2024年3月3日(日)わたしを小さく咲かせてみようか

日曜日の朝だ。おひなさまだ。昨日も詩を読んで、感想を書いた。楽しかった。

ところで、詩には「軽やかでわかりやすい詩」と「重厚でわかりづらい詩」の2種類がある。どちらがよいというものではない。どちらにもよい詩はある。そしてどちらかを読んでいると、もう片方を読みたくなる。それでいい。どちらかをどちらかより価値があると決める必要はない。詩は受け止めるものだ。詩は楽しむものだ。詩は享受するものだ。詩は酔うことだ。詩は比べるものではない。

さて、この頃は、夕飯を食べたあとソファーに座りテレビを観ていると、たいてい途中で眠ってしまう。それで翌日に、途中で眠って見損なった部分を観る。初めのところから早送りをして、眠りに入った箇所を探す、という作業をよくしている。どこか、夢と現実の境目に触れようとしている感じがする。

最近は昔やっていた「パパと呼ばないで」というのんきなドラマを観ている。その主題歌が始めに流れるのだけど、「貝がら」という人(グループ?)が歌っていて、たかたかしさん作詞のこの歌は、こんな歌詞で始まる。

「花は何故咲くの いつか散るのに
日だまりの中で 君は話しかける
小さな蟻にも あゝ夢はあるのかい🎵」

それで、歌い出しの「花は何故咲くの いつか散るのに」を聴くたびに、そうだよな、と思い、考えごとをしてしまう。

「ぼくはなぜ必死に詩の話をしているの。いつか死ぬのに」と思うわけだ。

いつか散るのに、なぜひとは頑張ってしまうのだろう。点ちゃん(文鳥)を眺めながら昼間からビールでも飲んで気持ちよくなっていることもできるのに、どうしていつまでも、明日のための作業をしているのだろう。

たぶん、そうなってしまっているのだ。悲しいかな、というか、喜ばしいかな、というか、そうなっているのだ。

わからないけど、どんなに地味な花であれ、わたしはわたしの花をそっと開いていたいと、思ってしまうのだ。

花は何故咲くの
いつか散るのに

なるほど。本日も詩の一行に指をあて、その場所にわたしを小さく咲かせてみようか。いつか音もなく、きみのそばで散る日まで。

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