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2024年6月24日(月)ぼくはなぜ詩の教室をやっているのか

昨日は、雨上がりの午後に、新宿三丁目の喫茶「らんぶる」へ行ってきた。

「らんぶる」にはこれまで、大切な何人かの人と待ち合わせをしたことがある。とても思い出深い場所だ。

ざわざわとした人の声の中で、雑誌のインタビューを受けた。2時間半ほど話したろうか。真摯な質問が用意されていて、ひとつひとつ答えて行った。

それで家に帰って、夜に、録画してあったフランクルについての番組の3回目を観た。疲れて眠かったので、どこまで把握できたか自信がないけど、次のようなことを言っていたような気がする。

「どんな状況にあっても、ひどい状況は変えられないけれども、自分の意思で希望を持つことができる。」

なるほど。ぼくも、かつてそうしたことがあった。

さらに次のようにも言っていた。

「自分のためにだけではなく、人も自分と同じなのだから、人のためにもなる行為を、選びとる。」

ここのところは、正確にはどのように言っていたのか覚えていないから、微妙に間違えているかもしれないけど、そんな内容だったように思う。

人も自分と同じであるという観点から、人にも及ぶ行為をする、というのは、考えてみると、ぼくがなぜ詩の教室をやっているか、ということの理由と、重なっているのかな、とも感じながら観ていた。

ただ夢中で自分の詩を書いて、自分のために生きていられるのならば、それはそれでかまわないのだろう。でも、ぼくの場合は、やはりそれだけでは息苦しくなる。人とかかわることで、なんとか平静を保って生きてゆける。

自分は人と同じなのだから、自分だけのことを大切にするのではなく、かと言って、反対に、自分の人生を捨ててしまうのでもない、という考え方、生き方は、フランクルに言われるまでもなく、よくわかる。

たしかに自分は大切ではあるけれども、自分のことばかり考えていると、苦しくなってくる。

でも、フランクルの考え方に沿っているかどうかとは関係なく、昨日の Xにも書いたように、ぼくはただ、詩の教室をやっているのが楽しいからやっているのだし、詩の教室をやっていると穏やかに生きて行けると、無意識に感じたから、全力でやっているのだろう。

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