2024年6月10日(月)ひとつの詩を探して

昨日は6/15の、鶴見での講演の原稿を書いていました。声に出して少し練習をしました。点ちゃん(文鳥)が、ぼくの練習を聴いていました。無表情で聴いていました。

ところで、ひとつの詩を探して、ぼくは生きてきたのかもしれない、と思うことがあります。

中学生のときだったと記憶しています。国語の試験で、詩の読解が問題に出たことがありました。「次の詩を読んで、問題に答えなさい」というものでした。

当時ぼくはすでに、詩がとても好きで、家に帰れば部屋にこもって詩を読んだり、書いたりしていました。ですから、詩の読解ほど簡単なものはないと思っていました。

けれど、問題の詩を読みながら、うかつにもぼくはひどく感動をしてしまったのです。ああ、なんて素晴らしい詩なんだろうと、うっとりとしていました。テストのことなんて忘れて、深く感じ入っていました。

試験が終わってだいぶたったある日、どうしてもその詩をもう一度読みたいと思いました。しかし、なんということか、その詩のタイトルも、作者も、覚えていないことに気づきました。手がかりがなにもありません。思い出そうとしても、どうしても思い出せません。

あきらめました。

そのうちにまた出会うこともあるかと思い、あれから数多くの詩を読んできました。でも、未だにその詩に出会うことがありません。読めば、あのときの詩だとすぐにわかるはずなのに。

その詩に出会うために、わたしは60年間も、詩の周りをさまよっているのかもしれません。

おそらくその詩は、当時読んでいなかった戦後の詩人の作品だったのです。街を歩く男の詩なのです。歩きながら目に映るものを描写しているのですが、その描写が驚くほどにリアルで、目の前に迫ってくるようなのです。

わたしが生きていることそのものが描かれていると感じたのです。

わたしはそののち、現代詩文庫を買うたびに、隅から隅まで読み、その詩を探しました。それからずっと探し続けているのです。でも、有名な現代詩のほとんどを読みつくしても、その詩は見つかりませんでした。

わたしはときどき思うのです。

そんな試験などもともとなくて、すべては記憶違いだったのではないのかと。

どこにもない詩を、生涯勝手に探し続けていたのではないのかと。

その後の人生で、数多くの詩を読みなさいよと、自分で自分に仕掛けた、たくらみだったのではないのかと。

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