2024年1月26日(金)詩の地方性とは何か

金曜日の朝です。昨日はある作業をしていました。詩とは関係のない作業でした。「魂」という言葉を思い出しながら過ごしました。

ところで、先日の静岡県詩人会での講演では、思い出しても、詩人会の方々にとてもお世話になりました。二次会でも、居酒屋で20人ほども集まり、たくさんの人と楽しく話をしました。

全員、詩を書いているので、考えていることは似ていて、話はしやすいし、和やかな集まりでした。いい集まりだなと、思いました。

ただ、ひとつはっとなったのは、その和やかな会話の中で、「中央では」という言葉を何回か聞いたことでした。中央とは東京のことです。

わたしは横浜に住んでいますが、東京を「中央」と意識したことはありません。けれど、横浜からすぐのところにある静岡でさえ、そのような言葉が交わされているのかと、思いました。

静岡に限らず、東京でないところに住んでいる人にとって、その地方の人の中で書いている、ということは、いったいどんな意味を持っているのかと、考えていました。

詩を書き、提示する場所は、地元と中央と、二重にあるということなのでしょうか。あるいは、常に、中央の詩との距離を意識しながら書くということなのでしょうか。

詩を書くというのはいったいなんだろうと、酔った頭の中で考えていました。このような、温かい人々とたまに寄り添い、幸せに詩を書いてゆける喜びだけではいけないのだろうか。なぜ中央などという、抽象的なものからの位置を意識しなければならないのか。

と、ここまで考えて、ふと思ったのは、誰もが、もともと「個人」という地方性にあるのではないか、ということでした。「個人」という、誰からも遠く離れて、ひとりで詩を書いているのではないのでしょうか。

地方性というものは確かにあり、その良さも苦しさも、いいとか悪いとかということではなく、存在するのだと思います。ただ、地方性をことさらうんぬんするよりも、むしろ、個人という地方性をより強く意識し、個人の中に潜り込んで、個人を磨き上げ、深めてゆくことが、より大切なのだろうと、考えました。

なんだか、問題のすり替えのようになってしまったのですが。


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