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奴隷制のミカタ

みなさん、こんにちは。Naseka です。
私は 哲学者・エッセイスト として、
自らを定義しています。

人類の負の歴史ともいえる「奴隷制」

現代に生きる者として、
その歴史を振り返ると
やるせない気持ちになる。
今の時代においては、
許される所業ではないだろう。

もし、今の時代に人身売買や
奴隷制を肯定する人がいたら、
私はきっと その人とは仲良くなれない。

だが、一方でこうも思う。
「奴隷貿易」が全盛期だった時代、
あるいはそれより昔の時代において
奴隷制を肯定していた人たちについては
私はさほど悪く思えない。

今回はそんな話。


サラリーマンと社畜と奴隷

そもそも「奴隷」とは何ぞや?
Wikipedia によれば、下記のとおりらしい。

奴隷(どれい、:slave)とは、人間でありながら人間としての名誉権利自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人のことである。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた[1]。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。

奴隷 - Wikipedia より

なるほど、これだけ読むと
やはり「奴隷」の立場というものは
辛く苦しい。

だが、同じページを読み進めて
古代ローマあたりの解説に差し掛かると、
正直 私はそこまで悲惨なようには感じない。
(そのような旨の記述があるせいかもしれぬが)

たしかに他人の「所有物」であったり、
売買の対象となったりする点は
現代の人権感覚からすると受け入れがたいが、
日々の暮らしという視点では
そう嘆くほどでもないような気がする。

現代の日本でさえ
表向きは国民皆平等を謳っているが、
現実は持てる者・持たざる者の間には
見えない壁があるように思うし、
一時期「上級国民」「下級国民」なんて
言葉が流行ったのも その意識の表れだろう。

日々の生活リズムだけ見れば

前述のとおり、他人の所有物や
売買対象である点は決定的な
「自由人」と「奴隷」の違いであるから、
その点は大前提として話を進める。

その前提の下で我々...といっても広範なので
ここでは会社員と古代ローマの奴隷の
日々の生活リズムを比較してみる。

職業・職務内容の差はあるだろうが、
両方とも とどのつまりは
「労働をすることで生活の糧をもらう」
ことに変わりはない。

もちろん労働の条件は
時代や国、社会によって変わる。

日本においてさえ、明治時代の雇われ人と
「24時間戦えますか」の時代の会社員と
令和を生きる会社員とでは
その待遇も感覚もまるで異なる。

明治時代の雇用条件 あるいは
産業革命期の英国の状況を知れば、
当時の労働者を見て
「これでは奴隷ではないか」と言っても、
抵抗感のある人は さほど多くないだろう。

時代と共に価値観は変わっていくのだ。

奴隷貿易の時代

「奴隷=悲惨」「奴隷制=極悪非道」
こうしたイメージは、
やはり大航海時代以降の
奴隷貿易にかかわるイメージや
米国をはじめとする黒人奴隷の受難の歴史の
イメージが強く作用しているように思う。

たしかに令和の世を生きる私にとって、
国・文化・肌の色が違うだけで
人間を人間扱いしない感覚には
およそ賛同できない。

だが、最近の学びで思うことがある。
それは
「人々の『当たり前』は、
 時代によって異なる」

ということだ。

奴隷貿易全盛の時代を生きた者と
話したことがないので分からぬが、
きっと彼らは現代の私たちが考えるほど
「奴隷制=悪いこと」とは
思っていなかったのではないだろうか。

その時代に生きた人々は、
現代において「奴隷制は悪くない」
と公言するような者と同じような邪悪さは
持っていなかったのではないだろうか。

「我々 白人と、彼ら黒人は
 (生物学的に)別の生き物なのだ」
というのが社会一般の認識であれば、
黒人を奴隷として使役することは
我々が牛や豚を家畜として扱うことと
本質的に近いことのように思える。

※ 強調しておくが、奴隷制そのものや人種差別を肯定するつもりはない。

動物園のチンパンジー

現代には動物園という名の娯楽施設がある。
言い方は悪いが、
動物を見世物にしている施設だ。
正直、私も動物園は好きである。

動物園にはゴリラやチンパンジーが
展示されているところもある。
その場合、それら動物は檻や離れた区画に
「閉じ込められて」見世物にされる。

非常に不謹慎なたとえだが、これを
チンパンジーではなく
「ヒト(ホモ・サピエンス)」
でやったらどうか。
現代では、間違いなく
批判の嵐に晒されるであろう。
人権侵害であることは、アホでも分かる。

この所業は、見世物となる対象が
ヒト ではない動物だからこそ
許されているのだ。

だが、ここで想像してみてほしい。
数十年後、あるいは何世紀かの後に
「チンパンジーは
 我々ヒトと同じ人間なのだ」
という価値観がスタンダードになったとしたら?

仮にそうなったら、その時代の人々の目には
現代の我々が行っているチンパンジーの展示は
「極悪非道」な所業にしか映らないだろう。

そんな「もしも」を考えたとき、
奴隷制が普通であった時代を
生きた人々に対して
私は「極悪人」とは思えないのだ。

まとめ

歴史を振り返り反省することは、
たしかに大切だ。
反省がなければ、改善も成長もない。

ただ、
「『当たり前』の感覚は時代によって異なる」
これはとても重要な考え方だ。

だから、過去の時代の人々の感覚を
現代の感覚で批判するのはアンフェアである。

たとえ数十年、いや数年であっても
「その当時の価値観はこうだったのだ」
と理解をする姿勢を大切にしようではないか。

お読みいただき、ありがとうございました。

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