「同時代の詩を読む」(46)-(50) 橘しのぶ、雪柳あうこ、高瀬二音、長谷川哲士、柳坪幸佳

「同時代の詩を読む」(46)-(50) 橘しのぶ、雪柳あうこ、高瀬二音、長谷川哲士、柳坪幸佳

(46)

ひかる石      橘しのぶ

真夜中の
コンビニの帰り道
ひかる石が落ちていた
レジ袋にはビールとプリン
ひかる石はひろって
ポケットに入れた
手をつっこんでさわっても
あたたかくないやわらかくもない
脊柱管狭窄症の夫は
右足が痛くて使えない
右足はないものとして
左足だけで歩く
左足まで痛みが来たら
どうするのだろう
足がなくなったらゆうれいだ
野生動物は足をやられたら
死んでしまう
もう一度
ポケットに手をつっこんで
ひかる石にふれてみる
まるくてすべすべしている
家に着いて
ストーブに火を点けた
ひかる石を窓辺に置いて
プルトップを開けた
鎮痛剤を服用した夫は
真夜中の外出に気づきもせず
寝息をたてている
窓には欠けはじめた月
子守唄のようにひかっている
ひかる石を寝かしつけるように
ひかっている
わたしはプリンをたいらげて
ビールを飲み干した

「ひかる石」について    松下育男

長年連れ添った連れ合いが病になって、足が不自由になってしまったため、夜、自分がひとりでコンビニへ買い物に行く、という詩です。ということは、もし連れ合いの足が動くのなら、たぶん二人で仲良くコンビニまで、話しながら行ったのだろうな、ということを想像させてくれます。

つまり、夜中に一人でコンビニへ買い物に行く、ということだけで、この詩は多くのことを読み手に考えさせてくれます。

この人は一人で夜道を歩いているわけですから、いろいろと考えながら歩いていたのでしょう。歩いていたら光る石を見つけた、とあります。なんだかこの石は、病いでなければ一緒に歩いているはずの、連れ合いのような気持ちにもなります。帰りが心配で、夜道に立って、待ってくれていたのかも知れません。

この詩がすごいのは、「ひかる石」を詩の中心に書いているのに、ひかる石がなにものかであると、ことさらに言っていないところです。こういった詩を書いていると、普通、どうしても「ひかる石」を何か特別なものとして書きたくなります。この石はあたたかくて心にしみた、とか、家に帰って置いておいたらいつのまにか光を増した、とか、不思議と夫の右足が少しよくなった、とか、どうしてもそういった展開にしたくなります。

しかしこの詩はそのようなことは書きません。でも、そうなって欲しいという「祈り」が詩行の奥にしっかり見えています。

現実が思うようには好転していかなくても、いつか少しでもよいことがありますようにと祈りながら、多くの人は生きています。

できることは、ともかく今夜買ってきた「プリンをたいらげて/ビールを飲み干し」て、さらに祈りを磨き上げることなのでしょう。

読めば読むほどに深い思いが伝わってくる詩です。

「左足まで痛みが来たら/どうするのだろう/足がなくなったらゆうれいだ」のところに、思わず立ち止まりました。

そうか、「足がなくなったらゆうれいだ」を読んで驚き、さらに隅々まで命を持たされたような言葉たちに、また驚きます。見事な詩です。


(47)

おもたい    雪柳あうこ

長患いに瘦せ細った祖父は、死ぬ前
風呂に入れれば、その湯が
服を着せれば、その衣が
おもたい、――おもたい、と
呻くように呟いていた
五体満足に生きていたら
気にすることもないものたちの、重みを

亡くなった後
故人の服を捨てようと
集めてまとめて袋に入れれば
一枚二枚では感じなかった
衣の重みがずっしりと
袋を持ち上げる指に
引きちぎれんばかりに、食い込む

いつだって身軽でいたい
けれど人生は進めば進むほど
知らぬ間に抱えたもので 重くなる
そして、いずれは痩せ細り
水圧や、衣類のような
命をとりまくものたちの
重みに抗えなくなってゆく

袋を引きずり、よろよろ歩く
おもたい、――おもたい、と
呻くように呟いている
ようやく辿り着いたリサイクルステーションに
祖父の一部だったものたちを投げうち
よきものに生まれ変わってくださいと
袋の重みに 真っ赤に腫れ上がった手のひらを
小さく合わせてから、すぐに去る

「おもたい」について   松下育男

 ぼくが好きな詩をフェイスブックに載せている理由は単純です。ぼくだけがその詩を読んでいるのはもったいないと思うからです。よい詩はもっと多くの人に読んでもらいたいと思うからです。そうして、詩の様々な魅力に触れてもらって、自分の日々の考えでは思いも及ばない世界を、ふところ深くに抱いてもらいたいからです。

雪柳あうこさんのこの詩は、一連目ですでにうなりました。間違いなくよい詩だなと、この時点でわかります。

「風呂に入れれば、その湯が
服を着せれば、その衣が
おもたい、――おもたい、と
呻くように呟いていた」

何度読んでもここはすごいです。湯の重さ、服の重さがしっかり文字の向こうに感じられます。詩行が水を含んでいるようです。詩行が分厚い服をまとっているようです。

もちろん、水や服が重いというのは、生きていること自体が重いということです。この感じ方はすばらしいと思います。表面を描きながら根源に向かっています。

二連目も、持っていた全部の服の重さ、という視点が、さまざまに考えさせてくれます。からだはひとつなのに、一人の人は多くの服を持って生きています。普段は当たり前のように感じられていることが、その人がこの世からいなくなった途端に、残されたたくさんの服が奇妙なものに感じられてきます。

三連目、四連目は、そのあとをしっかり書ききっていると思いました。

「いつだって身軽でいたい
けれど人生は進めば進むほど
知らぬ間に抱えたもので 重くなる」

なるほどそうだよなと思います。重力でさえ重いと感じる日があります。

最後に手を合わせたのは何に対してでしょう。じっと考えたくなる詩行です。
それから題の「おもたい」も、うまいなと思います。

つまり最初から最後まで、まるごと、よい詩です。

この詩だけではなく、雪柳さんのすごいところは、詩のパターンが決まっていないところです。一篇一篇にその詩だけの魅力があります。どうしてそんなことができるのだろうと、新しく送られてくる詩を読むたびに、驚きます。


(48)

「とある科学者の話」    高瀬二音

老若男女みなさみしいこの国を歩く
振り向いてみると
電線にとまるカラス
かっかっかっかっかっかっと鳴く下で
独り合点は心音とよりそい温めあう

誇り高き科学者は
非科学的非合理的行動を慎まねばならない

隣に住む婆さんが
死んだ亭主のコートをくれた
暖かくて物も良いのよあんたに頃合いと
いかにも爺むさい濁り色
乗り気じゃないが確かに軽くて暖かく
なにより動きを妨げないし肩も凝らない
着ない合理的理由は見当たらない

人間は酒を慎め隣人を愛せよと
神が語る本を読む
ラフロイグは凍った星を浮かべてる
ダウナービートが細胞ごと彼の眠気を誘う
誰もがさみしいこの国で
時代遅れの上着を着る自分が
合理的トライアンドエラーによる進化の途上に生きる小さな命のようで
ハルキゲニアの丸い頭を思い出す

門扉を開けていると
やっぱり良いわねと隣の垣根から突き出た首が言う
ハルキゲニアがにそっと笑い頭を下げた
私の上にこんな夕べも恵まれたと
今日もコートを掛け 独り合点した

「とある科学者の話」について 松下育男

 高瀬さんはこの欄に二度目の登場です。

 高瀬さんの魅力は、言葉の使い方が普通とはちょっと違うところです。ちょっと違うので、読んでいると「あれ?」と思い、その「あれ?」が面白さに繋がるのです。言葉の使い方が「ちょっと」違うところがミソなのです。感動って、その「ちょっと」の差異から生まれるのです。

この詩も面白く読みました。なにしろ最初の「老若男女みなさみしいこの国」という表現に笑いました。単に「みなさみしい」と言えば済むところですが、あえて「老若男女」と付けているところがなんともおかしい。そういえば昔「今世紀最大のかなしみ」と、詩に書いた人がいました。どれほどの悲しみでしょうか。

それから「合理的トライアンドエラーによる進化の途上に生きる小さな命」というのも、よくぞこんな感じ方ができるものだなと感心します。さらに「独り合点は心音とよりそい温めあう」というのも、なんだかよく分かってしまいます。そもそも詩を作るというのは、途方もない独り合点であるわけですから。

また、よくわからないカタカナが多く出てきます。ハルキゲニアとかラフロイグとかダウナービートというのは、日本のありきたりのおじいさんのぼくとしては、意味がよくわかりません。目くらましにあったようです。それはそれでいいのかなと思ってしまうのですが。

この詩のよいところは、だれの詩にも似ていないところです。独特です。妙な知識がうまい具合に詩に溶け込んでいます。

「さみしい」と言っているわりにはぜんぜん湿っていなくて、からからに乾いたさみしさに感じられます。それでいて「いかにも爺むさい濁り色」のコートというのも、とても身近に感じられて、そのコートの肌触りを感じられそうでもあります。

突き放した感情と、身近な実感が、ともに備わっているような叙情詩。新しい時代の詩と言えるのかなと思います。

(49)

宇宙の法面に張り付いた奴    長谷川哲士

ギャーッ
その緑色した美しい髪に
触れさせて下さい
女神様

連呼しながら
歩き回る輩がおります

早速
警察に連絡しましょう
五分後に
駆け付けたパトカーから
颯爽と降り立つ二名
足の裏まで見せつけて
歩き回る警官ぺたぺた

足の裏にガムが付いてます
良いのですか隙が有ります

臭い口の先から
更に臭い尻尾まで
どう見てもおかしな輩
女神様連呼して
身を引き摺るなんて
ほら見ろ変ではないかおまけに
そこかしこにUFOが
ユーエフオーが
飛翔しているじゃあないか

イージーフォーユー
直ぐ捕まえられるよ

ぺたぺた歩く警官さん
ほら
手を挙げた降伏ポーズが
見受けられます

解放されたい
宇宙人だっているでしょう
新しい場所に
連れて行ってあげて下さいよ
きっと喜ぶから
知らない生き物は
知らない世界へ
行きたがるから

おい
聞いているのかザ・ポリスよ
アスファルトの上のガムは
どんどん粘着力までストロンガー
世界市民を守れ
ストレンジャーを捕獲せよ
脳髄カイカイ
接しても破壊せず

出所する度に
改造される逃亡者
地雷踏んで破壊された人体
模型での実験はもうしない
地位と身の丈のせめぎ合い
地球にしますか宇宙にしますか
暗黒舞踏ナイト

女神様連呼する輩と
それを追う者達の
間でひたすら立ち尽くし
ときめいて叫び廻って
踊り狂う事など
無いのでしょうか下衆な我々は

死んでる前から死んでいた
ぺたぺた粘る警官の足跡置き去り
正面衝突する
飛翔物体の金属片と
操縦席にこびりついた
血の塊のはしくれは
パレットで合成されてキラキラ
新しい生物としての赤児みたい

そいつらの初々しい髪の毛
生えそろうまでには
多少の時間はある様だ
早く大きくなあれ早く大きくなあれ

「宇宙の法面に張り付いた奴」について   松下育男

詩は休日の午後に、わたしたちの心を安らかにさせてくれるものだけではありません。時に、「これはなんだ」と首を傾げさせてくれるものもあります。そして人の首を傾げさせるほどの詩、というのはなかなか作れないものです。今日の詩はまさに「これはなんだ?」という詩です。深く首を傾げました。

長谷川哲士さんはこの欄に三度目の登場です。だれの詩とも似ていない詩を書きます。そこが素敵です。

それにしても、一行目から「ギャーッ」で始まる詩を初めて読みました。おかしい。

それから「どんどん粘着力までストロンガー」の「ストロンガー」の比較級にも笑いました。どうしてここに比較級が出てくるのか。その突飛さとセンスに脱帽です。

この詩のよいところは何を書きたいのかがわからないところです。というよりも、何も書きたくないのにただ詩を書きたい、その純粋な行為が素晴らしいのだと思うのです。

ある輩を警官二人が捕まえる、ただそれだけのことをここまでの意味のないわけのわからない、無駄そのもののような言葉の羅列で、詩に仕上げることの個性は、なぜか分からないのですがすばらしいと、ぼくには思えてしまうのです。

「足の裏にガムが付いてます/良いのですか隙が有ります」。まさにこの詩は隙だけでできあがっています。

「イージーフォーユー」。なんともこのイージーな英語の使い方はどうでしょう。

あげくに地球だの宇宙だのが出てきて、さんざん大風呂敷を広げ、でも最後にはなにもできない「下衆な我々」が出てくるところは、ちょっとしんとした気持ちにさせます。どこか、舞台の上で絶叫する根津甚八を連想するのはぼくだけでしょうか。

最後は命のはかなさとでも言えるでしょうか「死んでる前から死んでいた」とあります。なるほど、という感じです。

ともかくも、言葉と連想に自由さと個性を感じます。詩とはこれほどに勝手気ままでいいのだと教えてくれています。

人は時に、自分にはないものを持っている人にひどく惹かれるものです。それゆえでしょうか、ぼくは長谷川さんの、これほどにめちゃくちゃな詩のあり方が、とても好きです。

(50)

「子どもの作文」    柳坪 幸佳

慰霊碑になんか入るかいや
わしら、おやじの墓があるんじゃけ、と
おじいちゃんは言いました
慰霊祭なんか、行くかいやの
政治とデモばっかりじゃ、
とも、おじいちゃんは言いました
そうして、おじいちゃんはこっそりと
八月六日の朝の暗がり
音も立てずに公園のすみっこの場所に向かいます
原爆が落ちたところが公園でまだよかったね
その言葉を聞いてしまって
おじいちゃんは、必ず習慣のようにそうします
おじいちゃんの友だちの家がかつてはあって
(子どもすぎて、見つけようとも思えなかった)
それなのに、公園でよかったと言われてしまった
とてつもなく長い時間手を合わせ
それから帰って、夏なのに
繭のように、まるくまるくちぢんで寝ます
おじいちゃんが、お腹に抱くのは何なのか
死んでから、おじいちゃんは家の墓に入ったけれど
慰霊碑には、おじいちゃんの名がちゃんとあります
そこには名前が多すぎる
死んでからも、友だちの名を探しています

「子どもの作文」について 松下育男

すぐれた詩です。

被爆の詩はこれまでにも何人もの人によって書かれていますし、そうすると詩を書く視点や発想もおのずと限られてきますから、今、さらに新しいものを付け加えることはなかなか難しいと思います。

それでも書かなければならないことがあるのならもちろん書き続けられるでしょうし、仮にそれが今までに書かれた詩と同じような内容であったとしても、個々の詩人にとっては書く意味はあるのだと思います。詩としての意味とは別のところにもさらに重要な意味を持つ、そういう詩はあります。

そんな状況の中でも、この詩は詩としても明らかに書かれる意味を持っています。

読めばいくつかの発見があります。ひとりの被爆者が慰霊碑について感じていること、ひとりの被爆者が慰霊祭について感じていること、ひとりの被爆者が原爆が落ちた場所について知っていること。これらはこの体験者でしか持ちえない気持ちを表しています。

そして体験とは、いつでもひとまとめに束ねられるものではなく、常に個別に語られるべきものなのだと思うのです。この詩はそれがしっかりとなされていると感じます。

「それから帰って、夏なのに/繭のように、まるくまるくちぢんで寝ます」の二行には強く胸を打たれますし、最後の一行「死んでからも、友だちの名を探しています」は、繰り返し読まれるほどの力を感じます。

困難な試みを可能にしたすぐれた詩です。

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