2024年3月20日(水)詩は書くものではなくて、書けてしまうものだ。

本日は水曜日で祝日だ。それで、午後には「Zoomによる詩の教室」がある。大変ではあるけれども、これがぼくのやるべきことなのだと思っている。大切にやってゆく。いつも、これが最後になっても悔いのないように、と思いながらやっている。本日も。

ところで、自分が書く詩、書いてきた詩、というのは、自分の意思とは違うものがあるのではないかと、ぼくは思う。

詩を読む時には、さまざまな詩を好きで読む。けれど、書く詩は、自分の意志ではなく、もっと深くにある自分の核のようなものによって決められていて、それはいつも同じようなものになってゆく。そんな気がする。詩は書くものではなくて、どこか、書けてしまうものなのではないか。

それは食事と似ている。

食べる側としては、日によって和食であったり、中華を食べたり、イタリアンであったり、テキーラに酔ったり、いろんなものを好んで食べている。でも、いざ自分が料理店を出すときには、和食なら和食だけを出す。フランス料理店ならフランス料理ばかりを作る。自分の好みではなく、自分が向いているものを見つけ出してそれを提供する。

詩も同じなのだろうと思う。詩を読む時には様々な詩を、日によって素敵だと思い、読む。けれど、自分が詩を作るときには、意志とは違ったところで、いつも同じ傾向の詩ばかりを作ってしまう。それは詩を作る、というよりも、そのような詩ができてしまう、というのが正直なところなのだろう。

どんな詩を書きたいのか、というのは確かに常に意識はしているものの、同時に、自分はどんな詩を書くことに向いているのか、ということにも注意を払っている。あるいは、それが未知の楽しみでもある。

ぼくはたまに、人に紹介される時に、「松下育男さんは現代詩の中でわかりやすい詩を書いています」と言われる。

その言葉を、どこか違和感を持って聴いている。

そうなのか、ぼくはわかりやすい詩を書いてきたのかと。

わかりやすいとか、わかりにくいとか、そんなところで書いてきたつもりでは、全くないのに。

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