2024年2月14日(水)詩作に勉強は必要か

昨日は病院へ行ってきた。以前、骨折した箇所が痛んだので、レントゲンを撮ってもらった。心配だった。その部位は、場合によって壊死してゆくことがあると聞いていたからだ。歩けなくなるのはいやだ。若い先生に、脚の痛みの原因は別にあります、と言われてホッとした。脚があり、目があることに、あらためて感謝したい。

ところで、詩を書くためには勉強はいらない、という考え方がある。ぼくもそれらしいことをXに書いたことがある。詩を書くためには、自分さえあればいい、感性が鋭ければなにもいらない、勉強したからと言って必ずしも詩はよくならない、そんなふうに書いたことがあった。

その考え方を否定するつもりはない。ただ、勉強せずに、ただ書き続けることは、常に同じ場所で繰り返し同じことを書いていることでもある。それも一つの書き方だ。同じことを繰り返し書くことによってたどり着ける場所もある。

とは言うものの、表現をしていれば、人の優れた詩に惹かれるのは当然のことで、その優れた詩の、感動の秘密を知りたいと思うことは自然なことだ。そして優れた詩を見つめて暮らせば、自ずと影響を受け、自分が書く詩の視野も広がり、新しい可能性も出てくる。

なので、上質の勉強を長年している詩人の書く詩は、さまざまな人の詩や思想の「よさ」が折り込まれている。それが時に、勉強をしてこなかった人からは、単に難解な詩に見えたり、独りよがりに見えたりする。(すべての難解な詩がそうだとは言っていない)。

詩を選ぶ道はひとつではないし、自分に合った道を行けばいい。

ただ、ながねん詩を学ばすに生活者としてだけ生きてきたぼくは、学ぶことが足りていないことを自覚しているし、反省もしている。

詩は特段の勉強をしなくても、熱心に書いていれば、たまに優れた詩にたどり着くことができる。でも、勉強をしてきた人の詩とは違った場所にしかたどり着けない、というのも事実だ。

ぼくはぼくの詩の道を歩んでゆくしかない。

今となっては、勉強をしてきた人の詩を、正当に受け止められるだけの勉強は、せめてしてゆきたいと思っている。

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