「同時代の詩を読む」(41)-(45) 野々原蝶子、嘉陽安之、高瀬二音、長谷川哲士、柳清水和歌子

「同時代の詩を読む」(41)-(45)  野々原蝶子、匿名氏、高瀬二音、長谷川哲士、柳清水和歌子

(41)

あらいもの                            野々原蝶子

洗い物をせず、眠ってしまっていた
部屋の静かさに目を覚まし
体を起こせば、午前一時で
このまま眠ってしまおうか、と思うものの
今日がちゃんと終わらないような気がして
(その上朝になれば「あーあ」と思うし)
私はスリッパに、足を突っ込む

人間だけでなく
調理器具やお皿やタッパーも眠っている
アパートの小さなキッチン
テーブルの上で私を待っていた
疲れて、お風呂にも入らず眠ってしまった子どものような
汚れている食器たちを抱いて運ぶ
階下の住人に悪いなと思いつつ
蛇口を捻れば
「なんだよ、もう」「せっかく寝てたのに」と
戸棚や食器かごの住人たちが
次々と、眠い目を擦り始めてしまった

昔はシャボンだまにしか使わなかった
食器用洗剤のにおいを嗅ぎながら
お皿が光るまで洗ってゆく
こうして汚れを洗い落としたり
床に落ちた髪の毛を拾ったり
洗濯物の湿り気に触れたりする
その、果てしない日々の繰り返しの中で
生きることは、汚すことだと知った
また汚す、と分かっていても
私はまた明日
お皿を洗うだろう
手指を伝う水の冷たさに
私自身も、洗われながら

午前二時、手を拭いてベッドに入る
横では、ぐちゃぐちゃになった毛布のように
夫が眠っていた



「あらいもの」についての感想                            松下育男

いつの時代にも二種類の詩があります。一つは言葉の可能性を求めて書かれる先鋭的な詩、もう一つは言葉はそのままに使って、生きている意味をひたすら問おうとする詩です。どちらの詩がよいとか悪いとかではなく、どちらにも優れた詩があります。

本日の詩は明らかに後者の詩です。書かれている内容はさほど珍しいことではありませんが、ひとつひとつの感じ方に胸を打たれます。

一連目に書かれているようなことは、だれしも経験があるのではないかと思います。うっかり眠ってしまって、でもまだやるべきことがあるのだったと思い出すという感覚は、確かに持ったことがあって、でもこの感覚を詩にした人はいないのではないかと思います。うまいなと思います。この感じ方を詩にしようとしたところが、この詩の発見であり、読み手がはっとさせられるところでもあります。

二連目の「汚れている食器たちを抱いて運ぶ」は何気ない言い方ですが、「抱いて」という言葉が入ることによって、モノや人に対する日ごろの接し方の優しさが感じられてきます。

三連目、「生きることは、汚すことだと知った」のところを読んで、ちょっと驚きました。確かにそんなふうに感じたことはこれまでにもあったし、この感覚はとても重要なものであるのに、ここも、こうして詩に書いたことはなかったなと、そんな驚きでした。

 野々原さんは、自分の感じ方を愛しているんだなと感じます。そしてそれが、詩を輝かせているのだと思います。

しっかりものを見て、しっかり自分で感じていればすぐれた詩になるということを、この詩は教えてくれています。

(42)

娘                    嘉陽安之


一年生の娘は
時間割は
どこにも
貼らないくせに

給食の
献立表は
冷蔵庫に貼って
毎日眺める

カレーライス
スパゲッティ

おいしそうな
焼き肉チャーハン
韓国風肉じゃが

ビスキュイパン
かぶのレモンじょうゆあえ

宿題をやってるのかと思ったら
献立表に
色鮮やかなマーカーを引き
たくさんの星を描き

献立表が
プラネタリウムになる

「今日もおかわりしたよ!」って
うれしそうに
帰ってくる
黄色い帽子を輝かせて

きっと毎日
遠足に行っているんだ
星空に
シートを引いて
友達と先生と
ビスキュイパンを
笑いながら
ほおばって

娘は
大きくなっていく

楽しい時間を
なんども
おかわりして



「娘」についての感想                松下育男


せっかく日曜日の午後なのだし、今日はむずかしいことは考えたくはない。やっかいなことは両手で向こうに押しやって、今は好きな音楽を流して、しばしゆったりした気持ちになって詩でも読もうか。

 そんな時にちょうどよい詩があります。「娘」という詩です。数日前に「詩の通信教室」に送られてきました。

それにしても、「娘」とはなんともぶっきらぼうなタイトルに見えます。でも、詩を読んでみればわかります。余計な形容詞やごたごたした修飾語をつけずに「娘」、それがもっともこの詩に似合っていることを。

まずは最初の二連を読んで、あまりのかわいさに笑ってしまいました。そうか、そんなことをしているんだ、と思えば、この娘さんが冷蔵庫に献立表を貼っている手の甲の膨らみまで見えてきそうです。

 そのあとの、献立表にマーカーを引いているところもいいし、うれしそうに帰ってくるところも申し分なくかわいらしく感じます。

 これ以上解説をする必要のない詩です。読んでいれば嬉しくなるし、穏やかな気持ちにもなれます。

 今日は何をしなければならないか、ではなくて、なにをしたいかで行動をしてみようか、とあらためて思いもします。僕にとっての献立表は何で、僕にとっての線引きとは何だったか。

最後の「楽しい時間を/なんども/おかわりして」も、とても軽く終っていていいなと思います。

 ところで、つらいことが押し寄せてくる毎日に、読んで嬉しくなる詩だけが集まった詩集があるのならば、すぐにAmazonで買うのだけれど。

(43)

「いのちの朝」                            高瀬二音

朝日の当たる屋上
病棟で見かける痩せた人の声がする
全てに構わず
東の空は巨大な腕を振るい
今日の恵みに地上の全てを連れ去る

そういう光景を見た気がする

顔いっぱいの朝日
いのちを身体になすりつけるように
腕をまわし 腰を反らせ 念入りに
人が
体操をしている

背後から
おなじ朝日をあびて
縦縞の寝間着の背中を見た
そういう 朝があった

今日を生きる背中の よれた寝間着
一人きりの掛け声
なすりつけたいのちは どうしただろう



「いのちの朝」について                          松下育男


これは病院の屋上で患者が体操をしている、という詩です。

それだけの情景を描いているのですが、読んでいるとさまざまな考えにとらわれます。

朝日という、ものみなに命の輝きを与えてくれるもののただ中で、命の不調を直そうと努力している人が動いているという図です。少しでも健康を取り戻すための体操は、病いでない人がする体操よりも、命について多く考えながらなされているのかなと思われます。

どうせ詩を読むのなら、この詩のように、詩行に朝日がしっかり当たっている詩を、気持ちよく読みたいものです。

ところで、だれもが気付くと思うのですが、この詩には部分的にとても引きつけられる箇所や行があります。

一連目の、朝日が差すことを「地上の全てを連れ去る」と解釈するところは新鮮であると思います。

また二連目の「いのちを身体になすりつけるように」の一行は秀逸です。体操をすることをこのように表すことができるとは、なんとも見事な感じ方であると思います。おそらく、この一行の魅力を作者自身も気付いているためだろうと思うのですが、最終行にも同じ表現が出てきます。通常ひとつの詩に同じ発想を書くと陳腐化するものですが、ここは問題ないかと思います。

また最終連の「今日を生きる背中の よれた寝間着」の「よれた」はよいところに目が行っていると思いますし「一人きりの掛け声」というのも、どこかひとりで世界に対峙しているような、それでいてなんとも寂しげな様子がよく出ています。

そしてこの詩で一番好きなのは、なんでもない表現ですが、「顔いっぱいの朝日」の一行です。目を閉じて、あたたかみを顔いっぱいに受けているところを思えば、そこから詩は自然にあふれ出してくるだろうと思います。

それがこの詩です。


(44)

役者の恋                          長谷川哲士

紙で作った靴穿かされて
車に無理矢理乗せられて
ドライヴドライヴハイスピード
紙の靴なんて牛乳パック改造よ
臭くてぬるぬる
奴は此処で降りて歩いて行けと
言い腐った深夜のウォーキング
どこかで肉を焼いてる匂いがするよ
どうやって歩けと
行く先は何処なのだ苦しみはとこしえか
破れた靴で歩いて行く
ずるずる足の裏まですぐそこだ
底が消失した靴で荊道なんざ歩けませんよ
おい何とかしろよ
噛みつき不倫で悪いか俺名役者だぞ
あなたに恋をしただけだ
会社まで辞める必要はないよ
もう何年続いたのかな
お前熟女キャバクラで働くまでになり
俺は国宝役者のままフカッとした絨毯の上
ふらり六方踏むだけよンベンベンベンベンベンベンンッ
ぅよおおおおおっ
道ならぬ恋なんて有る筈も無くなんて勘違い
意識は飛ばされ未完の渦巻き星雲に
チューッと吸い取られ
僕俺儂と出世魚の如く一人称を変容させて
挙句の果てには儂から鷲への突発変容
遠くの空越え突き抜けて高速最高速再々高速
摩擦熱摩擦熱熱いよう
発火しながら飛行する鷲
入れ物の無い意識は笑いながら鷲と合一しようと
速く速く燃える飛ぶ追い越し合うふたつ
塵芥に成っても成りたくなってもどっちゃでもいい
とにかく行く
宇宙が見える
目ん玉の風景
両手の小指のみ震えているぷるぷる



「役者の恋」についての感想                  松下育男

長谷川哲士さんは二回目の登場。毎月詩を送ってきますが、仮に作者名が書かれていなくても、すぐに誰の詩かわかります。詩の隅々まで長谷川さんが行き渡っているのです。今月はどんな詩を送ってくるのだろうと、毎月楽しみにしています。

長谷川さんの詩を読むと、(ぼくを含めて)今の多くの詩が縛りつけられている束縛やしがらみから、自由になっているように感じます。

今月の詩も相変わらず面白いです。外しません。ぶれません。好きなように書いています。

長谷川さんの詩は、ユーモアがあると言うよりも、その底に溜まっているかなしみが、泣き笑いになって顔に出てくる、そんな笑いのように感じます。

 歌舞伎役者が会社員の女性と恋に落ちて、不倫をした、という内容のようです。モデルがいるのかどうかわかりません。それはどうでもよいです。

「噛みつき不倫」というのがなんなのかもうひとつわからないけどおかしい。実際に相手に噛みつくような動作をする不倫なのか、あるいは噛みつくほどに、ハタを見ずにまっしぐらに向かった勢いのある不倫なのか。これもどちらでもいいようです。おかしいのだから。

「熟女キャバクラ」のところで声をあげて笑ってしまいました。何か、言葉を持って来る意識の所に、研ぎ澄まされたセンスを感じます。

読んでいて気分がいいのも長谷川さんの詩の特徴です。独特のリズムです。誰の詩にも似ていないように感じます。

後半の
「僕俺儂と出世魚の如く一人称を変容させて
挙句の果てには儂から鷲への突発変容」
のところも、単に駄洒落に収まらない、もっと深みからくる人生そのものを感じさせてくれます。不倫を描いた詩ですが、どこか近松門左衛門の、道ならぬ恋の世界を連想させます。

それにしても、牛乳パックで作った靴を履いて不倫行へ向かうなんて、いったいどこから思いつくものなのか。牛乳パックの靴を履いたことはありませんが、内側のぬるぬるの感触がそれなりに感じられてくるから不思議です。

ともかく毎月、とんでもなく面白いことを考える人だなと、長谷川さんの詩を読むたびに思います。

(45)

貸してあげる                  柳清水 和歌子


今日 泣いた人に

大きくてやわらかくて

吸収性のよいハンカチのような

私の二の腕を貸してあげる

振り袖のように大きいから

たくさん泣いても大丈夫

全部 受け止めてあげる


今日 楽しくてうれしい人には

今日の出来事をまるまる

保存できるような

私の空っぽな頭を貸してあげる

たくさん教えてちょうだい

楽しさも喜びも

すべて一緒に覚えておくよ


ねえ だから

今日 居場所がみつからない私を

ほんの少しだけ

そばに置いてくださいね



「貸してあげる」についての感想                      松下育男

この詩は、読めばちょっと笑えて、そのあと優しい気持ちになることができます。ですから、クリスマスイブに紹介するにはちょうどいいと思いました。

この詩を読んでいると、詩ってそんなに複雑にしなくても、読む人にきちんとよいところが伝わるものなんだな、ということがわかります。つまりは、作者の思い入れの見事さと純粋さが大事なのかなと思うのです。

最初の連では、泣いている人に二の腕を貸してあげるとあります。普通、泣いている人にはせいぜい掌を貸すくらいですが(掌も貸さないか)、この場合はよっぽどの悲しみの量なのでしょう。それにしても、人の二の腕に向かって泣くって、どんな気持ちのものなんでしょう。よくぞこんなことを考えるな、と思います。そして、よい詩と言うのは、この「よくぞこんなことを考えるな」と思われる詩に多いように思います。

二連目は一連目と同じ形式で、今度は人に頭の空間を貸してあげるとあります。これもおかしい。「私の空っぽな頭を貸してあげる」は見事な発想です。自分の頭の中を空っぽと言いきる。なんとすがすがしい態度でしょう。確かに、何も入っていない空っぽな頭を持っている人が、一番幸せなのかもしれません。空を見ればそのたびに、いっぱいの空が頭にどくどく入り込んでくるのでしょう。

そして三連目は、立場が逆になって「貸してください」ということになります。二の腕と頭を貸してもらって、「ほんの少しだけ/そばに置いてくださいね」と言われれば、断るひとはいないと思います。もしも相手が恋人でなくても。

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