2024年5月18日(土) 自分なんかが詩を書いて、なんになるというのだろう

土曜日です。今日もよいお天気です。我が家の文鳥(点ちゃん)は、外が明るくなるので、早朝から鳴き始めます。ぼくは眠い目をこすりながら、やおら起き上がって、朝の餌をあげにゆきます。

ところで、昨日のnoteに「こじんまりとした詩の集まりが好き」と書きました。それで、そもそもなぜぼくは、詩の教室や講演をしに、外出するようになったのだろうと、思いました。

家にいて好きなことを書いていれば、楽しいことは楽しい。それはそうなのですが、なんというか、声を通さなければ分かってもらえないこと、というのが、あるような気がするのです。

それはぼくが生きているうちにしかできないことです。それでいいと、思っているのです。

書くことと、語ることの、両方を、できるだけやって生きていたいと思うのです。

今月は峯澤典子さんとの「詩のお話会」で詩の話をします。

来月は横浜詩人会で、講演をします。

それから7月からしばらくは、違う場所で話をすることが決まりそうです。

11月には、少し遠い場所へも行って、話をします。

どれもこれも、ありがたくて仕方がありません。

「詩が好きなのだけど、いつも同じようなものしか書けなくて悩んでいる。」

「人の詩が眩しく見えて、自分の書く詩がみすぼらしく感じて仕方がない。」

「年をとってから始めた詩で、何が書けるのか不安だ。」

「自分なんかが詩を書いて、なんになるというのだろう。」

さまざまな思いの中で、それでも詩に惹かれて書いてしまう人はたくさんいます。ぼくもそうでした、いえ、ぼくもそうです。

ぼくが、自信なさげな人と膝を交えて語りたくなるのは、朝の光がさせば鳴き始める、我が家の小鳥と同じなのです。

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