「詩人の覚悟」 ー 長嶋南子詩集『家があった』(空とぶキリン社)

「詩人の覚悟」 ー 長嶋南子詩集『家があった』(空とぶキリン社)

 「40才の時に、ふと思ったことがあったの。仕事をして結婚をして子供を育てて、一生懸命だった。でも、でもね、それだけだなって。それだけしかないなって。何かをしたくなったの。生きていてむしょうに何かをしたくなったの。」
 人それぞれの大変な時期を過ぎて、ちょっと立ち止まった所でこんなふうに感じる人は少なくはない。でも、そのむしょうにしたかった何かを、見つけることのできる人はそう多くはない。
 「それで詩の教室へ通い始めたの」と、女性は話を続けた。その人が、後にとんでもなく優れた詩人になった。長嶋南子さんのことだ。言葉通りに、むしょうにしたいことを徹底的にしてきた。貫いた。必死になって書いた。そうしたらまだ誰も書いたことのない詩の領域を悠然と展開できるようになっていた。
 つまり長嶋さんは、僕のようになんとなく詩を書き始めたのではない。出始めのところからすでに覚悟ができていた。生きていることのしっかりとした証が欲しくて書き始めた。だから覚悟のない詩人には見えないものが見えてしまう。覚悟のない詩人には書けないことが書けてしまう。
 
 「なにもしなくていい/つらい」(「居場所」より)
と言うときは、ホントにつらいのだ。
 「これ以上いくところがない/ないよー」(「取り柄」)
と叫ぶときには、ホントに行くところがないのだ。

 詩のために書かれた詩ではなく、生きてゆくそのことからじかに生まれ出てきた詩だから、読んでいるこちらへも同量の痛みと寂しさが襲ってくる。一人の女性の、「何かをしたい」という一途な思いが現実化し、この詩集までたどり着いた。「いや、まだどこにもたどり着いてなどいない」と長嶋さんは言うかも知れない。確かに、詩集を読めばあちこちで、これから先どうするのよ、どうしたらいいのよ、これまでのことはどうしてくれるのよと、叫んでいる声が聞こえてくる。この世の成り立ちに口をとがらせている。
 
 この詩集を読んでいると、人生の時間を自在に行き来している人の姿を見ることができる。実に軽やかに行ったり来たりをしているその姿を、しかし読み手はただ鑑賞していることはできない。詩集は黙ってはいない。ただ静かに読ませてはくれない。本の中から手が伸びてきて、読み手に「どうしてくれるのよ」と訴えている。いつのまにかおばあさんになってしまったんだけど、どうしてくれるのよと叫んでいる。その気持ち、確かに分かるし、なんとも切ない分かりかたが、まさしくこの詩集に対する感動とつながっている。でも、どうにかしてあげたくても、誰にもどうにもしてあげることはできない。
 これは一度だけ読んで閉じることのできるひと事の詩集ではない。自分の時間をたぐり寄せることのできないすべての人の思いでもある。「どうするよ」の声には、さしあたってなにもしてあげられないけど、たまには手に取って任意のページを開き、長嶋さんの声を聴くことはできる。どうするのよ、どうしてくれるのよ。

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