「同時代の詩を読む」(36)-(40) 黒田明伽、雪柳あうこ、 橘しのぶ、ユウアイト、 山川さち子

「同時代の詩を読む」(36)-(40) 黒田明伽、雪柳あうこ、 橘しのぶ、ユウアイト、  山川さち子
 
(36)

丁字路                黒田明伽
 
親の介護の帰り 遠回りして通る十字路がある
あの頃は丁字路だった
つきあたりには畑が広がり
あなたは右へ わたしは左へ
何度手を振って別れただろう
 
偶然会った最後も 丁字路
フルフェイスのヘルメットでも
一瞬であなただとわかった
街の音が消え 体を突き破りそうに心臓が跳ねる
頭の中は空洞になり 耳が熱くなっていく
あなたは バイクを止めた
わたしは 
目をそらして 走り抜けた
 
目を合わせて挨拶を交わすだけのことが
できなかった
わたしは どうしようもなく子どもだったんだ
 
丁字路の たった数十秒
大きな分岐点になった
別々の道は 途方に暮れるほど長かった
 
信号が青になり アクセルを踏む
つきあたりの畑には 広い道路が敷かれた
まっすぐに進みたくて
遠回りをして ここへ来てしまう
新しくできた道が 新しくはなくなり
小綺麗な家がひしめいて 街並みを変えた
もう あの頃の親の歳を超えてしまった
 
本を離して読むわたしを
老眼だ、と
あなたは 今夜もからかうのだろうか
 

 
「T字路」についての感想                      松下育男
 
 この詩も今回のZoom教室に提出された詩です。黒田明伽さんは二回目の登場。今回の詩も、読むほどになかなかよくできているなと感心してしまいました。
 
最初のところを読むと、初恋の思い出かなと思われ、最後に会った時のときめきと、きちんと言葉を交わせなかったことを思い出している様子は読んでいてもどきどきしてきます。というのも、僕にもちょっと似た体験があるからなのです。(だれも興味がないだろうから詳しくは書きませんが)。
 
さらに、その当時はT字路だったのが、時とともに道がまっすぐ通されて、その両側に家が建ち並ぶ、というのも時間経過と映像が目に見えるようです。新しく造成された住宅地のまっさらな風景が見えてきます。
 
それから最後にまた「あなた」が出てきて、初恋のまま会っていないのかと思っていたら「あなたは 今夜もからかうのだろうか」とあり、どうも二人はその後結婚して、一緒になった様子です。
 
読んでいて見事にだまされましたが、こんなだまされかたならいいかなと思わせられる、そんなほっとさせてくれる詩になっています
 
なるほど、かつてはデートの後ここで、あなたは右でわたしは左にわかれたT字路の、真ん中にまっすぐな道ができたというのは、二人の間の関係に道が通った、ということなので、その道を今は二人で通れるというわけです。
 
なにげなく書いてありますが、緻密に計算されたとてもよい詩になっています。

 
(37)
 
「とどけもの」   雪柳あうこ
 
しずかな日曜日の午後
夕方に差し掛かるころ
インターフォンが鳴る
 
届けられたのは
化粧箱に入った
ひとつかみの 心
 
とどけもの、受け取りました。早速、風にさらして水に活けて、日の当たる窓辺に、飾りました。獣を飼うのも植物を育てるのも全く得意ではないのですが、せっかくとどけて下さったから、このまましばしお預かりします。―――――季節の変わり目どうぞご自愛を
 
受領の報せは書いたものの
宛先はやはり書けないまま
生えつつある 根
 
今は、美しくてきれいでも
きちんと世話をしなければ
あっという間 に
 
いつだったか、せっかくあなたから送ってもらった心を大事に、日の当たる窓辺に飾りました。けれど病ませてしまったのです。短い手が生え、やがて足が生え、獣の如き雄叫びを上げるのです。知らせずに黙って処分しました。どうかわたしを忘れてください。もう、とどけものはいりません。―――――――――――――不在通知もいれないでください
 
しずかな日曜日の午後
夕方に差し掛かるころ
窓辺を見つめ耳を塞ぐ
 
許可なくやってくるものは
いつも、恐れを孕んでいる
ひとつかみの、わたし、――――――――――――――――――――とど け、も、の
 

 
「とどけもの」についての感想 松下育男
 
 この詩も前回のZoom教室に提出された詩ですが、思わず読みふけってしまいました。それだけ読み手を引きつける力を持っています。詩の、心地よい引力を感じます。
 
雪柳さんの詩は、ぼくが解説するまでもなく、詩を読めばそのよさがじかに染入ってきます。とは言うものの、いいなと思った詩は、そのよさを人に伝えたくなります。よいと思える詩をたくさん読んでいると、自分もよい詩が書けるようになると思えてくるし、そのようなことは確かにあると、ぼくは信じています。
 
いくつかすごいなと思った点があったのですが、まず「心」が郵送でとどく、という設定が新鮮に感じられます。この設定だけで読む人はいろいろなことを想像します。本来、「郵送」とか「郵便」にまつわることって、詩に書く人が多いので、新しいものを作り上げることはなかなかむずかしいのです。でも、こうやって読むと、詩人が一人出てくれば、みんなが見ていたものでも、新しい詩に仕上がるものなのだなということがわかります、
 
それからさらに、あなたの「心」が届けられるとありますが、それは決してふんわりとした幸せな行為ではないようです。以前にも届けられたことがあって、その時にはその心を病ませてしまって捨てたのだと書いてあります。このへんはすごいです。何があったのかと考えてしまいます。
 
心から手足が生えてきたり、叫び声をあげたりというのは、なんとも恐ろしく、心というものの異様さがよく表されています。人と人の関係のむずかしさをうまく書いているなと感心してしまいます。
 
それから最後のところで「おとどけもの」という言葉の中には「けもの」の三文字が入っているのだと種明かしのように書かれています。単なる言葉ではありますが、おとどけものから手足が生えて叫び声をあげ始めたのも、なるほどそういうことだったかと頷いてしまいます。
 
無理のない、それでいて新鮮に感じられる発想というものが、詩にとっては求められていることなのだということを、この詩は教えてくれています。見事な詩です。
 
そういえばぼくのところにもお届けモノは結構来ます。たいていは詩集です。それなりの手足が、生えているような。
 

 
(38)
 
 
「斫る」                          橘しのぶ
 
ドアを開けると、男が立っていた。
「角のお宅、ハツリますんで、ご近所さんにはご迷惑をおかけしますが……」
深々と頭を下げた。名刺には、設計・施工に並んで〈斫り工事〉と記されている。コンクリートを削って、粉砕することらしい。初めて聞く言葉だった。感染症が蔓延しているので、男はマスクを装着していた。マスクの下で、分厚い唇が、ほくそ笑んでいるのがわかった。
 
角の洋館には、老婦人が一人で住んでいた。話したことはなかった。月の明るい晩だった。眠れなくてコンビニに向かう道すがら、門扉にもたれるようにして佇んでいる彼女を見かけた。誰かを待っているにちがいない。身綺麗に和服を着て、白い髪は、後ろで一つに束ねられていた。帰りは、経路を変えた。
 
救急車のサイレンで目が覚めた。音はすぐ止み、再び鳴り、遠のいた。彼女の孤独死。たまってゆく新聞を不審に思った配達員の通報で発覚した。玄関の三和土に、携帯電話を握りしめたまま、突っ伏していたという。通話履歴は消去されていた。
 
着信音が鳴って、電話に出ると、
「とことん斫ります」
と、どこかで聞いた声。不意に抱きしめられ、のけぞったら、厨で米を研ぐ私がいた。ボールに水を張って、ざっざっざっざっ。とことん研ぐ。水しぶきが火花になる。約束が燻ぶり始める。手が真っ赤に腫れあがる。私は米を研ぎ続ける。ハツラレルとは、こういうことか。そんな夏もあった……。
 
「更地になるまで」
斫り屋は静かに言うと、〈粗品〉の熨斗の付いた包みを差し出した。工事は明日から、らしい。
 

 
「斫る」についての感想
 
見事な詩であると思います。
 
深い物語が読者に与えられています。
 
「斫る(はつる)」という聞きなれない日本語から、詩ははじまります
たしかに簡単な発音なのに聞きなれない言葉です。
 
知らない言葉と出くわして、驚き、その驚きの新鮮さを詩にする、ということは、詩を作る一つの道筋になっています。この辺の、詩へ入ってゆく角度も見事です。
 
ただ、この詩は珍しい言葉についてちょっと書いてみた、というような生易しい詩ではありません。その言葉をきっかけにして、すさまじく深いところまで詩を掘り進めています。
 
「角のお宅、ハツリますんで」というのは、業者が自分の仕事として、建物の土台を壊すだけのことなのでしょうが、この言葉を読んだだけで、もっと恐ろしいものや人の根源の動作を思い浮かべてしまいます。そのような恐さや奥深さがこの詩の全体に行き渡っています。
 
老婦人の死への顛末も「はつる」という言葉の響きからつながって、自然な流れの出来事のように錯覚してしまいます。
 
この詩の中だけの理屈や行為や想像力が、現実とは別にもう一つの世界の中のように存在しているようです。
 
老婦人が携帯電話を持ったまま死んでいたことも、通話履歴を消していたことも、一本の線につながれていて、その線はそのまま業者の斫り(はつり)につながっているようです。
 
さらに最後の連の「はつる」ことの恐ろしさの線の伸びが自分の日常の行為へも及んでゆくところは、ホントに見事であると思います。
 
言葉ではとても言い表すことのできない心情をしっかりと言葉で表現することが、優れた詩にはできるのだな。そんなことを思いながら読みました。
 

(39)
 
"のっぺらぼう"               ユウアイト
 
 
顔が無くなっていきました。
 
いいえ。意識はハッキリしていました。なぜなら、その時私たちは保育園の説明会で質問する内容について、冷静に議論していましたから。
 
はい。娘がいます。双子で生まれる予定でした。
「バニシングツイン」と呼ばれる現象で、子宮に吸収されて消えてしまうのです。流産と同じで珍しいことではないようです。当然、妻は大変ショックを受けていました。
 
はい。気丈に振る舞っているように見えましたが、時折ふと遠い森を眺めるような表情をしていました。
 
はい。遠い森です。実際の距離のことではなく、記憶の中の森。妻は自然豊かな田舎の生まれでした。そこは随分と様変わりしました。長らく帰っていません。心が痛むのでしょう。
 
いいえ。特別な感受性を持っていると感じたことは一度もありません。一般的な性格だと思います。故郷の都市開発も特別、珍しいこととも思いません。
 
はい。その通りです。遠い森を眺めるような表情を度々目にするようになりました。
 
はい。
出産を終え、丁度四十九日目。私たちはリビングでテレビを見ていました。政治不審から起こった大きなデモを食い入るように見ていました。その時、妻はあの遠い森を眺めるような表情をして、固まってしまったのです。
私は声をかけましたが、反応はありませんでした。代わりに娘が母乳を求めて泣きました。すると
「みんな同じ顔、なんか怖いね」と
妻が呟きました。デモに集まった人々が映像一杯に詰め込まれて、
一斉に国家に向けて主張しているところでした。
その日から度々デモは流れ、度々それは起こりました。
 
はい。一週間前です。
顔が無くなっていきました。
眉、目、鼻、耳と上から順に無くなっていったのです。
 
はい。確かな順番です。妻は音楽家なので、耳の位置が常に低いのです。そして最後に口も無くなっていきました。
それから一時間ほどでしたが妻は顔がないこと以外、普段通りでした。娘に授乳を済ませ。保育園のパンフレットを開いていました。
私はその方が良いと思い、ベランダでしばらくタバコを吸いました。
十分ほどです。戻ってみると妻はいなくなっていました。消えてしまったのです。
 
はい。警察には連絡しました。
 
いいえ。顔が無いことは伝えていません。
 
はい。
私に話しかけているような姿勢は見せました。しかし、実際には声は聞こえませんでした。会話になっていないにもかかわらず、妻はどこか納得した様子でした。そんな気がしました。
 
いいえ。私たちはもともと会話の多い夫婦で、それを大切にしていましたから。
 
分かりません。妻は自分の顔が無くなったことに気づいていない様子でした。目も耳もしっかりと機能しているようなのですが。そうですね。どこか全く別の世界の私や娘を相手にしている、そんな感じでしょうか。
 
分かりません。
故郷の森を失い。片方の子を失い。
顔、聞く耳、主張する口を失い。
妻は消えてしまいました。
今は、そのように捉えることしかできません。
 

 
「"のっぺらぼう"           」についての感想          松下育男
 
 いきなり奇妙な設定を持ってくる、というのは詩によくあります。鬼が出てきたり、幽霊が出てきたり、どんな設定でも、書く人の自由です。

 いきなり奇妙な設定を持ってきた詩は、とりあえず読者を驚かせます。いったいこれはなんだと思わせます。その驚きを、どこまで詩の中で保ち続けられるかが、詩の評価に繋がってきます。多くの場合は、なんだくだらないと思われて、最後まで読んでもらえません。
 
 この詩も奇想の詩です。「顔が無くなっていきました。」で始まっています。衝撃的です。どうしてだろうと思います。何があったのだろうと思います。それから、この詩は大丈夫だろうかと思います。単に驚かせてくれるだけで、すぐにくだらない詩になるのではないかと疑います。
 
 でも、読んでみればくだらなくありません。よい詩です。途中でゆるんできて普通の詩になってしまっている、ということもありません。一行目の衝撃をきちんと保って最後まで書ききっています。お見事だと思います。
 
この詩の中でぼくが特に好きなのは「妻は音楽家なので、耳の位置が常に低いのです。」のところです。そんなものかなと一瞬思い、そんなわけはないだろうと思い、いやこの低さは心構えのことかなとも思い、様々に思いを巡らせますが、とにかくよい一行です。
 
恐いのは、顔が一気になくなるのではなくて、上の方から徐々になくなってゆくところです。じわじわ病が広がってゆくようです。
 
「妻は自分の顔が無くなったことに気づいていない」というのも、恐ろしく感じます。もしかしたら自分も、気がつかない内に、だいぶ前から目鼻を失って生きていたのではないか、それは実際の目鼻でないにしても、真実の目鼻をうしなってはいないかと、考えさせられもしてきます。
  
 奇想は奇想そのものが面白いとともに、その裏側の、当たり前の現実の恐ろしさを照らしてくれてもいるのだなと、この詩を読むと思います。
  
(40)
 
「これから泣こうとしている」              山川さち子
 
 
よくわからないけど
さっきから
泣きたくなっている
理由など
わざわざ探さなくとも
この世界に
生きてゆくには邪魔なほど
転がっている
目を開けて耳を澄まして
いさえすれば
夕食にはバラエティー番組を
それも悪くはない
けれどもどうしても
自転車が奇妙にカーブしてしまうみたいに
上手くは運ばない日もある
ときどき頭を休めなくちゃあ
ときどき泣き出さなくちゃあ
安酒に溺れなくちゃあ
大好きな人と話さなくちゃあ
 
四つ葉のクローバー
決して見つけられない
小学生が昨日会った子猫
来週まで生きていない
夏鶯が
まだ私を見捨てない
 

 
「これから泣こうとしている」についての感想
 
 
「好きに理由はない」という言葉がありますが、感銘にも理由はありません。
 
ところで世の中には、理屈抜きに惹かれてしまうフレーズ、というものがあります。それは特別凝った表現でもなく、気の利いた言葉でもありません。誰にでも言える言葉です。いつでも言える言葉です。それなのに、それが詩に書かれると、無性に惹きつけられてしまう言葉、というものがあります。「これから泣こうとしている」という詩句は、まさにそのようなものであると、ぼくは思います
 
「これから泣こうとしている」。この題だけでさまざまなことを感じさせてくれます。読む人それぞれが、そのような瞬間があったことを思い出してしまいます。
 
「よくわからないけど
さっきから
泣きたくなっている」
 
そうだよな、と思ってしまいます。「よくわからない」のです。でも「泣きたくなって」くるのです。生きているといろんなことがあって、つい考えすぎてしまって、とにかく泣きたくなるんです。
 
特別なことが書かれているわけではありません。でも書かれていることは、あくまでも等身大で分かりやすいし、多くの人が共感するだろうと思います。
 
二連目は、四行にさらに悲観的なできごとが書かれていて、最後の二行に救いの言葉が書かれていますが、ぼくだったらその間に、何か接続詞を入れるかなと思います。作者それぞれの書き方です。
 
この詩には、わかりやすい感情や思っていることを、そのまま書くことの表現の強靭さを感じます。表現というのはなんとも不思議なものです。どうしたら人に鋭く伝わるかは、個々の詩に任されているのです。
 
ともかくもこの詩を読めば、「これから泣こうとしている」人に、ぼくに何が言えるだろうと、思うばかりです。

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