくにとっては意外な詩行だった。北村さんほどに、詩への入り口がなだらかな人を知らない。見えるものはそのまま、考えごともそのままに詩になりうると教えてくれたのは、飯島耕一と北村さんのように感じる。

1350

わたしはまだ
知らないことがたくさんあるから
詩を書くことはできない

という考え方は
間違い

むしろ
まったく逆なんだと
思う

物知りでないから
ナマの感じ方の詩が
書ける

詩を書く才能って
詩の技術も方法もなにも知らない場所へ
詩を書くたびに
もどれることなんだ

1351

僕は壮年期に15年ほど詩を書けなかった。それでも勤め人の日々は忙しく充実していた。もしあの頃に無理をして書いていたらどうだっただろう。ただ消耗していたのではないか。あの頃に書かなかった詩を、老人になって書いている。詩は書ける時に書けばいい。書けない経験ほど詩を深めるものはない。

1352

詩は言葉を飾るものではなく
ナマのまま使うものだと
僕は思う

言葉を飾っても
詩はできる

でも
単に見栄えよくしようとした詩は
むなしい

みっともなくても
心細くても
貧相でも
ありのままに書くことのなかにだけ
人へ通じるかすかな
道ができる

そのことを忘れるな

僕は時々
自分を叱る

1353

よさのわからない詩人がいると、自分の読み方に足りないものがあるのではないかと思ってしまう。その気持ちは大切だけど、気にしたってどうなるものでもない。好きになれない歌手がいたからといって、自分を責めることはない。それと同じ。好きな詩人の好きな詩だけを読んでいて、何がいけないだろう。

1354

ずっと詩を書いていると、勝手にむずかしく考えすぎて妙な所にたどり着いてしまう。こんなものを書くために詩をやってきたのではなかった。目をさまそう。もっと単純でいいんだ。見失ったら八木重吉にもどる。

息を ころせ
いきを ころせ
あかんぼが 空を みる
ああ 空を みる

1355

10年前、現代詩手帖も大震災を特集していた記憶がある。多くの詩人が震災についての詩を書き、思いを書いた。ぼくがあの時に感じたのは、人生、先のことは何も決められていないのだということ。もたれかかる大きなものはない。当たり前のことだけど、すべては自分で選んでゆく。

1356

僕は詩を書く
という時の
「詩」
という言葉は
狭義の「現代詩」を指すものではない

さらに激しく
あふれ出そうとするものだ

俳句は俳句の器を震わす「詩」であり
短歌は短歌の器に共鳴する「詩」であり
小説は小説の器に満ちる「詩」である

生きていることを
小さな詩で
鷲掴みにしたいと思う

1357

小さな町なので郵便配達員が一人しかいない。その配達員に好きな女性ができた。ラブレターを書きポストに入れ、自分でポストから回収して、女性の家へ配達した。女性からの返信も、自分で自分の家へ配達した。山田洋次の映画に出てくるお話。その必死さとひたむきさは、詩を書く行為にどこか似ている。

1358

詩を書きながら人生を送ることは
可能だ

派手な人生にはならないけど
自分と向き合って真摯に生きることができる

詩はだれにでも書ける

それで
すごく大切なのは
せっかく詩を書くのなら
人を羨んだり
自分を苦しめることなく

詩と喜びを分かち合うように書いてゆこうよと
お節介にも思うわけだ

1359

詩を書かなくても、詩を書く気持ちは体験できる。優れた詩を読んで胸を打たれたなら、それは創作の喜びを同じ量だけ受け取ったことなのだと思う。だから誰でも詩とともにいられる。

生きることは外へ出かけること。詩を書くことは私に帰ってくること。詩を書かなくても、人は生きて詩を書いている。

1360

病気で学校を休んだら、先生が見舞いに来てくれて学習雑誌を1冊くれた。文字を知ったばかりの頃だった。夢中になって幾度も読んだ。キツネの話や竜巻の話を、60年以上経った今でも覚えている。言葉は感動を生み、読んだ人に生涯寄り添ってくれる。詩を書こうとするときに、戻ってゆくのはあの雑誌だ。

1361

働き始めた頃、雑誌に投稿していたら手紙をもらった。その人と一緒に同人誌を始めた。それを読んだ詩人と会った。その人の出版社から詩集を出した。それから苦しくなって、詩をやめた。また密かに書いてみようとFBを始めたら、編集者が優しく声をかけてくれた。また詩集が出せた。泣きたくなる人生だ。

1362

子供がたくさんいる時代だった。空き地に新しい小学校ができ、二年生の学期がわりに移った。志茂田小学校。担任は蛭田先生。生徒によく詩をつくらせた。夢中なって作って見せると「これは擬人法っていうんだ」と褒めてくれた。蛭田先生が僕の人生を決めてくれた。詩とともに生きた。深く感謝している。

1363

若い頃は
こんな詩人になりたいと
遠くを見つめることがあった

具体的にどうすれば
そうなれるかは
わからなかったけど
向かうべき方向は
見失わないようにしようと思った

目先の結果に
心を揺さぶられてしまうのは
仕方がないけど

無理にも顔を上げて
信じられる詩人を遠く見つめることの方が
大事

1364

蛭田先生は小樽出身。授業の合間に、小樽のことをよく話してくれた。僕が大学生になったある日、歩いて帰る途中で先生に会った。まだ同じ小学校で教えていたのだろうか。僕は大人になり、先生は歳をとった。行ったこともないのに、小樽の街並みや運河の波の揺れが、僕の詩には取り込まれている。

1365

ずっと詩を書き続けているのに、詩とはどのようにできあがるのかを僕らは知らない。作った時が詩の作り方を知った時で、次の詩に向かおうとすると作り方を忘れている。不思議なものだ。詩を作るとは、そのたびに詩の作り方を見失うことだ。見事に見失うほど、つややかな新しい詩に出会える。
2021/03/18 5:17

1366

永遠の安息

《レクイエム》は歌っている

そっちへ行けばそうなるのだから
わざわざこちらで
休んでいる暇はない

詩を書こう
詩についての話をしよう

誰に褒められたいとか
誰よりもすぐれた詩を書きたいとか
そういうのじゃない

この世に ひとりきりでも
ひたすら書き
話す

永遠の安息までは

1367

俳句を詠む人が詩を書くようになることは多い。言葉の路地を丹念に歩いて来た人達だから、詩の言葉もしっかりつかみとる。初めて清水哲男さんにお会いした時にいただいた詩集『喝采』の後書きにも、俳句から詩へ移る足跡が見える。僕は句は詠まないけれど、喉元まで来た言葉をつまみ出す喜びは分かる。

1368

父も母もなんでもない人だった。ただ生まれて結婚をして子供を作った。歳をとったから死んだ。それだけだ。嫌になるほど当たり前だ。なんでもない人から生まれた僕は堂々となんでもない人だ。だからなんでもないことを詩に書ける。なんでもないことを見つめていよう。その奥にしか書くべきものはない。

1369

想像力で書く詩を僕は否定しない。伸びやかに空想を広げた詩に打たれたことは幾度もある。ただ、その空想はどこかで作者の現実に繋がっている時にこそ、読み手に深く入り込んでくる。どんなふうに繋がっているかは問題ではない。言ってみれば切実さのようなもの。どこまで命をかけているかということ。

1370

詩を書く時に気をつけているのが「面白くしよう」と思わないこと。ただ生きているそのままをしっかり書こうとすること。それでも書いていると、ここをこんなふうに書けば読む人は面白いと思ってくれるだろうと、期待してしまう。でも、読む人は浅くはない。真顔で取り憑かれている姿を晒してゆく。

1371

若い頃に詩に没頭して、それから才能に限界を感じる時期がくる。その頃には結婚をしていて子供もでき、仕事の責任も増してくるから詩どころではないと、自分を納得させられる。僕もそうだった。それで詩から離れてしまうのも自由。才能なんかどうでもよくなって、でもまた書き出したくなるのも自由。

1372

詩を書いているだけでは生涯を全うできない。生活(仕事、家庭)をしなければならない。「詩と生活の比」は、人によって違うと思うのだけど、僕の場合は

(詩:生活)
10代 8:2
20代 5:5
30代 1:9
40代 0:10
50代 2:8
60代 6:4

今は70代。ほぼ10代の比率にもどった。幸せだ。

1373

吉野弘は
吉野弘の詩を書きながら
吉野弘の生を生きた

北村太郎は
北村太郎の詩を書きながら
北村太郎の生を生きた

そのことの
まぎれのない見事さに
僕は胸をうたれている

人は
人の詩を書きながら
人の生を生きることができる

心底望むのは
一つだけ

僕は
ただ僕の詩を書き
僕の生を生きる

1374

見た目は似ているけれども、二種類の人がいる。詩を書かない人と、詩を書く人。どちらが偉いとかすごいとかと、言うのではない。でも明らかに違う。頬杖の角度が違う。ため息の匂いが違う。背伸びのつま先が違う。おびえの深さが違う。詩をひとつ書いてしまったら、もう詩を書かない人にはもどれない。

1375

安定してよい詩を書く人などいない。うまくいくこともあり、うまくいかないこともある。その不思議さの中に「作る」ことの喜びがある。自分の詩に慣れてきたら、要注意。何を書いても褒められたら、要注意。どうやって書いたらいいのか全くわからない状態で、常にいたい。心細さが詩を磨く。

1376

僕の最初の詩集は300部発行だった。何も知らなかったから、詩集ってそんなに少なく生まれてくるんだと思った。読んでもらいたい詩人に100部ほど贈呈して、残りは部屋に積み重ねていた。詩集の束の脇で眠り、暮らした。詩集出版ってこういうことなんだと分かったら、余計に自分の詩がいとおしくなった。

1377

贈呈する詩集を封筒に入れて、郵送をする。郵便局が遠かったので、夜になって近所のポストに入れた。入れているうちにポストが僕の詩集でいっぱいになって、とうとうポストの口からはみ出るほどになった。一冊一冊は紛れもなく僕の願いだ。僕の願いがポストの口からはみ出ているのを、ずっと見ていた。

1378

昔、自分が投稿をしていた頃に読んだ人の投稿詩は、忘れられない。それだけ真剣に読んだからだろう。「ピエロタ」という詩誌に載っていた投稿詩で、ずっと頭に残っているイメージがある。口の中に石畳が広がってゆく詩だった。投稿詩は若い頃に通過する詩ではない。生涯思い出され、そこへ戻ってゆく。

1379

人からの評価のために
詩を書いているのではない
ということを
思い出したい

よい詩とはなんだろう

繰り返し手元で
考えていたい

あるいは
そもそも書きたいのはよい詩なのか

大切なのは
詩と
ふたりきりになること

あとは
目を閉じて
弾かれるように書けば
どこかにぶつかって
詩ができあがる

1380

急ぎの原稿もないと、カッコつけて言ったけど、大抵の詩人にはそんなものはない。ほったらかしの人生で、原稿依頼をするのはほかでもない自分だ。だから書いてこられた。誰が待ってくれている訳でもない、だれに頼まれたのでもない。書くものはみずからの奥底から出てくる思いだけ。それでいい。

1381

どんな詩ができあがるかは
作ってみるまではわからない

でも
どんな詩を作ろうとするかは
自分で決められる

ひとつひとつの詩に
できの良し悪しはあるけど
生涯に作り上げる詩の総体は
作ろうとする姿勢と覚悟の結果だと思う

人の評価に揺れない

めざす詩を書くこと以外に
やるべきことはない

1382

つらい時期に詩を書き続けることは必要か、という質問をよく受ける。

詩の外につらいことがあるのなら、しばらく詩をやめて、状況の変化を待つ。

詩を書くことがつらいのなら、詩をやめて、書きたくなる日が来るのを待つ。

いったんやめることは、詩を手放すことではない。再び強く握れることだ。

1383

「北村太郎を読む」を書いていて思ったのは、書いているうちに見えてくるものがあるということ。書かなければ、気が付かないで読み落としていたものがある。つまりね、書きたいことがあるから書くんじゃなくて、書いてみれば書くことに出会える。出かけなければ人と会えないのと似ている。詩も、同じ。

1384

どう考えても、ずっと昔から谷川俊太郎の時代なのだ。谷川さんが書かなかった詩なんて、なにもない。谷川俊太郎の詩を「詩」と呼ぶ。中心だ。だから谷川さんからの距離を、僕らは個性と呼ぶ。日本では、もしも詩を書きはじめようと思うなら、読むべき詩人に迷いはない。谷川俊太郎の時代に、詩を書く。

1385

努力をしていれば
優れた詩に近いものは
作ることができる

でも
優れた詩そのものは
誰にも作れない

そんな気がする

曖昧ではあるけれど
なにか こうごうしいものが
気まぐれに
手助けしてくれて
気づいたら
優れた詩になっていることが
たまにある

だれもその仕組みに
触れられないから
嬉しい

1386

僕は幸運にも詩集を出すことができた。もちろん誰もがそうできるわけではない。優れた詩は名もない人の手元にもできあがる。それなのに、一度も束ねられることなく終わってしまう詩が、たくさんある。詩は詩の歴史の外にもふんだんにある。誰も知らない、でも私だけの、私のような詩人がどこかにいる。

1387

詩を夢中になって書いていた時期があって、ある時、限界を感じてやめてしまう。やめた当初は気持ちが楽になって、もうあんな苦しみはしなくてもいいのだと思う。でも、ある朝バスに乗ったとたんに、きれいな言葉が否応なしに湧き上がってきてしまう。書くしかないんだ。そういうふうに生まれてきた。

1388

詩を書くっていうのはね
自分だけに書けることなんて何もないと
知ることなんだ

それなのに
詩を書くっていうのは
自分だけにしか書けないことを
書くことなんだ

そんなの矛盾している

しているさ

つまりね
自分だけに書けることなんてありはしないと
知った途端に
書くべきことが見つかるんだ

1389

僕らにできるのは、取り憑かれたように詩に夢中になっていること。それだけだ。その結果出来上がった詩が認められなければがっかりする。でも、結果をどうしようとしたところで、自分にはどうにもならない。認められないという現実を身に取り込んで、自分を見つめて、また取り憑かれて書いてゆく喜び。

1390

推敲が大事だと思うのは、多少なりとも自分でない人が読んだらどう感じるかを知ることができるからだ。だからその詩を忘れた頃にまた読んで、それでいいかを判断する。まれに推敲をしたら詩がダメになったということもある。でも、その詩はたぶん推敲前からダメだったのだ。納得するまで推敲をする。

1391

才能があるから詩を書くのではない。ただ書きたくなるから書くんだ。書きたくなるということが、つまりは「わたしには詩の才能がある」ということなんだ。

書きたいことをぜんぶ書くのが詩を書くということではない。「書いても仕方のないことを書かない」ことが、詩を書くということなんだ。

1392

月曜の朝だ。僕は43年間勤め人をしていた。勤め人として二千回以上の月曜の朝を迎えた。そのたびに「いやだな」と思った。会社を休んで詩でも書いていたいと思った。でも、いざ会社を休んでも、後ろめたくて詩なんか書けないだろう。二千回の「いやだな」が、今の僕に僕の詩を書かせてくれている。

1393

現代詩の世界だけにしか通用しない現代詩がある
現代詩の世界の外に出ても通用する現代詩がある

どちらがいいとか
悪いとかの
話ではない

現代詩の世界の中で胸をうたれるのは
感動

現代詩の世界の外で胸をうたれるのも
感動

どちらがすごいとか
すごくないとかの
話ではない

1394

谷川さんは
実験的な詩を思潮社で
若い世代向けのポップス的な詩をサンリオで
普通の生活者向けの詩を集英社で
書いていたと言っている

こういった書き分けは、
詩とは何かを考える時に重要なものをもたらしてくれる

谷川さんの中では
三系列の間に序列はないのではないか

ひたすら胸を
うつこと

1395

幾種類かの詩を書き分けることができれば、詩を継続的に書くことができるだろう。ところが普通の人には書き分けなんてできない。僕もそうだけど、一種類の詩を夢中になって書いているだけだ。それでもいいと思っている。自分の人生なのだから、自分らしい「詩との関わり方」を見つけ出し、尊重したい。

1396

高校生の頃の悩みは、自分の詩があまりにも単純で幼稚に見えたことだった。だから恥ずかしくて文芸クラブに入れなかった。皆んなのように難しい言葉を使いたかった。結局、自分のスタイルは変えることが出来なかった。なぜ詩に惹かれるかの理由と、それは強く結びついていたから。個性を信じよう。

1397

男としてではなく
たんに人として
詩を書く

いえ
人としてではなく
いきものとして詩を書く

いえ
いきものとしてではなく
在るものとして詩を書く

いえ
在るものとしてではなく
あるのだかないのだかわからないものとして
詩を書く

つまり
あるのだかないのだかわからないわたしのことを
詩に書く

1398

さまざまなジャンルの沢山の音楽を聴いているから音楽を知っている、ということにはならない。

むしろたった一つの歌に心を奪われることが、歌のそばにいるということだと思う。

現代詩も同じ。

身をもたせかけられる詩をひとつ持ち、両腕でしっかり抱けることが、詩と共にいることだと思う。

1399

言葉にどれほど敏感でいられるかは、ほかの能力とは別にある。だから、すごい詩が書けるのに、自分では気づいていない人がいる。確証があるわけではないけれど、詩を書く能力が充分なのに書いたことのない人はたぶんたくさんいる。詩にとっても、その人にとっても、試しに書いてみた方が楽になれる。

1400

何を書くか
よりも
どんな言葉で書くかが
詩の命を決める

言葉には
すみずみまで相応の力を持たせたい

言葉には
立ち上がるほどの厚みを持たせたい

言葉は
胸ぐらをつかむ震えた手のひらでありたい

言葉を
しっかり息づかせたい

どんな詩を書くにしても
言葉には
生々しい匂いをさせたい

1401

僕は若い頃に
詩を投稿してたくさん落とされた

僕の詩を
無情にも落選させた選者の名前は
覚えている

うらんでいる
というのではなく
ただ
覚えている

それからもう一つ
忘れられないのは
落とされてがっかりした当時の気持ち

それでも書くことをやめられない
自分というものの
不思議さだ

1402

落とされ続けていた僕の詩を
選んでくれた人がいた

石原吉郎だった

僕はその頃
石原さんのことを知らなかったから
あわてて図書館に走って
石原さんの詩を読んだ

読んでいるうちに
震えがきた

心底震えた

この人が
僕の書いた詩を読んでくれたんだ
と思ったら
もうなにもいらないと
感じた

1403

自分の詩と
傾向の似ている詩人が
わかってくれるとは限らない

むしろ
この人が自分の詩を評価してくれるのかと
驚くことがある

読んで受けいれられる詩

書けてしまう詩

違う

あるいは
一見異なるタイプのように見えても
深みで通底していることも
ある

1404

書くことが苦しくて仕方がなかったなら
いったん詩から離れた方がいい

詩から離れたからといって
世界が終わるわけではない

しっかり眠れて
ご飯をおいしく食べられるようになることだけをめざす

もしも詩が君を必要としているなら
いつかまた書くようになる

ずっと戻れないわけではない

ホントだ

1405

こうであらねばならない
という気持ちを
ぜんぶ捨てて
書いてみる

徹底的にひとりよがりで
だれもわかってくれなくてもいいと居直って
書いてみる

へたくそで
かっこわるくて
みじめで
頭が悪くて
どうしようもない
私そのもののような詩を
書いてみる

それくらいしないと
ホントのことは書けない
2021/04/21 6:10

1406

もう60年も詩を読んでいるのに、実のところまったくよさのわからない詩人が少なからずいる。こんなのどこがいいんだとか、だから日本の詩はだめなんだとか、思いがちだけど、そんなことはない。詩の読まれ方は多様であるべきだし、人の読みを尊重しなければ、自分の読みの価値もなくなる。そう思う。

1407

僕の場合
へたくそな詩をたくさん書かないと
まともな詩にめぐりあうことはできない

だから
今回のも
次のも
たくさんのへたくそな詩でいいんだと
思いながら
書いている

気楽に書けない詩なんて
僕に
書かせたくはない

1408

書き上げた詩が
どんなものなのかは自分ではわからない

とにかく精魂込めて仕上げる

それから
テーブルの上にその詩を乗せて
ころがす

でこぼこだから
どっちへころがってゆくのかなんてわからない

ただ
まれに
ひとりの読者の方に向かって行って
胸のあたりにぶつかる

詩が通じるって
そんな感じ

1409

人の詩を読んで
だめなところに目がゆくのは
たしかに読む能力だと思う

でも
人の詩を読んで
いいな
というところばかりに目がゆくのは
もっと大切な能力だと思う

1410

詩を書くことが、精神の安定につながるものだとは一概には言えない。場合によっては、書くことによって壊れてしまうこともある。だから、ただ書き続けていればいいというものではない。いつだって、幾度だって、やめてもかまわないんだ。キッパリやめることも、静かな一篇の詩だと思う。

1411

ただ、詩をやめたから次はこれをやりましょうなんてことが、簡単にできる人は、もともと詩にひかれることはなかっただろう。

だからこそ、どうやって詩とうまくつき合ってゆくかは、慎重に見つけてゆきたい。どうやって自分と付き合ってゆくかと、同じことだから。

1412

70歳を過ぎて詩を書いているなんて、若い頃には考えもしなかった。まして30代で詩から捨てられた僕が、また詩をつかみなおすことになるなんて想像もしなかった。そうしたいという強い信念なんかなかった。ただ普通に生活をすることだけを考えていた。そうしたら詩が、とぼとぼとついてきていた。

1413

感想の言葉がきつかっただろうかと、あとで後悔をすることがある。言われた人は元気がなくなってしまっただろう。そんな時に僕はどうしたらいいのだろう。もっと書ける人だと思うから、つい熱くなってしまう。松下はなんにもわかっていないと切り捨てればいい。乗り越えて、書き続けてさえくれれば。

1414

宇宙ができてから138億年も経ってから僕は生まれた。ずいぶん待たされたものだ。そのうち、138億年が一瞬と感じられるほどの月日が流れ、時折ちょっと違った僕がうまれてきて、膝の上のノートに数行の詩を書くのだろう。昨日は雨降り。部屋の中で一日中、ごちゃごちゃと楽しくひとりをやっていた。

1415

劣等感があるから
あたりまえがうらやましくなる

あたりまえを
じっと見るようになる

あたりまえでない自分を
受け止めてゆこうと思う

簡単には
生きてゆけないと思う

そんなことを考えていると
詩ができる

劣等感がわたしに
詩をつくらせてくれる

1416

詩は
こうでなければならない
というものは
なにもない

たとえば
言葉と言葉の間に飛躍がなければ詩ではない
というのは
単にひとつの考え方でしかない

そうしてもいいし
そうしなくてもいい

詩は
私はこうでありたい
と思う
それぞれの成果

1417

66歳で勤め人の生活を終えた。それからすぐに僕は横浜で「詩の教室」を始めた。4年前のことだ。それから毎月、取り憑かれたように詩の話をしてきた。言っておきたい大切なことがあった。詩では取り落としてしまう言葉を、確実な日本語で、声で伝えておきたかった。そのために僕は、あの時、生きてゆこうと思ったのか。

1418

言葉に力のある詩というのがある。人と同じ言葉をつかっているのに、なぜか言葉にツヤがある。肌ざわりを感じる。使い方によるのか、あるいは思いの込め方によるものなのか、僕は知らない。ただ、詩を読むとは、書かれた言葉を読むのではなく、言葉が身につけた力を読むことなのかもしれない。

1419

では、どうやったら言葉に力が備わるかだけど、そんなの簡単にわかるはずはない。ただ言えることは、自分であることに沿って生き、言葉と丹念に付き合ってゆくことによって、詩は個性を持ち始めるのだとは思う。よそ見をしないで、その個性をひたすら鋭く磨き上げることにかける。それにつきると思う。

1420

頭に浮かんだ言葉を片端から書いてしまっても、まともな詩にはならない。頭に浮かぶことって、たいていありふれていて、つまらない。そのつまらなさを見つめた向こう側に、書くべきことはある。とにかくたくさんの発想を出して、少しでもマシなものを拾い上げる。それだけで、ずいぶん違った詩になる。

1421

考えていることって混沌としている
だからそのままでは詩にならない

あっ、これは詩になるな
という瞬間は
ものごとを単純に受け止めることができた時

こんなに簡単なことだったかと
目の前が晴れて
すっと一本の線が見えたとき

なぜこんなことがわからなかったのだろうと
自分を振り返る時

1422

もしもこの世に
ひとりだけで生きていて
世界にはほかにだれもいなかったら
今日
どんな詩を書くだろう

そんな気持ちで
書いてみよう

もしも命が絶えて
ぼくのお葬式が空から見えていて
どんなに叫んでも
誰も気づいてくれなかったら
今日
どんな詩を書くだろう

そんな気持ちで
書いてみよう

1423

どんな詩を書けばよいのか
わからなくなった時には
がむしゃらに人の詩を読むのではなく
あるいはかつて書いた自分の詩を読むのではなく
いったん全部の詩から遠ざかって
なにもないところで
いったい自分らしさってなんだろうと
いうところへ
手ぶらで帰ってみることだと
僕は思う

1424

ぼくはもう70歳になるけれども
まだ代表作を書いていないと信じている

人によって
それぞれに
才能が伸びてゆく時期は
違う

だから
人から見たら
なにを言っているのかと
笑われるだろうけど

そんな嘲笑を見返すように
いつか
そのうちに
僕はほんものの詩人になるだろうと
信じて生きている

1425

ひとつの人の詩に感動したら
ほんの少し
そんな詩が書ける自分に
近づけている

あせって書こうとしない

自分が手を伸ばすのではなく
詩が伸ばしてくれた手に触れる

うっとりと読んでいれば
その中でちいさく
書いてもいる

1426

詩というのは
器を失った水のようなものだ

俳句や短歌や川柳とちがって
ここまで
という縁がない

こぼれたものを
受け止める手のひらがない

詩というのは
かたちと
内容の
両方に
こころぼそさが満ちている

僕は詩を書く

流れてくる言葉の
さびしい器になろうとする

1427

「詩が書けない時にこそ詩を書かなければいけない」と言っていたのはササヤンカの詩人、佐々木洋一さん。僕はそういうふうにはできなかった。でも言っていることの意味はわかる。気持ちが折れて、ふて寝してしまった夜はたくさんあった。あの日々に頑張って書けたはずの詩を、僕はもうとりもどせない。

1428

「最近読んだ好きな詩」に載せている詩の中には、投稿で落ちたというものもある。よい詩でも選者に見落とされることはある。だから、落とされたからダメな詩なのだと簡単に諦めてしまわない。もう一度読み直して、それでもいい詩だと思うなら捨てない。そのためにも詩を正当に読める力が大切だと思う。

1429

「おちょやん」の中でラジオドラマを久しぶりに聴いた。ちょっとした効果音とセリフのやりとり。それだけで聴いているこちらの頭の中にはまざまざと映像が浮かんでくる。

詩作でも同じことが言えないか。気負って全部書こうとするから伝わらない。書かないでおいたところを、読者は豊かに読む。

1430

ひとつの手法や文体を作りあげて、それに則って詩が量産できないだろうか。幾度か試みたけどうまくはいかなかった。どんな金型にも、詩は注がれるものではない。

詩というのは、手で触れられない無意識によってできあがっている。すべてを忘れさって、何もないところから書き始める勇気を持ちたい。

1431

子どものための詩を書いていると、まだ知らなかった自分の可能性を見つけることができる。

谷川さんがそんなことを言っていた。たぶんどこかの力がほぐされて、そのほぐされたところが自分を超えたものを生み出すということなのだろう。

力まない

よそおわないで
すのままで書く

1432

手鏡現象というものがある。死期に近い人が手を見つめることだ。手の中に、人生が走馬燈のように見えるのだろうか。

ところで僕は、詩を書こうとする時は、まず手を見る。いつもここから詩を始める。見つめていると、手が透き通ってきて、水をたたえ、書くべきチリアクタが流れ着いてくる。

1433

どこがよいのかわからない詩がたくさんあっても気にすることはない。さまざまな詩をまんべんなくわかることには、それほどの意味はない。好きな詩人が数人いれば、それでじゅうぶん。好きな詩人を存分に抱きしめていること。そうしているうちに、その詩人を通して詩のすべてが見えてくる。

1434

詩を書いている
という思いは
ひ弱な僕にとって
最後の砦のようなものだった

優秀な人たちの中で
あたふたして
自信をなくして帰ってくる日々の中で
「それでも僕は詩を書いている」
という思いに
支えられてきた

たいした詩でなくてもかまわない

ひたすら自分に
向き合っているものであるのならば

1435

友人の書く詩が
やけにまぶしく感じられる
ということがある

それって
正常だと思う

そばにいる人の詩は
なぜか深く入ってくる

嫉妬のようなものも
出てくるけれど
むしろ
友人の詩から吸収するものは
自分の詩の可能性を
なによりも直接に伸ばしてくれる

1436

詩を書いたあとの
ひとつのチェックポイントは
もしこれが詩でなかったら
こんな言い方をするだろうか
ということ

詩の外で
だれかにこれを言ったら
どれくらい恥ずかしいだろうか
ということ

全く恥ずかしくない
というのも
たぶん物足りない

ちょっと気恥ずかしいくらいが
ちょうどいい

1437

将来のことなんてだれにもわからない

だから
自分には才能があるだろうか
とか
これからどれほどの詩が書けるだろか
なんて
思い煩ってもしかたない

もし仮に
大量の退屈な詩しか作れない人生だったとしたって
それがなんだろう

がむしゃらに書く以外に
今日やるべきことはないのだから

1438

人の詩がすばらしく見えて
自分の詩がみすぼらしいと感じることは
普通のことだし
そう感じることは
すごく大事なことだと思う

自分の詩のつまらなさ
輝きのなさに
気づくからこそ
少しはましなものを書きたいと思える

その
にじり寄るような思いの
切実さを
読んでもらうために
詩はあるのだと思う

1439

なんとなく部屋に入り
ピアノの蓋をあけて
鍵盤をひとつ
叩く

そんなつもりで僕は詩を
書き始める

かつて
ピアノコンチェルトを弾こうなんて気持ちで
勢いこんで
ひどいものを書いていた時期がある

あたえられた個性を
積み上げる

ぼくの詩は
たったひとつの音を
鋭く空に
放つだけでいい

1440

詩が書けなくて
でもどうしてもなにか書きたい
という夜は

とにかくなんでもいいから書いてしまって
題をつける

むろん
どうしようもない詩では
あるけれども
その詩が
次のきちんとした詩へ導いてくれることが
ある

捨て石ならぬ
捨て詩と
呼んでいる

ぼくはたくさんの
捨て詩で
できあがっている

1441

人の詩をひとつでも
いいな
と思ったことがあるのなら
その人にはきっと
詩が書ける

詩人になるぞ
なんて
おおげさに考えなくても

今夜
ひとつの好きな言葉を連れてきて
見つめ合えば
言葉が
いつもとは違うつややかな姿を見せてくれる

それから
詩を書くと
自分をもう少し大切にしようとも
思える

1442

僕は70歳になっても、いい詩が書けないかなと考えている。単純な人生だった。もしも詩を書いていなかったらどうだったろうと考える。それなりに幸せを見つけたのではないか。それでも辛いときに帰って行く場所は詩だったし、詩作はだれにも迷惑をかけない。やることが見えない人こそやってみるといい。

1443

ひとつの切実なテーマで詩は3回書けると、何かで読んだことがある。確かにしばらく時間をおいてから、その間にいくつかの経験を経て同じテーマに戻れば、違った詩ができあがる。というか、書けば書くほどにそのテーマで書くべきことがくっきりと見えてくる。たぶん、ひとつのテーマで詩は一生書ける。

1444

既存の詩と似たようなものを器用につくることもすごいと思う。でも、個別性にこそ、できあがる意味があるのだと思う。私らしさ、といえば安っぽく聞こえるけれども、自分だけにしか書けない一行を持つ詩は尊い。だから、私の書いているものは詩だろうかと、悩んでいる人の書くものが詩なのだと思う。

1445

よい詩を書こうと思うなら、好きな詩を沢山読むといい。詩を読むという行為は、人の言葉を受け止めることではあるけれども、私が書いたらどうなるだろうと考えさせてくれることでもある。読んでいると、そこから雫が垂れてきて、溜まった所に自分の詩ができる。人の詩を尊重する心が、詩を書く秘訣。

1446

もともとそれほど頭がよくないのだから、自分が思いつくことなんてありふれていて、人が読んでくれるものなんてできるわけがない。

それって、当たっているけど、当たっていない。

むしろ、そう思うところからしか、優れた詩はできない。

1447

わからない詩があったとしても、それはそれとして傍に置いておけばいい。さしあたってその詩に時間を費やすのは無駄。大事なのは、自らの目で詩を読み分け、よしとするものを信じること。むずかしいことではない。計算も配慮もない所で、好きな詩を好きと言うだけ。それが君だけの詩の世界をつくる。

1448

かつて、ひとつでも優れた詩を書いたことのある人は、きっとまた優れた詩を書くことができる。

かつて、ひとつも優れた詩を書いたことのない人は、いつかきっと、優れた詩が書けた喜びを、あじわうことができる。

1449

現代詩とはこういうものだ
という
なんとなくの感じを
誰もが持っている

だから
ついその考え方に沿った詩を
作ろうとしてしまう

でも
そうではないんだ

現代詩であるという
保証はいらない

だれの詩とも似ていなくてもいいのだ

思うことは
とても心細いしむずかしいことだけど
それでいいんだ

1450

詩を書いていて苦しくなるのなら
どうして苦しいのだろうと
考えてみる

私は
急ぎすぎてはいないだろうか

誰かと競争しているわけじゃない

もっとゆっくりと
詩と向き合ってもいいのじゃないか

詩から離れて
十何年も経って
また書き始めた人だっている

詩との関係は
人と合わせる必要はない

1451

昨日僕が言いたかったのは、自分らしさを見失わないようにしようよということ。簡単だけど、簡単ではない。つい自分のことを見誤って過大に期待してしまう。痛々しいほどの勘違いの末に、ひどく傷つく。僕がそうだった。詩がまた書けるようになったのは、自分のところへ、恥ずかしげに帰ってきたから。

1452

詩を書いていると、自分から出てくるいつもの言葉に飽きてしまうことがある。そんな時は、類語辞典が助けてくれる。どんな言い方が他にもあるだろうと、さまざまな日本語に触れていると、類語が詩と私を別の場所へ連れて行ってくれる。今ならネットで類語を引くだけで、君の詩は少しだけ幅が広がる。

1453

遠回りって
たどり着いた時には
足腰が鍛えられている

焦らずに
自分の歩幅の
詩を書いてゆく

1454

スプーンがわたしたちに役立つのは
くぼみ
があるから

自分を引き下げて
なにもないところを人へさしだすから

これみよがしでない
詩を書いていたい

1455

詩に「こう感じている」と気持ちだけを書いていても、読み手には伝わらない。寂しさだったり、怒りだったり、疎外感だったり、それ自体を書いても伝わらない。重要なのは、なぜそうなのかの納得感を読み手に受け渡せるかということ。そのためには、どうしたって個人的な内容が出てこざるを得ない。

1456

高校一年生の時に、僕は学校をサボっていた時期がある。通学の電車には乗っても、乗換駅で乗り換えず、そのまま終点まで行った。のどかな駅に降り立ち、さてどうしようかとホームに立ち尽くしていた。生きてゆく自信を失っていた。いつか一冊の詩集を出そうと、その思いだけが支えだった。

出せたよ。

1457

詩を書いてゆくだけで生きていけませんか、という質問をたまに受ける。詩で生計がたてられるだろうか。無理だとは言えないものの限りなくむずかしい。

僕も学生の頃には、できればそうしたいと願った。結局は勤め人の人生だったけど、さらにもう一つの結局を加えれば、今は詩を書くだけで生きている。

1458

というのも、僕は詩作を職業だとは思っていない。どういったらいいのか、なにか、僕の中にずっとたゆたっているもの。詩が書けるのは、たまたまそれが、そでぐちとかくびすじを破って、言葉に生まれ変わって出てくる時だ。言葉に生まれ変わるまでは、僕の中の、ただの不安な揺れなのだと思う。

1459

それから、僕は詩作を趣味とか時間つぶしとも考えていない。これも説明するのが難しいのだけど、そういったものの「手前の動作」という感じがする。たとえば頬杖をついて何をしようかと考える。うずくまって膝をかかえて明日のことを悩んでいる。詩作って、その「頬杖」や「膝がしら」のことだと思う。

1460

詩を書こうとするから
書けなくなる

詩でもなんでもないものを
書こうとすれば
詩が書ける

1461

書いた詩が
作者を超えていること

書いた詩が
作者に
何を考えていたかを気づかせてくれること

書いた詩が
読み手の気持ちにとどくほどの腕の長さを
持っていること

そういうのをたぶん
詩と言う

1462

詩を書いていてよかったと思うのは、詩の前では歳をとらないということ。もう足元もおぼつかなくなって、顔も皺だらけになってしまったけれども、詩を書こうとする精神は、目立たない少年の生意気だった頃のままであるということ。どんな詩を書くかではない。詩を書いている限り、若いままでいられる。

1463

幸せになったら詩が書けなくなる

言われているけど

幸せになったら詩を読まなくなる
とも
言えるだろうか

そんなことは
なくて

幸せなら幸せを増してくれる詩
不幸せなら不幸せを削りとってくれる詩を
ぼくは
机の引き出しにしまって
長い人生をやってきた

だれだって
詩とともに生きられる

1464

詩は
こころぼそさの受けわたしで
いいと思う

たいていの人は
はじめて生まれてきたのだから

1465

いちから詩を作ろうとするから
大変になる

そうではなく

これまで
わたしはどんな詩に感じ入り
どんな言葉に打ちのめされたかを
思い出し

その輝きの
かけらなりとも
次の人の手に受け渡すつもりで
書けばいい

1466

「いつか自分の詩集を持ちたい」という気持ちは、すごくわかる。ぼくもそうだった。ずっとそのことばかりを考えていた。出してみればわかるけど、詩集を出すことは生きる手ごたえをつかむことでもある。それから「いつか自分の詩集を持つ」という思い自体が、折れそうになる心をすでに支えてもくれる。

1467

暗いほうが
ものをよりよく見ようとする

遠いほうが
腕をさらに伸ばそうとする

不器用なほうが
時間をたっぷり味わうことができる

うまくできないという思いが
詩を育てる栄養になる

1468

書きたいことを思う存分書くことは大切。でも、書いてはみたものの、どう見ても人に通じるとは思えない。ではどうしたら人に伝わるようになるかを考えて、書きたいことを少し削って、譲歩してみる。ところが、譲歩して出来上がった詩を読んでみると、この方が自分の思いに近くなっていることがある。

1469

井坂洋子さんの『犀星の女ひと』に、次のような文章がある。

「作家というものは、書くことで自分の欠点や欠乏を飾るというか、特色にしようとする無意識の野心も働く」

なるほど、劣等感がものを生み出すというけれど、劣っている人にしか見えない本質というものはある。

詩は人のへこみにたまる。

1470

どんな詩も、自分が書いたものだからかわいい。

ただ、詩によっては、人の評価がやけに気になるものと、誰がなんと言おうとこれしか書けない、というものがある。

言い方を変えるならば、人の言葉にひどく心が揺れてしまう詩は、まだ能力を注ぎこめる余地のある詩だったのではないのだろうか。

1471

詩を書いたら、

まず「これで終わっていいのか、精一杯か、さらなる高みへの発想はないか」と考えてみる。

さらに「この詩はわかりきったことを勝手に大げさに書いているだけではないか?」と考えてみる。

それから「だからどうなのだ?」という意図の曖昧さを引きずっていないかを、チェックする。

1472

歩幅以上にむこうへ行こうとすると
よろけてしまう
水たまりも
詩作も

まぶしさの中に 自分が見つめられますように
水たまりも
詩作も

歩幅以上にむこうへ行こうとすると
よろけてしまう

水たまりも
詩作も

まぶしさの中に
自分が見つめられますように

水たまりも
詩作も

1473

詩を書こうなんて、思わない方が詩は書ける。自分の奥底に手を伸ばし、つかんできたものを言葉に乗せる。それだけで書いたものはみんな詩になる。つまりは覚悟の問題なのだと、僕は思う。露悪的になるのではなく、あるがままを書こうとする。ここにこうして生きてしまっていることだけを書こうとする。

1474

何を書こうとかどう書こうかとか考えてはいない。ただ取り憑かれたように、書くべきことをひたすら書いた。だから、今度の詩集で「松下はこれまでの生い立ちを書いている」と言われて、そうなのかと気づくだけ。何かを選びとって書いたのではない。これしかないものを不器用に抱きしめるように書いた。

1475

詩の前では
だれもが平等でいられる

新しくできあがるひとつの詩の前では

経歴も
習熟度も
バックグラウンドも
家族構成も
所得も
収入も
学歴も
幸せ度も
年齢も
性別も
病歴も
性格も
器用さも
頭のよさも
なにもなにも
関係ない

関係ない
というより

わたしには
なにもないから
詩が書ける

1476

世界はタダだ

感受性は
無料だ

見える空も
聞こえるせせらぎも
タダだ

今日
どこで
何を感じ
深く受け止められるかは
自分が決められる

囲まれているもの すべてに
敏感になっていよう
感じていよう

表面ではなにごともなく
でも
奥底では
生きることに感動をして
手放しでわんわん泣いて
いよう

1477

詩は青春の文学だと言われる。確かに若くして特別な言語感覚を持つ人もいる。でも、多くの人はそんなことはなくて、いったん自分の才能にがっかりする。ところが、自分を諦めてからでないと書けない詩というものがある。引き下がった場所で書ける詩。詩はむしろ、身の程を知る老人の文学だと思う。

1478

詩の文体というのは、頑張ってつくるものではないような気がする。そういう人もいるだろうけど、どちらかというと、自分にどう向き合っているかを示しているものだと思う。だから、自分の文体は自分ではどうにもできない。文体が定まらない人は、たぶん、まだ自分に真摯に向き合っていないのだと思う。

1479

詩の上達法ってなんですか

聞いてくる人がいる

自分をなくし
常に
世界を感じとる姿勢で
いることなんじゃないかなと
僕は思う

服は着ていても
感受性はいつも裸のままでいる
むきだしでいる

風に驚き
水に驚き
今に驚き
空に驚く心

毎朝
生まれ変わってきたばかりのように
心身が湿っている

1480

意外なものを
書くのはたやすい

そうではなく
わかりきったことを
あらためて
ああそうだったかと
気づく

それを発想というのだと
僕は思う

ああそうだったか

断面には角度があって

そこに目を凝らすのが
詩を作る喜びなのだと
僕は思う

普通を普通に
感じることが
普通でない詩を作ってくれる

1481

いろんな詩があっていい。だからたまに、自分の詩とは相容れないという人の詩があったとしても、それをダメだと決めつけない。どんな詩からも引き出せるものがあるから、引き下がった心で読んでみる。自分の詩とぶつけてみて、どうあるべきかの決着をつけてゆく。詩を読むって、その繰り返しだと思う。

1482

詩を書き始めた当初は、なにも考えずに言葉に身を任せているだけ。だから新鮮な感性がたっぷり注ぎ込まれる。人に褒められ自分でも何かをつかめた気になる。

ただ、自分には詩が書けると意識しだすと、その意識がかっこつけた詩にしてしまう。

詩を書いたことのない自分に、いつも戻れることが大切。

1483

泣きまね
というのがあるのなら

生きまね
というのもあるのだろうか

いつも
人の振りばかり
見てきた気がする

大げさなことでなくていいから
まねでない生き方を
いちにちひとつ
してみたい

へたくそでもなんでも
いいから
自分だけが書ける
詩を
手で囲うように
貧しく書いていたい

1484

あっ
これは書けるな
というフレーズを思いついて

でもそのまま詩にすると
底の浅いものしかできあがらない

その発想を持ったまま
時間を過ごしていると
もう一つの
これは書けるな
というのがやってきて

最初の発想にかぶさるように
一つになってくる

できたら発想は
二重にしてから
詩にしたい

1485

テレビ画面に「一日花」という文字が見えた。一日でしぼんでしまう花のことだろうけど、きれいな言葉だなと思う。一日でしぼんでしまうのは花だけではなくて、人も夕暮れになると、もうその日の元気はなくなっている。しぼむときに、もろともに輝くものをかかえていたいから、私は夜に命の詩を書く。

1486

ページをひらくと
言葉が
ひとつひとつ
顔を照り返してくるような詩を
書きたいと
高校生の頃のぼくは願っていた

それができたかどうかの
問題ではなくて

心震わすほどの願いを
持てたってことが
つらい時の支えになってくれていたのじゃないかと
今は思うだけだ

1487

詩が書けない日には、敬体(です・ます)で書いてみるといい。敬体ならなんとか言葉が出てくることがある。なぜだろう。ひきさがる心持ちが表現をつかもうとするからだろうか。

それから、悲しいほどいそがしい日々には、立ち止まって、敬体(です・ます)で息をしてみるといい。

1488

ぼくが好きな詩は、どういう内容かとかどんな書き方だとかには依らない。どこまで覚悟を決めて書かれているか、自身を極めようとしているか、あるいはその人の中にどれほどの距離が蓄えられているかに依る。だから学ぶべきは、内容でも方法でもなく、さらけ出す勇気と、自分の詩を信じる一途さだ。

1489

つまり
ぼくはぼくの詩しか書けない
人の詩を書くことはできない
ということだ

どんなに素晴らしい詩がそばにあっても
そして自分の詩がみすぼらしく見えたとしても
それを引き受けたところに
書くべきことはある

そこだけに
人と比べることのできない
生きている証としての
書くべき詩がある

1490

裏切られたこともないのに
どうして信じるということの意味が
わかるだろう

取り残されたこともないのに
どうして共に生きることの喜びが
わかるだろう

つまらない詩を書いたことがないのに
どうして胸をうつ詩のすごさが
わかるだろう

1491

すぐに結果を求めない
というのは
詩作にとって大事だと思う

この一篇で評価をきめてしまうのではなく
もっとずっと先
束になった私の詩が
詩集に収まった時の姿を想像してあげる

逃げているのではなく
遠くを見つめて書く

距離と時間が
溢れるほどにたゆたっている
豊かな詩を書きたいと思う

1492

投稿欄で入選するかしないかは投稿者にとってはとんでもなく重要な出来事ではある。ぼくにとってもそうだった。ただあれからずいぶん時間が経って思い返すと、重要な出来事ではあるけれども、むしろ自分の詩を見つめ、育て上げる有効な手段だった。落ちれば落ちただけ、詩は思い返され鍛えられてゆく。

1493

ひとりよがりな詩はダメだと
言われるけれど
ひとりよがりのまったくない詩も
面白みがない

いろんなことを
勉強して
気にして
気を遣って
詩を書いてはいないだろうか

ともかく
わがままに
好き放題に書いてみて
それが通じなければ
ひとりよがりを少し減らす

その方が
人らしいし
書く意味に近い

1494

自分も
自分が書いたこの詩も
たいしたものではないけど
悲しいかな
これで精一杯なのです

という
思いが
行間に見える詩が
ぼくはとても好きだ

1495

どこかのだれかに読んでもらいたいと願って
詩集を出した

「どこかのだれか」って
どんな顔で
どんな部屋にそっといるのだろう

それを想像するのが
ぼくは好きで

今朝は雨

詩集の後ろにはその詩を書いた人がいて
詩集の手前にはその詩を読んでいる人がいて
ページごとに
手をつなぐ

放しはしない

1496

ぼくは若い頃に詩に夢中になって、でも30代で詩を諦めた。それから歳をとってまた書き始めた。書き方は体がおぼえていた。

詩を諦めたと考えずに、長い間待っていただけなのだと考える。

一度詩を書いたことのある人は、書きたいという思いがあれば、生涯好きな時にまた書ける。いつでもだれでもだ。

1497

詩が書けない時って、たいてい自分らしさを忘れている。自分の大きさから食み出している。意味もなく人のことが気になっている。

人はわかってくれるだろうと
考えるのではなく
人にわかってほしいとひとことずつ願って
書く

何のために書いているかという所へ、いつだってとぼとぼ帰って詩を書く。

1498

自分らしい詩を書きたいとは思うけど、自分らしさってなんだろう。
たぶん自分らしさに巡り合うために、多くの詩を書いているのじゃないだろうか。

能力を使い切って詩を書きたいとは思うけど、全力ってなんだろう。
たぶん限界の縁に触れるために、多くの失敗作を作り出しているのじゃないだろうか。

1499

読んでいると
ふところに言葉が飛び込んでくる
そんな詩を書きたい

その夜はかかえたまま
一緒に眠り

ともに貧しく生きてゆこうよと
ふとんの中で
言い合える詩を
書きたい

1500

ずっと雨の日が続いていたから晴れの日が恥ずかしげに感じられる。僕は今朝も送られてきた詩を読んでいる。とてもよい詩があって、感想を書くことなんてできない。つい自分の貧しい詩と比べてしまいそうになるけど、そうじゃない、詩は比べられるために生まれてくるんじゃないと、しっかり思いかえす。

1501

作者をかっこよく見せよう

思ったら
詩はそのぶん
かっこ悪くなる

自分のいいところだけを
書こうとすると
人には通じなくなる

表現って
いやになるほど正直だし
鋭い

こんなわたしです

みっともないところも
あわせて書くのでなければ
人には通じない

単純なことだけど
つい
忘れてしまう

1502

人生が長いか短いかを ぼくは知らない それをはかる秤は いつだって揺れている 揺れているものを書こうとするのが 詩というものなんだ
人生が長いか短いかを
ぼくは知らない

それをはかる秤は
いつだって揺れている

揺れているものを書こうとするのが
詩というものなんだ

1503

詩の初心者によくあるのが、よくある一般的な考え方を書いて、それで詩ができたと思ってしまうこと。例えば

(a)今の自分はダメだけど明日から変わるぞ
(b)社会は汚れているけど私は違う

こんな内容の詩を書いてしまったら、考え直してみよう。もっとこまごましたところに、目を向けてみよう。

1504

つまり、日々の私たちは、よくある一般的な考え方にまみれている。それをそのまま書いて済むほど詩は安易ではない。立ち止まって、その先の考えにまで進んでみる。自分は本当にそう考えているのだろうかと再考してみる。若干の違和感もないのかと探ってみる。そのあたりに、書くべきことがある。

1505

もちろん詩は人に伝わらなければ意味がない。ただ書いた。それだけだ。でも、伝えることばかりに気が向いて、読み手におもねって耳に心地よいことを囁くような詩を書けばいいというものでもない。人のことなんかどうでもいいギリギリの思いを書いて、それでいて伝わる人には伝わるものでありたい。

1506

個人のギリギリの思いというのは、勝手に掘り進められたものだから通常はひとりよがりに見える。ところが、真っ当に熟慮された個人的な考え方というものは、詩を読み慣れた人には分かるものなんだ。深いところで伝わってゆく。むろん、時と人によって伝わらないこともある。それは仕方ないことなんだ。

1507

かつて詩を書いたことがあって、いつかまた書こうと思っている人は多い。ぼくもそうだった。もう何十年も経つからなかなか踏み出せない。でも、いつか書いてみようという思いそのものが、すでにその人の「人生の詩」であるわけだ。すでに書いているのと変わりはない。あとはただ手を動かすだけだ。

1508

自分は特別だと思いたくて
詩を書く

ほかに特別と思えることなんて
何もないから
詩は最後にすがるもの

でも
悲しいかな
大抵の人には特別な才能なんかない

だからって
あきらめることはない

詩って
特別な人でないから書ける特別な詩
というのがあって

特別でない人の
特別な心を
特別にうつ

1509

詩を書いていると、書いている途中で、こんなのつまらないな、とか、ありふれてるから書いてもしかたがないな、と思うことがある。

そんな夜は、「つまらない」や「ありふれてる」詩のなりそこないを、捨てずにとっておく。

信じられないかもしれないけど、いつかその中からすごい詩が生まれてくる。

1510

66歳の冬だった。長かった会社勤めをやめる数ヶ月前。僕は休日に喫茶店でMacを開き、取り憑かれたように「初心者のための詩の書き方」を書いていた。誰に頼まれたのでもない。ただひたすら書いていた。詩手帖に掲載されたのは半年後。信じられなかった。無心にやることが、命の角を曲がることになる。

1511

「私は長い間、詩を書いています」というメールを、知らぬ人から時折に受け取る。その人がどんなふうに生きてきたのかを、僕は知らない。でも、「長い間、詩を書いています」という単純な文章の向こうには、確固とした空が見える。そのひとことだけで信じられるものがある。走り寄りたい気持ちになる。

1512

小学生の頃に何人かの詩人の詩を読んで心が震えた。そうか、感動するために僕は生まれてきたのだと知った。だから、今でも僕が詩を書くのは、自らの心をうつためだ。日本の詩の状況がどうだとか、言語の可能性は何かとかというものではない。自分の言葉で、生きている意味に触れようとするためだ。

1513

沢山の詩人の詩を読むことは、意味のある行為だと思う。ただ、追い立てられるように読む必要はない。明確な目的がないのであれば、好きな詩人の好きな詩だけを読んでいればそれでいいとぼくは思う。詩とともに生きようとするのなら、好きな詩に感動し、その栄養で自分の詩を育てる。それでいいと思う。

1514

詩を書くための言葉なんて
どこにもない

いつもの
ふだんぎの言葉で
詩を書こうよ

あいさつや
打ち明け話や
ささやきや
甘えや
つぶやきから
詩を書こうよ

背伸びをせず
無理もしない

どこも変わらなくていいんだ

徹底的に正直に
自分は自分の中に収まっていてもいいのだという
詩を書こうよ

1515

聞いたこともない難しい言葉を
わざわざ持ってきて
詩にすることを
ぼくは否定しない

そのような詩にも
担うべき役割はあるだろうと
思う

でも
ぼくはもっと
どこにでもある言葉で詩を書きたい

例えば生前のおふくろと
かつて交わした
なまの言葉を
切り取ってくる

その時の喉の震えと
潤いとともに

1516

いつだって詩を捨てられる
という覚悟なしには
緊張感のある詩は書けない

詩をやめることは
書かずに書く
一篇の詩だ

⭐︎

だれだって詩は書ける

いやになるほど だれだってだ

そのたやすさの
すぐそばで
奇跡にたどりつける

1517

俳句や短歌や川柳で言葉に立ち向かってきた人は、一度詩を書いてみてもらいたい。詩だけを書いてきた者には見えない言葉の側面を、鮮やかに詩に付け加えることができる。だから時に、目を見張るような詩人ができあがる。そのような例を目にしてきた。詩を書いて、ともかく自らの可能性を知ってみよう。

1518

誰にでも詩が書ける、というのは学歴にも関係がないということ。文学部で詩を学ぶことも意味があると思うけど、そうでなくても詩は書ける。日本語が話せれば充分。語彙は少なくても、それを大切に育ててゆけばいい。人から学ぶものよりも、言葉の孤独の奥底をじっと覗いて得られるものの方が大きい。

1519

「時」もたまには ほつれて 流れの悪くなることもあるのだろうか 言葉にも細い血液が流れていて 詩集はさびしい人への 輸血管だと思う
「時」もたまには ほつれて
流れの悪くなることもあるのだろうか

言葉にも細い血液が流れていて
詩集はさびしい人への
輸血管だと思う

1520

現代詩は難解でよくわからない、自分の書いている詩とは別世界だと思っている人がいる。現代詩に難解な側面があることは否定できない。でも、現代詩にも様々な詩がある。雑誌を開いて全部の詩に感銘を受ける人なんていない。そのうちの一つに惹かれればいい。そこから、詩の奥へ少しずつ進んで行ける。

1521

自分にどれほどの詩が書けるかなんて
わからない

自信もないし
保証もない

ただ
書きたいという思いにすがって
書いている

人の詩はとても立派に見えるし
自分の書くものは
詩と呼べるかさえ
わからない

書くたびに
何をどのように書いたらいいのか
迷う

という人が
結局は
真の詩にたどり着ける

1522

詩を書いてゆきたいとは思うけど、まわりにはよさのわからない詩ばかりがある。だからわたしは書いてゆく資格はないのだ。

という考えは正しくない。

ぜんぜん気にすることなく、堂々と書いていっていい。時とともに、わからない詩の扱い方がわかってくるし、その間に、自分の詩も自分も育ってゆく。

1523

どんな名詩も、すべての読者を打つわけではない。詩は二重扉。書く人が感動の扉を開け、読む人が自身の扉を開けなければ伝わらない。

次回の詩の教室には34篇もの詩が、それぞれのときめきとともに送られてきている。昨日ぼくは、窓の外を時折に眺めながら、いくつの扉を開けることができただろうか。

1524

昔、朔太郎の詩を読んでいて驚いたのは、「商業」という言葉を使っていたことだ。こんなに愛想のない一般名詞が、朔太郎の詩の中では、なんともやるせない詩語に変わる。

だれもが気づかずに話しているなんでもない言葉の中に、自分だけの詩語が隠れている。

見逃すな。言葉を言葉の外に連れ出せ。

1525

いいなと思えるような詩は滅多に書けない。で、なぜそれがよくできたかの理由がわからない。

よくできた詩には、自分の力ではないものが手を添えてくれたような感じがする。神さまといえばそんなようなもの。

ぼくらにできるのは、ただひたすらに書いていること。気まぐれな神さまはともかくとして。

1526

詩は知識で書くものではない。要領で書くものでもない。こういった詩はすぐれている、という「こういった」はどこにもない。みずからが感じつくし、考えつくす。その深さが大切なのだと思う。簡単にしがみつけるものはない。孤独をなまのままに書く。どこまでも生を引き下がる。後ろに限りはない。

1527

忘れてならないのは、著名な詩人だけが優れた詩を書いているのではないということ。さまざな夜に、さまざまな手指が、際立った詩を生み出している。想像で言っているのではない。通信やZoomの詩の教室に送られてくる詩に、僕は時に、そのまぶしさにたじろぐことがある。詩人を読まず、詩をじかに読む。

1528

詩はわかるものではなくて感じるものだ、とよく言われる。間違ってはいない。

ただ、考えてみると、わからないけど感じる詩って、ほとんどなかったような気がする。

人のことは知らない。

ぼくはひたすら、誰かにわかってもらえる詩を目指したい。

それが一番むずかしいことだから。

1529

「長い間、ひとりで詩を書いてきました」というメールを、もらうことがある。僕だって、人が集まるところに行くのは好きじゃない。ただ、Zoomで石松佳さんの話を聞いてみれば、詩を書くヒントが見つかるかもしれないし、また書きたくもなる。顔も声も出さなくてもいい集まりなんて、他にはないのだし。

1530

夏空と、オリンピック中継と、コロナ報道に囲まれながら、僕は必死に「Zoomによる詩の教室」の詩に感想を書いている。35篇もの詩の現れ方は実にさまざまだ。胸をうたれるのは、どんな詩を書いているかによるのではなく、どこまで自身の詩を突きつめているか、その深さであるのだなということ。

1531

1) それほど表現するのが器用ではなくて、どこかで見たことのあるような詩しか書けない。それでも書きたい気持ちがきれいに湧いてくる。

2) 羨ましいほどの才能と言葉に対する感覚を持っているのに、なぜかきちんと評価されていなくて、それでも辛抱して書いている。

どちらもなんとかしてあげたい。

1532

Aという名の感覚がある
Bという名の感覚がある

でも生きていると
AでもBでもない心持ちになることがある

AとBを合わせると
あるいは AとBの差異の中に
AでもBでもない感じ方を書けることがある

それがぼくの理想とする詩だ

できあがる詩は
ほとんどがありふれたAか
うなだれたBなのだけど

1533

人の感想とか評価を軽く見るつもりはない。でも、それも程度の問題ではないか。思いを込めて全力で書いた詩の価値を、人にだけ委ねるのはとても危険だと思う。こころゆくまで書いた詩は、それだけで私を満たしてくれるものがある。私の中に隙間を作る。自己満足の愚かさに身を任せる部分は必要。

1534

失敗作を書いてしまう
というのは
危ういところで
願いを込めて創作をしていると
いうことなんだ

駄作と傑作は
紙一重

時に 言葉のひとかけらの違いだと
ぼくは思う

よかれと思って選んだ言葉が
人に通じない
ことの
おそるべき学びの積み重ねが
詩を強靭にしてゆく

どんな失敗も恥じることはない

1535

詩の初心者によく見られるのが
だれでもが思いつくようなことを
詩にしてしまうことだ

そこから抜け出さないと
変われない

発想を得たら
それがありふれていないかどうかを
吟味する

大した発想ではないな

感じたら
その先へもう一歩踏み込めないかを
考えてみる

それだけで
随分変わると思う

1536

詩ができる時って、あれこれ考えずにすっとできあがってしまう。樋の中を単に水が流れてゆく感じ。できあがった詩は苦労知らずで、素直で正直な顔をしている。

だから悪戦苦闘して無理やり作った詩は、本当はまだ生まれるべきではなかったのかもしれない。それはそれで、いとおしくは感じるのだけど。

1537

詩を書いてみたら
思っていたより面白いものが書けて
自分は詩に向いているのだと気づく

そうすると
徐々に書くのが
苦しくなってくる

中途半端な才能を持っているから
苦しくなるのだ
と思う

でも
中途半端な才能でない人なんて
いない

中途半端だから
いとおしいのだし
たまに傑作が書けてしまう

1538

Aについて数行の詩を書いたとする。そうするとついその後に自分を出してきたり、Bについて書きたくなる。

でも大抵の場合、Aのことを素直に少し書き足す方が、詩が落ち着くし収まりがつく。

詩を書くって、書きたいことがさらに思い浮かんでも、それを抑え込んで、地味にそこに留まることだ。

1539

人の詩を読んでいて
すごいな

感じているうちは
まだ詩が書けるのだと
思う

読んで感動をすることは
そのまま
書くことにつながっている

だから
詩が書けない時は
人の詩をゆっくり読む時間だよと
いうこと

羨ましいほどすごい詩を書いた人だって
実は
自分はまだまだだなと
ため息をついている

1540

この世界には強い人ばかりが生きているわけではない。頑張ってもうまくやっていけない人も沢山いる。生きていると、どうにも情けなくて仕方がない日があって、そんな時にトコトコと訪ねて行ける詩があってもいい。自分には書ける言葉があるという小さな誇りのようなものとしての詩があっていいと思う。

1541

ところでヘタな詩を書いている人は不幸で、気の利いた詩が書ける人は幸せでしょうか。ぼくが思うのは、詩の良し悪しというのは大した問題ではなくて、人はそれぞれ各々の才能のなかで満足をつかんでいることが重要だということ。創作の喜びを持つことができたのなら、他のことは大きな問題ではない。

1542

「詩とはなにか」と色んな人が色んなことを言うから訳がわからなくなってしまう。人の言うことはほどほどに聞いていてかまわない。自分が直に詩を読み、書いている時に感じたことを中心に置く。どんな人の言葉も、確認や励ましにはなるけど、この自分が詩を書いているのだというところはブレさせない。

1543

詩を書いていて、自分だけの個性やスタイルを確立することは大事だと思う。だけど、そのスタイルで書いていれば詩が書ける、となったら、危険でもある。

ぼくの詩がダメになったのは、そのためだ。それまでにどれほど多くの詩を書いてきていても、次の詩の前では、最初のぼくにもどるべきだったのだ。

1544

ぼくは詩を正当に学んできてはいない。ただ好きな詩を気が向いた時に読んできただけだ。

ぼくは投稿欄で幾度も入選してきたわけではない。むしろ落されてがっかりした日を山ほど経験した。

でも、そういう人生だから書ける詩、というのがある。

両腕で自分を抱きしめる、という詩の作り方もある。

1545

詩を書いていて大切なことは、結果を求めすぎないこと。自分の能力を目一杯使って詩を書く。そのこと自身に喜びを見出す。そのことに集中して幸せに過ごそうよということ。誰かの詩と比較したり、誰かに褒められることばかり期待したり、そういうことにあまり心をとらわれないようにすることだと思う。

1546

人の詩をただ読んだだけでは、自分がどんな感想を持ったのかはわからない。メモ書きでもいいから、こんな感じを持ったと自分の言葉で書く習慣をつける。

感想を書くことによって、自分はこう感じたのだということがやっとわかる。不思議だ。

その感じ方は、むろん自分の詩の深さにもつながってゆく。

1547

詩の読者は少ないと言われるけど、僕はそんなふうには感じない。

どれほどのベストセラーでも、細かく見れば一人に一冊が届いているだけだ。

買ってくれた人の膝の上の世界では、たった一冊の輝かしいベストセラー。

人の思いを喉元までそそぎ、しっかり飲みほせる言葉の震えがあるのならば。

1548

詩が書けなくなる時って
「すごい詩を書くぞ」
という気持ちが
無意識にでも ある時なのだと思う

すごい詩
なんて
書こうと思って書けるくらいなら
詩なんて書いてはいない

詩が書けない人が
書くものが詩なのだと
思う

悲しくなるほど妙だよ

すぐそばの
すごくない詩を書こうと思えば
何か書ける

1549

自分の詩を変えて、もっとカッコよくしたいと思うことはある。でも学んで変えることは可能だけれども、おおもとの所は変わらない。というよりも、無理に変えると、自分が書くことの意味が失われてゆく。持って生まれた個性がどんなに地味なものであれ、しつこくそこを書くことで辿り着ける場所がある。

1550

散文にしても同じじゃないかというほど、言葉の意味にしがみついている詩がある。

一方、言葉やその使い方はきらびやかだけれども、特に何を書いているというのではない、意味を遠ざけた詩がある。

どちらも詩だ。優劣はない。どこまで極めているかの差があるだけだ。つまりは、覚悟の差だ。

1551

〆切前夜に、追い詰められた気持ちが生み出す詩、というのもある。昔は僕もそうやって書いた。でも、自分に合っていないと気づいてから、その書き方はやめた。

それからは、毎日ちょっと書いてきたメモを見て、そのまま詩として発表している。詩以前の言葉。生きてきたメモ。言葉そのまま。作らない。

1552

すぐれた詩を書けばいいというものではない

詩と
どのようにつきあってゆくかを
慎重に見極めたい

結局のところ
どんな詩を書いてきたか
ではなく
詩と
どんな関係で生きてきたかに
かかってくるのだと
ぼくは思う

書けるものを書く

あとは
書いた詩に
軽蔑されない生き方を
したかどうだ

1553

一度書いたことはもう書けない。次は別のことを書こうと思って頭をめぐらす。でも、いつかは種切れになる。

そうではないのだと気づいたのは、ずいぶん歳をとってからのこと。

同じことを何度でも書いてよかったのだ。それしか書くべきものはないのだし、突きつめれば自分のために書く詩なのだから。

1554

詩は誰にでも書ける

知らない自分を見つけられる

絶望した時には
それでも私には詩が書ける

ぎりぎりの所で思える

何が書けたか とか
どう読まれたか
よりも
何を書こうとしているかに
いつも重きを置いている

人それぞれの
詩との
賢い付き合い方があり

それは誰のものとも
似ていなくていい

1555

「詩人」という呼称は
人から言われるのはともかく
自分で名乗るものではない
と言ったのは
吉野弘さんだったろうか

人が言ってくれるのなら
それでいい

でも
もし誰も
詩人なんて言ってくれないほどの
ささやかな詩人だとしたら
せめて自分で
小さく言ってもいいのかなと
ぼくは思う

わたしは詩人

1556

詩が、詩として成立するのは、その中に自分を驚かしてくれるものがあるかどうか、なのではないか。驚かす、と言ってもさまざまで、深く納得することも、まぶしさも、そこには入る。ともかく、なんの驚きもない詩は、詩にたどり着いていない。自分が驚かないものを、人に見せても仕方がない。

1557

その気になれば
呼吸をひとつしただけで
詩の勉強になる

気持ちを整えてさえおけば
目覚めただけで
しっとりとした詩ができる

すべてはだれのせいでもなく
私の側の問題

日々
感受性の小窓を
世界へ向けて開け広げているか

何よりも
私として生まれてきたことの
この奇跡を
忘れないでいられるか

1559

当たり前のことかもしれないけど、詩を書いた人の感性や知性と似た人がその詩に共感し、感動をする。

だから、詩の読者は多い少ないだけが意味を持つものではない。

ぼくが詩を学び、少しでもよい詩を書きたいと願うのは、より優れた読み手に受け止めてもらいたいからだ。

1560

一度詩を書いたことのある人は
詩をさっぱりやめても
実は
かつて書いた詩の中に生きているのだと思う

だから
詩とはまったく離れたところで
仕事に専念し
家族を愛し
病に悩み
親を見送り
してきたことが
その人の詩そのものであり

その間に育んできた思念は
間違いなく
詩という器に満たされてゆく

1561

詩だから許される言い回しとか言葉の使い方がある。言い方を変えるなら、詩でなければこんな言葉遣いはしないだろうというもの。

でも、それがあまりにもひどくなると、真っ当な表現から恥ずかしくなるほど離れてしまう。

気持ちよく詩を書いた後は、ぼくは行きすぎた詩へのもたれかかりを直す。

1562

詩を書くって
自分の思いを形にできる素晴らしい行いではある

でも
それだけではない

書いていると
もっと褒められたい
もっと認められたいという
苦しい思いが湧いてくる

そういうのって
抑えても抑えきれない

ただ
抑えきれなくても
書くことの
純粋な喜びに戻るように
幾度でも努力していたい

1563

いつも感じていることや
最近考えていることが
そのまま詩になってゆく

だから
詩を書くぞ

身構えてしまっては
いつもの感覚は逃げてしまう

肩の力を抜く

自分の体のそそぎ口を
ひとつの器のように
詩の方へ傾けるだけ

ちょっとこぼれた私のしずくが
流れて
詩の一行になる

それでいい

1564

できの悪いわたしが
できの悪い詩を書く

なんの不思議もありはしない

できの悪いわたしは
できの悪い詩が好き

だれにも迷惑かけてない

できの悪い詩は
できの悪いわたしのことがすごく好き

こんな幸せどこにもない

1565

ぼくが詩を書くのは
たぶん
二つの理由があるから

(理由1)
今のままで
ホントの自分を生きていると言えるのだろうか

見つめていたいから

(理由2)
命をすきまなく湿らせて
うっとりと
生きていたいから

1566

「難解のための難解」ということを、高階さんは言っていた。つまり、どこかにたどり着くために難解に書けてしまったというのではなくて、最初から難解であることを目指して難解に書いた詩のことだ。

ぼくが気をつけなければならないのは「平易のための平易」なのかもしれない。

地に足をつけて書く。

1567

詩は、いつも使う自分の言葉で書くといい。難しい言葉を使えば詩は一見立派に見える。でも、その立派は君の詩の立派ではなく、言葉が元々持っていた立派でしかない。

だから普通の言葉で、つまらない詩であることがすぐにバレるような詩を書こう。詩を鍛えるための、それが最も勇気ある行為だと思う。

1568

考えていることって、液体なのではないかとぼくは思う。だから、そのままでは掴むことができない。

詩を書く、というのはひとつのコップを用意することだ。

まずはなにかを書いてみる。そこへ考えの水がどくどくと注がれる。すると、書き上がった詩が、自分がなにを考えていたのかを教えてくれる。

1569

詩だけを書いて暮らしてゆくことはできない。おとなになれば仕事をする。仕事というのは辛いもので、体も心もぼろぼろになる。詩なんか書けなくなる。ただ、時には落ち着いた日もあって、そんな夜には久々に詩が書ける。ぼろぼろになって頑張っている日々の、そのぼろぼろが、詩に深みを齎してくれる。

1570

詩を作ろう

身構えるから
なかなかできない

詩は
君の中にすでにある

詩は
作るものではなくて
見つけるもの

上等な考えでなくていい

人を感心させようと思わなくていい

ああそうか
こんなことでよかったのかと
ただ単に
気づくこと

詩を書くって
たぶん
自分を許すこと

1571

自分の書くものなんてダメだ
なんの意味があるだろう
なんの価値があるだろう

という絶望を
通ってきたものだけが
詩なのではないだろうか

1572

詩は一部の頭の良い人だけが作るものではない。そういう詩があってもかまわないけど、それだけが詩ではない。詩は、だれにでも開かれている。優秀でないから感じる辛さや、うまくいかないから生じた卑屈な心。そういった思いを通して滲んできた言葉を一つ一つ丹念に置いてゆくことこそが、詩の中心だ。

1573

詩がうまく思いつかない時に、ぼくはこれまでに書き損じた詩の断片を読み返す。詩に辿り着けなかった劣等生たちだ。

これまでに書きあげた完成品としての詩を読むよりも、うまく書けなくて苦しんだ残骸を読み直している方が、まともな詩ができる。

たぶん、自分に寄り添おうとしているからだろう。

1574

詩作は楽しい。立ち止まって、自分のあり方を外から見られる。生きていることの意味/無意味について考えることができる。

詩を作ることは、その一篇のなかで、人生を生きなおすことでもある。ぼくは詩篇の数だけ生まれ変わる。

単純なことを忘れてはいけない。幸せを感じるためにぼくは詩を書く。

1575

いつも使っている言葉だからと言って
馴れ馴れしく扱ってはいけない

どんな詩を書くにしろ
言葉への触れ方がとても大事

私の言葉になってくれますかと
顔を見て

それでよいですかと
問い

ならばと
優しく掌に乗せて
揺らさないように詩に落としてゆく

言葉は目を閉じて
うっとりと詩に落ちてゆく

1576

自分の目で詩を読む、というのは当たり前だけど大事なこと。評判がいいとか、有名だからとか、関係ない。詩を読むというのは、詩と自分の二人だけの行為。他の何ものもそこには入れない。一篇の詩がどれほど入ってくるか、自分の目だけで読んでみる。そうすることによって、詩のありかが定まってくる。

1577

この日に詩を書かなければならない
という状況で
詩は書けるものではない

だから
あらかじめ毎日
何かを書いておくようにする

何か
というのは
生きているとふいに見えてしまう
まぶしい断片のこと

断片さえノートに溜めておけば
詩はおのずとできあがる

断片そのものが
詩であることも
よくある

1578

詩作は将棋に似ていると思う。

将棋では、次にこの手を指したら相手はどうするか、ということまで考える。

詩も同じ。

こういう表現をしたら読む人はどう感じるかを考える。その感じ方によって、その行が有効かどうかがわかる。

詩作は、読み手になったり書き手にもどったりの繰り返しだと思う。

1579

言葉のひとつひとつに
性格があり
感情があり
顔がある

たくさんある言葉の中で
トコトコと
ぼくの方へやってきてくれた
内気な言葉たちと
よい関係をつくる

詩は
その結果だと思う

だから
ぼくにとって
詩のよしあしは
どこまで言葉を尊重することができたかに
かかっている

1580

感性をほったらかしにしていては、詩の発想は生まれない。詩ができないと悩んでいる暇があったら、ともかく毎日、丁寧に人の詩を読む。それだけだ。

そのうちになんらかの詩ができてくる。いつもと変わらない詩。ぼくらにできるのはそこまで。あとは考えてもしかたがない。あきれるほど単純なことだ。

1581

自分が書いた詩はかわいい。だから書いた時には、どれも傑作だと思ってしまう。でも、実際にはそんなことはない。ひとりよがりの、誰にも通じないさびしい駄作だったりする。

仮に、あとで恥ずかしくなるほどの出来だったとしても、その詩には「ともになんとかしてゆこう」という大事な意味がある。

1582

新しい手で作られた
若者の詩の鮮やかさを
否定するものではないけれども
ぼくはやはり
詩は老年の文学でもあると思う

自身と人生への
相応の絶望を
くぐったのちにあらわされた詩を
ぼくは愛する

孤独の底へ
一度たどり着いたあとの
かすかな浮揚が
詩によって
最後に与えられてもよいと思う

1583

「薔薇ノ木ニ 薔薇ノ花咲ク。ナニゴトノ不思議ナケレド」

詩を書く能力とは、当たり前のことを当たり前でなく感じられる能力のこと。

昨日は「詩の教室」に送られてきた詩をずっと読んでいた。時々笑って、時々泣きそうになった。

人ノ言葉ガ 人ノ心ニ触レル ナニゴトノ不思議ナケレド。

1584

「詩の教室」の参加者で、ずいぶん長く参加してきた人が、ある時、傑出した詩を書くようになる、ということがある。

さまざまなスタイルの詩を書いていたけれども、もうひとつ魅力的な個性を掴めなかった人だ。

やっと掴めたのだろう。

時間をかけて本物の詩人になった人は、ダメになることがない。

1585

ぼくは昔
心療内科に通っていたことがある

生きていると
いろんなことがある

だから心を穏やかにする錠剤を
飲んでいた

どんなに際立った人生も
遠くから見ればみな同じだ

そう思ってある時 錠剤と
背伸びをすることをやめたんだ

ただ毎日
腕の長さだけの詩を書いて行こうと

1586

詩の上達法は(1)たくさんの詩を読み(2)たくさんの詩を書くこと。

(1) 読むだけではなくて、心を動かされた行に線を引く。その線の中に、詩がどうあるべきかが込められている。

(2)書くだけではなくて、いらない言葉は全部消してゆく。読んでくれる人の負荷になるような行は速やかに削る。

1587

詩が書けない時って
たいてい
自分を大きく見せたいという
困った気持ちの時なんだ

1588

66歳で勤め人をやめた。あとの人生は詩を書いてゆこうと思った。詩に取り憑かれてみようと思った。人がどう見るかとか、自分の才能の限界とか、つまらないことを考えるのは一切やめた。ともかくMacbookの電源を熱く入れて、言葉と二人きりになる。人ひとり、いのちが帰る場所はここにある。

1589

現代詩と言っても、書き方も内容もさまざまだ。

大きく分ければ、意味を大切にしている詩と、言葉の可能性を求めようとしている詩の、ふたつがある。

たまに、こっちの区分けの方が高級だと言い張る人もいる。

でも、高級だと思った瞬間に、それは詩ではなくなる。

人と同じだ。

1590

自分には何が書けるだろう

途方にくれているのなら

まさに
「自分には何が書けるだろう」
という
一行目を
書けばいいんだ

いつだって
とことん正直な思いから
始める

あとは詩が
君の手を引いてくれる

1591

人を感動させようなんて気持ちで書いても
ろくな詩はできない

人の心をつかむなんて
できるはずがない

思い上がりだ

できるのは
自分の気持ちのギリギリのところを
ひたすら
書いてゆこうとすること

そうしていると
たまに
だれかのさびしいギリギリに
触れてしまうことがある

詩ができる瞬間だ

1592

このごろぼくは
詩を書いたあと
この言葉がなかったらどうだろうと
ひとつひとつ点検する

そうすると
たいていの言葉は
削った方がホントを書いているように見えてしまう

だから削ってゆくと
詩がどんどん短くなってゆく

短い詩を書こうとしたわけじゃない

ただ
嘘っぽい言葉を
消しただけなんだ

1593

詩の最後の行は
どのように書いたらいいでしょうと
よく聞かれる

まとめ方がわからない

つまりね
まとめようとするから
むずかしく感じる

ほどけたまま
なにも解決しないまま
終わっていいんだ

1594

好きな詩人の詩を読んでいると、書くものが似てきてしまう。それは仕方がないと思う。でも、意識して真似することはやめた方がいい。それらしい詩はできるけれども、表面的な見ばえだけのことだ。

下手くそでも、みずからの言葉を組み立てようとした方がいい。詩の肝心な所は、うまい下手の外にある。

1595

詩は散文と違って、意味に飛躍がなければいけない、という考え方がある。

ぼくはそうは決めつけたくない。

意味に飛躍がなくてもいい。

ただ、人の心に触れるものであるのならば、それだけでいい。

でもそれは、詩とは言えないのではないかと言われるのならば、詩と呼ばれる必要なんかない。

1596

自分の詩を変えたいと言う人がいる。書いているものがいつも似ていて、人の詩のような輝きがないと感じたから。

でも、詩が変わるっていうのは、人の詩に擦り寄ることではない。

今書いている詩ととことん付き合ってみる。もっと深く自分であることにこだわってみる。詩が変わるって、そっちの方だ。

1597

詩の〆切と子供の運動会が同日になったら、迷いなく運動会へ行こうと前に書いた。

詩なんていつだって書ける。

子供の喜びを受け取り、滅多に行かない子供の学校で深い呼吸をすることが、普段は思いもつかない言葉に巡り合わせてくれる。

結果として、生き生きした詩ができてしまう。

1598

なぜ詩なんか書いているのだろうと、今さらながら思う。ぼくの父のように、静かに笑っているだけの人生を、なぜぼくは送ろうとしないのだろう。

たぶん、理由なんてない。詩人であることには意味はない、価値もない、なにもない。

生まれつきなんだ。

命の匂いのする詩を書こう。

1599

りきむ必要なんかない

今日は自分に似合った言葉を
ひとつだけ見つけようとする

それだけでいい

あとはその言葉が
詩を書いてくれる

1600

伝えたいことがあったから
「詩の教室」を始めた

詩を書くことは喜びであり
でも
詩はやめることもできるのだと
伝えるために始めた

書くのがあまりに苦しくなったら
あるいは
書くことで
自分が変な方向へ行ってしまうと気づいたら
詩はやめた方がいいと
伝えるために
ぼくは「詩の教室」をはじめた

1601

黒田三郎の詩を読んで驚いたのは、「美しい」という言葉をとても美しく使っていることだ。

「美しい願いごとのように」

「美しい伯母様の家へゆく道」

「美しい」なんて、ありきたりで使い古された言葉を洗い張りして取り出して見せる。

詩を書くとは、そこにある言葉を見つけ直すことだ。

1602

詩を書くことに熱中していて、その熱中が継続しているのなら、ともかく詩集をつくることを目指してみたらどうだろう。お金のかかることだから容易ではないけれども、オンデマンドや電子本もあり、今は選択肢が広がっている。詩集を出してみると、それまでとは明らかに違う世界に佇んでいる自分を知る。

1603

「現代詩」は「詩」とは違うのですか、と聞かれることがある。

考え方は色々あるし定義をしようとすればできる。

でも、ぼくは「現代詩」は「詩」と同じだと受け止めている。

「近代詩」だって地続きだ。どれもひとりひとりの孤独がこぼしてきた夢に違いはない。

「現代詩」は「詩」。それでいい。

1604

「わからない詩がたくさんあるけど、こんなわたしは詩を書く資格はあるのだろうか」と聞かれたことがある。

詩を書くためにはどんな資格も必要ではないし、もちろん書いていてかまわない。

何を隠そうぼくも同じ疑問を持ったことがある。誰もが通過する悩みなのだ。

だから迷わなくていい。

1605

詩が書けない時は歩くといい。足が詩を書いてくれる。ぼくの場合、散歩をしていて、同じ道の同じ場所に来ると詩ができる、ということがある。なんだか、その場所から詩を受け取っている気分だ。その場所って、たぶん通路の出口なのだ。その通路を伝って、ぼくはこの世に流れ込んだ。

1606

人の詩の
ダメなところをするどく指摘できる人は
すぐれた詩人になるだろう

人の詩の
よいところばかりに目が行ってしまう人は
しあわせな詩人になるだろう

1607

疲れて帰って
今日はもうなんにも頑張りたくないな

部屋に寝っ転がって
そこに
たまたま置いてあった
詩集

どこでもいいから指で
ページを粗雑に
広げて
頑張って読むんではなくて
ほっといても詩が
自然と目の端から入ってきてくれるような
詩集

そんなのを一冊
静かに作りたい

1608

ぼくは、詩の読者が単に増えてほしいとは思っていない。

ただ、生きてゆくことは楽しいことばかりではない。特に大人になれば、さびしさも心許なさも半端ではない。

そんな人がどこかで、読めば少しは気が落ち着くだろう「詩」というもののあたたかさを、知らずにいるのはもったいないと思うだけだ。

1609

感じていることや考えていることを、人に伝えるむずかしさは、なにも詩作に限ったことではない。

日々、人と分かり合うことの困難さにも通じている。

だから、ひとりでも人に分かってもらえるように言葉を選ぶことは、詩を作っていると同時に、よりよく生きることでもある。

1610

詩が
書いてほしいと願うだけの
詩を書く

作者がそれによって
目立とうとする
詩ではなく

1611

ぼくが詩を書くときに気を付けているのは
自分が賢く見えるようなことを書かない

いうこと

賢くないから
これがなかなかむずかしい

1612

書いた詩は人の詩と比べられてしまうけど、書きたいという気持ちは、誰のものとも比べられることはない。

詩を書くことがつらくなったら、できるだけ人の詩と比べないこと。自分の詩と閉じこもってかまわない。人のことは関係ない。

わたしは詩を書きたいという気持ちは、わたしを守ってくれる。

1613

自分には華やかな才能はない

ある時点で気がついた

それでも詩を書き続けようと
決意した

地味で
がんじがらめの詩しか
書けなくても
夢中になって
書いてゆくしかない

なんだか
わけがわからない命だけど
ただむしょうに
書きたくなってしまう

生まれてきたのは
たぶんそのためなのだと
思う

1614

詩を書いていると、いろいろ考えしまうから、複雑な内容になってしまう。でも、その詩を読む人は創作の過程を知らないので、これはいったいなんだ、ということになる。さんざん考えるのはいいけど、最後はそれを一段ゆるめたい。とてもありふれたものにする。単にひとすじの澄み切った細い流れにする。

1615

詩は二重構造なのだなと、思う。

(1)内側は、作りあげることの恍惚、
それを取り囲むように
(2)外側は、どのようにしたら人に伝えることができるか、という工夫。

まちがっても(1)のまま放っておかない。あるいは、(2)にばかり気持ちを向けない。

(1)と(2)が十全に組み合わさって、傑作はできる。

1616

「現代詩手帖」誌への投稿詩は月に1000篇ほど。そのうち採られるのは20篇ほど。つまり98%の人がうなだれている。ぼくもかつてはたくさんうなだれた。でも書き続けた。いくら落とされても書き続けた。人それぞれに自分の詩を掴める時期は違う。投稿した詩が落とされた時ほど、詩を深く考えた時はない。

1617

いつまで投稿を続けるかについては、一概には言えない。僕は5年ほどでやめた。もう自分の詩を小出しにして人に評価を任せるのは充分だと思った。

同人誌をはじめた時だったし、これからは一篇一篇でなく、もっと遠くを見て自分で判断してゆこうと決めた。詩も、それでいいと分かってくれたみたいだ。

1618

詩は好きに書いていていいと思うけど、たまに、10行以内の短い詩を書いてみるといい。

短いけど、しっかり中身の詰まった詩。丁寧にきめ細かく作られた詩。私の中心をそこに置いてみたような詩。小箱のような詩に、たまにもどる。

そうでないと、だらだらと何を書いているのだか見失うことになる。

1619

自分の詩がつまらないと感じても、それをどうにもできないってことがある。

でも、自分の書いている詩がつまらないと感じることは、とても大事。気がついてさえいれば、なんとかなる。

だから、自分の詩がつまらないと、いつも感じていたい。よりよい詩に辿りつけるということであるのだから。

1620

作者名を伏せても
ああこれは
あの人が書いたのだなと
かすかにわかるような詩

そういう詩を
書きたいと思う

読んでいると
詩の一行と一行の間に
その人の血液が流れている音が
聞こえる詩

そういう詩を
書きたいと思う

1621

詩の発想というのは、何もないところからふっと出てくるものではない。

詩の発想を得る、というのは、書くべきことを「思い出す」ことだ。

日々、わたしを襲う様々な感覚があり、書かずにおいたそのものを、思い出してあげることだ。

1622

詩を書いて幸せになる人と不幸になる人がいる。幸不幸は、詩に何を求めたかによるだろう。

書いたものが人に認められることに、人生の比重をかけることはとても危険。

自分ではどうしようもないことだから。

ただひたすらにうっとりと書いてゆくこと。詩とともに生きたいのなら、それだけを守る。

1623

新しい詩を書こうとするから苦しくなる。今まで書いてきたものを、なぞるように書けばいい。そこにこそわたしはあるのだから。

書いてきた詩が取り落としてきたものを、腰をかがめて拾ってゆく。その腰が感じる痛みこそ、新しい詩と言えるのだと、ぼくは思う。

1624

もう
だれにも伝わらなくてもかまわないから
真に書きたいことを
自分のために書いてみよう

そんな詩
こそが
然るべき人の胸に
伝わってゆくのだろう

1625

詩集を一冊出すことは、自分の全てをその中に入れ込むこと。だから最初の詩集を出したら、もう自分の中にはなにもなくなる。二冊目、三冊目、と出してゆくことの苦しさは、すさまじいものがある。

車の中での佐々木安美さんの言葉。

ほぼ70年の生涯で、佐々木さんは6回、ぼくは5回、空っぽになった。

1626

この人のような詩を書きたい
というのが
詩を書き始めた頃の
熱い思いだった

それがいつのまにか
誰それには負けたくない
というつまらぬ思いで
詩を書いていやしないか

深呼吸して
もとの自分にもどろう

1627

すぐれた詩を書こう なんて
最初から思っても
なにも書けなくなるだけ

なんでもいいから
こんなわたしに書けるものは
ないだろうか

しりぞいたところから
詩を書き始める

わたしがへこんだ ところに
読む人の静かな水が
たまってゆく

1628

改行詩と散文詩の違いは、それほど大きなものではないのではないかと、ぼくは思う。読んだ時の息継ぎやリズムに違いはあるものの、改行にしたからよくなったとか、ダメになったとか、そんな薄っぺらなものではない。充実した内容の詩は、容器を選ばないと僕は思う。

1629

ぼくはね
いわゆる「詩」を書いているつもりはないの

ましてや
「現代詩」を書こうなんて
思ったことはない

ただ
日々に生きていれば
どうしたって
あれっ?と
感じたことにでくわす

その向こうに大切な意味があるように
感じられてしかたがない

それをただ
文字にしておきたいと
思っているだけさ

1630

では
ぼくの書いているものが
「詩」でなければ
それはなんなんだ

聞かれても
すぐには答えられない

ほかに名付けようがないから
ぼくは結局
「詩」を
書いていることになるのだろう

この世にある
どう考えても名付けようのないもの

その集まりが
たぶん
「詩」であることの
震えなのだろう

1631

詩は、成果が出ていない時ほど黙々と書き続けることが大事なんだ。思考は深まってゆくし、そのうち、あの時にやっていてよかったと思う日が来るものなんだ。

生涯、詩を書き続ける気持ちでいるのなら、目の前の結果にあたふたしない。自分に書ける詩があることの喜びをしっかり受け止めていればいい。

1632

優れた詩には、優れた読み手が感動をする。

詩をただ書き、読むことは、誰にでもできる。

いつだって、一篇に一歩、優れた読み手に近づこうとすること。

できる、できない、ではなく、そうしようとしていること。

あとは自分にはどうにもならない。

優れた詩は、優れた読者に受け止められる。

1633

記憶している詩は、必ずしも有名な詩人のものばかりではない。

名前を残すのではなく、たったひとつの詩を残したい。 

たった一行が、ある日、だれかの気持ちをかすめてゆくのでもかまわない。

詩は、書いていれば命の在りどころをふと指し示してしまうことがある。

わたしだけの一行を書きたい。

1634

だれのために詩を書くか
といえば
やはり
自分のためだ

自分がその詩に
感動をしたいからなのだ

だから
自分をさえ感動させられない詩を
人に見せることなんて
できない

どれだけ詩がダメになっても
そこだけは
守っていよう

1635

詩を書く
という行為は
かけがえのない友人をひとり持つ
ということでもある

時に
思い通りにならない間柄では
あるけれども

生涯 真剣に向き合い
お互いを受け止めることのできる 友人をひとり持つ
ということでもある

1636

ぼくが詩を書いていて気をつけているのは、人を驚かそうという気持ちを抑えること。詩を書いていると、どうしてもそっちへ向かおうとしてしまうけど、そういう詩句って大抵浅くて、いつものイメージであったりする。もっと抑えて書いたものに、自分がいて、読んで貰えるものはそっちの地味な方なのだ。

1637

むずかしいのは
詩を書くことよりも
書いた詩がどれほどのものかを
判断することの方だと思う

書いた直後は
どれも傑作だと信じたいわけで
でも
悲しいかな
現実はそんなわけはない

だから
数日経ってから
読み直すことが大切

読む力をたくわえることが詩を書く力になる
というのは
そのためだ

1638

詩には優れたものとそうでないものがある。一方、あるレベルを超えた詩をすべて受け止められるかというと、そうでもない。長年詩を読んでいても、どこがいいのかわからない著名な詩人がいる。読みは不完全なものだとつくづく思う。わたしにとっての優れた詩の基準で、詩を書いてゆくしかないのだけど。

1639

詩を書くことがつらい、と感じることってある。ただ、考えてみると、つらいのは詩を書くことではなく、詩に、詩以外のものを期待しすぎているからだとわかってくる。人間だからそういうこともある。でも、やっぱり詩を書くことは、その行為だけにしてあげたい。そのように、自分を説得し続けたい。

1640

自分の才能が中途半端なものであると、知れば、もちろんがっかりする。

でも、中途半端でない人なんてどこにもいないわけだし、それぞれの中途半端を受け止めるしかない。

そのがっかりを引き受けて、むしろ笑ってしまいながら書くことが、つまりは自分だけの詩につながるのだと、ぼくは思う。

1641

詩はね
自分がなにものかであると思い始めると
だめになる

詩ではないものが
邪魔をしはじめるからだ

自分にはもともとなんの意味もない
ということを
書くことが

なのだから

詩はね
思いの幅を少し
せばめたところにしか
湧いてこない

1642

詩を書こう

するのではなくて
生きていることに
常に
敏感であろうとすること

あらゆる出来事に
むき出しの感性で接していること

そうすれば詩は
無理をせずともできてくる

詩を書こうと
するのではなく

言葉があることの 奇跡と
ありがたさと
恐ろしさを
常に新しく
受け止めていること

1643

自分の詩がわかってもらえないことは珍しいことではない。

自分の詩をわかってくれる人は、それほどあちこちにいるわけではない。

でも、思いもしない人が、思いもしない所で、自分の詩を受け止めてくれていることも確かだ。

その読者のために、持っている能力のすべてを余す所なく詩作に捧げたい。

1644

もしも今ある能力では素敵な詩が書けないのだとしたら、詩を書きたいという気持ちが、これほど湧いてくるはずはない。

書きたいという思いこそが、才能のあらわれなのだと思う。

誰と比べられる必要のない、ただうっとりと書けている瞬間。それ以上になにを望むだろう。

1645

何もかも投げ出して
その場でうずくまってしまいたくなることって
ある

というか
そういうのがもともとの状態なのであって
あとは無理して平気を装っているのかもしれない

人前で
もうどうでもいいと泣き出さないために
前の夜に
生きていることの縁に手を伸ばすように
詩を書いているのかもしれない

1646

いつもすぐれた詩を書ける人なんて、いない。つまらない詩をいくつも書いている内に「これはいいかな」というものがホントにたまにできる。

さらに、書いた時には「これはいいかな」と気が付かないことがある。だからデキソコナイの詩は捨てない。デキソコナイの束を読み返すところから次の詩に移る。

1647

ずっと勤め人をしながら詩を書いていた、というわけではない。

会社の仕事がうまくいかない時期は詩作へ逃げた。
詩の方が行き詰まったら仕事や家族へ逃げた。

仕事も詩作も容易ではなかった。

ずっと片方から片方へ逃げて生きてきた。

もしも詩を書いていなかったら、逃げる場所さえなかった。

1648

すごいなと思える詩人がいて、こんな詩が書けたらどんなに素敵だろうと思う。

でも、自分の書くべき詩が本当にその詩人のようであるべきかどうかは、わからないものなんだ。

好きな詩と、自分が書ける詩は、違っていることがある。

自分の書くべき詩をしっかり見つけてあげることは、大切だと思う。

1649

ある詩人の詩ばかりをずっと読んでいると、書くものがその詩人そっくりになってしまう。それって仕方がないし、必ずしも悪いことではないのだろうなと思う。

結局いつかは自分の個性に戻るわけだけれども、その個性の中には、かつて夢中になった詩人の魅力が、たわめられて入り込んでいることだから。

1650

詩を読んだら、どう感じたかを書きとめておくといい。

感じたことを書こうすると、それまでは思ってもいなかった感想がなぜか出てくる。

感想って、自分の中に溜まっているのではなくて、書くことによって自分と文章の境目から生み出されてくる。

感想を書くことは、むろん詩を書くことに繋がる。

1651

失敗作を書いてしまうことは恥ずかしいことではないと、ぼくは思う。動き出そうとしたから失敗もする。詩を作るって、特に決めごともないから、全部一から組み立てなければならない。そりゃあ、たまには目も当てられない詩を書くこともあるさ。失敗作ほど私の顔をしている。愉快だし、嫌いじゃない。

1652

小学生の頃から詩を書いていた。今みたいにSNSなんてなかったから、ただ書いているだけで、だれかに読んでもらうなんてことはなかった。ひとりきりで書いて、自分だけがその詩の読者だった。ぼくの詩は今でもそこにある。だれかに褒められようとすれば詩は汚れる。単に自分のありかを探すための詩だ。

1653

ぼくは小学生の頃から詩を書いていたけど、書きはじめた年齢というのは、後の詩の個性に影響があるのではないか。ぼくの詩がわりと平易な言葉でできているのは、自分が確実につかみ取れる世界が単純だったからだ。大学生で詩を始めた人や老年になって始めた人とは自ずと違う。よしあしの問題ではなく。

1654

詩は、ふだんの自分の中からしか出てこない。常に言葉に敏感でいること。そうしていれば、一日の内に溜まってくる言葉がたくさんある。それを思い出しているうちに、不思議に見えてくるものがある。それが詩だ。だから、ぼくらにできることは、自分をいつもむき出しで世界に触れさせていることだけだ。

1655

詩の推敲もいいけれど、気をつけないと、表面的なカッコ良さばかりを追いかけて、大切な部分をないがしろにしてしまっていることがある。

あんまりいじくり回すと、言葉も疲れてくる。

詩が出来上がるときって、言葉を素直に使えている時なんだ。

1656

言葉は私へ打ち寄せてくる波だ。毎日毎時、私の水際へ寄せてくる。だから、詩を書こうとするのなら、日々触れてくる言葉を受け止める器であることだ。耳も目も鼻も皮膚も、そのための単純な通路であることだ。そういう体で過ごせれば、溜まった言葉が私の縁からこぼれた時に、透明な詩ができる。

1657

自分の詩は
人に認められるだろうかと
投稿をしていると考える

入選できないと
手のひらではじかれる思いがする

でも
投稿の結果は
いくつもあるモノサシの内の
一つでしかない

別の目で新鮮に読まれるべきだったのかもしれないし

どんなモノサシにも
測られるのを嫌がる詩
だったのかもしれない

1658

どんな詩も先入観を持たずに読もうと思う。誰が書いたかとか、どんなところに載っているかとか、関係なしに、その詩のよいところはのがさずに読みたい。そうでないと、せっかくの切実な部分を読み落としてしまう。

優しく荘厳な気持ちで人の詩を読むことは、自分が詩を書くことに密接に関係している。

1659

書かなければ

思うほどに 詩は書けなくなる

自分で自分を追いつめるなんて
変だよ

私は無理をして書かなくてもいいんだ

安心して
きれいにあきらめた所に
湧き出してくる思い

それを拾って
文字にうつしかえることが
詩だ

1660

正直、この人は詩作に向いていないのではないかと思える人もいる。みんなが普通に感じていることを、ただ詩にしてくるだけだ。それでも熱心に書き続けていると、ある時、その場所から抜け出られていることがある。ぼくは改めて創作というものの不思議さと深さに驚く。詩作は長距離走。書いてさえいれば。

1661

誰もが、中途半端な才能の中で詩を書いている。

誰もが、いやでも自分の限界を感じている。

誰もが、人が書く詩をひどくまぶしく感じている。

誰もが、自分の書いた詩には何かが足りないと感じている。

誰もが、それでももくもくと書き続けている。

理由なんかない。

夢中になって書いている。

1662

詩は、きれいごとを書いていては、人の胸に響かない

詩は、自分はすごいぞという気持ちが少しでも入ってくると、人の胸には響かない

詩は、きれいごとでもなくて、すごくもないことで、どうにもならないホントの思いをさらけだすことで、似た心の人にだけ届くことができる

1663

書くことが苦しくなったら詩作はやめた方がいい。

なにもずっと書いていなければならないというものではない。

詩の中にだって空白行があるように、書かない日々があってもいい。

そんな日は詩をどけて、どうしてこんなふうになってしまったかを考えてみる。

詩と傷つけ合うことの、ないように。

1664

ほめられれば有頂天になるし、けなされれば落ち込む。詩を書いていればみんなそうなる。でも、全力で書いた詩そのものは、どれもさほどの変わりはないはず。

自分の手元で思うさま楽しんだ結果の詩だ。作ることで自分を幸せな気分にしてくれた詩だ。人になんと言われようと、動じるはずはないはず。

1665

人の個性をまねて
それなりの詩を書くよりも
みずからの力で
へたくそな詩を書いていたい

そうでなければ
書く意味なんてない

わたしがすべきことは
すぐれた詩を書く確率を高めることではない

ほかは全部だめでも
生涯にたった一篇の
わたしだけが書ける詩を
残すこと

1666

時々あるのが
現代詩とポエムの違いはなんですか
という質問

でも
そんなことを知って何になるのだろう

名称や肩書きが
詩の価値を決めるわけではない

目の前にある言葉たちが
どこまで一人の読み手に入り込めるか
それだけだ

現代詩やポエムを書くのではない

名付けようのない思いを
書いている

1667

まんべんなくたくさんの詩を読むのもよいけれど、ほんらいは、好きでたまらない詩をくりかえし読むものなのではないだろうか。なんだかよさそうだとか、人がよいと言うから、ではなくて、読んだとたんにとりこになってしまった詩。生涯繰り返し読めて、時には、全身でもたれかかることのできる詩。

1668

現代詩を読んで、そういったものを書こうとすることも、一つの道ではある。でも、ほんとは逆なのではないか。好きなように書いて、それを深めてゆく。そのうちに現代詩の方が、腕をさらに広げて、ぼくの詩をわかってくれる。もっと言うなら、わかってもらえずに、いたとしても。「自由」詩なのだから。

1669

むずかしい顔をせずに、気楽に詩を書いていていい。ものを作り上げる喜びだけを、味わっていればいい。もちろん、書いたものを分かってもらいたいとは思う。でも、分かってもらえない時は、そうか、まだダメだなと思って、それをちょっと気にしながら次の詩を、やっぱり楽しみながら書いていればいい。

1670

若い頃に詩に夢中になって、一生書き続けようと思う人は多い。でも社会人になり、日々の出来事に巻き込まれてゆく内に、多くの人は文学と遠ざかってしまう。それでもいいと思う。

ただ、詩と自分がお互いを真に必要としているのなら、詩と再び、恥ずかしげに会うことになる。また、書き始めている。

1671

どんなスタイルの詩であっても、「言葉に力を感じるか」というのが、詩のよしあしに影響してくる。

「言葉に力を感じる」って、つまりは言葉のはしばしから書いた人の匂いがする。書いた人のうつむきが見える。書いた人の吐息が聞こえる。詩のむこうがわの人に向かって、つい手をさしのべてしまう。

1672

詩はひたすら
自分の内面を掘り進めてゆくもの

すごく深まってゆくと
同じ深さにたどり着いている読み手が
きちんと見つけてくれる

不思議なものだ

間違っても
人と競ったり
うらやんだり
するものではないことを
忘れてはいけない

それって
大事

詩の現場に
自分と自分の詩 以外は
立ち入り禁止

1673

詩を読み、書くことで、僕はこれまで沢山の喜びと穏やかさを受け取ってきた。

平穏な人生だったとは言えないけれど、その時々に「僕には詩がある」という思いに救われてきた。

どれほどの詩が書けたか、とか、どれほど人に認められたか、よりも、貧しくても、詩としっかり仲良くやってゆくこと。

1674

若い頃、自分の詩に限界を感じて、このまま書き続けていても先がないと感じてしまった。そうすると、自分の詩を変えようと思う。でも、変えようと思って変わった詩は薄っぺらなものだ。壁に突き当たったと思う時は、むしろ同じことを深く書くことで、その場を突き抜けるしかないのだと、後でわかった。

1675

比喩はほとんど使わない

形容詞だって最小限

主語と
動詞
だけの
痩せた詩を
ずっと書いてきた

型枠だけの詩
風がその中を遠慮なく吹き抜けてゆく詩

つまらない時は
そのつまらなさがはっきりとわかる詩

もっともっと痩せっぽちな詩を
細い指で
書き続けてゆこう

1676

自由詩を書いているつもりが
いつのまにか不自由詩になっていはしないだろうか

ぼくはたまに立ち止まって
考える

目先の欲にあたふたして
なぜ詩を書いているかを
見失ってはいないか

詩を書いて
詩からしあわせを受け取る
のではなく

書くこと自体の中の
しあわせを
見失わないようにしていたい

1677

「この頃よい詩が書けない」と、よく聞くけど、本当にそうなのだろうか。実は「この頃、人に認められる詩が書けない」のではないだろうか。そんな気持ちで書いていれば、書くことは苦しくなるばかりだ。いったん詩ををやめて、自分が戻ったら、また書き始めればいい。人生って、けっこう長いから。

1678

まだ詩を書いたことがないのですが
詩の教室に入れますかと
メールがくる

もちろんさ

それに
いつか詩を書きたい
という願い自体が
君らしい内気な一篇の詩だ

すでに君の中に書かれている

詩って
書きたいという思いのことだ

今日
君の中には
新しい内臓ができあがる

手付かずの詩を溜めるための

1679

詩人って、職業のようで職業にはならず、趣味というのともちょっと違う。

敢えて言うなら、生きていることそのまま。あるがままの場所に戻ろうとすること。自分が生きていることを、あらためて思い出すこと。

だから、どんな仕事についていても、帰りの電車で徐々に、詩人に変身できる。

ばれない。

1680

一度詩を書いてみるといい。詩を書くための資格はない。だれが書いてもいい。

詩作は勝ち負けではない。だから、偉くはなれないけど、惨めな所から抜け出られる。

「わたしだけに書ける詩はなんだろう」と、いつもそれだけを見つめているといい。

しずかな行為だけど、とんでもない叫び声でもある。

1681

気をつけているのは、僕にとっての詩作は、幸せな文学であるかということ。

その幸せが、詩の行間に溶け入るから、読む人に流れ込むことができる。

自由詩の自由には「書かなくてもいい」という自由も含まれている。

つらいな、と思ったら、無理して書かないでいいんだ。書かない方がいいんだ。

1682

言葉の見た目や響きの美しさで
詩を作る詩人もいるし
言葉の内面に
美しさを見いだそうとする詩人も
いる

どちらがいいとかという
問題ではない

ぼくは
どちらかというと 後者

言葉のきれいさ
よりも
言葉がなにを言おうとしているかを
じっと聞き取って
その気持ち(意味)を詩に書いてゆきたい

1683

詩を書く時にはね
普段はつかったこともない言葉を
わざわざ持ってくる必要は
ないんだ

手持ちの
よく慣れた日本語だけで
なんでも書ける

本当なんだ

いつもの言葉を
つかうからこそ
ぎりぎりの思いが注ぎこめるのだし
読む人にも
少しはわかってもらえる

単純だけど
忘れてはいけないことなんだ

1684

もう長いあいだ詩を書いているから、自分の詩のつまらなさもよくわかっている。思えば退屈な詩をたくさん書いてきた。71歳になって、それでも書き続けていることに特別な理由はない。書きたくなってしまうからだ。切ないほどにだ。詩を書くよろこびって、できあがった詩のよしあしだけじゃないんだ。

1685

詩を始めたいのだけど
私にも書けることはあるだろうか

思っている人は多い

詩って
生きているそのままを書くことだ

だからそういう時は
気負わずに
「私にも書けることはあるだろうか」
という一行目を書く

すごいことを書こうとさえ
しなければ
二行目がとことこと歩いてきて
並んでくれるはず

1686

文学部に行っても行かなくても詩は書ける。僕はずっと会社で経理をやっていた。能力のほとんどを会社の仕事に費やしてきた。それでも、そういった生き方をした人にしか書けない「詩」がある。どんな状況で生きた人にも、どんな能力を与えられていても、その人固有の際立った詩を作り出すことができる。

1687

自分の詩を正しく読むことは
難しい

人からの評価は
微妙に自己評価とズレる

だから
人の感想を聞くことは大切だ

一方
書いた本人ほどに
その詩に深く入り込んでいる人は
どこにもいない

つまらないと言われようと
無視されようと
その詩を
守るように
書き続ける頑なさも
持っていたい

1688

詩を書くというのは、とても個人的な行為だ。人それぞれにとっての「詩」が違うのは当たり前だ。

詩の雑誌を読んで、ほとんどの詩がわからなくても、がっかりしなくてもいい。そのまま自分の詩を追い求めていればいい。

詩を書く、というのは真っ直ぐ下りてゆくことで、よそ見をすることではない。

1689

詩を書くというのは、こんな自分だけれども好きになっていよう、好きになっていたい、という行為だ。

はでやかな人生ではないけれども、こんな自分を生きてきたのは、ほかでもないこの自分だけだ、ということを思い出させてくれる行為だ。

だから幾度でも、繰り返し同じことを書いていていいんだ。

1690

詩を書く人って
わからないことがあっても人に聞かずに
胸の内に収めてしまうことが多い

人に迷惑をかけるよりも
自分が我慢していたほうが
むしろ落ち着く

だから
詩を書いていて分からないことがあっても
悩まなくていい

時が解決してくれることもあるし
わからないからこその
透明な詩が書ける。

1691

みっともない詩を書こう
かっこわるい詩を書こう
あかぬけていない詩を書こう 

あれこれ考えず
とにかくたくさんの詩を書いて
ノートにためてゆこう

悲しくなるほどだめな詩ばかりを
書こう

それが私にとっての
ありったけの詩
なのだから
どうどうと書こう

人のこころに向けて
ひたすらに書こう

1692

若い頃に詩を知った時には衝撃を受けた。萩原朔太郎、北原白秋、サトウハチロー、黒田三郎。心底打ちのめされた。こんな詩人がいるんだ、言葉ってなんてすごいんだと思った。

感激するために、生まれてきた。

詩を書いていれば自分を見失うこともある。そんな時は、はじめて感動した詩に戻ってゆく。

1693

詩はさまざまでいい

学ばなくてもわかる詩のよさと
学んで知る詩のよさが
ある

どちらも大切

詩を正確に読みとる能力と
詩のよさを見つけ出せる能力が
ある

どちらもすごい

若い頃に詩に夢中になって途中でやめてしまう人と
歳をとってから詩を知って死ぬまで書いている人が
いる

どちらも素敵

1694

詩を書くなら、すごいものを書こうとしない。でも、だれだって力んでしまうし失敗もする。すごいものどころか、独りよがりのわけのわからない詩ばかりを書いてしまう。ただ、それも詩作の通る道。楽しめばいい。自分のダメな詩に絶望してこそ、その向こうの力の抜けた本当の詩に、たまにたどり着ける。

1695

どんなに優れた詩も、読んだ人すべてが感動するわけではない。まして自分が書いた詩に何も感じない人がいても、驚かない。詩の読者とはそういうものだ。僕の詩をつまらないと感じる人の感じ方を、僕はすごくわかる。だからと言って自分の詩は変えられない。わかってくれる特別な人のために書き続ける。

1696

詩を書こうとして
書いているわけではないんだ

その日にせりあげてくるものを
ただ吐き出すように書いている

そうして生まれたものは
他に呼びようがないから
詩と名づけている

詩という容器に
言葉を流し込むのではない

生きていれば時に もたれかかりたくもなるむき出しの言葉を
書きとめている

1697

沢山の言葉を知っているから、よい詩が書けるわけではない。味方になってくれる言葉を、いくつか見つけ出し、それを繰り返し使う。同じ言葉を、何度も何度も使っていてかまわない。そうしているうちに、その言葉のことをよりよく知ることができるようになるし、言葉の方も、ぼくの限界を知ってくれる。

1698

詩に書くことがないと
思っている人がいます

そんなことはなくて
誰にでも
その人にしか書けない詩が
あります

たぶん
かっこつけたものを書こうとするから
書けないのです

ダメな人がダメな詩を書こう
と思えば
一生
幸せに書いて行けるし

たまに
その詩を大切に読んでくれる人が
出てくるのです

1699

詩の読み方を知りたいと聞かれた。

「詩の読み方」というものがあって、それを個々の詩にあてはめているわけではない。考え方は逆。個々の詩がまず私たちの前にあって、それぞれの詩が私たちに「その詩だけの読み方」を示している。「詩」というのはそのような意味で、詩の読み方の現れであると思う。

1700

自分の詩がマンネリ化して、自分にとってさえ驚きがないと感じることがある。そんな時は変わりたいと思う。でも、後で気づいたのだけど、マンネリ化の先にこそ進むべき道があった。自分の詩に飽きることは詩を書いてゆく過程の一つだし、飽きることの恐れと向き合って書いて行けという戒めでもあった。

1701

詩を書くというのは、自分の可能性を信じることだと、ぼくは思う。いつか、もっとましなものが書けるはずだと信じているから、今夜も書こうと思える。毎日をただ過ごしている自分とは別に、もっとできるはずの自分がきっといて、普段は気づかない。詩を書くとは、自分を引き出そうとすることだ。

1702

この歳になっても、まだ取り憑かれたように詩に夢中になっている。というか、やっと夢中になれる時間ができた、ということか。それにしても、いくつになっても、書く前はどうやって書いたらいいのか見当がつかない。書き始めてから少しわかった気がして、でも書き終わればまたなにもわからなくなる。

1703

詩の効果的な勉強方法はありますかと、聞かれた。

人の詩を
自分が書いたもののように
内側から
たんねんに読み

自分の詩を
人が書いたもののように
外側から
めんみつに見つめる

というのは
どうだろう

1704

若い詩人を見るにつけ、自分の歳を考えると焦ってくる、という気持ちはわかる。でも、人それぞれの詩の適齢期がある。もっと早くに詩を始めていたらよいものが書けていたかなんてわからない。ある程度の年齢になって、ものごとを冷静に見られる目を持っているから優れた詩が書ける、とも言える。

1705

自分がどのようなものに感動するか、というのは放っといてわかるものではない。詩でも小説でも映画でも音楽でもドラマでもダンスでも友人の言葉でも、心動いたらノートに書いておく。言葉にならなくてもなんとか書いてみる。そのノートをたまに読み返せば、自分にとって書くべき詩が見えてくる。

1706

5年前に会社をやめて、ぼくには肩書きがなくなりました。「ひと」というものになりました。この頃はたまに「詩人の松下さん」と紹介されることがあります。でも正直、しっくりいきません。「ひと」でじゅうぶんです。詩人として詩を書いてはいないのです。ただの「ひと」の詩を書いているのです。

1707

詩を書くのなら、感受性を特別モードにして、いつでも詩が書ける体勢でいることだと思う。外からの、どんな感動も逃さずに受け止める心構えでいる。生きていることのひとつひとつに敏感に反応して一日を生きる。大げさに聞こえるかもしれないけど、そうでもない。心構えのことだ。誰にでもできる。

1708

詩を書いていると、言葉を無意味にこねくりまわしてしまうことがある。そういう時って、たいてい具体的なことが何も書かれていない。自己満足。その人だけの現実を書こうとすれば、そんなことにはならない。現実って、詩作にとってはすごく頼りになる。自分にしか書けないことを書く。大事な事だと思う。

1709

自信満々の時より
自分はだめだなと思っている時の方が
よい詩が書ける

うまい詩をめざすよりも
ほんとの気持ちを書こうとした時の方が
よい詩が書ける

目立つ詩よりも
自分だけの小さな考え事を書こうとした方が
よい詩が書ける

どうってことのないことを
書けば
大抵
よい詩が書ける

なぜだろう

1710

どんな詩人も誰かの影響を受けて詩を書いている。ところで色んな詩人のよい所を集めたら、もっとよい詩ができるだろうか。そうでもないような気がする。人からの影響は所詮影響でしかない。詩を書くという行為の核には、貧しくてもその人固有の孤独があり、その響きなしには詩はできないのではないか。

1711

詩を書く時に、省略することはよいことで、くだくだ説明するのはよくないことだと、よく言われるけど、僕はそうは思わない。

改行詩を書こうなんて思わずに、ただ書きたいことを隅々まで書く。その時点でつまらなければ、それをどんなに省略しようが、改行しようが、つまらないものはつまらない。

1712

詩を書くために一番必要なのは
劣等感
だと
ぼくは思う

自分はなにをやっても人なみではないと
感じている分
世界は胸元から
せりあがる

まわりをいつもまぶしいと
感じる

眉にかざした手のひらの
薄みほどの詩が
書ければいい

1713

当たり前だけど、詩を書くことよりも、生きてゆくことの方が重要だ。

詩とよい関係を保てないのなら、詩はやめたほうがいい。

守るべきは自分の心であって、自分の詩ではない。

詩が、君の人生に何かを付け加えるものであるのならば、たまに詩を書いていけることは、とんでもなく素敵な行為だ。

1714

傷つき、がっかりすることも生きることの一部。

というか、ほとんどかもしれない。

それでも、生きていることの傍観者にはなりたくない。

まずはどっぷりと生きる。

そこからたまに顔を上げて
息をするように、詩を書いていきたい。

1715

書き上がった詩は4つにわけられる。

(1) 自分では納得がいかないし、人が読んでも面白くない
(2) 自分では頑張ったんだけど、人の反応はよくない
(3) つまらない詩だと思うのに、人は褒めてくれる
(4) 手応えがあって、評判もいい

(3)は当てにならない。
目指すべきは(2)。それがまれに(4)にもなる。

1716

詩を読んで感動することがあります。そんな時は、もし作者に連絡がとれるのなら「よかったです」と伝えたいのです。もしかしたら作者はその時、自信をなくしているかもしれません。その言葉で勇気が出て新しい詩を書こうと思えるかもしれません。どんな言葉でもいいのです。伝えることも詩の練習です。

1717

生きてゆくっていうのは、多少傷ついてもやりぬこうとしてしまうものだけど、やっかいなのは、精神の落ち込みは体温のようには明確に計れないこと。気づいたら取り返しのつかないことになっていることもある。自分の精神の強さを過信しない。まずは心を守る。傷ついてまでして詩を書く必要はない。

1718

僕は、自分が書いてきた詩を読み返す時、どこか違うな、と思います。自分が理想とする「詩」とは違う詩なのです。この、違う詩を書いてきた自分はどこにいるのだろうと思います。たぶん、そっちの自分もこの自分の気持ちをわかっていて、それでもこのような詩を書かざるをえなかったのではないかと思いもします。

1719

どんなにくだらない詩にも共感する人はいる。だから、安易な読者の褒め言葉に満足しないことが大事。読者をどのへんに想定するかで、詩の深さは決まる。

詩を書いていると、ついこの辺でいいだろうと引き返してしまうけど、そうではなく、しつこくその詩に付き合ってみる。よりよい読者に示すために。

1720

詩を書くという行為は習慣づけることができる。Macbookの電源を入れて画面を見ると自然と書くことが出てくる。容器を用意するとそこに水が湧き出てくるような具合だ。だから疲れている夜は、詩を書こうと思うと心の負担が大きいから、ただ画面を見つめようとする。たぶんその日の詩が湧き出てくる。

1721

詩の教室に送られてきた詩で、たまにとんでもない傑作を見つけることがある。でも、たいてい書いた本人はそれに気づいていない。いつも通りに書いただけだと思っている。いつも通りに書いたいつも通りの詩の中に、際立った詩はひそんでいる。力んで、今日は特別な詩を書こうなんてすることはないんだ。

1722

あまりにも当たり前のことを言うようだけど、詩がきちんと上達してゆく人には、なんというか、ひたむきさのようなものを感じる。余計なものに目が行かず、ただ一途に詩を見つめてゆこうとしている人だ。詩をとことん美しく抱こうとしている人だ。あきれるほどにだ。つくづくそう感じる。

1723

「最近よい詩が書けなくて」とつい言ってしまうことがあります。でも、それではかつてよい詩が書けていたことがあるのかと言えば、そんな時期はありません。

よい詩なんてずっと書けたことがないのです。だから今更がっかりする必要もないのです。うまくいかないから面白いし飽きない。詩も、私も。

1724

午後は詩を書きます。毎日つまらない詩ばかり書けてしまいます。でも、たまにそれなりのものができあがります。そんな時は、ここにいない何かが僕を通して書いてくれたのだと感じます。僕にできることは、その何かをいつでも迎えられるように、毎日つまらない詩を書いていることだと思います。

1725

時間には限りがあります。あの本を読まなければとか、詩を書く余裕もないと、できないことばかりを考えていたら、気持ちは落ち込むばかりです。もっと自分をゆるめてもよいと思います。本はいつかゆったり読める日がくるし、書けない詩はいつか、その分成熟した姿でできあがってきます。ほんとです。

1726

詩に対する助言を次の作品に生かす、というのは程度の問題だ。例えば「あなたの詩は長すぎる」と言われたからといって、次の詩を短くすることはない。詩にはそれぞれのあるべき長さがある。長くする必要があるかどうかを立ち止まって一旦考える。助言はその程度に受け止めればいい。自らの個性は守る。

1727

つまり生きているのだから
そのことが
詩の源なのではないか

その日に息をしながら あっちに歩いてみたり
こっちで人と話をしたり
地下鉄のホームでボーッとしていたり

つまりその日の
細々と感じたことからしか
詩は生まれてこないのではないか

なんでもないことを
ないがしろにしないことが
詩作

1728

毎日過ごしていると「あ、これは私の言葉になってくれるな」と感じることがあります。そんな時は「私の詩に出てくれますか」と頼みます。

詩を書く時は、まず声を上げて、そんな言葉たちにとことこ集まってもらいます。詩を書くって、私と仲良くなってくれた言葉たちと一緒に遊べることです。

1729

「ささら」という名の古楽器があります。音階をさらさらと渡るのでしょうか。耳のうぶ毛を揺らして音が行ききするのでしょうか。うすくちの音、うすくちの言葉。わたしが書きたい詩はそういうものです。人の心に分け入るのではなく、軽くぶつかって帰ってくる詩。生きていない人にも聞こえる詩です。

1730

単純なことなのかなと、この頃思っている。書けるだけの詩を思う存分書く、それだけのことなのだと。

できうる限りの思いと技術をこめて書いた詩が、だれにどこまで伝わるかは、どうにもできないこと。

書くことを楽しんで、喜んで、あたたかく詩を送りだす。それだけを守っていればよいのだ。

1731

詩を書くというのは、自分が何を書きたいかというのと、もう一つは、自分の言葉はどういう世界をどういうふうに書けば最も向いているのか、というのも常に見ていかなきゃいけないのかなと思う。それは人から言われる言葉によってではなくて、自分の中を整理して自分が判断すべきことなのかなと思う。

1732

詩はこうでなければいけない、というものはない。学んで深めてゆく詩もあれば、学ばずに深まってゆく詩もある。だから詩は、作り上げるものではあるけれども、探しあてるものでもある。私らしい詩、というのがきっとあって、見つけられるのを待っている。私の詩に巡り合うまでは、書いていたいと思う。

1733

こむずかしいことを言いたいから
詩を書いているわけじゃない

自分はすごいだろうと
見せつけたいから詩を書いているわけじゃない

優しさの押し売りをするために
詩を書いているのでもない

細々とわたしらしく
生きてゆけるために
書いている

詩を書いた分だけ
せめて幸せになろうよと
書いている

1734

たくさんの人に読まれる詩は
しあわせ

でも
だれにも読まれないで終えてしまう詩も
別のおとなしい しあわせ

長く読み続けられる詩は
しあわせ

でも
すぐにだれからも忘れ去られてしまう詩も
やりきった分の しあわせ

つべこべ言わずに
書いていよう

書く人にとっては
どんな詩だって しあわせ

1735

若い頃に、表現に苦しんだ日々がありました。その当時すでに、自分の才能の器の小さいことに絶望をしていました。ニ度と再び詩を書こうとは思っていませんでした。

今また書いているのは、その器が私にちょうどよいと感じられてきたからです。そこへ詩を満たして過ごすだけでよいとわかったからです。

1736

詩を書く時間がないと
イライラすることって
ある

でも
考えてみれば
時間があると
むしろ詩は書けなくなる

詩を書かない時間は
詩が溜まってゆく時間だと
受け止める

書けないという気持ちを
しっかり抱え込んでいることが大事

詩と関係がないことの中にこそ
後に深く詩に繋がってくるものが
ある

1737

言葉って、そのまま正面から言っても伝わりません。それが、気持ちの込め方を変えるだけで、あるいは相手の思いをもう一度想像してみるだけで、すっと人の中に入ってゆきます。

詩も同じなのだと思います。加減を知る。表現の通り道のあたりをつける。言葉をじゅうぶんに温めてから詩を書き出します。

1738

ぼくの詩は現代詩の中ではわかりやすいと、言われています。もちろん、わかりやすく書こうなんて、これまで意識したことはありません。これしか書けないからこう書いています。

ぼくは「人見知り」ならぬ「言葉見知り」なので、言葉がとても恐いし、仲の良くなった言葉でしか詩が書けないのです。

1739

ひとりよがりな詩
というのがあります

書いた本人がいいと思っているだけで
ほかのだれもそうは感じてくれない詩のことです

そういうのは正さなければなりません

ただ
適度なひとりよがりがまじっていなければ
詩は可愛げがなくなります

謙虚で
さめたひとりよがりを
詩に込めたいと思います

1740

「円の中は
隅々まで明るい
そこに一匹の目高を泳がせよう」


書いたのは
嵯峨信之さん

もしもこんな詩が書けたら
どんなに気持ちが澄み渡るだろう

何かを書くことと
何も書かないことの
間のような

この詩そのものが
底面まで明るいし
一匹の不安げな読者が
自由に泳ぐことができます

1741

想像力というのは詩の源泉だ。そして想像力というのは隅から隅まであからさまにできあがってはいない。曖昧なものを含んでいる。だから詩を書くなら、事象の全てを明瞭にすべきではない。曖昧なものの震えをそのまま書くことだ。曖昧さは読者に渡される。この世が曖昧なのだから詩もそれに沿うべきだ。

1742

「詩」はつきあい次第だと思う。一見なんの役にも立たないように見える。確かにお金にはならないし、一生懸命にやってもほめられることなんてめったにない。それでも丁寧につきあっていれば、歳をとってもそばにいてくれる。たいした詩が書けなかったなと、詩と一緒に、最期に明るく笑うこともできる。

1743

詩は好きだけど、私の書く詩はたいしたものではないのではないか。誰にでも書ける詩に見えるし、人に伝えるべき鋭いメッセージもない。人の詩の方がずっとうまく見えるから、隠すようにして書いている。

そんな、後ろめたい心こそが詩を育ててゆく。気がつけば、価値ある個性的な詩になっている。

1744

詩を書くというのは、日々考えたことにあらためて向き合うことだ。大それたことではない。

詩は、書くこと自体にほとんどの意味がつまっている。多少の出来不出来は、さほどのことではない。

その詩が生き残るかどうか、というよりも、私が生き残るために書く。

1745

長く詩を書いていると、いろいろなことを考えます。そして、自分ではそうと気がつかないうちに、人の詩と比べるようになり、なんだかかっこつけてるだけの詩を書いてしまいます。そうなる気持ちは分かるのです。でもやっぱり、書きたいことを書きたいように書く、初めの所へ戻った方がいいのです。

1746

「ごくふつうに生きてゐる やうに見えて
ひとりひとりが ひそかな傷をもってゐる」

書いたのは
吉原幸子さん

そうだよなと
思います

ひそかな傷が
むしろわたしそのもののような
気がします

ひそかな傷が服を着て
ご飯を食べて
ブランコに乗ったり
します

わたしと似た別の傷を
愛しもします

1747

詩というのは、あれこれむずかしいことを考え始めるとなかなか完成しません。そうこうしているうちに「なんだ普通にこう書けばよかったのだった」という水の流れが見えてきます。その水が一行目から最終行へスムーズに流れて完成です。てきあがると、なんだこんなに簡単なものだったかと思うのです。

1748

その水の流れというのは「正直さ」に通じるものがあります。自分よりもすごいものを書こうとするから、言葉を無理にねじ曲げて妙なものしか書けなくなっていたのです。もっと正直に、すごくない自分をそのまま出すことが詩を書くということです。そのように書いた詩だけが、自分よりもすごくなれます。

1749

「詩人」という呼び名はやはり恥ずかしい。吉野弘は、「詩人」というのは人から言われるのはともかく、自分で名乗るものではないと、言っていた。ぼくはそこまでは思わないけど、やはり自己紹介で言えるような言葉ではない。つまり、その恥ずかしさが詩を書かせているのだとも、言えるのかもしれない。

1750

「あまりきれいな言葉で書くと、詩が負けてしまうんです。地味な言葉できれいな詩を書くんです」と言っていたのは新川和江さん。

ぼくも地味な言葉が好き
ぼくのように目立たない言葉

みんながきれいと
知っている言葉
ではなくて

どんな言葉も
きれいにみせてあげられる

ということかな

1751

詩を読む時には、どんな「素敵」が含まれているかに目を凝らす。全体的にはつまらなくても、見方によって部分的によい所があったりする。
詩を書く時には、自分の中からましな部分だけを引き出し、大切に磨き上げて詩を完成する。
人の詩も自分の詩も、おもによい所を見つめてあげる。そうしていたい。

1752

ぼくが執筆に集中できるようになったのは66歳からだった。若い頃もたまに書いてはいたけど、あくまでも生活や仕事のかたわらだった。詩を思う存分書きたいと思っている人で、情けなくも時間がない人は、焦らなくていい。老年になれば、文学をしっかりつかみ取ることができる。すべては定年後だ。

1753

老年からの詩作の利点は、すでに詩の外で大抵のことを経験してきていることだ。その中には自分自身を知ったことも含まれている。もう単なる夢を追うことはない。自分の書いた詩が見えなくなることもない。そのかわり、自分の書いた詩の肩を抱き、夕暮れに同じ歩幅で、一緒に歩むことができる。

1754

いきなり納得のいく詩が書けることなんて、ありません。

書くこと自体が好きなのならば、ともかくなんでもいいから書き始めてみます。書いているうちに溝ができてきて、思いの水が流れ始めます。

その詩そのものではなくて、次のまともな詩のための身を投げ出すような詩を、まずは書いてみるのです。

1755

若い頃は
詩は希望だった
私は詩の方へ
両手をさし伸ばした

おとなになって
私は変わった
汚れた私は詩に追いつめられた
私は詩を振りほどいて逃げた

歳をとって
仕事から帰ったら
ある日 詩が
そばにいることに気がついた

私は若い頃よりもしわくちゃになった両手を
また
さし伸ばした

1756

詩の勉強って、どれほど繰り返せば上達するものだろう。

わかりません。

創作にまつわることって、わからないことだらけなのです。
本人だけではなく、だれにもわからないのです。

だから
できるのは
今日も夢中になって詩をつくることだけです。

待ち望む心を
静かに持ち続けていることだけです。

1757

詩を書いていて
一番敏感でなければならないのは
言葉なりフレーズなりが
どこまで読み手に鋭く入り込めているか
というところにあります

どんなスタイルの詩にも言えます

読み手がどれほど深く受け止めるか
ということの
微妙な感触を探って
詩は書かれます

おそらく詩の命は
そこにかかっています

1758

「わたしの甘やかなひと
が、ほそく揺れる水のおもてのように微笑んで」


書いたのは
野木京子さん

日本語をこんなふうに吐き出せるって
すごい

言葉に水分をたっぷりとゆきわたらせることができるって
ほんとにすごい

ぼくらは言葉を
もっとつかうことができるんだと
知る

1759

詩が書けない時には、特定の読み手を設定してみるとよいとか、よく言われます。でも僕は、そうせずに、詩が書けない時はそれに耐えていたいと思います。自分への落胆が、詩作を初めの所から考えさせてくれます。書けないのはどうしてだろうと悩むことは、ほどほどの一篇よりも、貴重だと思います。

1760

時々思い出しておこう。

ー むずかしい言葉を知らなくても、よい詩は書ける

ー 特別な体験をしたことがなくても、よい詩は書ける

ー 自慢のできることなんてなにもなくても、よい詩は書ける

ー 人より秀でていなくても、よい詩は書ける

忘れずにいよう。

1761

詩は好きで書いているけれども、いつもかわりばえのしないものしか書けない。ダメだな、と思うことって、ある。でも、自分の詩はつまらないな、と感じるところを通過しないと、まともな詩にはたどりつけない。だから、自分の詩がダメだと感じられるというのは、重要な瞬間、愛すべき瞬間だと僕は思う。

1762

詩の教室の詩に対して、僕は一読者として感じたことを言う。具体的なアドバイスもする。でも、注意してもらいたいのは、指摘されたことにもとづいて詩を書きかえること。あまりやりすぎると、自分が詩を書いたときの勢いと意味が失われる。書いたのは自分だということの意味は、人の意見よりも重い。

1763

好きで始めたことなのに、追われるように詩を書いている自分に気づくことがある。早く詩を書かなければと焦ってばかりになる。泣きたくなるほどいらいらしてしまう。

それって、やっぱりどこかおかしい。

深呼吸して、私にとっての詩とはなんだったかを、今まで書いてきた詩と一緒に思い出してみる。

1764

詩を書くのが苦しくて仕方がないのなら、やめてしまっていいと思う。一時やめるのか、あるいはずっとやめてしまうのか、なんて、その時点ではわからない。ただ、詩の外で、やめたことにホッとして生きてみればいい。人生はけっこう長い。ある日また、その気になったら、その時にのんびり考えればいい。

1765

詩を書いてみよう

まずは詩を読むことから始めます

好きな詩を好きなだけ読んでください

そうしているとそのうち詩を作りたくなってきます

好きな詩の好きな行の好きな理由を
自分の詩にまぶしたくなります

何もなかったところに
私の書いた詩が生まれています

前よりも自分が少し好きになれます

1766

詩を書き始めた頃に悩むことがあります。多くの有名な詩人の詩が、自分が書いているものとはかなり違うように感じられることです。そんな時は、ともかくも自分が書いている詩をひたすら書き続けることです。もしかしたら、つきつめた自分の詩が、日本の詩のあり方に影響を与えることもありえます。

1767

詩を書くことは楽しみであるはずです。でもたまに、人の詩と比べて妬んだり焦ったりしている自分に気づくことがあります。そういう時は、もとの自分を取り戻すために努力をします。容易ではありませんが、詩を書き続けるためには、本来の自分と本来の詩のところへ、常に戻してあげる必要があります。

1768

詩は
なんでもない人が
そのなんでもないことにおいて
なんでもなくなんかないのだと
思わせてくれるものです

詩は
なんでもないからこそ書ける
なんでもない人のための
なんでもなくなんかないまばゆいものです

1769

若い頃に詩を書いていて、やめてしまった人は多くいます。年月が経って、また書き始めようと思う時には、以前に書いていた時の限界が思い出されて踏ん切りがつきません。でも、再び書こうとする時の財産はその限界です。自分の限界を知っても書く時には、前よりも確実に詩が見えるようになっています。

1770

うまさ比べだけが
詩のあり方ではないと
思います

だれにもわかってもらえなくても
書いた人の内側から照らしてくれる
詩の光があるのだと
思います

不安な時には
いつ帰っても
黙って迎えてくれる詩があるはずだと
思います

だれにでも
その人なりの
詩の抱きしめ方があるのだと
ぼくは思います

1771

詩は、無理に書こうとすると却って書けなくなります。だから普段は普通にしていていい。ただ、意識の底では心動かされるものを常に探っていたい。いつでも書ける体勢で、感動へ前のめりになっていたい。そうでないとずっと書けずに終わってしまいます。書こうとするのではなく、書ける状態で待つこと。

1772

わたしに書けるのはわたしの詩だけです。決してカッコいい詩人のカッコいい詩ではありません。貧しくて、引っ込み思案の詩なのかもしれません。ただ、それでもこれは、誰のものでもなく、わたしの詩なのです。それ以上に何を望むでしょう。抱えられるだけのわたしを抱えています。極上の香りなのです。

1773

すぐれた人は、詩を書きながらその詩を正当に読むことができます。でも、大抵の人はそんなふうにはできません。だから、詩作を二段階にします。

(第一段階)とにかく夢中で書いてしまう。
(第二段階)その詩を忘れた頃に、まっさらな気持ちで読んで、直す。

それだけで詩がだいぶましになります。

1774

ぼくは時々、書いた詩に自慢が少しでも入っていないかをチェックします。内容だけでなく、こんなにむずかしい詩を書けるのだぞという自慢や、こんなに優しい心の詩なのだぞという自慢もです。放っておくと、みっともなく自慢をしてしまうのです。たいした人間でもないのに、と書くのも自慢でしょうか。

1775

わたしが書いているのは

ではなくて
願いです

だいそれた願いでは
ないのです

わたしはここにいるんですよ
ということを
知ってもらいたい願いです

だれに知ってもらいたいのでしょう

まずは
わたし自身に教えてあげたいのです

わたしはここで生きているんですよ

1776

詩は基本、沢山書くものだとぼくは思っている。書いている間は、間違いなく幸せでいられるからだ。不思議なのは、詩の出来不出来にかかわらず書いている間は楽しいことだ。だから、つまらない詩でもたくさん書く、ということを心がけたい。すぐれた詩というのは、沢山のくだらない詩に混じってできる。

1777

詩を書く喜びは、書いている自分と書かれている詩の、2人きりの世界にあります。だからそこで充足しているならば、幸せに詩を書き続けられます。

書き終えたあとにその詩がどのような扱いを受けるかは、詩の幸せとは別の出来事です。別の出来事に思い煩らわされていると、2人の幸せは損なわれます。

1778

優れた詩には下記の2種類がある。

(1)みんなが感じることに、あらたに付け加える感性の切り口を持っている詩

(2)みんなと同じ感じ方ではあるが、より鮮やかに表した詩

自分の詩がどちらを目指しているかを知ることは大切だ

秀でた(1)の詩は(2)を伴うことが多く、その逆も同様のことが言える

1779

僕は生きてきた中で幾度も詩に助けられてきた。詩を書いていなかったら、もっと人生のダメージは大きかっただろう。立ち直れなかったかもしれない。

むろん詩を書いていたことによって出会った不幸もあった。ひどく傷ついた。

それでも信じて付き合ってきたことを、今になってよかったと思っている。

1780

とても評判がよい詩でも、読んでみるとピンとこないことがあります。そうであっても、自分には詩がわかっていないのだと絶望することはないのです。人それぞれに、固有の「詩であること」の本質があります。自分に深く落ちてゆく詩だけを、しっかり抱きしめていればよいのです。人と違っていいのです。

1781

ぼくは自分のために詩を書いています

自分に見せてあげるために書いています

生涯ぼくを見捨てずに
いやになるほどそばにいてくれる
大切な自分のために

詩の一行一行をぜんぶつなげて
全身をもれなく巻き込んで世界から守ってあげるために
ぼくなりの詩を書いています

それでいいと思っています

1782

人それぞれに、その人にとっての詩というものがあります。詩をどのようにとらえるかは、その人の自由です。そして、詩とどのようにつきあってゆくかも、その人の自由です。

どれほどすぐれた詩が書けるようになるか
ということよりも
自分の詩とどのように幸せになってゆけるか
の方が
ずっと大事です

1783

人と比べない、というのはとても大切。人が晴れやかな詩を書いていれば、すごいなと思っていればいい。自分の詩は自分の詩。あわてず焦らず、じっくりと育て上げればいい。ただひたすら自分の個性に沿って歩む。自分の詩の空間でぞんぶんに遊び、常に深めて、楽しむ。詩作とはなんと贅沢な行為だろう。

1784

詩を書く時には、読む人を驚かせたいという気持ちがあります。ただ、そのような気持ちを前面に出して書くと、単に奇妙な詩になってしまいます。ですから、ともかく普通のことを普通に書こうと、僕は思っています。書いているうちに、その普通がちょっとめくれあがって、読む人を驚かせてくれるのだと。

1785

人の詩を読んでいて、これはいい詩だなと感じたら、どうしてそう感じたのかを、自分なりに考えて、言葉にして書いておく習慣をつけたい。

自分はどのようなものに心を動かされるかが分かってくるし、そのあたりに、めざす詩があるのだから。

1786

詩作というのは、うまくなってゆく部分と、うまくなってはいけない部分の、両方で成り立っていると思うのです。

その加減がむずかしい。

うまさの際立つ詩はすごいとは思うけど、遠くに感じてしまいます。

うまくなんてならずに、読む人に寄りかかってくれる詩は、何度読んでもみずみずしいのです。

1787

自分は
詩を書くことに
無上の喜びを見出しているだろうか


常にチェックをしていたい

詩を書くことが
いつのまにか苦しく感じられるようなら
書くことをいったんやめたい

思い出そう

作品にたどり着くまでの
ひとつひとつの過程を
歩んでゆけることの震えがあるから
詩を書きはじめた
はずだと

1788

頭で考えているだけでは、詩はなかなか前へ進まない。ともかく書いてみると、自分が何を書きたかったのかが見えてくる。

こんなこと、ありふれているから書いてもしかたがない、ということでも、心を込めて自分の言葉で書き直しているうちに、「これなら書いてもいいよ」という切り口が見えてくる。

1789

人の詩を読んで感動し、自分にも書けるのではないかと思う。誰にも見せずに詩を書いてみようと思う。なかなかうまく書けない。でも少しずつ書くことの喜びを知ってゆく。自分なりに、ましな詩が書けるようになったとたまに感じる。詩を書くとはそういうことだ。自分をその大きさのまま書いてゆくこと。

1790

仕事をしている時は無理だけれども、そうでない時間はいつでも詩が書ける心持ちでいたい。そうでないと、心をきれいにかすめて過ぎたモノにも気づかないことがある。詩を書くのなら、まずは世界への澄んだ姿勢からなのだし、心に触れてくるものを決してとりのがさないこと。むずかしいことじゃない。

1791

そういえば僕は「詩人」と呼ばれるようになってから「詩」を書かなくなってしまった。書いているのはたぶん、詩以前のもの、なにものでもないもの。それでいいんだと思っている。胸に迫るものを形式もなく吐き出していたい。「なにものでもない人」と呼ぶ人がいたら、僕はそっちへ顔を向けるだろう。

1792

詩は、それを作っている段階で多くの幸せを与えてくれる。できあがってゆく過程をうっとりと体験することができる。詩にしてもらうことは、それで充分だと思う。

むろん自分の中ではより美しいものを求めはする。でも、できあがったものが外で不当な扱いを受けて帰ってきても、黙って抱いていたい。

1793

詩は、これを読む人はどう感じるだろうと緻密に想像しながら書く。その想像の精度を高めるために、日々たくさんの詩を読み、たくさんの詩を書いて鍛錬する。ただ、それだけだと詩は小さくまとまってしまう。人がどう感じても構わないから自分が書きたいように書くという、独りよがりな心も一方で必要。

1794

「だからときどき転ぶじゃないか 石に躓(つまず)くように 言葉に躓くことだってあるのさ」


書いたのは田村隆一さん

どうしてこんなにありふれた比喩なのに、「いいな」と感じるのだろう。たぶんこのへんに表現の秘密が隠されている。ありふれているのに、ありふれていない、ということかな。

1795

詩を書いていれば自分よりも詩のうまい人は必ずいる。とてもかなわないと思う。でも、とてもかなわないという思いは、自分のことを余計にいとおしくなることにもつなげてくれる。私には私の座るべき小さな椅子がある。その椅子に座って好きに書いてゆけば、いつのまにか詩は自分を超えている。

1796

自分を信じていいのだと思う。これまでは不器用な詩ばかり書いてきたとしても、自分を信じていいのだと思う。明日には、書いた詩の言葉の一つ一つが、自らの意思で顔を上げ、読む人の胸へ飛び込んでゆけるような詩が書けると、信じていいのだと思う。今日まではどんなに地味な詩を書いていたとしても。

1797

自分が書いた詩というのは
ある意味
友人がひとりできたようなものではないかと
ぼくは思う

頭の中の
町から
突然目の前に現れた

だから
どんなにつまらない詩であったとしても
相手の気持ちを尊重した態度で
迎えたい

頭の中の
これからできてくる詩は
その態度を
しっかり見ていると
思う

1798

最近詩が書けないなと思った時は、大抵、詩が書けるような生き方をしていなかったことに気付く。

そもそも詩を書きたくなるようなふるまいができているか
生きていることに自分なりに夢中になれているか
自分を感動的なものへ連れて行ってあげているか

できているなら無理せずとも詩は生まれてくる。

1799

詩を書いていると、スッと一本の通り道が見えることがあります。それが見えると、詩はできあがります。ああだこうだ考えていないで、これだけを素直に書けば詩になるのだ、ということがわかる瞬間です。沢山のものを詰め込まなくてもいいのだとわかります。はじめからそうできないところが不思議です。

1800

どんなに気持ちが冷え切った一日でも、寝る前には自分をとり戻せる。詩が書ける。何でも書ける。どんなふうにでも書ける。外の時間とは関係なしに、私は私の詩の中で少し成長できる。知らなかった言葉に出会うことができる。読み返せば、それまでに全力で書いた詩が、私を泣けるほど感動させてくれる。

1801

詩を書いた時は、これを人が読んでどう思うだろうと想像するのは大事だけれど、もっと大事なのは、これが自分の精一杯か、もっと奥底へたどりつくことができるのではないかと、自分の限界を見つめ、問うことだと思います。最後は人の評価ではなく、自分を納得させること、その繰り返しだと思います。

1802

詩作は楽しい。ただ、何か書くことがないかなと、いつだって頬杖をついてきた。その繰り返しだった。それでも、書きたいというおとなしい気持ちが、頬杖の密着のすみっこに、詩を奇妙に生み出してくれる。まだ、世界中で私しか読んだことのない私の詩を、お駄賃のようにひとつ与えられる。

1803

詩を書き上げた時には「これ以外には書きようがない」と思います。でも、書いた時にはどうしても見えない盲点、というものがあります。

その詩を忘れたころに冷静に読み直すと、ここは別の角度から書いたほうが詩が生きてくる、などが容易にわかります。そこを直せば、本当に完成した詩になります。

1804

僕が心がけているのは、へたくそでも、幼稚に見えても、「僕の詩」を書こうとすること。時に、人に比べて見劣りがしないかとか、少し自慢をしようかとか、つまらない誘惑に襲われる。でも詩って、つきつめれば自分のために書くもの。自分の血液が隅々まで流れている詩行だけを、存分に書いていたい。

1805

学ぶことは大切。でも、私に書けることは私の中にすでにある。浮かれずに、繰り返しそこに戻って膝を抱えていれば、私には私の詩が書ける。よそ見なんかする必要はない。だれの中にも、いくら書いても書ききれないさびしさがあり、詩はそれに気づかせ、空気に触れさせてあげること。

1806

たたかわない詩があってもいいと、僕は思います。勝とうとしない詩。自分にもたれかかれる詩。手をかざせる詩。指先があったまる詩。書いた人のほかにはだれにも読まれずに生涯を終えてしまう詩。それでもその人には丹念に幾度も読まれて満足して終える詩。内気で外へ行けない詩。書いた人のような詩。

1807

詩を書きたいという思いはある。でも、書くたびに違った感じの詩ができてしまう。そういう人がいます。たぶん、人の詩に影響を受けやすくて、その時に好きな詩に似てしまうのです。どうしたら自分らしい詩ができるのか、悩むだろうと思います。その悩みを、じっくりと書くことから始めたらどうだろう。

1808

詩を読むというのは、人の詩の中に自分の詩を、手を重ねるように書いていることでもある。

だから、わたしは詩を書きませんという人も、詩を読んでいる時には、知らず知らずのうちに自分だけの詩を書いている。

1809

自分の書いている詩が、有名な詩人たちの現代詩とはずいぶん違うと感じている人はいると思う。ぼくも若い頃に、そう感じていた。ただ、その中でも何人かの詩人の詩にはじかに胸を打たれていた。そういうものだと思う。現代詩全体を追う必要なんかない。導いてくれる詩人が一人いれば、書いて行ける。

1810

詩を書いていてもなにも起きない。それでも好きで毎日書いている。いつもの詩だから、その詩のよいところは自分にはなかなか見えない。詩は、読む人がその詩のよさを作者に教えてあげる。ほめられればやる気は出てくる。またコツコツと、なにも起きなくても書き続けてゆこうと思える。

1811

あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい


書いたのは
新川和江さん

ぼくがむかいあうべきもので
この詩をまねてみよう

あなたがさびしげな一篇の詩であるなら
ぼくはその詩を乗せる掌

指を折って
閉じ込めることもできる

1812

自分がダメだなと感じているところは、個性として生かされることがある。例えば、言葉をあまり知らないと感じている人は、同じ言葉といつも一緒にいるから、その言葉のすみずみを知ることができる。それが親しげな詩につながる。言葉をたくさん知っている人にはわからない臆した心を持つことができる。

1813

「それからながい時がたち、たくさんの水が川を流れた。」


書いたのはヘッセ。

だれもが知っていることを、だれもが知っている言葉で、だれもがわかるように書く。それなのに、だれもの心の奥底へたどりつくことができる。それが(少なくともぼくの)理想的な詩だ。とてもむずかしい。

1814

書いた詩が誉められるのはうれしい。もっと誉められたいと思うのは自然な心の向き方だと思う。でも、知らず知らずのうちに、誉められるためだけに詩を書くようになっている自分に気づく。本来の自分の詩ではないものになってしまう。気づいたら直す。痩せ我慢でも、何も求めずに書こうと努力する。

1815

詩が書けなくて困ったと言う人がいるけれど、ぼくは15年間も書かなかったことがある。いばって言うことでない。でもそれくらいに考えていてもいい。焦ることなんて全然ない。そんなこともある。もしも詩が、切実な友人であるのなら、ある晩何事もなかったかのように訪ねてくれる。きっとだ。

1816

雑誌に詩を投稿することは、入選するしないにかかわらず、意味があることは知っている。学ぶことは多い。ただ、詩を書くという行為はもっと根底にある。投稿がどんな結果であれ、自分が書いた詩は相応の態度で「おかえり」と言ってあげる。日が経てば、いつかは詩と2人きりになる。見捨てない。

1817

詩を書いた時に、その詩がほんとうに自分がぎりぎり考えていることを書いているかと、自分に問うてみることは大切だと思う。

何かに迎合してはいないか。
一般的な感じ方に合わせてはいないか。
これくらいでいいだろうと立ち止まってはいないか。

本当の詩は、その後にできる。

1818

常々思っているのだけど、完成して発表した詩を読み返しても、そうかと思うだけ。むしろ、書いてはみたものの、これはダメだなと思って打ち捨てていたものを読み返すと、もっと詩を書こうと思えてくる。詩というのはその詩を完成するためだけにあるのではなく、将来書ける詩のために書かれる詩もある。

1819

大学を卒業する時に、文学関係の仕事に携わりたいと思っていた。でも、名のある出版社には全部落ちた。結局、経理を43年間もやった。過ぎてしまえば、負け惜しみかもしれないけど、文学から遠い仕事でよかったと思う。外側から、書くことの憧れを持ち続けられたし、文学の外の素晴らしさも経験できた。

1820

詩を読んで、ああいいなと思ったら

「この詩がぼくに教えてくれたことは…」

という文章を書く。

すると、なぜ自分がその詩に感動したかの理由が見えてくる。その理由がいくつも集まったら、束ねる。そうか、そういうところに心動かされるのかとわかる。わかれば、その場所に触れるように詩を作る。

1821

僕は小学生の頃から詩を書いている。でも当時から、それがすごく恥ずかしかった。詩を書いているなんてだれにも知られたくなかった。

と同時に、自分には詩があるのだと、事あるごとに思っていた。言い方を変えるなら、自分には詩しかなかった。詩は僕にとって土俵際だった。のけぞって支えてくれた。

1822

創作に煮詰まった時には
「知識」で詩を書いていないか

自分に問うてみる

すると
思いのほか肩の力が抜けて
書きたかったことが
見えてくる

知識で詩を書かない

それだけのことなのに
つい忘れてしまう

1823

詩って、書いているとだんだんわけのわからないものになってゆく。不思議だ。それって、大それたものを書こうとするいやらしい気持ちがさせる。でも、一望のもとにすっきりと見えない詩は作られてはいけない。常に、もっと薄い詩を書こうとすれば、ちょうどよい濃さになる。簡単にできた詩の方が深い。

1824

「詩の教室」には、長く詩を書いてきたけれども人に見せたことがない、という人がくる。つまり長い間、自分で書いて、自分で読むだけだった人。自己流。でも、自己流ほど詩に似合っているものはない。人に見せずに長く書き続けてきたこと。それはすでにかけがえのないひとつの長編詩だと、ぼくは思う。

1825

詩というのは、すぐれた能力を持った人だけが書くものではない。特別な才能を持たないから書ける詩、うまく生きられないから書ける詩、というものがある。地を這うように生きた人にしか書けない詩がある。詩はさまざまでいい。詩を書こうとする人の分だけ、詩の中にはその人の居場所が用意されている。

1826

詩を書く才能の根底には、感動する才能というものがあるのだろうと、考えながら参加者の詩を読んでいた。

自分には詩の才能があるか、と考えるよりも、人の詩を読んでこぼさずに感動できる才能があるか、そちらの方が大切なのだと。「書く」は「読む」の先端にくっついているだけ。

1827

優れた詩の発想というのは2種類ある。

ひとつは、詩を書く前に思いつく発想。それをもとに詩が書ける。

もうひとつは、ともかく書いてみた詩の中に、たまたま見つけ出せるよい発想。

だから、まずは毎日詩を書いてみる。たくさんのつまらない発想の中に、気まぐれのようによい発想が見つけだせる。

1828

幾度も書いてきたように、ぼくは長いあいだ詩から離れていました。でも今から思えば、離れていた期間に、詩や、詩に夢中になっていた自分のことを外側から見つめ直すことができました。詩とは何か、なぜ詩を書くのか、と。少なくともぼくの場合は、あのまま書き続けなくてよかったと今は思っています。

1829

長い人生の中には、がんばらなくていいかな、という時期は間違いなくある。そのことは胸のどこかで知っておいてもいい。

思い通りにいかない時はある。だったらとまる。

恥ずかしいと思うかもしれないけど、恥ずかしさよりもずっと大切なことがある。人からどう見られるかではないと、わかってくる。

1830

毎日詩を書いているけれども、かわりばえのしない詩ばかりで、意味あるのかなと、たまに思う。

でも、書かれた詩にとっては、初めての命。私を選んでくれて、私を通過して生まれてきてくれたのだと思えば、いとおしくもなる。

詩作はそれ自体がすでに奇跡。何もないところから、私の手が生み出した。

1831

普通に暮らしていて、ぶつぶつ言いながら毎日会社に行っていたり、亭主に腹をたてながら家事をしたりしている人達。そういう人たちが書く詩がある。普通の人が、普通の言葉を使って、普通の手で詩を書いていてもいい。そういう詩が、頭のいい人の書く難しい詩よりも劣っているということは、ないのだ。

1832

生きていると、人を愛したり、憎んだり、寄り添ったり、喧嘩したり、激しい感情で過ごす日もあります。でも、ほとんどの日はありふれていて、ちょっと心が揺れるだけです。そんなことすぐに忘れてしまいます。でも、詩というのは、そのちょっと心が揺れたことを掬い上げ、とどめてくれるものなのです。

1833

特別な人じゃない
ということが
詩にとっては 特別なんだ

だから
わざわざ大声で
自分は特別だと
強調なんかしなくていい

力を抜いて
いつものままの呼吸で
わたしはたいしたものではない
ということを確認してから
詩を書く

これがなかなか
むずかしい

1834

よい詩なんて
そうそうできるものじゃない

来る日も来る日も
つまらない詩をたくさん書いていると
その中に
偶然のように ましな詩ができてくる

だから
「この頃よい詩が書けなくて」

自分を責めない

それが当たり前の状態だ

何も考えずに必死に書いていれば
たまによい詩が
できあがってくる

1835

詩はだれに向けて書いているのだろう。人に認められたいと思う気持ちはある。でも、つきつめたところにあるのは、やはり自分なのだと思う。最後は自分のふところに戻る。もぐり込む。独りで生まれ、独りで生きているのだから、それを必死に支えてくれる細腕の詩でいい。生きていれば書けてしまう。

1836

詩に爽やかに立ち向かっている者なら、歳も、性別も、貧富も、学歴も、環境も、生い立ちも、まったく関係ないと思うのです。命があれば、それだけでもう詩の資格試験は合格です。だからこそ、その命を傷つけるようにして創作に迷い込んではいけないのだと思うのです。守るべきは詩よりも、命の方です。

1837

新人のための有名な賞を受賞して評価される、というのは一つのあこがれる道筋ではある。ただ、言うまでもなくそれだけが詩を書いてゆく道筋ではない。比べられることに向いていない優れた詩も、間違いなくある。自分にとって最も適した詩との付き合い方を、じっくりと探す。焦らなくても、きっとある。

1838

詩を書くためには
まあたらしい言葉を探す
というよりも
どんな言葉もまあたらしく感じることが大切だと
僕は思う

ありふれた言葉だからと言って
何気なく口に出すのは失礼だと
感じられる心のことだ

それはむろん
言葉だけに対するものではなく
大切な人にも 自分自身にも
言えることなのだと

1837

ぼくには才能がないのだと知ったのは30代の頃だった。苦しみもしたけど、結果的にそれでよかったのかもしれない。才能がないから、目の前の詩作にいつも全力で立ち向かうしかない。全力の、もう一段深くまで掘り進んで詩を書く。そうしないと、どうしようもないものしか書けない。愛すべきぼくの才能。

1838

「今回の詩はうまくできませんでした」という本人からのコメントのついた詩が、時々くる。そんな詩が、むしろいつもの詩よりも優れているということが、よくある。なぜだろう。作り上げた詩に対して、もっと書けるはずだという情熱があるからか。その詩への、きれいな謙虚さが一緒に読みとれるからか。

1839

詩を“じかに“読む習慣は大切だと思う。有名な詩人だからとか、評判がよいからとか、自分の詩のスタイルに近いからとかの、判断から離れ、詩そのものを読むようにする。裸の詩を裸の私が受けとめる。そのように努力をしてゆくことが、詩を正当に評価する力をつけさせてくれ、さらに書く力にも結びつく。

1840

詩作に取り憑かれるようになってしまうことはある。いつも詩のことばかり考えている。そこまでしなければたどり着けない作品も確かにある。

それでも、そんな自分を外から見つめる目は常に持っていたい。詩の外にも世界はあるのだというあたりまえのことを、詩にも、自分にも、思い出させてあげる。

1841

詩の個性というのは、詩人が自分はこういった個性を持とうと思ってできあがるものではないと僕は思う。何だかわからないけど止むに止まれず書きたくなって、必死に書いた詩の一つが、ある日、自分の前に恥ずかしげに現れる。その詩が、あなたが背負ってゆく詩の個性はこれなのですよと、教えてくれる。

1842

詩人になるということは、自分で詩の仕事を作ることだ。待っていても誰もぼくに詩を書いてくださいなんて頼んでくることはない。自分で書く場を作り、自分で詩を書き、自分で本を出し、自分で町に出て詩について語る。詩人であるということは、自分に生涯、詩の仕事を与えてゆく覚悟を持つことだ。

1843

自分の詩はダメなのではないか、という疑問を持つことはある。というか、詩を作るたびにそう思う。ただ、自分の詩が詩として通用しないのではないかという恐れこそが、詩そのものではないか。拠って立つものを持てないから詩なのだろう。あやういところでかすかにここにあるもの。それが詩だと思う。

1844

これは僕だけのことなのかもしれないけど、無心になって取り組んだものは、それなりの結果が出てくる。でも、こんなふうに褒められたいとか、こんな反響を得たいと思ってやったことは、たいていひどいものになる。志を見透かされてしまうのだろう。ものをつくる仕組みというのは、実によくできている。

1845

詩を読んでいて、ちょっと気になる表現に出くわすことがある。その時、「ちょっと」だからということで、素通りしてはいけない。たいていの大事なものはその「ちょっと気になる」の奥にある。「ちょっと」と感じたのは、単に出会いがしらだったからだ。自分の創作の大事なところにつながることがある。

1846

詩作は大きな喜びだ。でも同時に、自分を見失う危険性を持っている。普段より欲深くなったり、浅ましくなったりもする。キリもなく焦ってくる。本来の自分はこんなふうではなかったはず、と気づいた頃にはひどく傷ついている。表現している自分を、そのジャンルの外から見る目は、だからとても必要だ。

1847

前回よい詩が書けて自信がついても、次にもよいものが書けるとは限らない。むしろ、そのような時にひどくつまらない詩を書いてしまう。

そんな時に、どうして自分はダメなんだと思う必要はない。だれだって、よい詩なんてめったに書けるものではないのだから。

ただひたすら書いているしかない。

1848

詩というのは、何か特別な思想なり技術を知らなければできない、というものではない。

もちろんそういった詩があってもかまわない。

でも、なにも武器がなくても、何の用意もなしに、今のままの裸の自分で書き始められる。

それゆえに、深めてゆくのがむずかしいのだし、いくら掘っても果てがない。

1849

ある文体や形式で一つの詩が書けて、これでやっていけば幾つも詩が書けると思うことがある。たしかに書けることは書ける。でも、そこにはどこか緩みのようなものが混じる。一つの詩を作ろうとする時は、しんどくはあるけど、やはり何もないところから立ち向かうべきなのだろう。

1850

人の詩を読むことはもちろん大事だと思う。でも、詩を書き続けてゆく間には、外部を遮断して、自分の詩と二人きりになったほうがよいこともある。詩を見つめ、詩に見つめられるだけの日々を過ごせば、相応に詩を深みへ持っていってくれる。外から何も受け取らない時期が、もたらしてくれるものもある。

1851

キョロキョロ周りを気にせずに詩を書く、といえば単純なことだけど、これがなかなかむずかしい。

でも、詩を書く喜びを知って書き始めた頃はそうであったはず。

詩が向こうに見えていて、そこへ向かって歩く自分がいる。それだけのこと。

キョロキョロ周りを気にせずにひたすら詩を書く。忘れまい。

1852

長いあいだ詩を書いてきて知ったことは、詩を書くことよりも大事なことが人生にはたくさんあるのだということ。そばに生きている人をないがしろにしてまでも、書き続けるものではないということ。詩を書けることの、そうさせてもらっていることの、家族への感謝を決して忘れてはならないということ。

1853

弱いから詩を書こうとする。僕もそうだった。

ただ、そんな詩をほめてくれる人がたまにいると、ほめられることに慣れていないから、自分らしさを忘れた詩を書くようになってしまう。僕もそうだった。

いったん全部を捨てて、まっさらな自分にもどって、また弱い詩からはじめてもいい。僕もそうした。

1854

Q 詩を書く自信がなくなった時にはどうしよう

A 自信なんかない方が、ずっとよい詩が書ける

Q 生活に気持ちが揺れて詩を書く余裕がない時にはどうしよう

A 揺れる気持ちをじっと見つめていれば、いつかはそれが私だけの詩の元になる

Q 自分の詩に飽きたらどうしよう

A もっと飽きれば、突き抜ける

1855

詩は若い感性こそが作り上げるものだと思っていた。まあ、そういう側面があることは間違いではないのだけど、でも物事はそれほど単純ではないと考え始めた。詩作の適齢期というのは、実に人それぞれだ。適齢期がいつくるかは本人にもわからない。だから何歳になっても、ともかく心震わせて書いてみる。

1856

Q 人の詩を読んでもわからないことが多く、自分には詩を書く資格があるのかと心配になります。

A 大丈夫、詩を書く資格はあります。わからない詩でも、長年読んでいるとわかってくることもあり、わからなくても気にならなくなることもあります。ですから、何も気にしないで詩を書いていて大丈夫です。

1857

Q 長続きしません。詩も、何ヶ月かは一生懸命に書くのですが、そのうちやめてしまいます。決意してもそうなってしまいます。

A それでいいと思います。ずっと書いてゆこうなんて、思わないことです。たまに一篇ができる。その行為が人生に何度か訪れてくる。人それぞれの行い。それでいいと思います。

1858

Q 特別な才能はありません。人と違った経験もしたことはありません。それでも私に書ける詩はあるでしょうか。

A あります。詩は、自分が特別ではないと知るところから湧き出てきます。自分はありふれている、ということを見つめる行為です。ありふれていることの、悲しくなるほどの美しさのことです。

1859

どんなに心を込めて書いた詩も、わかってくれる人はほんの少しです。

でも、そもそもなぜ詩を書くかといえば、そのほんの少しの人へ向けて真摯に語りたかったからなのです。

それ以上に何を望むでしょう。

大切なのは、読んでくれる人の数の多さではないと、痩せ我慢でも思っていたいのです。

1860

僕が詩を書いているのは、かっこいい理由があるからではない。ほかにできることがないからだ。これしかできないから、できあがった詩が誰の心にもとどかないお粗末なものだったとしても、僕はその詩を見捨てない。僕と詩は、お互いにギリギリの崖っぷちの関係だ。これしかない相手なのだと思う。

1861

Q 詩に詳しくならないと、優れた詩は書けないのでしょうか。

A はいと、いいえです。つまり、優れた詩にも二種類あるということです。詩のことを知らなくても優れた詩を書ける人はいます。一方、詩のことをよく知っているから書ける優れた詩もあります。両方あっていいのです。よさが違うのです。

1862

言葉の意味のままに書かれる詩と
言葉の意味を避ける詩の
二つがある

この区分けは
ずいぶん昔から変らない

いつだってその二種類だ

むろん
どちらが高級だということでもないし
どちらが容易にできるということでもない

どちらであってもつきつめればいい

詩のよしあしは
その区分けの外にある

1863

まだ一度も詩を書いたことがなくて
でも書いてみたいという気持ちがあるのならば

まずは
自分をやるせない気持ちにさせてくれた言葉を
ノートに書き写す

生活の中からでも
人の詩の中からでもかまわない

その言葉が
自分にとっての詩のありかなのだし
長い生涯
詩への渡り廊下になってくれるはず

1864

詩は、それ自身の価値をその体に携えている。本来詩は、多くの詩と並べられて相対評価の渦中に入れるべきものではなく、読み手が個別の詩のよさを単に受け取るものだ。読む人にとっての詩のよさとは決して別の詩との差異にあるわけではない。そのような意味で、詩のありようは人のありようそのままだ。

1865

繰り返し自分に言い聞かせておきたいのは
詩は勝ち負けではないということ

否応なく比べられることはあるけど
つきつめれば
詩はそんな所にいるべきではない

私の詩は
私とふたりきりで部屋に閉じこもり
向かい合わせにすわり
ただ見つめ合っているために

そのために生まれてきた

1866

若い頃に詩を書いていて、途中で才能のなさに絶望してやめてしまう。そういう人は多いと思う。ぼくもそうだった。そのあと何も書かずに生涯を過ごすこともできる。でも、若い頃に詩について真剣に考えた時間は無駄ではないはず。意味があるはず。歳をとってからの詩人の生き方を、ぼくは模索している。

1867

「さりながら
わいのむねに穴あいて
風がすかすか抜けよんねん
つべとうて
くるしいて
まるでろうやにほりこまれて
電気ぱちんと消されたみたいや」


書いたのは
阪田寛夫さん

言うまでもなく失恋の詩

詩にとって正直に書くのがいいのは
わかっているけど

なにが正直なのかを
見つけるのは難しい

1868

知っていることを
読む人に伝えようとしても
詩はなかなかできない

何も知らないということを
つらく見つめていると
詩はできあがる

不思議だ

自分を言葉でよく見せようとすると
詩はなかなかできない

自分の欠けたところを
そのままさらけだそうと思えば
詩ができあがる

不思議な仕組みだ

1869

ただ発想を待っているのではなくて、これまでの自分がどんな時に詩を書きたくなったかを考えてみる。箇条書きにしてみる。自分に刺激を与えることを面倒くさがっては、いつまでも書けない。自分の気持ちをきれいなものの方へ向ける努力を常にしている。それで詩ができなかったとしてもよい時間になる。

1870

詩を書く、というのは単に作品を作り上げることを言っていない。詩とどのようにつき合って生きていくかをも意味している。詩を書くことによって知る自らの可能性。それとともに知る思い通りに制御できないみっともない心の向き。好きなことに一途になるということは、自分を律してゆく芯を持てること。

1871

書きたいことというのは、書く前に必ずしも明確には見えていない。ともかくその辺りに手を浸して書き始めてみる。するとその言葉が、勝手に次の展開へ進んでくれる。詩は、自分だけで書くのではない。自分と書きかけの詩が、ともに書いてゆくものだと思う。

1872

この頃よい詩が書けて仕方がない、なんて人はいない。みんな、自分の限界に悩みながら書いている。僕もそうだ。いつだって書き方がわからなくなっている。それでものたうち回っているうちに、不思議に何かが書けてくる。正直に全力で立ち向かえるものがあることが、詩作の喜びの最たるものなのだろう。

1873

詩作というのは不思議なもので、すぐれた詩を作り上げたのに、自分ではそれに気がつかないことがある。

だから詩の教室の一つの役割は、「あなたはすごい詩を書いているんですよ」と気づかせてあげることだ。

そうしてあげないと、知らぬ間にまたいつもの詩にもどってしまう。

1874

自分の感じ方に
とことん素直になっていたいと思う

すぐれた人からのアドバイスも
世間での評判も
それなりに意味はあると思う

でも
なぜ自分が詩に惹かれているか
というところを
まっすぐに見つめてみれば

「自分はこの詩をどう感じたか」
というのが
一番大切で
守るべき場所なのだと思う

1875

これから詩を書いてみようとするのなら、とにかく好きなものに感動することだと思う。その感動が私の中をどのように流れたかを、じっと感じとる。その、感じ入ったものを一つずつ文字の型へ流し込む。それだけのことだと思う。感受性を開いて真面目に生きていれば、いやでも詩は手からあふれてくる。

1876
詩は誰にでも書ける。いつだって書ける。書くために必要なものは何もない。平等な世界だ。

詩を書くことによって、自分がいつも何を感じ、考えているかを教えてもらえる。自分とは何なのかを知ることができる。

だから、自分にとってのあるべき詩を見つけだし、詩と自分を、適度に幸せにしてあげる。

1877

詩の教室をやっていると考えさせられることがある。自分が書いた詩の程度や限界を感じている人は、のちのちそこから伸びてゆくことが多い。一方、自分が書いたものの程度や限界が見えていない人は、いつまでもそのあたりにいる。で、程度を見極めるためには、ひたすら人のさまざまな詩を読むしかない。

1878

いったん「何か」をつかむと詩が一段深くなる、ということがある。それは必ずしも詩の技術のことだけを言っていない。実生活で決定的な体験を通過したことによることもある。その時、詩が深くなったことが幸せなことかどうかは、本人しか決められない。詩は人生の一部であり、人生は詩の一行でもある。

1879

自分はなにものでもないと、知るところから、ホントの詩が書けるようになる。

でも、ホントの詩が書けるようになると、自分はなにものかであるかのように、思いたくなってしまう。

そこがいちばん苦しいところ。

詩を書く前の自分と、詩を書いたあとの自分は、何も違わないはずなのに。

1880

詩を書けばわかってほしいと思う。評価してもらいたいと思う。でも、なかなか思い通りにはいかない。そんな時に、ただ絶望したり投げやりになるのではなくて、「自分の詩を受けつけない人の感覚のあり方」をもわかってみようとする。その繰り返しが、次の詩の裾野を広げ、深めることになるのだと思う。

1881

すぐれた詩と
しあわせな詩は違う

すぐれた詩は
たくさんの人に賞賛され

しあわせな詩は
書いた人にしっかり抱かれている

すぐれた詩を書きつづけることは
だれにでもできることではない

でも
しあわせな詩を書きつづけることは
そうしたいと思うなら
わたしにも生涯 できる

1882

人の活躍を見れば気持ちは焦る。自分だけが停滞しているように思えてしまう。ただ、詩を書くというのはもともと、ひとりで好きなことを好きに書いていることだ。それ以外ではない。一見、停滞しているように見える時こそ、夢中になって書いている時期であったりする。

1883

秋の日の象皮色の滑(なめ)らかな道を
ころころと生首などを(おまえの首だ)
ひきずりながら歩いているおまえの気持はどんな気持か


書いたのは
渋沢孝輔さん

どんな気持ちか
と聞かれても
言葉には表せない

言葉にできないことは
無理して「これ」と すでにある言葉にしないのが
詩なのだな

1884

特別な才能を持っていて、常に賞賛されていれば、書き続けることは容易だろう。でも、たいていの人はそうではない。それにもかかわらず、多くの人は書きたいという純粋な欲望を持つ。特別な才能を持たず、生涯しあわせに書き続けることはできるだろうか。できるさ。誰のための詩かを見間違わなければ。

1885

長く詩を書いてきて一番幸せだったのはいつだろう。やはり書き始めの頃だ。自分が詩を書ける、というだけで嬉しくて仕方がなかった。自分の詩をこよなく愛した。どんな順番に並べれば人の胸に響くだろうと何度も並べかえた。まだ誰にも詩を見せていなかった頃。あの頃に戻って、また詩を書いている。

1886

どんなに詩が人に誉められたとしても、それはいっときのこと。最後は、書いてきた詩と二人きりになる。

ずっと詩を書いてきたんだなと思い出す。その時に、詩と自分が納得できて、うなずきあえるようになっていたい。そんな詩を書いていたい。その時々の評価にひどく揺れるのではなく。

1887

たくさんの詩人の詩を読むことも大切なことではあるけれど、やはり、好きで仕方がない詩人の詩を、繰り返し読んでゆくことの方が、詩作に結びつくと思う。

ひとりのさびしげな詩人は、あるいは一篇のすぐれた詩は、何度も読まれるために生まれたのだし、それを読む人に、自分は選ばれたのだから。

1888

詩を書いてゆくためには、
(1)その詩を慈しむように見る目と
(2)その詩を他人のように見る目が
必要なんだと思う。

(1)ばかりでは、ひとりよがりで進歩のない詩になってしまうし、

(2)ばかりでは、うまいだけの冷たい詩になってしまう。

1890

Q 詩は、人に認められないと書き続けることはできませんか。私は投稿欄に落ち続けているのですが。

A もちろん誰に気兼ねもなく、自由に書いていていいのです。ちなみにぼくも、投稿欄でたくさん落ちてきました。世間の評価よりもずっと大切なものが、詩とあなたの間には、あるはずです。ホントです。

1891

さまざまに書かれている詩の中で、その内のひとつとして、自分なりの詩をじっくり育て上げ、かすかにでも輝こうとする。それでいいのだと思う。

自分と違ったタイプの詩や、違った媒体の詩を敵視しても、何も生まない。

詩は多様であっていい。政治思想も宗教も、そうであるべきであるように。

1892

若い頃の悩みは、自分が詩を書いているのに、人の詩を読むとわからないものが沢山あるということだった。それはたぶん、詩はこう読むべきという決まりがあると思っていたからだ。でも、実のところそんなものはどうでもいい。私を必要としている詩だけを、自分の読み方で、好きに読んでいればいい。

1893

だれもかれもに詩を読んでほしいとは思わない。ただ、言葉にやけに嬉しくなったり、時としてひどく傷ついてしまう人には、詩というきれいなものがこの世にはあるのですよと、差し出したい。

教科書にはもっと多様な詩を載せてもらいたいし、町の本屋さんにはもっといろんな詩人の詩を置いてほしい。

1894

小学生の時に、国語の授業で詩を書くことになった。「思っているままを正直に書きましょう」と先生は言っていた。でも、正直に書いた詩なんてどれもつまらなかった。

歳をとって今思っているのは、正直に書くということの難しさと、たしかにそこには、表現の深さにつながるものがあるということだ。

1895

驚くようなことを
待っていても
詩はなかなかできない

驚くようなことを書いて
驚かそうとしても
読む人はさほどには驚かない

驚くほどもないことの中に
かすかな驚きを見出すと
驚くべき詩になる

1896

つらい時期があった。そんな時は自信なんてあるはずもなく、自分に何ができるかなんて考えもしなかった。ただ目の前にあることをこなしていた。将来何をしたいかなんて考えなかった。そんな余裕はなかった。歳をとって、また詩を書いた時、これがやりたかったのかと、詩を書いた手が僕に教えてくれた。

1897

詩は知っているんだなと、思う時がある。

ただひたすら詩に向き合って書いた詩は人に通じることがあるけど、妙な期待や欲を持って書き上げた詩は人に通じない。ひどい詩になってしまう。わかっていてもそんな詩を書いてしまう。

大切なのは、詩を書き始めた頃の純粋な自分に何度も戻ろうとすること。

1898

詩を読み慣れているから、詩が好きだから誤読をする、ということがある。

自分の感性のフィルターを通して詩を読んでしまうから、別の世界を勝手に広げて歩んでしまう。

最近考えているのは、誤読も才能の内、ということ。

詩を読むとは、そこに自分の詩を書き加えることでもあるわけだから。

1899

詩の締め切りがあって、書かなきゃと思いながら月日が経って、直前に腰を上げて作る。若い頃の僕はそうしていた。それでずいぶん失敗をした。最近は毎日何かを書くようにしている。締め切りは関係ない。詩の依頼が来ると、たまった断片を拾い上げて詩として送る。それが僕に合った創作方法だと知った。

1900

アドバイスをすると、そのアドバイスにそって詩を書きかえてくる人がいる。気持ちはわかるけど、大抵その詩は迷走を始める。アドバイスに揺れすぎないことは大事だ。作者であることの厳かさと、詩との密な関係を忘れてはいけない。詩と作者は一体。人が簡単に分け入ることはできないはずだ。私の詩だ。

1901

自分なんかにたいした詩が書けるわけがない、という気持ちはずっとある。人の優れた詩は、どれも奇跡のように感じられる。あんなの書けるわけがない。

でも、とある日気がつく。自分の知らない自分がたまに詩の中にいる。詩を書いていれば、知らない方の自分が奇跡的な詩を書いてしまうかもしれない。

1902

会社をやめてから、人と会っても渡せる名刺がなくなってしまった。もともと何者でもなかったのに肩書きだけがあったのだから。

自分が何者かを人に示せないって、さっぱりしていていい。あなたの前にいる見たままのそのままの老人です。それしかない。それでいいと思う。その位置からなら詩が書ける。

1903

もっと沢山の本を読んで生きてくれば、今とは違った詩が書けただろう。でも僕は本を読むのが遅いし、よほど面白くなければ飽きてしまう。中途半端な人間だと思う。ただ、中途半端な人も詩は書ける。なぜ自分はダメなんだろうという真面目な思いは、人の心に触れようとする指先から遠くない所にある。

1904

先日の座談会でのテーマの一つが、いつまで詩の投稿を続けるのかということ。僕は同人誌を始めた時に投稿をやめた。決意したというよりも、同人誌のことで頭がいっぱいになっていて投稿はもういいかという感じだった。人それぞれの気持ちの問題だから納得してやめた方がいい。結構大切なことだと思う。

1905

自分にはわからない詩がある、ということで悩む必要はない。

自分にわかる詩が、自分にとっての詩なのだと思えばいい。それでなんの不足があるだろう。

ただ、それまでまったく知らなかった人と、ある時からぐっと親密になることもある。詩も同じだ。

だから、好きに読んで好きに書く。それだけだ。

1906

夏になるとテレビは、海で遊ぶ若者の映像を流す。でも僕はかつて、そんな若者であったことが一度もない。真夏でも部屋で本を読んでいた。それが心地よかった。当たり前だけど、いろんな若者がいるわけで、生き方は人を真似る必要はない。生き方も詩も、自分が決める。年頃に応じたことなんて関係ない。

1907

始めてすぐに見事な詩を書く人もいる。でも、皆が皆そうではない。多くの人はいつかたどり着く「私らしい詩」のための、長い助走のような詩をずっと書いている。助走から卒業できるのが何年後かは、わからない。助走のままで終えるのも美しい詩なのだと最期に思うのも、一篇のかけがえのない人生だ。

1908

すぐれた詩を読んでいると、むしょうに詩が書きたくなる。だからというわけではないけれども、いつもいろんな詩を読んでいたい。

すべては読むことから始まる。

もちろん「書く」ために「読む」わけではない。でも、読んでいれば胸をうたれる詩に出会えるし、出会えばわたしの詩で返事をしたくなる。

1909

自分の詩には進歩がないな、と思うことってある。でも、進歩をするためにするべきことをしているだろうかと思う。すぐれた詩は毎日、いろいろな場所で書かれている。それらをきちんと探して、受け止めて読めば感動をするし、それを繰り返していれば書く詩の幅も広がってくる。それが進歩なのだと思う。

1910

韓国と比べるわけではないけど、詩は日本でもっと読まれてもいい。詩を書いている人は決して少なくないと思う。でも、多くの本屋の詩のコーナーへ行くたびに愕然とする。読めば心動かされる詩人はもっといるはずなのにと思う。それほどには売れなくても、置いておいてほしい詩の雑誌や詩集は、ある。

1911

詩を読んだ時の感動とは、驚きと言い換えてもいい。この時、詩の内容が奇想天外だからと言って、読み手の想像の内である限りは驚きにはならない。逆に日常べったりの内容であっても、切り口の新しさは驚きになる。つまり、詩の内容の奇異さではなく、読み手の受け取り方との差異の大きさが感動になる。

1912

かつて、これまでの詩の言葉をコンピュータに記憶させて、何らかの手法と論理によって「詩」を出力するということが試されていた。

あれはどうしたろう。もしかしたら、どんなに進んだ手法を発見したところでムダなのかもしれない。

真の芸術とは、地味な人にいつものやり方で作られてゆく気もする。

1913

ありふれたことをありふれていないように書く、というのは詩のあり方だ。
ところが、ありふれたことをちょっと考えただけで、それを発想だと思い、ついありふれたままに書いてしまう。
手放す前に、さらに深めるべきではないかと、もう一度考えてみることが、ありふれたところからの素敵な距離になる。

1914

うわっつらの正直さではなくて、とことん正直になると、見えてくるものがある。

人との付き合いにしても
詩をつくる時にも

1915

好きなものから離れる、というのはそのものを外から眺めるよい機会なのだと思う。ぼくは30代ですでに詩が書けなくなった。それで長い間、詩作から遠ざかっていた。その間に湧き上がったさまざまな思いが、その後の詩を多少なりとも深めてくれた。むしろ、好きだから手放す、ということがあってもいい。

1916

ちょうど詩が書けなくなった30代の半ばに、ぼくは「東京詩学の会」で人の詩にアドバイスをするようになった。人のことどころでないのはわかっていた。でも、どんなに努力してもつまらない詩しか書けない人の気持ちが、いやになるほど理解できた。ぼくは、まるでぼく自身に語りかけているようだった。

1917

ぼくは人生の一番頭脳が活発な時期に、詩が書けなかった。本屋の詩のコーナーを避けるように生きていた。その頃に思っていたのは、詩のことなんかではなく、なんとか家族と生き抜くことだけだった。目の前の、詩的でも何でもないことにきまじめに取り組むこと。それがまさにぼくの詩への通路になった。

1918

自分はどうしてこんな詩しか書けないのだろうと、絶望ばかりしていた。いつも同じような詩しか書けなかった。自信なんかこれっぽっちもなかった。人の詩がまぶしくてしかたがなかった。それでもいいのだと思えたのは、ずっと歳をとってからだ。これまでの絶望の数が、今の僕に詩を書かせてくれている。

1919

詩はいろんな書き方があっていい。だから、これはぼくの書き方ではあるのだけど、言葉の意味をそのまま使って、地味な詩を書いてゆきたい。あくまでも言葉は、言葉そのままの意味を尊重して、その枠組みの中で表現の可能性を求めて行きたい。それが自分に合っていると思うし、たぶん最も困難だから。

1920

人生の成功者にはなれなくても、ささやかに住む場所があり、閉じこもりたいときには扉を閉め、ふんだんに詩を読み、思い出したように詩を書き、とぼとぼと雪道を歩いて郵便ポストに入れに行く。

そんな人生を理想として、若い頃のぼくは考えていた。

成し遂げたかもしれない。ほぼ。

1921

詩を書いていて気をつけているのは、「自分はすごいだろう」という気持ちが、かすかにでも詩に出ていないこと。

誰が人の自慢なんか読みたいと思うだろう。

自信のない僕のような人ほど、自慢してしまう。

知っていることなんて何もない、というところからしか真っ当な詩は書けない。僕の場合には。

1922

詩を読む時に「この詩について感じたことを書いてみよう」と思って読むと、いつもより深く理解できるのはなぜだろう。

なんとなく読んでいる時には、表に出てきていない「本気の読み」が、我知らず現れるからなのではないか。

そしてこの「本気の読み」は、自作の詩に繋がってゆくような気がする。

1923

ぼくは若い頃に、突然詩が書けなくなりました。絶望しました。でも、そうなってよかったのだと、今では思っています。

詩を書くべき時期は、自分では決められない。

焦ったってどうにもならない。

書ける時がくれば、書く。

そうでなければただ素直に生きてゆく。

なんの違いがあるわけではない。

1924

詩を書いていると、思うようにならないことや、がっかりさせられることがある。そんな時に考えすぎてしまうと、詩を書くことがいやになってしまう。

だから常に思い出したいのは、生きていると「あっ、これを私の言葉で詩にしたい」と思う瞬間が、あるということ。

その瞬間だけは純粋に信じられる。

1925

むろん「サークル村」とは時代も社会のあり方も違うけど、森崎和江の本を読んでいると、自分が今やっていることに似たにおいも感じる。日常そのものが坑内にいるような時代の息苦しさの中で、詩に手を伸ばし、時に小さく集まり、静かに話をしてゆこうとする。そういえばぼくは、筑豊生まれだった。

1926

ある一人の優れた詩人を思う時
その詩人が秀でているのは
「詩に対する愛情の深さ」と
「詩に対するきまじめな取り組み方」に
よるのではないかと
思ってしまう

いえ
もしかしたら矢印は逆向きで
秀でているから
そのような姿勢と態度が
とれるのかもしれない

1927

詩を学ぶ
というのは
こうであるべき
というものを知ってゆくことではないんだ

詩を学ぶ
というのは
こうであるべき
というものから自由になってゆくことなんだ

書きたいことを書きたいように
書く

強靭なひとりよがり
が理想だけど

それが一番むずかしいんだ

1928

文学に携わってきたわりには本をあまり読んでこなかった。若い頃はそれが恥ずかしくて、読んだフリをして会話をしたこともあった。でも結局、本当に面白いと思えるものしか読み通せない。それでも詩は書けると感じたのは歳をとってからだ。中途半端であることの悲しみを、ずっと書いてきたのだから。

1929

一冊の新しい詩集を手に取る時、その詩集はたいてい僕の掌の中でうつむいている。自分がどのように読まれるのか恐くて仕方がないのだろう。ページをめくってゆくごとに言葉の動悸が聞こえる。真面目に恐がれることのすばらしさ。その熱量をもれなく受け取るために、僕は詩集を原初の感性で読み始める。

1930

ぼくは老人だから
それほど遠くない日に
この世界には いなくなる

そんな
ぼくがいなくなった空間は
空っぽのままにしておいてくれても
むろん かまわない

でも
朝日が射す椅子の座面には
ぼくの書いた本が置いてあり

ぼくの占めていた空間を
代わりに埋めてくれている

それでもかまわない

1931

詩を書くのなら
使う言葉を一つ一つ
吟味して
磨き上げ
いつくしむように
置いてゆく

まずはこちらからその言葉のところまで
出かけて行って
「ぼくの詩に入ってくれますか」と
頼んでみる

だからぼくの詩の中の言葉は
どれも分けへだてなく
まんべんなく愛されていて
ゆったり
加わっている

1932

詩を書く
というのは
だいそれたことではなく

わたしはここに生きている

思いながら
生きていることだと
思う

1933

ひとつの詩を書き終えると、その余韻が次の詩を書かせてくれる、ということがある。

私の中に、ともかく詩の水を通してしまう。するとその水が流れている内に自身で澄みきってきて、それが溜まって次の詩ができてくる。

詩のところへ行くための詩、ということだ。いきなりまともな詩なんて書けない。

1934

詩を書いていると、幸運にもたまに採りあげてくれたり、反響があったりする。でも、それもいっときのこと。結局はほっとかれる。詩を書くというのは、ほっとかれることなのだと思う。ほっとかれるから自分の奥底へ思う存分入り込める。その奥底に、たまにわかってくれる人がいる。不思議だ。

1935

今さらではあるけれども、詩を書く時には、せめて自分から出てきた言葉で書きたい。

よくあることを、よくある言い回しで、よくあるような詩にすることに、ぼくはなんの価値も見出さない。

幼くてもいい。簡単でもいい。ともかく自分から出てくる言葉が、長く見れば、詩を確実に育ててくれる。

1936

ストレスを感じない状態で、裕福で、上機嫌にゆったりと詩を書いている。そんな人はめったにいない。

仕事のことや家族のことで、ひどく悩み、焦り、あたふたしている中で、なんとか時間を見つけて、情けない状況で多くの人は書いている。そんなにまでして書いてもらった詩は、幸せ者だと僕は思う。

1937

「何も望まずに
自分に書けることだけを
書いていよう」


わたしはときどき
思い返す

そうすると
不思議なことに
たまに
自分を超えたものが
書けることがある

だから
ではないけれど

「何も望まずに
自分に書けることだけを
書いていよう」

1938

長いあいだ勤め人の仕事をしてきた。定年になって仕事をやめ、時間ができた。

その時間はまず、一緒に住む人とのきめ細やかな生き方につかいたいと思った。より多く話をし、一緒に外にでかけ、ともに過ごした。

それでもまだ時間は残っているから、そこで静かに詩を読み、書くことだってできる。

1939

生涯、素敵な詩を書き続けられる息の長い詩人になりたい。

それが無理なら、目を見張るような詩集を一冊残したい。

それもむずかしければ、奇跡のような一篇の詩を作りたい。

それさえ大変なら、心に残る一行を、生きているあいだに見出したい。

たった一行を探す人生であっても、全然かまわない。

1940

詩を書かなければといつも焦った気持ちになっているのなら、どこかがおかしくなっている。自分を見つめ直した方がいい。詩はもちろん、書きたいと思える心が書かせてくれるものだ。そんな当たり前のことを忘れてしまってはいけない。焦る気持ちになることは、僕だってわかりすぎるほどにわかるけれど。

1942

余計な力が入ると
わけのわからない詩を書いてしまう

だから
「ちょっとした詩」を書こうと思えばいい

指でつまめるほどの
小さくてささやかな詩でかまわない

その
小さくてささやかな詩
こそが

詩を書くという大きな喜びを
与えてくれ

読んだ人が生涯
心にしまってくれたりもする

1943

詩を書いてゆく道筋はたった一本ではない。僕も若い頃に、投稿を沢山したけれども栄誉は得られなかった。それでも詩を手放さなかった。ある時点で人に評価されるところとは別の場所でも、詩を読み、書いて行けると思ったからだ。詩とともに生きるその道筋は多様だ。自分に合った場所を見つけることだ。

1944

投稿して認められたい、詩集を出して賞をとりたい、という気持はわかる。人だから。

でも、それらはしょせん派生的なものでしかない。

もっと手前にある「詩を読んでうっとりし、詩を思いついてドキドキしながら書く」というところにこそ、ほんとの詩のありかがある。

それを忘れると苦しくなる。

1945

商業誌には、時にかなり難しい詩が載っている。言うまでもなく、その詩が難しいという理由だけで拒絶すべきではないし、かといってそれなら難しい詩を書けばよいのか、というものでもない。作者が手を伸ばして掴んだ表現の震えが、結果としてそのように現れた。だから、ひたすら詩行の奥に目を凝らす。

1946

長く詩を書いていると、なんだかいやになってしまうことがある。気がつけば、しじゅう人の詩と比べてばかりで、あげくに感情がひどく揺れている。そんなのおかしい。そんな時はもちろん元の自分にもどる。まわりを遮断してひとりに戻る。よく見れば、独りきりではなく、私の詩がちょこんとそばにいる。

1947

発想というのは
ある日
どこかから降ってくるものでは
なくて

ひたすら自分の中を
掘り進めて行ったところから
現れてくるのではないかと
思う

奥底から
頭をもたげてくるものだ

だから
新しい詩を書こうと
思うなら
よそ見をせず
あくまでもいつものやり方で
いつもの詩を書き続けることではないか

1948

私には何もないから
一篇の詩を書き終えると
どうやってこれが書けたのだろうと
不思議に思う

もう詩なんか書けるはずがないと
思ってしまう

それでも
しばらく経つと

書き終えた詩が私にやってきて
手を引いてくれて
次の詩の方へ一緒に行こうとする

私には何もないから
ずっとその繰り返しだった

1949

よく聞かれるのが、改行詩と散文詩はどのように書き分けるのですか、という質問。よい質問だとは思うのだけど、そういったところに、詩を書くことの楽しみがあるのではないだろうか。一つの詩を、改行詩と散文詩の二様に書いてみて、じっと眺め、自分でその答を、ワクワク感じてみることだと思う。

1950

どんな詩も、自分の好きなように読んでしまっていいのではないか。目の前の詩から、どれくらいその魅力を享受できるか、それだけを考えていればよいのではないか。作者の手元を離れれば、詩はもう読者のもの。自分だけがつかむことのできた感動を、生涯勝手に握り続けていてもいいのではないか。

1951

自分とはまったく違ったタイプの詩を受け止めることはむずかしい。けれど、嫌悪感や違和感を抱く、ということ自体の中にも詩作の根がある。無理をして好きでもない詩人の詩を読む必要はない。ただ、そこに何がしまわれているかを知らずに過ごしてしまうのはもったいない。詩の多様性を見つめていたい。

1952

ぼくにとって詩というのは、上からものを言うことのない、威張っていない文学です。いつもぼくたちのすぐそばにあります。誰にでも手の届く表現です。何をやってもうまくいかないと思っている人こそが、詩を深く読むことができ、書くことができます。不思議で、長く愛すことのできる文学です。

1953

高校生の時、学校へ行くふりをして、神保町の大きな本屋へ行っていたことがある。そんなに登校がいやだったのか。自分の精神がどこまで追い詰められているかを、行動が教えてくれた。詩集のたくさん並ぶ本棚の前で、ずっと立ち尽くしていた。あれから半世紀も経った。詩集は何も言わなかったけれど。

1954

たぶん、赤ん坊がこの世で初めて吸い込む空気の濃さのようなもの。

私にとって、生まれて初めて詩を書こうとした時の気持ちが、もっとも尊い。

あれからずっと詩を書き続けているのは、あの時の心に、少しでも近づきたいから。

1955

私の書く詩が
どれほどのものかなんて
わからない

たぶん
ずっとわからないままなのだろう

ただ
ディキンソンも朔太郎も
私も
詩のある場所が不意に見えて
あっ

手を伸ばす時の震えに
違いはないのだろう

ディキンソンも
朔太郎も
こんなに地味でとりえのない私も
同じ喜びを持っているなんて

1956

自分の目で詩を読む。余計な情報は遠ざけて、目の前の詩と二人きりになって、自分の目だけでよしあしを判断する。仮にその時に良い詩を見落とすことがあったとしても、長い目で見れば、それが詩との一番真摯な付き合い方だと思う。評判を追うのではなく、自分にとっての切実で優れた詩を見極めてゆく。

1957

なくしものをした時は、あっちこっち探しに行かないで、ここにあったはずだという所を、もう一度丹念に探してみることなんだ。

詩も同じ。何を書いてゆくべきかを見失った時には、いろんな人の詩にキョロキョロしないで、もう飽き飽きしている自分の詩を、もう一度丁寧に掬い上げてみることなんだ。

1958

いくら詩を書いていても、その詩が褒められることなんて、普通はない。だから、たまにちょっと褒められただけで、有頂天になってしまう。悲しいほど単純で弱々しい心のあり方だ。でも、そのうちいつもの状態にもどる。ヒトリキリでただ書いてゆく。みずから書いてゆく。ただ書いてゆく。それが詩作だ。

1959

詩を書いていて、楽しいならそれでかまわない。でも、気がついたら書くことが苦しくてしかたないと思ったら、一度詩を閉じて、立ち止まる。なぜ苦しくなったのかを自分に問うてみる。苦しむために書くって、やっぱり変だ。自分を変だと思ったらもう一度、書き始めた頃の自分にもどる。もどろうとする。

1960

言葉や詩に惹かれる、というのは一つの資質であることは間違いない。別に威張るほどのことではないけど、誰でもが持っている能力ではない。人のなにげない言葉に、時にひどく傷つくのも、言葉や詩に鋭敏であることの証でもある。傷ついた心が、ひるがえって途方もなく美しい詩を生み出すことができる。

1961

ちょっとした気持ちの揺れで、自信を全部なくしてしまう日って、ある。何もかもがうまくいかない。そんな夜に、すがるように読める詩集をあらかじめ持っておきたい。自信を持つとか持たないとか、そんなことはどうでもいい。全てを忘れて没頭でき、次の日へ、ともかくも手を引いてくれる言葉たち。

1962

日々はあわただしいし、心配事に満ちている。そんな中で、やっと見つけた自分の時間に、集中して詩を書く。つらいけど、それが「詩を生きる」ということだと思う。もっと時間があれば、もっと心に余裕を持てればと願いはする。でも、さてそのようになったら、かえって何も書けなくなるのかもしれない。

1963

考え方の問題だと思う

「自分には、あの人たちのようなきらびやかな才能がない」

考えるか

「自分の中のすべてのものは使い放題なのだし、ゆったりと、楽しみながら、私を伸ばしてゆくことができるのだ」

考えるか

1964

ぼくが言いたいのは単純な事だ。生まれてきたのだから生きようよ、言葉を話せるんだから美しく伝えようよ、ということ。

言葉は詩に流れ込み、詩はぼくに流れ込む。

人に勝つとか、人より上に立つためではなく、単に自分をこの世に、あるがままに残すための詩を、生涯求めて生きようよ、ということ。

1965

例えば詩を書いている時に
家族に急な用事を頼まれたのなら
ペンをそこに置いて
用事にしっかり時をあてよう

用事がすんでから おもむろに書かれる詩は
自分だけのための詩よりも
厚みを増すだろう

重要でない経験が 時に
詩に血液を与える

私たちの書く詩には
私たちの
あらゆる時が折り込まれる

1966

学んできたこととか、影響を受けたこととか、好きな詩人の詩とかを、参考にしてもかまわない。でも、詩を書くときには、いったん全部忘れて、この頭ひとつに湧き出てきたもので書いたほうが、僕の場合ましな詩になってきた。

強引に書こうとして書いた詩よりも、書けてしまった詩が、ぼくの詩なのだ。

1967

ある日、ある時
むしょうに詩が書きたくなる

詩を書いていると
思いもしなかった言葉が自分から出てくる

そのような経験を
詩を書いたことのある人なら
誰でも持っている

そしてその胸の高鳴りは
かつて
萩原朔太郎も
同じように持ったものだ

詩の衝動の前に
立つ時
私たちは
朔太郎になっている

1968

詩を書くこと自体に喜びを見出すのならば、書けてしまう詩にとことんこだわってよいのではないか。欠けたところの多い不器用な詩であっても、見つめ合い、生涯携えてよいのではないか。誰のでもない「私の詩」なのだから。このような詩を書いてしまうことには、避けられない理由があるはずなのだから。

1969

読む人の心に
引っかかりを持ちたいと思って
詩を書く

帽子かけのために
壁に釘を打つようなものだ

けれど私の詩は
誰の心にも引っかからない

肩を落として帰ってくる

だから私の心の中には
はるか先まで 等間隔に
たくさんの釘が打ってあって

ひとつひとつに
帰ってきた詩がぶらさがっている

1970

詩を書く、という行為の前では誰もが平等だ。ものを作ることの同じ喜びを持つ。むろん出来上がった詩に上手い下手はある。不器用な詩しかできない人もいる。でも、そんなことは大したことではない。上手い下手は、書くことの喜びの先のちょっとした枝分かれでしかない。詩作の喜びを、抱いて生きよう。

1971

最後に大口をあけて笑ったのは
いつだっただろう

最後に人前で泣いたのは
いつだっただろう

最後に喉いっぱいに叫んだのは
いつだっただろう

忘れてしまった

けれどそのかわり
わたしは毎晩 詩を書いている

そこで
泣き
笑い
叫び
目を輝かせて生きている

詩って
そういうものでもあると思う

1972

「毎日詩を書いているけど、なんだか無駄なことをしているのじゃないかと感じる。どうせわたしが書くものなんて、と思ってしまうことがある。人の詩ばかりがまぶしく感じる。」

それって、正常だと思う。

まぶしくはなれない詩でも、書きたいと思ってしまう自分を信じて、書き続けていいと思う。

1973

時々
思い出そう

人と比べられるために
ぼくは生まれてきたわけではない

人の詩と比べられるために
ぼくの詩は生まれてきたわけではない

1974

詩を書いていると
そのつもりはなくても
つい
自分は優秀なのだということを
示したくなってしまう

そうなると
本来 書きたかったことが
見えづらくなる

自分のことなんかどうでもいい

詩のために詩を書く

切ない自慢を取り除けば
残された言葉たちが
詩をその大きさで
精一杯輝かせてくれる

1975

失敗作を発表してしまうと
自分が情けなくなる

でも
失敗作を作ってしまう
というのは
その詩だけの試みをしてみたことの
証でもある

ほどほどの詩を書こうなんて
思わなかったから
こんな詩になってしまった

失敗作の書ける詩人で
ずっとあろうと
思う

1976

詩を書こうなんて思わずに、その日一日過ごして、少しでも心を動かされたものを書き記しておくだけでいい。書いておかなければその日は全部どこかへ行ってしまう。あっと思ったことや、泣きそうになって押しとどめたこと。一日の間には感情が何度も揺さぶられているはず。それを箇条書きでいいから。

1977

詩を書くことが苦しいなら
まずは立ち止まってみる

遠くの方から
自分の姿を見つめてみる

苦しい思いをしてまで
続けるべきことなのか
考えてみる

いったんやめて
さっぱりしてみるのも
立派な選択だ

真に詩を
必要としているのならば
何度やめても
詩の方からまたやってくる

1978

詩はそれぞれです。詩を書く人もそれぞれです。違った人が違った詩を書きます。当たり前です。誰もがそれぞれの内のひとつです。詩を書く人は、雨降りの中の雨粒一つ一つです。詩を読み、詩を書く喜びはそれぞれの中に、それぞれのあり方で在るはずです。ほかの雨粒とは比べられないものなのです。

1979

詩を書いていると自分に限界があることを知る。誰にでも限界はある。でも、限界があるというのは悪いことばかりではない。限界に背をもたれて限界をも愛おしむ。どうしたって自分には限界があるのだから、その限界を見つめて仲良くしてみる。それが限界とうまく付き合って詩を書いてゆくことだと思う。

1980

生きていれば複雑なこともあるだろうけど、もともとの「自分はなぜ詩を書きたくなるのだろう」というところに、幾度も戻った方がいい。

夢も、欲望も、仲間も、付き合いも、いろいろあるだろうけど、いったん全部忘れ去って、自分をひとりに戻して、その場所でただ書きたいことを書いていければいい。

1981

若い頃は、図書室にいるのは好きだったけど、実はあまり本を読んでこなかった。好きな作家や詩人はいた。時たま読んでうっとりできていれば、それで充分。本を沢山読んでいる人をすごいなとは思うが、自分はそういうのとは違うとわかっていた。歳をとっても変わらず、好きなものだけを好きな時に読む。

1982

つまりね、好きなことは無理しない。無理している時点で「好き」から遠ざかっている。無理しないでも、やるべきことは夢中になってやってしまう。だから詩に熱中することはあっても、無理に読んだり書こうとしているのではない。ただ読みたいから読み、書きたくなるから書いている。それでいい。

1983

詩が書けなくなる時って、たいてい、すごい詩を書かなければと、思っている時だ。

まして、誰よりもすごい詩を書こうなんて思ったら、何も書けなくなる。

そういう時は、自分はすごくなんかない、ということを思い出す。

なにものでもないから書ける詩、でよかったんだ。

最初に書いた詩のように。

1984

人と違ったことなんて
思いつくわけないし
書けるわけはない

人と同じことを
どこまで丁寧にこだわれるか
ということが
自分の詩につながり

それが
人と違ったことを思いついたことに
なるのではないだろうか

1985

つくづく思うのは、日々、たくさんの優れた詩が書かれているということ。それぞれの場所で、それぞれの人が、思いの丈を詩に込めているということ。
だから、わたしはただわたしの詩を書いていればいい。人よりも秀でようとか、目立とうなんて考えるよりも、自分の書く詩をひたすらにいつくしむこと。

1986

たった一語の選択が
その詩が読者へ伝わるかどうかを
決定することがある

その微妙な加減を
真剣に見極めることが
どんな詩作の中心にもある

ただそれは
決して読者におもねることでもなく
書きたいことを抑えることでもない

時に
読者の存在を無視した詩作が
もっとも深く
読者に繋がることになる

1987

分からない詩があるのは当たり前。すべての詩が分かり、感じ入ることのできる人なんてどこにもいない。そういうものだ。

自分の腕が抱ける詩をしっかり抱いていればいい。

分からないからといって反感を持ったり、逆に、妙に畏れたりすることはない。分からない詩は、そっとしておいてあげればいい。

1988

詩を書く人には、人とのコミュニケーションがうまくとれない人が多いように思う。

独りぼっちになりがちな人だ。

だから詩の方へ向かって行くのだとは、単純には考えられない。

むしろ、詩とのそれほどの熱い接触があるから、人とは中々近づけないのかもしれない。

独りぼっちではないということ。

1989

昔、ぼくの詩について書いてある文章を読んだことがある。詩論とか詩人論とかおおげさなものではなく、何かのついでにちょっと触れてくれていた好意的な文章だ。それが生涯、僕に勇気を持たせてくれた。この人はぼくの詩をわかってくれているという嬉しさ。よいと思う詩はそれをちゃんと伝えてゆこう。

1990

ぼくは決して、有名な詩人の有名な詩を否定するものではない。深く打たれてきた詩もたくさんある。ただ、有名な詩人だからといって、そのままありがたく読む必要はない。自分の感性を通過させてから決めてゆく。人それぞれの読みの向きがあってかまわないし、人それぞれの詩人全集や詩史があっていい。

1991

この詩はいいな。どうしてこんな気持ちにさせてくれるのだろう、と思う。この世のあらゆるものに柔らかく触れてみたくなる。つま先立ちでそっと生きてみたくなる。

子供の頃に、教科書の詩を読んでそう感じた。

歳をとっても、詩を読めばあの頃の自分になる。今日も詩を読もう。自分を生きるために。

1992

子供の頃は、詩が書けることにただ夢中で、こんなに楽しいことがあるだろうかと思った。沢山書いて、これはよくできたとか、これはだめだなとか、自分なりに判断して、また明日も書けるのだと思えば、嬉しくて仕方がなかった。

詩を書く時に戻りたいのは、あの頃の気持ち。そうしていれば間違いない。

1993

歳をとってくると、詩はひとりで書くものではないと感じる。うまく動かなくなってきた肘や指を、ぼくでないもうひとりの人が持ち上げてくれて、一緒に詩を書いている。66歳で詩に戻ってきてからは特にそう感じる。詩も評論もふたりで書いている。詩の話も、一つの口からふたりで考えながら話している。

1994

詩を書く方法というのは書き終えてしまうときれいに忘れてしまう。だから次の詩に向かうときは何もわからない所からまた始める。

こういう手法で書けば必ず詩ができる、というのはあると思うし、見つけてもいいと思う。でも、必ず優れた詩ができるなんて手法があったとしたら、それはもう詩ではない。

1995

つまらない詩というのは書かれる意味はあるのだろうか。

あると、僕は思う。

僕も山ほど書いてきた。つまらない詩を書こうと思って書く人はいない。書いている間は、何ものかになるのではないかと信じている。その間は幸せにさせてもらった。結果としてだめだった自分を、責める気にはならない。

1996

詩がダメになって、むざんに詩から離れることになるのは、悪いことばかりではない。

自分は特別ではないのだ、という大切なことを知ることができる。

さらに、いつかまた書き始める時には、詩の世界の内側の目だけではなく、詩の外からの、遠いまなざしも持つことができる。

1997

人よりも秀でていることなんて何もない。

あきれるほどに、ありふれている。

そうであるならば「私が書く詩」というのはなんだろう。

小利口にこの世を言い当てることか。

そうではない気がする。

何もない、すかすかの私をさらすこと。

空っぽの私を通り過ぎる風の音を、ただ詩に注ぎ込むこと。

1998

もしも詩が自分のために書かれるものであったとしたら、「優れた詩」とはなんだろう。

なぜ誰もがうまい詩を目指してしまうのだろう。

詩の世界でのうまいとかヘタだとかとは、違った場所にも詩はありえると思う。

悲しいほどの「独りよがり」をつきつめた所が、私の詩のあるべき場所のように思える。

1999

詩を書きたいな、という気持ちの時があって、でもいざ書くとなると何を書いていいのか見えてこない。そんなことって、ある。そういう時はひたすら自分に正直になって、「何を書いていいのかわからない」と書く。するとその行が、書きたいことへの道筋を作ってくれる。詩が、書くことを見つけてくれる。

2000

自分なんかにたいした詩が書けるわけがない、と思うことって、ある。そう思ってしまうと、書くのがいやになる。

でも、もともとは「自分なんか」といういつも引き下がってしまう心が、詩に惹かれた理由だったのだと思う。

「自分なんか」という所から見える思いや風景を、しっかり書いていればいい。


初心者のための詩の0書き方 2001章から」

2001

教養や知識をふんだんに持っている人は、それを後ろ盾にして詩を書くことができる。そのような詩は、誰にでも書けるものではないから意味がある。でも、教養や知識のあまりない人が詩を書いてはいけない、ということはない。ないならないその場所に、その人だけの切実なものが満ちてくる。それを書く。

2002

まるで
わたしのために書かれたような詩
というのが
たまにある

詩は
書き手と読み手の手が
しっかりつながった時にだけ
生きてくる

だから
どんなに心を込めて書いた詩も
ほとんど
素通りされてしまう

それでもかまわないと思う

その向こうに
震えながら拾ってくれる人が
いるかもしれないから

2003

詩作は、人と比べてどうかではなくて、自分の中でどれほどまっとうできたかに、かかっているのではないか。

きれいごとに聞こえるかもしれないけど、それを忘れずにいることは大事。

もしもこの世に一人だけで生きていたとしたら書いただろう詩を、思い出すように、たんたんと詩を書いていたい。

2004

人によって才能は違う。器用さも違う。詩をうまく作れるかどうかというのも、人によって違う。

ただ、詩とともに、詩と一緒に仲良く、機嫌よく生きてゆくことは、誰にでもできる。その人が望むなら、誰にでもできる。

詩と見つめ合って、これでよかったと思えるような付き合い方は、誰にでもできる。

2005

初めて知らない人から詩集が送られてきた日、僕は震える思いでページをめくった。

初めて自分の詩についての感想を読んだ日、僕は僕の中に一段深まった気持ちがした。

初めて詩を書く人と喫茶店で待ち合わせをした日、僕は一睡もできずにその瞬間を迎えた。

忘れまい。詩とのできこと。

2006

人の詩を読んで、つまらないところばかり目につく時は、自分の詩にもイライラしていた時期だった。

人の詩を読んで、よいところがしっかり見える時は、自分も少しずつ素敵な詩へ近づこうとしている時期だった。

そうだった気がする。

2007

詩を読むということは、自分の詩と似た傾向の詩人だけを読むことではない。自分の詩と対極にある詩人の詩を無視し、貶めることではない。かといって、さまざまな傾向の詩をバランスよく読んでゆくものでもない。今、惹かれている詩人から繋がってゆく方向へ、ひたすら導かれてゆくことだと僕は思う。

2008

いつもと同じような発想で、同じような詩を書いたのに、たまに、傑作ができてしまう、ということがある。人からの感想をもらって、やっとそのことに気づく。傑作は、作ろうとしてできるものではない。日々のありふれた詩の中に、まじって現れる。どこか遠くから、ささやかなご褒美が与えられるように。

2009

最初から「詩の入門書」を出そうと意気込んでいたわけではない。定年になって、あとは好きなことができるなと思った。でも放っておいてもなかなかやる気が出ないから、詩の教室をやって、自分を少し追いつめた。そうしたら教室で、気がついたら本一冊分の話をしていた。少し自分をおいつめてみること。

2010

詩を書く、というのは人からあてがわれた仕事ではない。自分で歩いて行って、つかみとったものだ。そのことの厳粛さを忘れまいと思う。であるからこそ、できうる限り自分の感覚に正直にやってゆこうと思う。やりぬこうと思う。人の感想を軽く見るつもりはないけれど、さらに守り抜くべきことがある。

2011

詩を書く喜びには二つある。
①詩をつくりあげる喜び。
②詩が評価される喜び。

気をつけなければならないのは、②の方のことばかりに気持ちが向いてしまうこと。何のために詩を書いているのかわからなくなる。

基本は①。どんな時も①に戻って詩を作ろうとしていれば、幸せに詩を書き続けられる。

2012

この世界のどこかに、僕に似た心持ちの人がいて、僕の詩を心の奥深くまで染み込ませるように読んでくれているのではないか。

詩を書いているとそんなことを考える。

むろん空想でしかないけれど、詩を書くっていうことは、その人のため息に耳をすませ、その人のつらさを感じることではないだろうか。

2013

詩が好きで自己流で書き始めたけど、こんなんでいいのだろうか、と悩んでいる人がいる。もちろんどんな自己流かが大切。でもほとんどの詩人は最初はそんな感じだったのだ。商業誌の詩とずいぶん違うと感じたって気にしない。自分の詩は自分の詩。詩が好きならば、それこそが書き続けていいという理由。

2014

わたしの中には
まだ書かれていない詩が あって
でも内気だから
外に出てきてくれない

わたしはたぶん
ひとりではない

わたしなりの可能性と
ともにある

2015

人の詩に夢中になれる人が
いつか
人を夢中にさせる詩を書ける

そう
思う

詩をつくる
とは
詩を読んだ感動を
わたしの手に乗せて
涙ながらに 次の人へ
受け渡すことでは
ないだろうか

2016

いろんな詩があっていいと思うけど、ぼくが目指すのは「さあ読むぞ」と、わざわざ気負い込まなくても読める詩だ。

ただでさえ、みんないろんなことで疲れているのだから、詩を読んで疲れたくはない。心に何の負担もかからなくて、短くて、たくさんの空白に包まれていて、読む人の心に届いてくれる詩。

2017

どんな詩人になりたいかを想像しながら、詩を書いていればいい。

今日明日の願いはなかなか叶わない。

でも、ずっと遠くに見える「いつかなりたい詩人」の姿さえ、見失わないでいられるなら、そのうちに、そんな感じの詩人になっている自分に、気づく。

2018

詩はもっとわかりやすくなって読者を増やすべきだ、という考え方がある。

一方、詩は個人の感性の行き着く先だから、読者に寄り添う必要はない、という考え方もある。

どちらか、というものでもないと、思う。

私の感じ方が、真に奥底からのものであるならば、作品は自ずと、しかるべき読者へ届く。

2019

詩についての感想を書く、というのは、感想があらかじめあって、それを文章にする、というだけではない。

むしろ、感想を書く、という行為が、その詩をより深く読み解くことにつながり、書くことを決めてくれる。

つまり、感想を書くからその詩がわかり、わかった感想は、自分の詩作のためにもなる。

2020

詩は楽しむ。だから、好きな詩を読んでいればいい。読みたい詩人は自分の「読み」で決める。

ただ、自分の好き嫌いは鍛えてゆきたいと思う。停滞した好き嫌いでは、満足できない自分がいることも確かだ。

好き嫌いをみがきあげる、好き嫌いの精度を上げる、と言えば、矛盾しているようでもあるけど。

2021

どんな詩を書くか
ということも大事だけれど

まず何よりも
「詩を書く」という行為そのものを
好きでいたい

そうすれば
人の詩と比較したくなることもないし
今のままのわたしの詩でいいのだと
安心して書いていられる

わたしは今日も詩が書けるのだ

思えば
その時点ですでに
感動できている

2022

詩を書くとは

必死に生きる私の声を
今夜も もらさず聴いてあげること

だれにでも できて
だれにも できない

2023

ぶれずにいたいのは

だれかに勝つために
詩を書いているのではない
ということ

何かに勝つために
詩を書いているのではない
ということ

詩とふたりきりで
いること

それだけを忘れずにいれば
自分と 自分の詩に
誇りが持てる

2024

そのうちに死んで、閻魔様の前に引き出される。

「お前は生きている間、何をしていたのか」ときかれたら、どう答えるだろう。

「詩人でした」なんて、言えない。「わたしはずっとしがない勤め人でした」と答えるだろう。

「でも、美しい詩を山ほど味わい、充分堪能してきました」と、答えるだろう。

2025

人の よい詩を読むと
つらくなる

そんなわたしの
貧しい心がいやになる

でも そういう心って
誰にでもある

深呼吸をして
いつもより自分に
やさしくしてあげよう

この世には わたしに書けるわたしの詩がある

そのことの喜びだけに
生涯
夢中になっていられますように

2026

Aという有名な詩人の詩を読んで、こんなふうに分かりづらい詩を書こうと思う。

翌日、Bという有名な詩人の詩を読んで、こんなに平明な詩でいいならそうしようと思う。

そういうものではない。

自分が書ける詩というのは、最初の一篇からその姿が決まっている。それを見つめ、深めてゆくことなんだ。

2027

自分が書いた詩はかわいい。だから、自分には詩の才能があると思いたくなる。

でも、詩の才能のある人は、もちろん自分だけではない。日々、見事な詩がいろんな所で作られている。そのことをいつも忘れていたくはない。

人と自分と、バランスよく好きになることが大事。決して自分ばかりに傾かない。

2028

好きな詩人、というものにも段階がある。

これはうまいな、なかなかこうは書けないな、というのも確かに好きな詩人ではある。

でも、もっと直に、理屈抜きに私に深く入り込んでくる詩人というのが、人生にはまれにある。そういった詩人がこの世にいる、ということが、私が詩に関わってこられた源だ。

2029

毎日 詩を書いている
というのは
ある意味
毎日 自分の限界を見なければならない
ということでもある

悩み
がっかりし
ときにいやになり

それでも書くことに おずおずと
もどってしまう

その思いの揺れの ひとつひとつが
生きている実感であり

詩そのものよりも
詩 なのだと思う

2030

講演後、「まだ書いたことがないのですが、いつか詩を書いてみたい」という人がいた。書きたいと思うのなら、いつだって書き始められる。

懐に手を入れてみれば、今までなかったポケットが、小さく付いている。そこに君の言葉を入れてゆく。

たまった言葉の重みが、君の人生を、間違いなく深くする。

2031

ぼくはそこらにある言葉で詩を書く。いつもの言葉そのままで書く。言葉に余計な負荷をかけたくない。読む人にも無理をさせたくない。飾り立てたくない。自然でいさせてあげたい。それでも詩は書ける。いくらでも書ける。それがぼくの気兼ねのない命との見つめ合いだからだ。自分の書き方を信じている。

2032

詩に真剣に取り組もうとして一年ほどは頑張ってみた。でもいつのまにかまた書かなくなってしまった。そういう人は少なくない。それでもいいのだとぼくは思う。人それぞれの、詩との付き合い方があっていい。飽きっぽいのも愛すべき個性。自分をどこまでも許す。もう書くことのない詩に抱かれて生きる。

2033

勝野さんは20歳で交通事故で亡くなったけど
ぼくはこうして72歳まで生きている

でも
命は長さではなく
ずーっと遠くから見たら
みんな違いはないのかなと思う

それぞれの命は
それぞれの全体を持ち
はみ出しも余りもしない

ずーっと遠くから見たら
みんな同じ幸不幸の内で
必死になることができる

2034

歳をとったら、晩年の田村隆一のような詩が書きたいと思っていた。ところが、歳をとっても、相変わらずぼくはぼくの詩しか書けない。

あの人のような詩をいつか書きたい、と思う心は、でも意味がなくはない。人の詩を尊崇する気持ちのあり方が、自分の詩を多少なりともまっとうにしてくれる。

2035

詩を読み、書くというのは、本来それ自体が喜びであり、生きる方向へ向かわせてくれるものだ。

けれど気がつけば、この競争社会にまんまと取り込まれている。

誰よりもうまいとか へただとか
自分は負けたとか 勝ったとか

そういうのとは違う場所に、私の詩はあったはず。

それを思い出そうよ。

2036

詩を楽しむ、というのは決して自分をあまやかすことではない。

好きな詩人を強く抱きしめることであり、自分の可能性をほんの少しでも探してゆこうとすることだ。

だから、思うような詩がずっと書けなかったとしても、そのことにとことん向き合っている人が、真の詩人なのだと、ぼくは思う。

2037

生きている間ずっと、いつも感激屋であること。

何かというと胸に迫ってくるものがあり、すぐに泣きそうな気持ちになってしまうこと。

そこに一番重要なものがあり、それだけでもうなにもいらない。

なにもいらないのに、そうしていると詩ができてしまう。

詩ってそんなものだと、ぼくは思う。

2038

本屋さんも生活していかなきゃならないわけだし、仕方ないのだろう。だから小さく呟くのだけど、多くの本屋さんには詩のコーナーがない。ほんとに地味な片隅でいいから、日々の生活をまぬがれた空間として、真によいと思える詩集が、誰でも手を伸ばせるように、そっと置いてあってほしいと思う。

2039

詩を書いてどうなりたいかという目標を持って書き続ける、というのもあってかまわないと思う。

でもその前に、詩を書くこと自体を楽しんでいるかどうかを見つめてみよう。

人生、誰だっていろいろあるけど、詩人の目標といえば、書くことの喜びをきちんと受け取れること。それにまさるものはない。

2040

自分が書く詩というものは、どこか、自分ではどうにもならないものがあるのではないか。

わかりやすい詩を書くとか、難解な詩にしようとか、というのではない。

詩を書く以前の、この世への向き合い方が、詩のあり方を決めてくれるような気がする。

今書いている詩の方が、むしろ私を選んでくれた。

2041

なにもあんなふうに言うことはないのに

思うことはこれまでにも
幾度かあった

言葉というのは
「言い方」に
その人の知性や性格が 正直に出るものなのだな

ぼくだって
相手がどんなふうに受け止めるかを
深く考えずに言った言葉は
あった

言葉は言うものではなく
聞いてもらうもの

詩も同じ

2042

あまり人とのコミュニケーションが得意でない。だからひっそり独りで詩を書いてきた。そういう人は多いと思う。さらに集中して詩を突きつめてゆくと、いつか自分だけにしか書けない言葉の領域に、手が届くようになる。とことん突きつめた詩は、分かってくれる人がきっといる。詩の幸せはそこにある。

2043

詩作についての理論や方法は、一旦受け止めてみてよいと思う。ただ、その理論や方法に則って作り上げた詩は、最終的には読み手に受け止められるか、にかかっている。そしてその受け止め方は、理論や方法では掬えない隙間に満ちている。結局のところ、一篇一篇の詩の、詩を超えた奇跡を目指すことになる。

2044

目を向けるべきは自分の詩の方へ。たった一方向でいい。詩へ目を据えたら外をキョロキョロしない。うろたえない。書き終えた詩がどのように評価され、どんな扱いをうけるかを、作者はコントロールできない。できないことに心を配っても意味はない。自身を傾けるべきは自分の詩の方へ。それだけでいい。

2045

難しい詩は人に伝わらない。でも、簡単な詩も、実は人には伝わっていない。易しく書くために書いた易しい詩は、素通りしてしまうだけ。言葉ってへそ曲がり。だから言葉ってかわいいのだし、面白い。伝わりたがらない言葉に礼を尽くして、抱きしめて温め、自分の言葉になってから、詩に使わせてもらう。

2046

「人のちょっとした言葉で
悩み
ひどく傷ついてしまう」

そういう人の書く詩を
読みたい

「私にはもう詩は書けそうもない
何もないから」

そういう人が絞り出した詩を
読みたい

「ずっと自己流で書いてきた詩だし
人に分かってもらえるはずがない」

そう悩んでいる人の詩こそ
しっかり読みたい

2047

詩の上達についての明確な計り方というのはない。あえて言うなら、自分が書いている詩についてどこまで意識的か、というのが一つの指標になるのではないか。言い方を変えるならば、自分の詩を外から見る目を持っているかだ。むろん無意識にすぐれた詩を書く人もいるけれども、ともかく詩を外から見る。

2048

一篇の詩を作るために費やした熱情と時間は、必ずしも詩の完成度とは比例しない。簡単に書いた詩が必死になって書いた詩よりも優れている、ということはよくある。それでも、多くの思いを込められた失敗作が無駄とは思わない。能力の限りを尽くしても辿り着けなかったという経験は、詩の理解を深める。

2049

一人一人、別の人生を送ってきたはずなのに、いざ詩を書く段になると、人と同じような内容になってしまうことがある。自分だけが見てきたもの、聞いてきたことがあるのに、それらの枝葉を取り払って詩に書いてしまう。そこまで詩に遠慮する必要はない。枝葉が詩なんだ。言うほど簡単ではないけれども。

2050
詩を書く人と読む人の関係は不思議だ。

この詩は私だけのために書かれたのではないかと、思える奇跡的な詩がたまにある。

だから自分にとってピンとこない詩があっても、その詩をつまらないとは言いたくない。その詩にぴたりと合う読み手がいるかもしれない。

詩は、最終的には読む人が完成させる。

2051

詩を長く読んだり書いたりしていると、自分が真によいと思える詩や詩人を忘れてしまうことがある。人から薦められたり、評判がよかったり、有名であったりする詩がよいものだと思い、自分の感じ方を修正しすぎてしまう。自分の帰る場所を見失う。真によいと思える詩を、もっと単純に抱いた方がいい。

2052

若い頃に夢中になって詩を書いていて、限界を感じてやめてゆく人は多い。自分のダメなところばかり思い知らされた気持ちになる。歳をとって、また書き始めましょうと、簡単に言うつもりはない。けれど、あの頃に書いた詩にも輝きはあったはずで、またいつでも、今度は自分だけのために続きを書ける。

2053

人の評価を軽く見るつもりはない。上達の手助けになる。ただ、あまりにも詩を世間にさらし続けていると、傷つくことが多い。

思い出そう。人に見せなくても、詩は詩だ。

私らしくありたいから書き始めた詩だったはず。

私が私の詩を認め、私の詩が私をこよなく好きであった日。幾度もそこに戻る。

2054

詩を書くというのは、詩と自分のふたりだけの関係のはずだ。

それが時とともに、いろんな人がその関係の中に入り込んでくる。

人と比べて憂鬱になったりもする。

自分を豊かにしてくれる友人もいるし、楽しいことももちろんあるけれど、結局は、詩と自分だけに戻る。

自分の命としての、詩なんだ。

2055

詩を書いていると、自分よりも才能豊かな人が沢山いることを知る。

だから、少しでも追いつこうとする。

それはそれで大切だとは思うけど、しんどくなったら立ち止まってもいい。

あとは、自分の能力ときちんと付き合う。折り合いをつける。

飽きてはいても、私が書くべき詩はそこにしかない。

戻った場所に、追いつくべきものがある。

2056

詩を書くことは好きだけど人に見せるのは恐い、という人は多い。自分が書く詩に何の意味があるだろうと悩んでいるわりに、ちょっと誉められると有頂天になってしまう。

それでいいのだと思う。

まっすぐにものを書いて、正直に恐がっていればいい。

書きたいという思いだけを、迷いなく抱きしめて。

2057

詩は青春の文学だと、若い頃には思っていた。だから20代までの感性がすべてを決めるのだろうと。

でも、詩はそれほど単純にはできていなかった。一度やめて再び書き始める時には、それまで見えなかったものが見えるし、ぶつかっていたその先へ進むこともできる。

詩のお年頃は、自分で決められる。

2058

1989年の講演で、北村太郎さんは現代詩を三つに区分けしている。人生派、抒情派、芸術派の三種類だ。2022年になってもこの区分けは生きているのではないか。ほとんどの詩人はどれかに入れられる。もろん、どの派がすぐれているというのではない。どの派にもすぐれた詩はあり、分け隔てなく享受できる。

2059

ずっと詩のスタイルが決まらずに、毎月違った感じの詩を送ってくる人がいる。テーマもばらばらだ。それでも熱く書いているのだろうなというのは分かる。部分が輝いている。そういう人って、自分の場所が見つからないだけ。思いを途切らせなければ、いつか見つけだす。見事な詩人になれる。

2060

ぼくの詩にも個性はある。こんな詩をずっと書いてきたな、という感じだ。ぼくの書くような詩を好きでない人もいるだろう。その人の気持ちはよく分かる。それでも、その人の気に入るような詩なんて書けない。書ける詩はひとつきりだし、人の思惑とは遠いところで、さびしく湧き出してきたものだから。

2061

人の詩のダメなところに目がいくよりも、見事なところを気づけるようになりたい。それがどれほどに微かで、薄く見えづらい魅力であっても、だからこそ、あなたは実は素敵な詩を書いているのだと、おせっかいでも伝えていきたい。人を批判するよりも、人を正当にたたえられる能力を、いっぱい持ちたい。

2062

詩は分かち合う文学だと思っている。選ばれた少数の作者と多くの読者、そういう関係ではない。あちこちに、自らを十全に書き表せる人がいる。お互いの表現を尊重し、受け取り受け渡せる、そのような文学だと思う。詩にとっての有名無名にはなんの意味もない。まんべんなく書く人がいて、読む人がいる。

2063

不機嫌な人生ですぐれた詩を書いているよりも
機嫌よく暮らしながらつまらない詩を書いていたい

詩をつくるための時間がないと、だれかを責めるよりも
ない時間で書きとめた言葉に、わたしの命を込めたい

人に好かれるのを期待しているよりも
人を好きになる才能をあふれるほどに持ちたい

2064

基本的にはね
この世の空気を動かさずに
ひそりと生きていたい

だけど
詩を書きたいという気持ちは
なぜか湧いてきてしまう

それはどうしようもないし
書いた詩をわかってもらいたいという
つらい欲望も
実はある

沢山でなくてもいい
片手で束ねられるほどの読者が
いてくれますようにと
願いもする

2065

ある方法で詩が書けたとしても、その方法で書き続ければよい、というわけではない。方法や手法はあくまでもきっかけにしかならない。

詩が人に通じることはその都度の奇跡だ。奇跡的な通路を抜ける道のありかは、その詩だけが知っている。なんとか通り過ぎたとしても、次の詩作でまた迷うしかない。

2066

このところずっと縮こまって原稿を書いていたなと思う。たまには陽にあたってこようと、散歩に出た。

書くべきことというのは、ふいに空から降ってくるものではなく、私の縮こまりのどこかに昔から隠れている。

だから詩を書くとは、私の中に隠れていた私を見つけ出し、手を引っ張ってあげることだ。

2067

詩を書こうとしていて、でもいくら考えてもありふれたことしか思いつかないということがある。こんなの書いたって仕方がないと思ってしまう。

ただ、さらに考えていると、ありふれていないことを思いつくことはなくても、このありふれたことは書いてもいいのだ、という発見にたどり着くことがある。

2068

子どもの時に、詩というものがあるのだと知った。言葉が直にしみこんできて、わたしのぜんぶを揺さぶるものがあるのだと知った。

詩を読み、書くときに常に思うのは、あの時の恐いほどの喜びだ。詩がわたしに与えてくれるものはそれで充分。さらに何も望みたくはない。

2069

この人のような詩を書きたい、と思うことはある。表面をまねてやってみることはできる。でも、まねた詩はまねた詩でしかない。肝心な何かが足りない。

詩作の一番大切なことは、自分から絞り出したということにある。その不器用さと貧しさと幼さの中にこそ、詩の誇りと輝きは育ってゆく。

2070

ひとつの詩に
書きたいことをなにもかも書いてしまうと
なにを伝えようとしているのか
見えなくなる

だから
詩は
書きたいけど書かないところも必要

これは素敵なんだけど今回は書かないでおこう

我慢したことも
詩はその中で
しっかり伝えてくれる

2071

いくら気をつけていても、人だから、詩の中にちょっとした自慢が入ってしまう。それは自分を大きく見せたい心のしわざだから、叱って、削らなければならない。

詩を書いたら、あとで細かく点検する。微かにでも自慢しているところをなくす。

そうすれば詩は、少しはましになってくる。

2072

自分がわからないのだから、この詩はだれにもわからないだろう、という考えは間違っている。

自分がよいと思えない詩を、人がよいと思うのは許せない、という考えは間違っている。

真摯に学び正常に判断したのだから、自分の考えは正しい、というのがそもそも間違っている。

2073

ぼくは長いあいだ詩を読み、書いてきた。だからこそ思う。次に書く詩は、これまでに知ったどんなレトリックにも、効果的な語彙にも頼らず、裸のままで書けるものを書いていたい。それは「詩」という名前さえつけられないものかもしれない。ただここにある自分から出てくる貧しさそのものであればいい。

2074

一度書いたことを、また詩に書くことはできない。そう思っていた。

でもある時、一度書いたことを何度も書いている自分に気づく。

それも前に書いたことをさらに深める、というよりも、ずっと浅く書き直していた。

はてしない浅瀬の書き物を、なぜぼくは求めるのだろう。

今の関心事はそのこと。

2075

真に完成した詩は、その過程や枝葉はさまざまであっても、どこか、一本の単純な線が通っているように感じる。

現れは複雑であっても、その奥にまっすぐで嫌になるほどわかりやすい一本の線。

言い方を変えるなら、その単純な線が見えない内は、未完成の詩、あるいは詩ともいえない詩なのではないか。

2076

人と比べてしまって、ついうらやんだり、焦ったりする。

そういうのって、自分でもいやだなと思う。

でも、どうしてもそんな気持ちになってしまう。

詩を書いているかぎり、だれでもそうなんだと思う。

悟れない。

そんなもんだと思って、やってゆくしか仕方がないのではないかと、ぼくは思う。

2077

何も威張れるものがなくても

特に目立つところがなくても

自慢できることなんてなくても

頭が良くなくても

言葉をたくさん知っていなくても

自信なんてなくても

不器用でも

地味でも

人とうまく付き合えなくても

あがり症でも

気が小さくても

詩は書ける

詩だけは書ける

詩はぼくの土俵際

2078

やってみればわかるけど、詩を的確にほめるのは、けなすよりもむずかしい。

きれい、美しい、うまい、すごい、感動的、わかる、面白い、などの言葉を使わずに、どれほどそのよさを語れるだろう。

そのためには何かに喩えることになり、なるほど人の詩をほめることは、詩作そのものの訓練になる。

2079

例えば投稿欄に採られる詩が長いものばかりだったとする。しかし自分の書くものはとても短い。

そんな時、無理して長い詩を書こうとするのはむなしい。問題は「長さ」ではないはず。

一篇の詩が生きるその詩固有の長さというものがある。

それはあらかじめ存在していて、揺るぎないものだと思う。

2080

詩のよさは、あくまでもその詩一篇の立ち姿にある。

どのような傾向だからとか、
どのような思想に裏打ちされているからとか、
どのような人が書いたからとか、
などに拠るものではない。

もたれかかるものの何もない場所で、詩は密かに、こまやかに、作られる。

それでじゅうぶんだと思う。

2081

最近は書くことがないから詩を書かない、と思っているのだとしたら、もったいない。

書くことがあるかないかなんて、自分にはわからないはず。

書こうという思いを常に持って過ごしていれば、書くことは来てくれる。

書くことがないのではなくて、単に書こうとする姿勢を作っていないのだと思う。

2082

ぼくが書きたい詩は
失敗したら きちんと失敗したことが
わかってしまう詩だ

自分はダメだなと
苦笑いできる詩だ

とうぶん
立ち直れなくなるような詩だ

それでもしばらくすると
なんだかむしょうにまた書きたくなって

前のことなんかぜんぶ忘れて
またどうどうと失敗してしまう

そんな詩だ

2083

詩を書くためには
多くの言葉を知っている必要はない

むしろ
少ない言葉をどれほど慈しんでいられるかが大切

わかっていても
普段は使いもしない言葉を
つい
詩に書いてしまう

しばらくして読み直すと
とても恥ずかしい

なぜ詩を書いているのだったか

人に偉そうにするためでは
ないのだから


2023年

2084

詩人って、いつも傑作を書く人のことばかりをいうのではない。

むしろ、いつもはなんでもない詩しか書けないけど、10年に一篇、あるいは生涯に一篇でも、なぜか人の胸をうつ詩が書けてしまう人こそ、詩に、たゆまぬ願いを込めた、人間らしい詩人と言えるんじゃないかと、僕は思う。

詩は数ではない。

1月 06, 2023 3:56:03AM

2085

詩の投稿では、選者との相性というのは間違いなくある。選者は自分の、こうであるべきと信じる詩を選ぶ。しかし、それがすべての価値ある詩を網羅するわけではない。ぼくの教室の参加者の詩で、間違いなく傑作だとぼくが思った詩も、よそで、あっけなく落とされるということがある。そういうものだ。

1月 07, 2023 8:04:41AM

2086

詩作も、人との関係も、一番大切なことは同じではないかと思う。

自分が上位に立っているという立場からの言葉や、威圧感に満ちた話を、誰が聞きとろうとするだろう。

常に相手と同じ地平に立ち、自らの能力で行き着けた言葉を、真摯に差し出す。

詩作も、人との関係も、同じだと思う。

1月 21, 2023 5:10:31PM

2087

言うまでもなく、詩作のたどり着くべき場所は、みずからの内だけにある。誰かとの比較や、ジャンルの中の相対的な位置などではない。

自分が表現したいものに指がやっと届くとき、読む人に奇跡的につながることができる。

目指すのはそこだけ。ほかにはない。

1月 21, 2023 5:21:55PM

2088

わたしは詩を書く時によろこびを感じる。そのよろこびは、ほかのどんな感覚よりも確かなものであり、信じることのできるものだ。詩を書いてゆくことの真の意味は、その書くことのよろこびにしかないと思う。だから、それ以外のものを外に求めれば、書くことも、読むことも、生きることも苦しくなる。

1月 22, 2023 7:12:14AM

2089

こむずかしいことを言いたいから、僕は詩を書いているわけではありません。

自分はすごいだろうと、人に見せつけたいから、僕は詩を書いているわけではありません。

ただ細々と僕らしく生きてゆけるために、僕は詩を書いています。

詩を書いた分だけは、せめて幸せになろうと思いながら。

1月 24, 2023 5:31:44AM

2090

詩を読むというのは、書いた人の呼吸音に耳をすますことなのだと思う。たまに、わたしのような息をする詩人がいて、この人のものを読んで行きたいと思う。

詩を書くというのは、自分の胸の震えを文字に吹きかけることなのだと思う。だれの詩にも似ていない、わたしだけのしめりけを言葉に含ませる。

1月 24, 2023 5:45:21AM

2091

目を開ければ見えるものと
目を閉じると見えるものが
ある

たくさんのものを見たい時と
たったひとつのものを見つめていたい時が
ある

詩をずっと
書き続けたいと思うのなら
ひたすら目を閉じて
自分の詩の育ち方だけを
見つめていればいい

目を開けて
キョロキョロ余計なものを
見ないことなのかな

1月 24, 2023 9:30:13AM

2092

自分の考え、というのは自分にはなかなかわからない。だから、まず何か思いついたことがあったら、すぐに詩に書いてしまうのではなくて、もっと先へ掘り進めることが可能か、ということを探ってみる。その先に自分の真の考えがある。そうかそんなことを考えていたのかと知る。それを詩に書く。

1月 25, 2023 7:25:47AM

2093

詩が好きでよく読むし、感動をする。自分もこんなのが書けたら素敵だと思う。書いてみる。でも言葉は思いをきちんと表すことができない。ありふれていて、つまらない詩しか書けない。でも好きだからまた書く。あいかわらずの詩しかできない。

それでいい。心配しなくていい。みんなここから始まる。

1月 26, 2023 7:25:50AM

2094

好きで詩を書いている。自分なりに少しずつましな詩が書けるようになったと思う。よい詩が書けた時の喜びは他で経験することのできないものだ。でも、商業誌の投稿欄を見ると、自分とは全く違うものを目指した詩のように見える。

それでいい。自分が信じる詩を書き続ける。わかってくれる人はいる。

1月 26, 2023 7:57:52AM

2095

自分の書いた詩が認められない、というのはつらいもの。でも、そこは単に自分の詩に魅力がないのだと諦めるしかない。人の優れた詩を丹念に読み、自分に欠けているものは何かと、謙虚に繰り返し自問してゆく。そのうちに、人に微かに通じる言葉を得ることがある。ほかに近道なんてないと、僕は思う。

1月 27, 2023 6:21:03AM

2096

自分の書いている詩がそのうちなんとかなるのか心配だ、詩の才能があるかどうかもわからない、と質問されたことがある。

でも、将来を保証されて詩を書いている人なんてどこにもいない。それに、自分に才能があるかを確認できる人もいない。

みんな一緒だ。書きたくなる。確かなのはその一点だけだ。

1月 27, 2023 6:52:57AM

2097

ぼくにとって詩を書くことは、閉じられた場所での、たったひとりの作業のことだ。あくまでも自分が満足できるものを創造しようと試みること。できあがった詩が、外に出てどんな扱いを受けるか、評価を受けるかは、二次的な意味しかない。個室で、こつこつと言葉で建築物を作り続けること。それでいい。

1月 27, 2023 7:04:33AM

2098

自分の書く詩はつまらない、と感じることは大切だと思う。書いたものがそのまま人の胸をうつ、なんてことは通常ありえないのだと、思い出させてくれる。

つまらない、と感じたところから、詩の繊細な工夫が始まる。書かれた一行が人に辿り着くことの奇跡を、あらためて知ることができるようになる。

1月 28, 2023 6:07:29AM

2099

どんな詩人になるかは、自分で決められる。大抵、思っていたような詩人になれる。ただ、どんな詩人になったとしても、詩を書き始めた頃と何も変わらない。新しく書こうとする詩の前で、途方に暮れ、とっかかりを見つけ、作り上げる喜びに震える。詩人にさかい目はない。有名も無名も。だから詩は素敵。

1月 28, 2023 6:25:55AM

2100

僕が必死になって書いた詩は、いつの日か、どこかの木陰で、誰かに読まれて、何かを感じてもらい、その人が将来書く詩の、一行の破片のようなところにもぐりこむことができるかもしれない。詩は繋がってゆくんです。知らないだれかに、知らない時代に、知らない場所で、ひそやかに繋がってゆくんです。

1月 29, 2023 11:37:33AM

2101

詩を作るとは、こつこつと自らの内を掘り進めて行くことだ。でも、無自覚にただそうしていると、徐々に自己模倣の、魅力の失われたものになる可能性がある。

そんな時は、自分が詩を書くことの意味そのものを見つめてみる。心も体も、しばらく完全に詩の世界からはずして、外から詩を、新しく見る。

1月 30, 2023 9:56:01AM

2102

詩を書くことは、それ自体が無上の喜びだ。それなのになぜ、よりよい詩を書きたいと思うのだろう。恐らく、よりよい読み手に届けるためであり、よりよい読み手とは、よりよい自分をも含んでいるからなのではないか。よりよい詩を書こうとしているのならば、書くことは無上の喜びであり続ける。

1月 30, 2023 10:32:35AM

2103

生きていると、みっともない欲に自分を見失ってしまうことがある。そんな時は、詩とふたりきりになる。そういう時間を持つ。思い上がることもなく、へり下るわけでもなく、ありのままの自分と、ありのままの詩の、ふたりきりになる。ふたりきりになれば、どれほどお互いが大切であるかを、思い出せる。

1月 31, 2023 6:16:52AM

2104

自分には書くことがないとか、才能がないとか、人前で詩の話なんてできないとか、自分なんてダメだとか、軽々しく人に言ってしまってはいけないんです。

自分に何ができるか、どんな詩が書けるか、自分の能力ってどこまであるんだろうとか、そういうことって、普段の自分にはわからないものなんです。

2月 01, 2023 8:33:42PM

2105

自分には書くことがないとか、才能がないとか、人前で詩の話なんてできないとか、自分なんてダメだとか、軽々しく人に言ってしまってはいけないんです。

自分に何ができるか、どんな詩が書けるか、自分の能力ってどこまであるんだろうとか、そういうことって、普段の自分にはわからないものなんです。

2月 01, 2023 8:33:42PM

2106

詩というのは
だれに頼まれることもなく
自分が勝手に書いているものではあるけれども

また
特に秀でたものであるとは思えないけれども

みずからの思いを
みずからの言葉で表した
かけがえのないみずからのこどものようなものであるのだから

これを抱えていれば
生きてゆけると
思えるものではある

2月 03, 2023 6:00:28AM

2107

詩を知ったのは小学生の頃。目の前には詩という驚くべきものがあった。僕を夢中にさせてくれて、この世にこういったものがあるのなら、これからの人生を生きてゆけると思わせてくれるもの。願ってもよいのなら、その隅っこに自分の書いた貧しい詩をそっと置きたい。そんな思いしかなかった。忘れまい。

2月 03, 2023 4:29:26PM

2108

詩人というのは、自分で詩の仕事を作って、そこに全力を尽くすことが基本だ。たまに原稿依頼は来るけど、そういうものに頼ってはいけない。やはり根本は、自分の意志で自分がやるべきことを探して、自分の仕事をしてゆくということだ。誰に頼まれたのでもなく、自分がやむに止まれず詩を書くのだから。

2月 04, 2023 5:42:34AM

2109

詩を書いてゆくうえで一番大切な能力は何だろうと考えました。おそらく、人の優れた詩にひどく感激してしまう力ではないかと思います。優れた詩人、優れた詩を目のあたりにすると、半端なく打たれてしまう能力ではないか。その能力さえあれば、詩を抱きしめることができ、書き続けることができる。

2月 04, 2023 5:59:06AM

2110

どんな詩も、あらゆる読み手を感動させることはできない。だから、どんな読み手に伝わるように書くか、というのは大切なことだ。その時、自分という読者に向けて全力を尽くす、というのがやれることなのだろう。そうであるからこそ、自分を優れた読み手に育てることが、自分の詩を育てることになる。

2月 04, 2023 6:20:50AM

2111

詩を書いていると自分の限界にぶつかる。ダメだなと思う。でも、限界があるというのは悪いことではない。自分の限界に背をもたれて、もたれかからせて、限界をもいとおしむ。楽しむ。自分の限界の肩を抱く。仲良くなる。だったらどうしようと、考えられる。それが詩とうまく付き合うことなのだと思う。

2月 05, 2023 5:21:09AM

2112

詩を書けるというのはそれ自体が大きな幸せだ。その大きな幸せをただ受け止めていればいいのに、自分の詩が思うほど認められないことに不安になったりする。それはおかしい。詩を書けるという大きな幸せを意識して生きてゆきたい。それが本来の詩との接し方であり、ほかにはないのではないかと思う。

2月 05, 2023 5:29:46AM

2113

詩は危ういものでありたい。もしかしたら自分はどうしようもない、独りよがりのものを作ってしまったのかもしれない。そういった不安や恐さを抱えている作品こそが、せっぱ詰まったところで逆に人に深く受け入れられるのではないだろうか。危うさが、創作物の一番の魅力に変化するのではないだろうか。

2月 06, 2023 9:17:47AM

2114

詩は一部の有名な詩人だけが書くものではありません。誰にでも書けるし、書いてみれば自分が知らなかった自分を見つけることができます。

詩は、私たちのすぐそばにあります。何をやってもダメだなと自分で思っている人こそが、その思いを正直に書ける文学です。不思議で、すばらしい表現形式です。

2月 06, 2023 11:57:28AM

2115

詩の前では誰でも平等です。一篇の詩を書こうとする人は、何も持たずに詩と向き合えます。どんな地位も、学歴も、富も、血筋も、関係ないんです。誰でもが、生きているなら詩が書けるんです。今、自分がここに生きていることの不思議さを、そのまま書けば、詩はでき上がるんです。

2月 06, 2023 12:12:20PM

2116

生まれてきたのだから生きていようよ。言葉を話せるのだから美しく伝えられるようになろうよ。詩を書こうよ。でもそれは、決して人に勝つためではなくて、単に、自分をこの世に、あるがままに残すための詩を書こうよ。生涯それを求めて、書いていようよ。しっかりと、しあわせな気分で書いていようよ。

2月 06, 2023 12:18:34PM

2117

詩のよさというのは「わたしは今、生きているんだ」と、思い出させてくれることなんです。息をしていること、家族とこの時代を生き抜いていること、愛する人も自分もいつかはこの世からいなくなるということ。普段忘れている大切なことを、あらためて思い出させてくれるのが、詩のよさなんです。

2月 07, 2023 5:43:07AM

2118

詩はすぐそばにある文学です。空気のような、水のような、日差しのような文学です。言葉さえ知っていれば誰にでも書ける文学です。持たざるものがしっかり持つことのできる文学です。詩を読み、書くことの喜びは、もしその人が獲得したいと思うのならば、誰でも自分の胸に抱くことができるんです。

2月 07, 2023 5:51:22AM

2119

美しいものだけではなくて、醜いものも、弱いものも、みっともない行為も、恥ずかしい性欲も、貧しい心根も、あらゆるものの中に、この世にあるというだけで感動に結びつくものがある。そういうことを、朔太郎の詩は教えてくれています。僕らが詩に書けるものの範囲を、ぐっと広げてくれたんです。

2月 07, 2023 6:02:01AM

2120

毎日同じ時間に同じ坂道を散歩していると、とても地味でうつむき加減の女子中学生とよくすれ違う。するとなぜか詩が生まれてくる。坂道とその子が詩を与えてくれる。どうしていつも独りで俯いて学校から帰るのだろうとか考えてしまって、人全般の寂しさにたどり着く。その先に詩が待っている。

2月 08, 2023 7:45:13AM

2121

人が才能のある詩人ばかりに見える。自分の詩は思い通りにはならない。そんなことばかり考えていると、自分が壊れてくる。おかしくなる。そうなる前に、詩から降りてもいい。そうして真っ当な姿勢で自分をきちんと生き続けることの方が大事。では詩のかわりに何をしようかなんて考えない。ただ生きる。

2月 09, 2023 8:02:10AM

2122

人はなぜ詩を書きたいと無性に思うことがあるのだろう。いろんな欲はあるけれど、詩を書きたいという思いは本能とは少し遠いように感じる。むしろ、本能に揺らいでしまう自分を、少しでも外から見つめ、引き剥がすものであるような気がする。ぼくはぼくの、どこでもない所で、詩を書いている気がする。

2月 09, 2023 12:04:41PM

2123

「詩がわかる」という言葉ほどわかりづらい言葉はない。詩のわかり方は様々だ。詩によって違うし、読み手によっても異なる。どこかにたった一つの正解があって、そこへたどり着く行為ではない。読めば気分がいいというのも「わかる」だし、一行に不意に刺し貫かれるというのも、立派な「わかる」だ。

2月 09, 2023 10:45:43PM

2124

詩作で大切なのは、身構えないことだと思う。身構えて恐い顔をすれば、詩だって心を開いてくれない。いつもの自分を、そのダメなところも正直に出して、好きな言葉を一つ置いてみる。その言葉が手を振って他の言葉を呼んでくれて、小さな詩ができあがる。まずは自分が、読んでうっとりしていればいい。

2月 10, 2023 7:23:54AM

2125

書いた詩がけなされたら
「でも この人が言うほどひどくはないはず
あれだけ心を込めたのだから
それで伝わらないのなら
仕方がないさ」

思うようにしている

書いた詩がほめられたら
「でも わたしはわたしをただ出しただけなのだし
今さら思い上がるほどのことではない」

思うようにしている

2月 10, 2023 8:57:34AM

2126

言葉って、「そんなこと言われなくたって分かっているさ」ということでも、言われ方によっては、あらためて納得してしまう。

詩も似ていると思う。「そんなこと誰でも知っているさ」ということでも、書いてかまわない。自分の思いをしっかり言葉に入れ込めば、受け止めてくれる人はきっといるもの。

2月 11, 2023 11:10:57AM

2127

詩人には二つのタイプがある。

一つは、詩の〆切までは頭の遠くに詩を意識して何となく過ごし、〆切前日に一気に作る人。

もう一つは、いつでも詩を作るモードに入っていて、思いついたらどんどん断片を書いておき、最後によい所を拾い上げ、まとめる人。

自分がどちらのタイプかを知ることは大事。

2月 11, 2023 1:39:43PM

2128

生きることに
いつまでもシロウトでいること

同じ困難に遭うたびに
身もよもなくうろたえてしまうこと

立ち去られるのがこわいので
親友を作れないこと

ひとりなのに
もっとひとりになりたくなること

ほかにあっただろうか
詩を書きはじめた理由は

2月 12, 2023 7:46:41AM

2129

若い頃にはずいぶん投稿をしたけれども、あまり入選しなかった。だから、自分の詩は大したことないのだろうと思った。それでも書きたかったので書き続けた。そんな時、石原吉郎がぼくの詩を、複数の雑誌で採ってくれた。たいていの選者には落とされても、ひとりのかけがえのない人に通じることがある。

2月 12, 2023 11:29:54PM

2130

自分がどう感じるかなんて大した意味はないから、目に映ったものをただ丹念に書くべきだ、という考え方がある。

間違えてはいないけど、一方、どんな考え方にも、事前に縛られたくないとも思う。

こうしたら詩がつまらなくなるというアドバイスは全部忘れて、詩に向き合いたい。

私の詩なのだから。

2月 14, 2023 7:42:23AM

2131

「私は詩がわかる」
というのは
「私にはわかる詩がある」
ということだ

「私は詩がわからない」
というのは
「私にはわからない詩がある」
ということだ

それ以上ではない

だから
詩がわかる
という人は
じつは詩がわからない

詩がわからない
という人は
じつは詩がわかっている
安心していい

2月 14, 2023 4:41:37PM

2132

発想を得て書き記した言葉は、時に、そのまま放っておくといい。なんだろう、熟成してゆく、というのだろうか。数日後にその言葉を読むと、さらに発想が膨らみを持ってくれて、真っ当な道筋へ行ってくれる。思いついたらすぐに書いておく、それからしばらく放っておく。それが詩作のひとつの秘訣。

2月 14, 2023 4:57:00PM

2133

詩はだれに向けて書くか、と考える。よくある考えに、あるひとりに向けて書いた方が、より多くの人に伝わる、というのがある。焦点がぶれないからなのだろう。

ぼくはどうだろう。やっぱりぼく自身へ向けて書いている。けれど、そのぼく自身には、これまでの幾人かの大切な人が、我知らず入っている。

2月 14, 2023 5:17:37PM

2134

最近は詩を書いていないな、ということはある。でもそれって後ろめたく感じることではない。自分にとって詩が真に必要なものであるのなら、ある日、詩はまた普通の顔をして訪ねてきてくれる。万が一、そのまま詩を書かずに生涯を終えたとしても、かつて書いた詩は、君をじっと見つめ続けてくれていた。

2月 17, 2023 5:32:56AM

2135

若い頃に思ったのは「自分には詩の才能があるだろうか」ということ。でもそれって、考えたってわかるものでもない。それに、才能があるのなら書き続けよう、という単純なことでもない。才能なんて関係ない。書きたいわたしがここにいて、立ち向かうべき詩がけなげにもここにいる。それでじゅうぶん。

2月 17, 2023 6:53:40AM

2136

茨木さんは「茨木のり子の詩」を書こうなどとは思っていません。単なる「詩」を書こうとしていただけなのです。作品の無名性の尊さを、茨木さんの詩からいつも感じます。一篇は一篇としての自負心を持ち、作者の名にも「倚りかからず」。一見すごそうに見えない言葉を、すごい詩にできる詩人なのです。
2月 18, 2023 7:25:34AM

2137

トシヨリが往々にして言いがちなことではあるけれども、詩を書いてきたことをヨシとするかどうかは、人には決められないと思う。

人からのどんな賞賛も、批判も、所詮は一過性のものでしかない。

人生で詩を書いてきてよかったかどうかは、その詩の評価を含めて、自分が決めてよいと、つくづく思う。

2月 18, 2023 7:39:34AM

2138

長いこと詩を書いていると、だんだん汚れてくる。詩を書き始めた頃には、その時に書いている詩に血を通わすことしか考えていなかった。これを発表したらどんな評価だろうなんて考えもせずに、ひたすら創作に没頭していた。周りを何も見ずに作ろうとしていたあの頃の状態が、創作の正常な姿なのだろう。

2月 18, 2023 7:46:08AM

2139

詩を書いているだけなのに、人との比較ばかりするようなったら、病み始めている。詩を書くことを楽しむ。人と比べることによって苦しんでいるなんて変だ。そんな中でまともな詩が書けるわけがない。余計な情報は見ない。詩は、自分を悩ますものではなく、つねに自分を守ってくれるものであるはずだ。

2月 18, 2023 8:00:08AM

2140

大変な思いをして書いた詩でも、なかなか人に伝わらないものです。もしもたった一人でも自分の詩を喜んで受け止めてくれる人がいたら、奇跡みたいなものです。

表現というのは、容易に人に伝わるものではないということの絶望を、まずはしっかり抱く。

そこからの、小さな歩幅の一歩一歩だと思います。

2月 19, 2023 5:21:39AM

2141

時々、「わたしはこれまで、自分が書いた詩を人に見せたことがありません」というメールをいただきます。後ろめたそうにそう言ってきます。でもそれって、実はとても美しい態度であると思うのです。自分が書き、自分だけが読む詩、というのは、詩の本来のあり方だとも言えるのではないかと。

2月 19, 2023 5:46:05AM

2142

僕が最近、詩を書く時に心がけていることは2つ。

(1)書かれている内容に不明な部分が全くないこと
(2)読む人を無理に驚かそうとしていないこと

いつだって普通の語り口で、普通の声の大きさで、訥々と語ってゆくことです。
それで通じないのなら、どうしたってダメな詩だと思うからです。

2月 21, 2023 6:42:24AM

2143

この人はこんなに素敵な詩をなぜどんどん生み出すことができるのだろう、という人がたまにいます。

でも私はそうではない。なかなかうまく書けません。

ただ、うまく書けないからこそ、よい言葉を書けた時の喜びは大きいのだし、そんな喜びをこれからも沢山受け取ることができるのです。

2月 22, 2023 7:05:49AM

2144

どんなにへたでも
詩をひとつ書けば
わたしはここに生きている
ということの
アトがひとつ この世に残る

書くことで
だれにも迷惑はかけていないし
ただ書きたいという気持ちに
素直にしたがっている

ただ書きたいから書いている

それから今夜書いた詩を
ていねいにしまう

それが私にとっての詩

2月 23, 2023 6:08:16AM

2145

詩人っていうのはね、詩を書いている時だけが詩人なのではないんだ。目がさめてから夜眠りにつくまで、ずっと、すみからすみまで、びっしりと詩人であることなんだ。一日中、感性の窓を開け広げて、生きていることそのものから、言葉を抽出してゆくことなんだ。難しそうだけど、そうでもないんだ。

2月 23, 2023 7:35:34AM

2146

詩にとって難解か平易かは問題ではない。難解そのもの、平易そのもの、には何の価値もない。読み手にとって、難解・平易のその向こう側から、流れ着く感銘があるかどうかで価値が決まる。そして流れ着くかどうかは、作品の質と読み手の質に関わってくる。だから、詩を読むためのたゆまぬ学習は必要だ。

2月 23, 2023 5:59:06PM

2147

詩の評価とは、言葉に敏感な人が共通して持つ「優れた詩」というものの認識なのだと思う。それは今までにない大きな影響力を受け手に及ぼすもの。恍惚や安堵感や清涼感や驚きや、なにやかやであって、時代とともに変化して行く。好みは好みとして尊重したいけど、正当な評価というのも、大事な尺度だ。

2月 24, 2023 2:37:38PM

2148

ぼくの書く詩には昔から、煌びやかな形容詞も奥深い比喩もなかった。簡単な言葉で、風が吹けばすぐに壊れそうな痩せた詩だった。だからほかの人の詩と比べられると、すごく貧しそうに見えた。でもそれを変えようとは思わなかった。単純で簡単で骨組みだけの詩でも、ぼくのかけがえのない詩だったから。

2月 26, 2023 6:32:17AM

2149

当たり前のことだけど
自分以外の人によって
日々たくさんのすぐれた詩が書かれている

それを忘れて
自分の詩だけを見つめて
よいところを認めてもらいたいとばかり
思わないように心がけたい

ほんとに当たり前のことなんだけど
ヒトって往々にして
そうなりがちだ

目は内と外を
均等に見ていたい

2月 28, 2023 6:07:10AM

2150

これを書いたら人の共感を得られるだろうと予測して書いた詩はむなしい。見え透いてしまう。むしろ人がどう感じるかを気にせずに、真に思うところをありのままに書いた方が自分らしさが出るし、結果として、その方が伝わってもらいたい人にはきちんと届く。安易に伝えようとしないことが伝わることか。

3月 02, 2023 5:07:41AM

2151

僕らは、生きているという平面の上でただ右往左往している。みんなそうだ。そういう意味では人に偉いも偉くないもない。詩人だってむろん同じだ。偉い詩人も偉くない詩人もない。だれもが同じであることの、喜びと悲しみを書く。同じであることの「独り」を書く。それが詩を書く心の大元だと僕は思う。

3月 02, 2023 6:07:33AM

2152

詩をよりよく読むためにぼくがしているのは、

(1)詩人や詩に先入観を持たずに読む
ことと
(2)時間をおいて二度読む
ことと
(3)その詩についての感想を書く、という気持ちで読む

ことの3つだろうか。

そして実際に感想を書いてみれば、書いているあいだに見えてくる発見も、確かにある。

3月 02, 2023 7:34:47AM

2153

詩を読むことは必ずしもその詩全体を受け取ることではない。全体の意味がわからなくても、たった一行に打たれれば立派に読んだことになる。その一行をたずさえて生きていってかまわない。作者の意図するところとは違っていてもかまわない。詩を読むとは、読み手によってその都度作り変えられること。

3月 02, 2023 7:43:08AM

2154

雑誌に載っている詩にはとても難しい詩が多い。昔からそうだ。そんな、歯が立たない詩をどのように読むか、とたまに聞かれる。

一つだけ言えるのは、読んでみて、その詩が部分的にでも心に引っかかるものをもっているか、どこかにぐっとくるか、そこに気をつけていれば、その詩の価値が見えてくる。

3月 03, 2023 7:55:19AM

2155

実はぼくも若い頃には、有名な詩人の書く難解な詩と、自分の詩との距離の大きさに悩んだ。悩んだというより不思議だった。それがいつのまにか気にならなくなった。なぜだろう。わからなかった詩がおおよそわかるようになったわけではない。自分の詩が変わったわけでもない。ただ、気にならなくなった。

3月 03, 2023 9:31:14AM


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?