「同時代の詩を読む」(11)ー(15):黒田ナオ、中西邦春、伊藤左知子、雪柳あうこ、中山祐子

「同時代の詩を読む」(11)ー(15)

(11)

「島」    黒田ナオ

見下ろすと
すーっと金色の鯉が近づいてきて
なまぬるぬるい水のなか
気がつくと私も泳いでいた
そのうちだんだん体が透き通ってきて
突然、島だったときのことを思い出した
ああそうだ、確かに私はずっと昔
海に浮かぶ空豆みたいな島だった

風が吹くたび膨らんで
雨が降るたび大泣きして

天気のいい日は鳥たちと一緒に
口笛吹いたり
鼻歌を歌ったり

ずっと同じ場所にいる

何百年、何千年

それはずいぶん長い年月だったはずなのに

ほんの一瞬のようだった



「島」についての感想 松下育男

 とても面白い詩です。詩でしか書けない世界を書いています。そして生半可なうまさではないなということを思いました。特に一連目には感銘を受けました。

 「見下ろすと」という視点の動きとともに、読み手は詩の中に自然に入りこみます。また、その後の「気がつくと私も泳いでいた/そのうちだんだん体が透き通ってきて/突然、島だったときのことを思い出した」のところの展開には驚きもし、うっとりもしました。こんなことを考える人がいるんだなと思いました。

 島だったというのはどういうことなのだろう。島と言ってはいますが、比喩としての島なのであって、そのような自分だったということなのでしょうか、など読者にさまざまなことを問いかけてきます。

 読者としては一連目を読んだあとのところで、「島」であった私とはなにものか、具体的な種明かしはしないまでも、何かを想像させてくれるような手がかりが欲しいところです。ところがこの詩は、なぜ私が島だったかに目を向けるのではなく、自分が島だった頃のことをひたすら思いだしています。それでいいのだと思います。

 「風が吹くたび膨らんで/雨が降るたび大泣きして」と書いてあるところを読むと、島ではあるけれども、そのまま人でもあるようです。つまりこの詩を読めば、私は島だと言っているのに、相変わらずの人でもあると言うことです。

 そして、いったん島となったからこそ、この人がどんな人だったのかが、より身近に感じられてくるという仕組みになっているのです。島になってみたからこそ、人として生まれ、生きているとはどういうことかを、感じさせてくれる詩になっているのです。

(12)

「1984 神の声」     中西邦春

高校三年生の冬
ある朝
新聞を開くと

「君は生きろ 神の声」
という大きな見出しとともに
地元のデパートの屋上から飛び降りた高校生が 
奇跡的に軽傷で助かったという記事が
目に飛び込んできた

記事を読みながら
妙な胸騒ぎを覚えた

学校へ行くと 
午前中のうちに
飛び降りたのはSなんじゃないか と 
どこともなく情報が回ってきた

Sは部活の一年後輩
勝手に親友と思っていた奴だった

Sの教室を覗きに行くと
学級委員らしき女の子が出てきて 
僕を胡散臭そうな目でみた 
Sはいるかと聞くと
「今日は休んでいる」
とだけ彼女は答えた
すでに何人もから訊かれているようだった

翌日
Sと親しかった連中が集まり
僕がSに会いにいくことになった
とにかく原因だけは何とか聞き出してこいと
言い含められた

みんな勝手に原因をあげていたが
どれも違う気がしていた

その次の日
学校帰りにSの家に立ち寄った
玄関口には父親があらわれた
拒絶されることも覚悟していたけれど
すんなりとSの部屋に通された

Sは軽傷どころか
かすり傷ひとつ負っていなかった 
あまりにもいつも通りの姿に
驚くよりも拍子抜けをした

その姿に勇気づけられて
いつもの軽口から入ることにした

新聞にでかく出てたぞと言うと Sは
「神の声」やろ? 
そんなもん聞こえんかったわ
と言って
いつものくぐもったような笑い声を出した 

あ 
速い
と思ったんは覚えとるよ
あとは真っ暗や 

Sはその後
半年前にはなかったアーケードのせいで助かったこと
写真週刊誌に予告電話を入れようとしたことを
大笑いしながら話した
僕も笑った

しばらくして僕は原因を尋ねた
うまくタイミングを見計らったつもりだったが
Sは乗ってこなかった
僕は考えつく限りの原因を挙げていった
人間関係 進路 恋愛
どれにもSは頷かなかった
言い方を何度か変え
少しでも何かを引き出そうとしたが
ダメだった 

ふと気づくと窓の外はとっくに暗くなっていた 
Sの父親が
僕を家まで送ると言いにきた 

Sは家の外まで見送りに出てくれた
雪が降りだしていた
両手を脇の下に突っ込んで寒そうに立っているSの姿が 
ヘッドライトに白く浮かび上がった
「また連絡するわ」と言うと
Sは眩しそうな顔で頷いた

車のなかで僕は原因について尋ねた
Sの父は車を路肩に寄せ 
ほとんど止まりそうなスピードで車を走らせていた
そして
あいつはとんでもないことをしたんですよ
ほんとうにとんでもないことです
でもそれは誰に迷惑をかけることでもないんです 
と前を向いたまま言った

Sの父の顔は
無精ひげに覆われていて 
憔悴しきった大人の顔というものを 
僕はドラマや映画以外で初めてみた気がした

僕はそれから何も言わなかった
Sの父は
家まで来てくれてありがとうと
何度も僕に礼を言った

のろのろと走る車の脇を何台もの車が追い越していった
フロンドガラスの向うの黒い空から
真っ白な雪が次々と吹きつけていた
雪はフロントガラスに一瞬不思議な紋様を作り
ワイパーに剥ぎ取られる
そのくり返しを 
僕は黙ってみていた

あ 
速い
というSの声と

あいつはとんでもないことをしたんです
でもそれは誰に迷惑をかけることでもないんです
というSの父の声が

交互に
頭のなかで響いていた

ずいぶんと長い時間が経った気がしたけれど
僕の家は
まだかなり先だった



「1984 神の声」について    松下育男

 長い詩ですが、読み始めたら長さは気になりません。この長さを必要としているだけの内容を、きちんと持っているからです。いたずらに詩を長くしようとしているのではなくて、語っていたらこれだけの長さになってしまった、ということのようです。

 そして、ほとんどの人が感じるのでしょうが、書かれている内容そのものに引きつけられます。読んでいて、どんな言い回しをしているかとか、気の利いた表現があるかとか、ということよりも、書かれていることに圧倒的に引きつけられます。ひたすら書かれている意味を追ってしまいます。そのような詩が、あるのです。

 映画を観ようとする時に、「この映画は事実に基づいています」という一文がスクリーンに現れることがあります。この一文は、観客の心に一種の覚悟をもたらせます。そうか、これから観る映画は、単に表現者の想像だけに頼っているのではないのだな、実際にあったのだなと分かった上で観ることになります。そして見終わった後で、その映画の感動の中の一部に、「これは本当にあったことだから」より感動をしたのだ、ということが確実にあるわけです。

 この詩も同様です。読み終わった後で、「ここに書かれた出来事は事実に基づいています」というテロップが見えてくる感じがします。そのように書かれています。

 そうであるならば、この詩に出てくるS君はその後どうしただろう、「君は生きろ」と新聞に書かれた本人はその後どんなふうに生きただろうと、どうしても考えてしまいます。

 この詩に胸を打たれるところは、まず前半の事件の顛末にありますが、もうひとつ、最後の方のS君の言葉と、お父さんの言葉にも驚かされます。

「「神の声」やろ? /そんなもん聞こえんかったわ」
S君はどのような気持ちでこの言葉を言ったのでしょう。

「あいつはとんでもないことをしたんです
でもそれは誰に迷惑をかけることでもないんです」
お父さんのこの言葉の真意はどこにあったのでしょう。

この詩は、詩という表現形式を超えて訴えかけてくるものを持っています。

 この詩を読んだ多くの人の頭の中に、S君とそのお父さんの言葉が繰り返し響いてきます。

詩にとって「事実」とはなにか、ということを深く考えさせてくれるすぐれた詩です。

(13)

「角部屋暮らし」        伊藤左知子

二階の角部屋に住んでいる
竿掛けに玉ねぎを吊るす
大量の玉ねぎ
もぎとって
余さずに頂く命のひとつひとつ
近所から玉ねぎ星人と
と呼ばれているらしい

コスモスがいっせいに西を向いて
自転車のペダルが軽い
長い髪
フレアスカート
ばさばさ靡く

隕石が落ちた
青い閃光が見えた気がする
二階の窓から場所の見当をつけ
自転車を漕ぐ
一日一回は自転車を漕ぐことに
決めている
人だかりは怖い
窪みの中に横たわる石
あ玉ねぎ星人
と指を差される
隕石は光を失い
横たわる
打ち上げられた鯨みたいに
やがて内臓が腐って爆発する
ボンと声に出す
残酷な子どもが逃げていく

二階の角部屋に住んでいた
かつての住人
西日が強く差し込んで
夏の午後はひどく暑い
交差点と同じ
すれ違う魂が呼応する

隕石のかけらを隠し持っている
私は何番目の住人だろう
選択は間違っていないか
無理して笑っていないか
風の吹くほうへ
自転車を漕ぐ
川べりで林檎をかじる
懐かしい匂いがして
二階の窓辺は外から見ると
他人の暮らしみたいだ



「角部屋暮らし」についての感想        松下育男

 すぐれた詩というのは、出来上がった作品の見事さだけを言うのではなく、その作品を読むことによって、より大きな想像力の「きっかけ」を与えてくれるものをも指すのではないかと思うのです。この詩は、読んでいるとさまざまなことを考えさせられ、さまざまなイメージを思い起こさせてくれます。

 まず、この詩をどこまで真面目に読んでいいのかがわかりません。わかりませんが、そんなことは読む人が勝手に決めればよいのです。この詩を楽しめる人だけが楽しむ。詩とはそういうものだと思うのです。この詩に気持ちよく騙されたい、という気分にさせる書きぶりです。ひょうひょうと書きたいことを書いている、そんな感じがします。

 「近所から玉ねぎ星人と/と呼ばれている」というのはなんともおかしい。変人と思われてこその詩人です。さらにそこから隕石の話になる、という展開も、あきれるほどの強引さです。だから面白い。そこで目にした情景もとてもシュールです。

 中でも一番好きなのは四連目です。角部屋が魂の行き来する交差点だ、という発想はすばらしい。突き抜けています。角部屋の窓を斜めに通り過ぎて、いろんな魂が高速で過ぎてゆく姿が見えてきそうです。魂は命。角部屋に寝っ転がって、いろんな人の命の行く末を眺められるなんて、なんて素敵な部屋だろうと思うわけです。

 見事な空間感覚と、決まりきった道理では収まりきれない感覚の、両方が表現されている、自由な詩になっています。

 最後の「二階の窓辺は外から見ると/他人の暮らしみたいだ」の視点も、なかなかいい。読む人によって詩は姿を変えます。本日のぼくにとっては、深い呼吸のできる詩になってくれています。

(14)

「火葬」              雪柳あうこ

冷たくなった頬の横に
わたしとあなたが二人で写った
十数年前の写真を、入れる

わたしとあなたは花に埋まり
やがて棺は閉ざされて
わたしはあなたと一緒に、焼かれる

生者は、死者をふと身近に感じるのだから
その逆もあると信じて、炎に耐える

*

「火葬」についての感想          松下育男

 とても短い詩ですが、詩って、この長さでも充分なのだなと考えさせられます。それからもうひとつ考えたのが、人を驚かすような奇妙なことを書くのではなく、普通に感じることを丁寧に書くことで、とびっきりの詩ができ上がるのだなということです。

 愛する人が亡くなって、火葬に付される時に、お棺の中に故人が大切にしていたものを入れて、生きていた時の体と一緒に焼いてもらう。当たり前の行為です。当たり前の行為ですが、こうして詩に書かれると、いちいち頷いてしまうのです。頬の横に置いたのは「わたし」と一緒に写った写真。これも、それほど変ったこととは思えません。

 この詩が秀でているのは、これら普通の行為の解釈の仕方です。受け止め方です。写真に自分が写っていて、その写真も焼かれるということは、自分もあなたと一緒に焼かれることなのだという思いです。二人を焼き尽くすほどに強い思いです。

 さらに最終連の二行にも、目を見張るような解釈がなされています。生きているものが愛した故人を時折に思い出すように、故人も生者を思い出すだろうという発想は、とても美しいし、驚かされます。

 愛する人を思うとき、生きていることと、もう生きてはいないことが、なんだか同じことのように感じられてくるから不思議です。

(15)

「落とした耳と帰る足」           中山祐子

足は実直だ
歩きなさいと
命令されたわけでもないのに
黙って体を連れ帰る

こころはぱらぱら
道端に落として置き去りのまま
かまわず足は
曲がるべき角を曲がり
のぼるべき坂をのぼる

寒風は耳を切るようです
でもほんとうに耳がもげても
気づかぬほどほかの場所が痛い

後ろを歩く人が
落ちている耳に驚いて
遺失物として届けようか
この白樺の枝にでもかけておこうか
迷っているあいだに
足はもう
家について靴をぬぐところ

耳はひとりじゃ帰れないので
歪なかたつむりのように
ぶよぶよ内にひきこもり
遠のいてしまった心音を数えようとする

片耳を失ったからだは
無事に帰宅したものの
微妙に平衡感覚を失い
沈黙の湯船で溺れてしまう



「落とした耳と帰る足」についての感想        松下育男

 詩の教室をやっていると、毎日詩が送られてきて、読めばこの詩のような詩は少なくはありません。でも、この詩ほどの詩はめったにありません。

 書かれていることは、何かつらいことがあった日に考えもまとまらずに家に帰ってくる。その帰り道で耳がもげるほどの冷たい風が吹いていた、とそれだけのことです。

 でも、それだけのことが、中山さんの詩の中では、驚くような発想につながってゆきます。見事です。

 まず「黙って体を連れ帰る」という何でもない一行に驚きました。感動というのは、ちょっと驚くことの集積だと、ぼくは思うのです。どこに驚いたかというと、この行では、主体が足になっていて、その足が私を連れて帰るという考え方をしているところです。ここを読んでいると、なんだか足の寡黙な顔つきが見えてくるようです。

 また「寒風は耳を切るようです/でもほんとうに耳がもげても/気づかぬほどほかの場所が痛い」のところもすばらしい。「耳がもげそうなほど冷たい風だ」というのはだれでも思い、だれでも書きますが、そこからホントに耳がもげてしまうことを考えてしまうところに、この詩人の才能を感じます。さらに、もげたあとの物語を目の前に見せてくれるところまで書かれれば、ぼくはうっとりと読んでしまいます。

 「耳はひとりじゃ帰れないので」のところは耳が主体です。それにしても耳が「内にひきこもり」というのは面白い。今まで誰が、片耳が引きこもっている詩を書いたでしょう。ここも、耳の顔が自然と思い浮かべられます。

 最後に、片耳を失って「微妙に平衡感覚を失い/沈黙の湯船で溺れてしまう」というところで、主体は全部の器官を集めた「私」にもどります。

 「私」の中のあらゆる部分に私があり、それぞれが健気に俯いたり、引きこもったりしているのだなということを、この詩は教えてくれています。

 なにげない書き方であるけれども、この詩人にしか書けない詩、そういうのを素敵な個性と言うのだと思います。

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