「現代詩の入り口」23 ー 覚悟のできた詩を読みたいなら、長嶋南子を読んでみよう

長嶋南子さんの詩です。先日の講演の時のために用意した原稿で、でも講演では時間の都合で話せなかった詩について書いてあります。読んでいただければわかると思います。どれもとても素晴らしい。「技術」と「覚悟」の、ともに備わった詩です。

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「愛情」 長嶋南子(詩集『失語』より)


寝ようと思った
隣の男がこちらを向いて
気持ちよさそうにいびきをかいている
口をあけて寝ているので
臭ってくるのだった
人の内臓は腐った臭いがする
食べたばかりの空揚げやサラダやいちごは
口に入ったとたんに変化する
どの辺あたりでどう変わるのだろうかと
男の喉元から手を入れて
体の中の一本のくだを
ひきだして検証してみたい
どこでどう変わってしまったのか
私と男
意識の在り所をたぐって
検証してみたい

私達は布団の中で腐っていく
肉も果実も
腐りはじめが一番おいしい
私達ちょうど食べ頃

内臓つきのこの男愛しているか
自問する
少くとも愛の在り所は
内臓にはない
目が覚めないようにそっと
男の首をあちら側に向けておく



「愛情」について

男と寝ている詩です。寝ていると言っても性行為をしている、というのではなくて、単に布団に入って二人で寝ているのです。

タイトルが「愛情」ですから、寝ている男は夫のようです。この頃の詩集では、夫はまだ若く、つまりは充分、女の愛情の対象になりえます。

おそらく作者もまだ若い。でも、若い女が、愛する男に抱くものとは、ちょっと違います。

「口をあけて寝ているので」まではいいとしても、そのあと、若い妻が若い夫に感じる普通の愛情ではなく。口の臭いから、その奥の内臓にまで考えを及ぼしています。

皮膚、つまり表面での愛情表現ではなく、もう一歩先へ、内臓の問題まで突き進んでいます。

それを「私と男/意識の在り所をたぐって/検証してみたい」と言っています。いったい何を検証したいのでしょうか。最終連に「内臓つきのこの男愛しているか」と言っているのですから、検証したいのは、毎晩、身体を重ねている夫を、自分は愛しているか、ということを検証したいのだと思います。

何度性行為を繰り返しても、それは決して、愛していることを証明しているのではない、ということです。それを、夫に対しても言っているわけです。

そして、この詩のような思いを持っている人は、少なからずいるのではないかと思います。

正直です。男女の間についての思いを、実に正直に書いています。多くの人は夫婦間の愛情を美しく書こうとします。また、性行為をも愛の証として書こうとします。

けれど、長嶋さんはそんなことはしません。誰もが当たり前にきれいな関係として書く夫婦間の性や愛情を、醒めた目で見つめ返し、それを詩にしています。

『失語』という初期の詩集の頃から、すでに表面を書くのではなく、その奥に手を突っ込んで詩を書いていたことがわかります。

この詩では、夫の内臓にまで手を入れていますが、実は、詩作の内臓にも、奥まで手を突っ込んで書き始めています。


「枕」 長嶋南子(詩集『あんパン日記』より)

枕を交わして二十余年
交わしていたのは枕だったか
ことばだったか
寝心地よく眠れるのは
枕だったか 男だったか

ひとつことばを交わすたびに
ひと夜枕を交わすごとに
生み出されたもの
和だんす 洋だんす 整理だんす 押入れだんす
加えて茶だんす
衣類数百点
食器 そのたぐい
本は数えたことがない
子どもはほんの少数で電気器具はタコ足配線

ごちゃごちゃしたものが
あふれてしまって
女もあふれて転がり出る
部屋の外へ 枕かかえて
なんで転がり出なくてはいけない
話は逆だと枕かかえて自問する

ごちゃごちゃを捨てにいく
交わしていたことば数万語も
生み出されるものはもうなにもない
本当に必要なものなんてあるのか
枕さえあれば大丈夫
枕ほど大事なものだったか
どうだったのか男は

「枕」について

この詩も、「愛情」と同じに、夫と寝ることを書いています。

この詩での特徴は、詩の中の妄想が解き放たれてゆくところです。初期の頃から、勝手な妄想を詩にリアルに書いてはいましたが、その妄想が、徐々に、命を持って、勝手に広がってゆくところです。

妄想が勝手に広がって、それが現実をおおってしまう、あるいは、現実の出来事を規定してしまう、というのは、長嶋作品の一つの特徴ですが、この頃から、それが顕著になってきます。

この詩の妄想は、3連目で、自分が家から「女もあふれて転がり出る」というところです。

女があふれて家から転がりでる、と言っても、夫婦げんかで追い出される、という卑近な理由ではないようです。1連目、2連目で、夫婦で重ねた日々によって、家というものが密度を濃くしてゆく、つまり、家が、精神の中でも、でんと重いものになってくる。なぜ重くなるかというと、月日とともに、経験やものが積み重なってきたからです。

あんまり家というものができ上がってしますと、自分がそこからあふれてしまう、というのは、やはり普通の感じ方ではないんです。

通常は、月日が流れ、子どもをもうけ、モノが増えて行くというのは、安定性を表し、幸せに繋がってゆくものです。

でも、長嶋さんはそうは感じない。通常の時間によって増えたモノや経験から、溢れてしまうわけです。

その溢れた気持ちが、詩を書かせたのだろうと思います。おばさんになってから、何か表現をしたいと、思わせたのだろうと、思います。

で、最終連は、それまでのモノや経験を、捨てに行きます。

でも、捨てに行って、自分がまた家にちんまり収まりたい、元に戻りたいと思っているわけでもなさそうです。「本当に必要なものなんてあるのか」と、恐ろしい言葉を言っています。

つまりは、時の積み重ねも、家庭も、そのまま寄りかかって幸せに過ごそうとは、思っていないようです。

初めから「本当に必要なものなんてあるのか」という疑問とともに過ごす孤独感を持っているのです。

だから詩などを、書いてきたのでしょう。


「雨天」 長嶋南子(詩集『シャカシャカ』より)

雨降りなので
よそのご主人を借りにいく
よりそって窓の外をながめ
雨のおとを聞き
しみじみする

お茶をいれましょう
まんじゅうなんかどうですか
借りものはたいせつに扱うこと
傷をつけてはいけません
用がすんだら
すぐに返します

このままずっと雨降りだったら
よそのご主人が
うちのご主人になって
たいせつでもなんでもなくなって
場所ふさぎになって
しみじみ話すこともなくなって

雨が降り出したら
借りにいく
用があるときだけ
借りればいい



「雨天」について    

「ですます」体で書かれていて、内容もお茶を飲んでおまんじゅうを食べている詩です。
ですから、一見穏やかそうな詩です。でも穏やかではないんです。不倫の詩です。お茶を飲んでいるんですけど、よその亭主と飲んでいます。そして、わざわざよその亭主としていることは、お茶を飲むことだけではないと思います。

この詩も、女性が性を書いている新しいしではないかと、ぼくは思います。

さきほどの「夕方」では、亭主との刺激的でない性行為について書いていますが、この「雨天」では、よその亭主との、刺激的でない不倫についての詩が書かれています。

通常、詩でも、ドラマでも、映画でも、不倫といえば、世間の道徳に背いて、家族を裏切り、自分たちだけがその時だけ一瞬の快楽に燃え上がるものと、相場が決まっていますが。長嶋さんはそんな不倫を書きません。

不倫というのはこんなものだという考えの基に、不倫を書こうなどとは思っていません。

ここに書かれているのは、作者のあくまでも個人的な体験であるわけです。ぜんぜん刺激的でない不倫もあるのだと、書いています。そして結構、みんなが共通に考えている刺激的な不倫よりも、こういった、どこか間の抜けた。お茶を飲んでおまんじゅうを頬張っているような不倫のほうが、実際の不倫に近いものなのかも知れないと、ぼくは思うんです。

ここで特筆すべきは、長嶋さんが、不倫でさえ、人の書き方や考え方ではなく、自分の頭で、無理をせずに考え、それをそのまま書いている、ということです。

つまり、独自性と、勇気を共に持ち合わせていないと、こんなことはできないのです。そして、この独自性と勇気は、まさに詩を勇気のある独自な詩へと、成長させてゆくのです。

「泣きたくなる日」 長嶋南子(詩集『はじめに闇があった』より)

どうしても泣きたくなる日があって
柱のかげで泣こうとしても
身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて
そんな日は
ご飯を食べていても誰かと会っていても
こっそり涙をふいている
いっそのこと原っぱにいって
オンオン泣けば
ためこんでいたものが一気になくなって楽になるだろう
人前でひそかに泣かなくてすむだろう
まわりは新しい建売住宅ばかりで
原っぱはない
家の前の小さな空き地で大声で泣いたら
頭がおかしい人がいるどこの人だろうかと気味悪がられるだろう
部屋のなかで泣いていると猫が
よってきてなめまわしてくれるだろう
猫になぐさめられるとよけいに泣きたくなるだろう

目が覚める
なんで泣きたかったのかわからない
泣きたい気持ちだけがのこって
胸がしめつけられて苦しくなる
夢のなかで泣いてしまえばよかったのにと思っていると
泣きたい気持ちが解き放たれて
オーン オーン 泣いている



「泣きたくなる日」について

どこか、石原吉郎ふうのタイトルです。

泣きたくなる、と書いているのですから、これは素直に素のまま受け止めていいのかなと思います。

「柱のかげで泣こうとしても/身をかくすほどの大きな柱が家にはなくて」
とあるのは、比喩としても書かれていて、自分がもたれ掛かることのできる精神的な後ろ盾がない、ということを言っているのだと思います。

つまりは、自分の家にいて、長年作り上げてきた家族と共にいるのに、自分には居場所がないという感覚でしょうか。

おかしいのは、詩の中ほどの、「家の前の小さな空き地で大声で泣いたら/頭がおかしい人がいるどこの人だろうかと気味悪がられるだろう」のところです。「頭がおかしい人」と自分でも思っているから、詩なんか書けるんです。

自分の家にいるのに居場所がない、もたれ掛かれるものがない、つまりはどうしようもなく孤独だと感じるからこう言った詩が書けてしまうわけです。

これは、ものを書く人であれば、いえ、モノを書かなくたって、誰しもが持つ感情であるのかも知れません。

日常はやっていける。でも、その先になにがあると言うのだろう、という物足りなさと、その内に確実にやって来る自分の死のことも、この泣きたくなる理由の一つに入っているのではないかと思います。

死ぬ、ということは、詩を書いていれば究極のテーマであるわけです。

夫とのセックスを笑う豪快さがあっても、不倫を明るく書く度胸があっても、やっぱり孤独なのだし、死ぬことを思えば、人間誰しも、大声で泣きだしたくなるのです。

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