「現代詩の入り口」19 ― 言葉っていつも新鮮なものなんだなと感じたかったら、柳本々々を読んでみよう

「現代詩の入り口」19 ― 言葉っていつも新鮮なものなんだなと感じたかったら、柳本々々を読んでみよう

本日は柳本々々(やぎもと・もともと)さんの詩を二篇読んでみようと思います。では最初の詩から。

「ソファーが来るまでの待つような会話」  柳本々々

青いソファーがくるという。ソファーがくるなら、部屋に空間をつくらないとだめだよね?と聞くと、くうかんってなんのこと? と言う。だってあれだよね、椅子を抱いたひとびとが出入りするし、おおきくてながい椅子がここをとおってこうしてここをまがり、そこにいくわけでしょ、どうしてそんなすごいことしようとおもっちゃったんだろう、なんか、くらくなってきた、とわたしは言う。すごいことって、くらくなるよ。
いや、でもね、すごいことってなんどもなんどもくるでしょ? ハッピーなこともラッキーなことも残酷なことも凄惨なことも。すごいことがなんどきてもふつうの顔して自転車のったり爪を切ったりハンドクリームつけたりしなきゃならないわけでしょ? そんなすごいことでいちいち暗くなってたらいきてけないわよ。そうでしょ。
そうだね、とわたしは言う。そうだね、でもね、そうなんだ、とわたしは言う。そこで黙ってしまう。わたしにはソファーの話もすごいことの話もうまくできない。チャイムが鳴る。 わたしたちが反応しないのでもう一度念を押すように鳴る。たぶんそのうちドアが激しく叩かれる。  

「ソファーが来るまでの待つような会話」について

部屋にソファーが来るという事実があって、でも、普通の人はその事実から、ここに書いてあるようなことは思いつきません。この詩では、部屋にソファーが来るという事実から、ではソファーを置くための空間が必要だということを考えています。この道筋がまずとても面白いと感じます。そのあとで、空間と言ったら、聞いた相手が「くうかんってなんのこと?」って聞き返すのもなんとも意表をついています。ここも、普通の人はそういう道順で考えません。つまり、柳本さんは思考回路が人と違うのです。

それから「すごいことって、くらくなるよ」とか、「すごいことがなんどきてもふつうの顔して自転車のったり爪を切ったりハンドクリームつけたりしなきゃならないわけでしょ? そんなすごいことでいちいち暗くなってたらいきてけないわよ」、なんて、なんというか、

悩みの本質を見ているというか、
悩んでいるヒトの気持ちのざわめきが見えているというか、
人生が分っているというか、
悟っているというか、
悟った振りをするのがなんともうまいなとか、

とにかく柳本さんの感じ方こそが「すごいこと」に思えてくるのです。

非常におおざっぱに言うと、柳本さんの書くものの魅力って、大きく三つあって(1)考えの道筋が人と違うっていうことと(2)人生が分ったような言葉がどんどん出てきてしまう、っていうことと、(3)新鮮な日本語をなぜか知っているっていうことの三点なのかなと僕は思うのですが、その三つが相まって、なんとも気持ちのよい驚きに満ちた詩ができあがるわけです。

「幽霊」 柳本々々

たくさん話をしたのでソファーでうとうとしていた。 すごく大きなしっかりとしたつくりのソファーだ。このソファーでかのじょは眠ることもあるんだろうか、

ぼくがたちあがって本棚からチェーホフの本を引き抜くとそこには男の顔がある。男はゴム製の置物みたいに本と本の隙間にむっちりと挟まっていて、 ぼくをみつめている。ゆっくりとした眼球がぼくのために動いている。男の顔にはまばらな髯がある。そして、少しだけ、臭う。 草みたいな、傘みたいな、土や水がまざった臭いで、触ってもいないのに、そのくちびるのしたに隠れた、歯の並ぶ感触がわかってしまう。

これはなんなの、とかのじょにきくと、あらゆるものよ、とかのじょは言う。もっというと、これまでのわたしのあらゆるもののかすよ。

「そうなんだ」 「そう」 「うん、 わかっているよ」 「だいじょうぶね」 「うん、 だいじょうぶ」  

かのじょはだれかと電話で話しはじめる、ぼくはひとりで話しはじめる、くうにむかって、眼をすこしずつうごかしつつ、目黒にある巨大な電波塔のこと覚えてるかい、その電波塔がときどきあたまのてっぺんにふれるかんじがして、そのたびにぼくはいらいらして、じぶんがなにかしなくちゃいけないようなかんじがして、でも電波塔の先端は、わかるだろ、でもそのたびごとに、

「あなたってときどき言葉遣いが弱々しくなって  

「幽霊」について

同じ日本語を使っているのに、柳本さんの言葉の、この生き生きとしたありようはどこから来るのだろうかと思います。命を持たない書き物なのに、文字からの息が直接、読者の顔に当たってきます。本棚の奥に「あらゆるもの」というものがある。「あらゆるもののかす」があるという。この箇所の衝撃はすごい。この一篇は「あらゆるもの」という日本語の意味を変えたのではないかとまで思ってしまいます。

この詩を読んでいると、なんだかむしょうに泣き出したくなります。どうして泣き出したくなるんだか分からないのですが、胸が苦しくなってきます。柳本さんの「あらゆるもの」が僕の人生に覆いかぶさってくるような感じがします。

あらためて、言葉で書かれたものって、とんでもなくすごいものになることがあるのだなと、思えてくるのです。ぼくはこの詩が大好きです。

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