直喩と透明と小さな差異 ― 石松佳詩集『針葉樹林』

直喩と透明と小さな差異 ― 石松佳詩集『針葉樹林』(思潮社)

 真っ直ぐな感想から書き始めよう。石松さんの詩を読んだ人は、だれもが直喩の見事さに圧倒されるだろう。ところが、よく見てみると気付くのだが、時に直喩は単なる直喩ではなく、喩えるものが喩えられるものと同じ濃さで現れてくるという均等な世界になっている。あるいは、喩えたものが喩えられたものの現実を、そのまま引き継いでしまうという奇妙な関係性を持っている。

水溜まりを越えるとき、わたしは犬よりも臆病だった。ひ
とつの精神に対して、身体は買い物籠のように見透かさ
れていたかったのだが。今日は茄子が安いよ、と言われ
て、手に取る。
          (「梨を四つに、」)

 言うまでもなく、買物籠はもとから詩に参加していたものではない。すかすかに見通される編み目の様子としての身体を喩えた言葉にすぎない。しかし、詩の続きは身体ではなく、なんと買い物籠が引き受けてゆく。だから詩の中の人は、前の行までは存在しなかった茄子を手に取ってしまう。
 実体が、喩えられるもの(身体)から喩えるもの(買い物籠)に容易に移ってゆく。なぜそのようなことが可能かと言えば、おそらく石松さんの詩の中には、実体など初めからどかされていたからだ。詩の中にあるのはすべてが実体の投影であり、石松さんにとっての比喩とは、投影を別の投影に差し替えることのようなのだ。だから身軽に次の投影が見せてくれる世界に飛び移ることが出来る。
 とにかく、呼吸のたびになんでもかんでも美しく喩えてしまう。それが成功した時には、その比喩が詩の方向を変えてしまう。このような手法は、おそらく詩というジャンルにしか許されないものなのだろう。だからここに置かれた二十一篇のきれいな詩の小箱は、外側は別々の色を持っているように見えても、蓋を開けてみると中に何が入っているのかが見えない。読んでいる時には見えていたものが、読み終わった途端に作者の手がかぶさってきて見えなくなってしまう。読み終わった途端に、どの詩も内容が私から逃れ去ってしまう。意図して何も残すことをしていない。いや、何も残っていないのではなく、すべてが言葉の向こうへ透けてしまうように書かれている。

わたしは今まで、軽やかな田園というものを見たことが
なかった。胸に広がる水紋は、どれもひとしく苦しい。
微笑のような日々を、すやすやと送ること。遠くの橋梁
を見るときに聴こえるささやかな斉唱の。透けた布切れ。
                          (「田園」)

 まさに布切れも透き通り、文字も透き通ることがあるのだと、石松さんの詩を読んでいると感じる。文字が透き通るだけではなく、書かれている内容も完璧に透き通ってしまう。読み取れるのは、詩の向こうから差し込んでくる陽射しのまぶしさだ。
 詩の中には、光の断片としての町がひそやかに広がり、光の断片としての人が通りすぎる。人に語りかけ、人から語りかけられることがあったとしても、どのような返答も期待されていない。言葉は繋がるものではなく、細かく砕け落ちてゆくもの。思考の道筋さえもが途中で透明に溶けてゆくようだ。まぶしい断片が詩の中にたくさん嵌め込まれている。きれいに洗われてから使われている言葉たち。日本の詩という水溜まりに手を入れて、いちばん澄んでいるところを掬って作られた詩集だと思う。なんとも幸福な言葉たちだ。

 詩を書くものは大抵、自分が書いている詩なのになぜか書きたい詩にならない、書こうとも思っていない詩ができあがってくるという経験を持っている。こういう詩が書きたいという欲求と、書けてしまう詩にはギャップがあることを知っている。もちろん石松さんにもギャップはあるのだろうが、それは目を近づけて見なければ見えないほどの小さな差異ではないのか。石松さんは、詩がこうであって欲しいと思うその通りに詩を作りあげることのできる稀な人なのではないか。この創作の安定感はいったい何処から来るものなのか。生まれつきの詩人だからなのだろう。

 投影も一つの風景と考えてよいのなら、石松さんの詩は透き通った風景の叙景詩と言えるのではないか。詩集名の『針葉樹林』には、そのような意味も含まれてはいないだろうか。叙景詩の中なのだから、詩の一行一行は木々として立っているけれども、木と木の間に物語はいらない。それぞれの木が枝葉を広げ、すでに深い物語を含んでいるから。

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