2024年2月25日(日) 詩を学ぶというのは、詩を学ぶ前に戻ることなのかもしれない。

日曜日の朝だ。昨日は、翌日のトークイベントのために床屋に行ってきた。狭い床屋のソファーには、すでにお客さんが何人かいて、長く待たされた。だからなのか、帰りにお菓子を持たされた。待つと決めたのはこちらなのだから、気を遣うことなんてないのにと思って、でも受け取った。帰ってコーヒーを淹れて、さっぱりした頭で食べた。

ところで、わたしは長いあいだ詩を書いてきたけど、詩に一番夢中だったのは、小学生の頃だったかもしれない。

書くことがただ嬉しくて仕方がなかった。目の前にあるものを、次々に自分の言葉で表しては喜んでいた。

昨日までは、この世のどこにもなかったひとつの詩が、今、目の前にあることの奇跡にうっとりしていた。かわいい命をたくさん生み出している気分だった。

あれからずいぶん時は経った。わたしの詩は時に誉められ、時にひどく貶されたりもしてきた。そして、時とともに、詩とわたしは、ずいぶん汚れた。わたしは何度も詩を見誤った。わたしは詩を見失いもした。人の目ばかりを気にしたこともあった。人の姿を羨んだりもしたこともあった。

でも、詩にまつわる様々なことは、今となっては、わたしにとって、なにほどのことでもなかった。

詩の幸福は詩の中にある。

詩を学ぶ、というのは、詩を学ぶ前に戻ることなのかもしれない。

わたしにとっての詩は、小学生の頃の、ひとりで夢中になって作り上げることの喜びだ。ほかにはない。世界には、詩とわたしの二人きりしかいなかった。

迷わずに、わたしがつくることのできる詩に集中することだけを考えてゆく。

小学生の頃のわたしの心に戻って、今夜は七月堂で、楽しく詩を聴き、語ってこよう。

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