「現代詩の入り口」27 ― 自分の詩の居場所を見つけたいと思うのなら、上手宰の詩を読んでみよう

ここに載せるのは、2024年6月15日の「横浜詩人会」での講演のために用意した原稿です。残念ながら時間が足りなくて、話せなかった作品です。

すべて上手宰さんの詩です。次の5編になります。

二人づれのif (詩集『追伸』から)
忘れ物 (詩集『夢の続き』から)
さびしい模型 空 (詩集『香る日』から)
判定 (詩集『香る日』から)
手袋と春 (詩集『しおり紐のしまい方』より)

上手さんの詩と、その詩についてのぼくの鑑賞が載っています。よい詩ばかりです。どうぞ。

二人づれのif (詩集『追伸』より)

   夜更けて翻訳をしている
   ifという単語の多い論文だ

軽いめまいを感じて目をこらすと
ぼんやりした視界の中で
ifが寂しい二人づれに見えてくる
頭を垂れてさきを歩いていく男と
うしろからついていく僅かに背の低い女
男は何かを待ちうけるように大きく手をひろげたまま
満たされないジェスチャーをかたどり
女は男の弓形に曲がった背中だけをみつめて
ひっそりと歩きつづける

はりがねのように痩せたifは
長い影をひいて遠ざかる
ときどきかすかに伝わってくる金属的な響きは
彼らがさびしく抱き合う音だ
夢のほころびのなかに住みついたifたちは
忘れかけた頃
私たちの心の中を歩きまわるだろう
年老いた悔恨につきそう杖のように

ifが失なわれるのは
その片方が倒れたときだ
深い穴の底に一本のはりがねが置かれ
土がかけられる
残されるのは
知恵の輪の片われのように
夢見ることもないアルファベットの一文字――

   ふとわれに帰る。「エアロゾルバルブの孔径と吸入毒性」と
   題する技術論文の最終行を訳出し、原稿用紙に書き込むとこ
   ろだ。ifは英文の奥深くに戻っていき他の言葉と区別がつか
   ない。

「二人づれのif」について

詩の発想というのは、どこから生まれるものなのか、だれか統計とってもらえないものでしょうか。

この詩の発想は、翻訳という仕事中に生まれたようです。なんにもないところから、単に発想を絞り出す詩も、悪くはないのですが、この詩のように、詩へたどり着いた道筋が描かれている詩は、無理なく読み始めることができます。

英語の論文の中にifと言う文字を見て、その意味を日本語に訳していたはずなのに、ある瞬間に、意味が取り払われて、言葉の姿そのものが見えてきてしまったようです。

面白いのは、表音文字であるアルファベットそのものの姿を、見てしまっていることです。アルファベットそのものには意味はありません。その組み合わせで、無理やり意味とつなげられています。しかし作者には、アルファベットの形そのものに、意味を見いだし、さらにその人生をも見てしまいます。

ここで描かれているifの二人は、おそらく作者と、作者の奥さんになぞらえているものなのでしょう。こうしてif の文字を含んだ論文を翻訳して得た報酬で、論文の外のifの二人連れは、生きている、ということです。

ifの文字の形は、なるほど言われて見れば人に見えないでもありません。そして、文字や言葉そのものというのは、昔から多くの詩の発想として使われてもきました。

また、その形からだけでなく、ifという言葉の意味も、「もしもこうなっていれば」「もしもこうであれば」と、人の願望や夢や願いに、容易に結びつくものであることも、この詩に色つやを加えています。

仕事中に出会ったアルファベットに、深夜、思いを馳せている内に、仕事も、家族も、詩も、言葉も、作者にとっては当分に愛すべきものなのだということが、わかってきたのかもしれません。

言葉から発想される詩も、豊かでみずみずしい感性によって、これほどの詩になるのかと、思いました。

忘れ物 (詩集『夢の続き』より)

骨箱が電車に置き忘れられるというのが
話題になった時代がある
忘れたふりをして
逃げ去りたかったのか
遺失物の届けも出されなかった

だがその光景は私にやさしい
座席にちょこんと腰掛けた骨箱が明るい日差しの中で
どこまでもどこまでも運ばれていくのだ
生きていたとき
車中で眠り込み、もう起きたくない
このまま帰らぬ人になってもいい
そんな幸せな死を夢見た人がとうとう
その夢を果たしたようだ

もう駅の名前を知ろうときょろきょろしなくていい
もうあなたは、どこで降りなくてもいい
遺族が置き忘れたのではなく
あなたは自分の意志でそこに座っているように思えてくる
うたた寝しながらあなたは
一度も行ったことのない遠くへ行くのだ

地下鉄とか、新幹線ではなく
踏切を通過するときにカンカンと
警報機の音が耳元に聞こえてきては遠ざかる
そんな電車がいいね
気が付けば、車両には乗客もまばらで
誰が置き忘れて行ったのか見ている人もいない
その骨箱が自分で電車に乗り込んできたと言う人が現れても
誰も不思議に思わないほど のどかな風景だ

忘れ物でない死などどこにあるだろう
電車が走っていたからには
時も静かに流れていた
外には風が吹いていただろうし
電車が停車すると、小さな衝撃で
箱はちょっと横にずれたにちがいない

「忘れ物」について

死を描いています。死は、詩の中心にあるテーマです。というのも、どんなことを書いても、突き詰めれば、死に何らかの関係があると思われるからです。わたしたちは生きているから詩を読み、詩を書く事ができます。「生きているから」と考えることは、そもそも死を考えていることになります。

死を、上手宰はどう描くだろう、というのはとても興味深いものがあります。読んでいただいた通り、死でさえも、温かく柔らかい言葉によって包まれています。

電車に置き忘れた骨箱を見て、「車中で眠り込み、もう起きたくない/このまま帰らぬ人になってもいい/そんな幸せな死を夢見た人がとうとう/その夢を果たしたようだ」なんて、ほかのだれも考えません。上手さん独特の思考方法です。この詩の中では、骨箱も、骨も、生きていたそのままの体温を保持しているようです。

そして骨になった人に対してこう言います。「もう駅の名前を知ろうときょろきょろしなくていい/もうあなたは、どこで降りなくてもいい」「うたた寝しながらあなたは/一度も行ったことのない遠くへ行くのだ」。

なんて優しい言葉なんだと、驚きます。確かに、電車に乗っているときには、大抵目的があります。通勤であったり、用事であったり、そうした用事で乗る電車は、何時までに降りなければと、常に気をつけています。ですから、もうそんなことを考えなくていいのだよ、時間を忘れて、好きなだけうたたねをしながら乗っていていいのだと言っています。

うたたねしながら乗っている耳には、踏み切りのカンカンという音が聞こえ、その踏み切りで待っている人たちは、骨になった人が生前に知っていた人たちなのでしょうか。親友もいて、恋人もいて、若い頃の両親もして、時間を取り払った電車を、みんなが見つめているのでしょう。

最終連、「忘れ物でない死などどこにあるだろう」という一行に、だれもが立ち止まります。そして読む人ごとに、さまざまな思いにとらわれます。

死を描くことは、生を描くことです。繰り返しになりますが、死は、詩の逃れられないもっとも重要なテーマです。死さえにも体温を感じさせてくれる詩を書くことができるのかということを、この詩は教えてくれています。

さびしい模型 空 (詩集『香る日』より)

  空

屋根の上に乗るのはこわいので
チョークで地面に家の屋根を描き
空に飛びたつ練習をした
綱渡りの芸人のように両手を広げ
バランスをとりながら歩いたりしたが
それでも足を踏み外した
チョークの絵から片足がはみ出ただけなのに
遠い地面に向かって君は落下していった
(飛ぼうとする意志を一度でも持った者なら
墜ちることも覚悟しなければならない)
屋根は絵だと決めたものの
空は絵になりきってくれていなかったのだ
ドイツには古くからの言い伝えがある
刃を上向きにしてナイフを置いてはいけない
神や天使がけがをするから
君が神だったのか天使だったのかを
誰も覚えてはいない

「さびしい模型 空」について

想像したことを詩に書く時に、いきなり想像を展開しても、どこかよそ事のように感じられます。ああこの詩人はこんなことを書いたのだなと思われて、それで終わりです。でも想像がしっかりと現実に繋がっていると感じられる時には、読む人もうっとりと想像の中を漂うことができます。

この詩は「チョークで地面に家の屋根を描き/空に飛びたつ練習をした」という行為の前に、「屋根の上に乗るのはこわいので」という理由が書かれています。そして、この理由が書かれることによって、この詩に説得力が生まれ、なるほど「こんなこともあるだろうと」思わせてもくれるのです。

もしこの詩が、いきなり「チョークで地面に家の屋根を描き/空に飛びたつ練習をした」と始まっていたならば、ああこれは詩を書くための言葉上の動作でしかないのだなと思われ、そのあとも、それなりにしか読まれないと思うのです。

それで、この詩のすごいのは、地面に書いた屋根から落ちて「遠い地面に向かって君は落下していった」と書いてあるところです。読んでいる人のだれもが、あり得ない空間を激しく落ちてゆくところを想像してしまいます。それはほとんどめまいのようなものです。

丸カッコで囲われた「(飛ぼうとする意志を一度でも持った者なら/墜ちることも覚悟しなければならない)」のところは、詩人が想像によって詩を書く事の覚悟が書かれていると読むことができます。

さらに駄目押しのようにして「空は絵になりきってくれていなかったのだ」と書いているところからは、自分のものにできた見事な想像を、その可能性の限り手放そうとしない作者の喜びが感じ取れます。

そして最後のドイツの言い伝えも、なかなかよくできていますし、詩的です。もしかしたらこの言い伝えから書きだしても、一編の見事な詩ができたかもしれません。

でも、よその想像力よりも、自身の想像力を優先して、この詩はできあがったようです。

想像力を働かせて詩を書くためには、きちんと現実からその想像への繋がりを用意しておく、そんなことをこの詩から学べます。

判定 (詩集『香る日』より)

知りあいに似た顔に町中で出合う
その人ではないかと
近づいていくあいだ
似ている要素はどんどん大きくなっていくが
ある瞬間
一つの要素が決然と言い放つ
違う と

たくさんの「似ている」を
押しのけて
たった一つの「違う」が全てを決定する
確信に満ちたその判定が下れば
一顧だにせず遠ざかっていくことに
人々がためらうことはない

向こうから
あなたに似た人が歩いてくる
二人はどんどん近づいていく
その顔がほほえんだと同じ瞬間
私もほほえんで手をあげる

それはとても不思議なことではないだろうか
あなたがあなたであることに
たったひとつの「違う」さえ
紛れ込む隙間がないということは

知りあいはそのように
近づいていくことでお互いがわかるが
愛し合う者たちは
もっと不思議なのだ
どんなに遠くても
豆粒のように小さい姿の中にも
それがわかる

遠いところから手を振られるとうれしいのは
そういうわけなのだ
顔だって
ぼんやりとしか見えないのに
ひとかけらの「違う」もないと
あんなに遠いところで 手を大きく振っている

「判定」について

この詩には二段階の発見がしまわれています。そして読む人は、最初の発見だけでじゅうぶん詩として成立していると思っているので、その先にもうひとつの発見が潜んでいることを知った時に、より大きく感動をするのです。

ひとつめの発見は、知っている人を認識するときの段階について書いているところです。

向こうから来た人を「知らない人」だと判定するのは「たった一つの「違う」が全てを決定する」とあります。なるほどそうだなと頷いてしまいます。本人か、本人と似た人であるかは、ほとんどが同じでも、どこかが微妙に違うものです。そしてその微妙さは、部分的な微妙さではあっても、全体を覆うほどの微妙さであるのです。

こんなことは考えたこともないなと、この詩を読みながら思いました。だれもがあたり前に感じていることに、目を向けて、それについての発見をすることのすごさを感じます。

そして、「知っている人」とは「あなたがあなたであることに/たったひとつの「違う」さえ/紛れ込む隙間がない」という記述の見事さには驚きます。そしてその驚きは、人がこの広い世界で、この悠久の時間の中で、「知りあう」ことそのものの驚きにも繋がっています。

ただ、この詩のすごさは、ここで終わっていないことです。その「知りあい」の中でも、特別な「知りあい」、つまりは「愛している人」は、「知っている人」を認識する段階も必要もなく、遠くからでも「ひとかけらの「違う」もないと」わかるのだと書いてあります。

それがふたつめの発見です。

そう言えば確かにそうです。かりによく見えなくても、好きな人の居場所は、身体のどこかで感じてしまうのでしょう。

人と人が知りあうことが奇跡なら、人を愛し、人に愛されることは、奇跡を凌駕するものだと、この詩は書いています。

ともに生きる人、どこか気になって愛し始める人とは、単なる偶然ではなく、もっと深く受け止めていたいことなのだと、この詩は教えてくれています。

この詩も、あたり前に過ごしていることを見つめ直し、あたり前に共にいる人の存在を、輝かせてくれています。

この詩も、誰でもが知っていることの中に、書くべき新鮮な隙間を見つけているところが、見事だと思えますし、もう一段深いところから、人の命を見つめています。

手袋と春 (詩集『しおり紐のしまい方』より)

柵の棒のひとつに
毛糸の手袋がかぶせられていた
あなたの落し物はここ
と手招くように
柵は暖かい帽子をもらったようにうれしかったが
いつまでたっても手袋はそこにあった
寒い季節が過ぎ去り
春が来ても
落とした人は
いつもここを通る人ではなかったのだろう
二度と通らない道をその人は
なぜその日通ったのかを想像する
そしてその日 なぜ手袋を脱いだのかと
冬なのに暖かい日だったのだろうか
でなければ
手袋をしてでは触れることのできない
大切なものをさわったのだ

あれは落とした時に音がしないもの
歩み去る人を
呼び戻そうと声をあげたりせず
地面にうずくまっているもの
自分が仕える手だって口はきかないので
その真似をしたがったのだ

私もたくさんの手袋をなくしてきたから
もう新しいのはもらえなくなった
探しにいくには
この世界は広すぎるし
心の中はもっともっと広い

落とされた手袋よ
人の手を温められなければ
空を指差せばいいよ
そう思う間もなく
指は何かのスイッチを押したのか
春の日差しがやって来た

「手袋と春」について

おそらくこの詩は、作者が通る道でふと見つけた情景なのでしょう。道にそって立てられている柵のひとつに手袋がかぶせられていた、それだけのことのようです。

それだけのものから、作者は想像を膨らませます。そしてその想像は、一編の詩に仕上がっています。

この詩の優れているのは、誰もが目にするものから、その奥にある物語をつくりあげてしまうことです。そしてこうした物語を作り上げることができるというのは、日々を、あたたかい物語の中で生きているからなのだと、思うのです。

柵にかぶせられた手袋から想像したのは、なぜここで手袋をぬいだかということであり、普通の想像力ならば、暑かったからというところで済んでしまいますが、この詩はさらに「手袋をしてでは触れることのできない/大切なものをさわったのだ」と想像をします。なんともすごいと思います。

そしてこの大切なものとはなんだろうと、ここを読む多くの人は考えさせられます。

読み手が、詩の作者に、次々に温かな質問をされているような詩になっています。

そして詩の後半は、手袋を擬人化してしまいます。「歩み去る人を/呼び戻そうと声をあげたりせず/地面にうずくまっているもの」とあるのは、前の連の「大切なもの」からの繋がりでもあるのでしょう。

手袋をぬいで、勇気を出して好きな人の手を握った、けれど手は振りほどかれて、好きな人は去ってしまった、と考えるのは、ありふれた読み方でしょうか。

ともかく、声も立てず、取り残されたのは、手袋と、手袋の持ち主ででもあったのでしょう。

けれど、この詩は、そんな絶望のままに終わってはいません。

「落とされた手袋よ/人の手を温められなければ/空を指差せばいいよ」と、気持ちを切り替えています。

好きな人に好かれるなんてことは、めったにありません。だからこの手袋のように、じっと痛手を忘れるのを待っていればよいのです。その内、時が経ち、春がやってくるというものです。

この詩は、だれもが目にするちょっとしたものから、独自の想像を膨らませて優れた詩に作り上げています。それはなによりも、そうした想像がもたらされるように、日々を情愛深く生きて、感じて過ごしているからなのだと思います。

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