2024年1月12日(金)詩に慣れてはいけない

金曜日だ。昨日も留守番をしていた。詩を読んで、ひとつひとつ、感想を書いていた。いつもと同じだけど、いつもと同じではない。詩は生まれたばかりだ。人に読まれることにまだ慣れていない。ならば、読むこちらも、詩に慣れてはいけない。いつまでも人見知りをするように、恥ずかしそうに、その日の詩に出会ってゆく。

ところで、昨夜、プレバトを観ていたら、お題が「大笑い」だった。

プレバトって、俳句を読んだあと、なるほど、と思って、それから、こちらの受け取り方が、先生の読み方と、どれほど違っているかを知ることができるから、面白い。すごく勉強になる。俳句も詩も、根本のところは一緒なのではないかと、思う。たぶん、文字で書かれたものが人を惹きつける仕組みは、どれも似ているのだと、思う。

だから、詩の教室で、あっ、この人は言葉と深い付き合いのできる人だなと感じて、経歴を聞いてみると、よく、俳句をやっていました、とか、短歌もやっています、という人がいる。

何年か前、「現代詩手帖」の投稿欄を担当していた時、最後の月に、すごく魅力的な詩を書いてきた人がいて、でも僕にとっては最後の担当月だったから、もう投稿詩を読むことはなく、この人はこれからどんな詩を書くだろうと楽しみにしていた。それで、ある時、文学フリマをぶらぶら歩いていたら、その人の名前を見た。歌集だった。ああ、あの言葉でなら、素敵な短歌をたくさん生み出すのだろうなと、妙に納得してしまった。

それで、話はもどって、プレバトの、お題の「大笑い」を見て思ったのだけど、そう言えば「大笑い」をしたことって、なんだかずいぶん長い間、ないな、と思っていた。

毎日過ごしているけど、この歳になると、お腹の筋肉が痛くなるほどの笑いなんて、していないな、と思った。

ではいつ頃大笑いをしただろう。なかなか思い出せないのだけど、高校生の時に、下校時に、飯田橋駅へ向かいながら、友人とくだらない話をして、大笑いをしていたことがあった。

ちょっとした言葉の加減で、おかしくて仕方がないことが、あった。

たぶんあれから、ほとんど大笑いなんて、したことがない。

もったいないなと、思う。

でも、仕方がないとも、思う。だって、ちょっとした言葉におかしくて仕方がなくなるほどの、繊細な感受性を失ってしまった、ということなのだから。

今さら、大笑いのできる感受性なんて、どうしたって取り戻せない。

でも、かつて大笑いをしたことを懐かしく思い出せる、穏やかな老後を過ごせてはいる。

ないものを追うような生き方ではなく、ここにあるものを慈しむような生き方をしてゆこう。

残った感性を両手で取り囲むようにして、残りの人生を生きてゆこう。

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