三沢光晴選手インタビューの話

これは5年くらい前の文章である。
探して、コピペした。
レスラー以外の人は、当時のプロレスサークルのメンバーのあだ名である。

全日本プロレスの事務所に許可をもらって、砧の全日本の合宿所で三沢インタビューをしたのだった。
今はノアの社長だが、当時はまだデビュー一年生のグリーンボーイだった。


当然まだ二代目タイガーマスクになる前である。越中とのタッグはジャンピングボンバーズと呼ばれていたが、まだ外人との対戦経験もなかった。この年の最強タッグの決勝戦の日に蔵前国技館でジェイヤングブラッドと初の外人相手のシングルマッチをしたのである。


インタビューに行く時の手土産を俺は月刊プロレスの編集室に電話して尋ねた。タオルがいいというので、小田急に買いに行った。
インタビューは俺とKくんとパトラとゴミと鼻でかで行った。
なかなか砧の合宿所が見つからない。近くにあるファミレスによく行ってるから、そこで聞けば分かると全日本プロレスの事務所の人から言われていた。
近くに公園があった。鼻でかがその公園を雑誌で見たと言う。合宿所の近くにある公園と紹介されていたそうだ。
公園の近くを探したら、合宿所は見つかったのだった。
玄関を開けると、後藤選手出て来た。まだターザン後藤のリングネームになる前だった。
「あのインタビュー申込んであるんですが」「あ、俺だ」三沢選手が部屋の中から言った。
「どうぞ」上がって居間に通る。居間には後藤選手と川田選手と冬木選手がいた。
冬木選手はウォークマンを聞いていて、川田選手はテレビで山口百恵の赤いシリーズを見ていた。
俺たちが入っていくと、三沢選手以外は部屋に戻って行った。
そこで一時間以上、三沢選手のインタビューを行ったのである。
かなりヤバい話もしていた。年が近いので三沢選手も何でも話してくれていた。近いと言うより、鼻でか以外は、タメの同級生だったから。
谷津さんはダメですね。小鹿さんは酒癖悪いから。こんなヤバい話も三沢選手からされたので、
事務所とインタビューを掲載した本を送るって約束していた会報からは、この部分は割愛した。
インタビューの後、道場へ連れて行ってもらった。壁には馬場さんの写真があった。真中にはリング。
なんと俺たちはリングに上げてもらった。
Kくんはジャンボ鶴田選手を真似てトップロープを飛び越えようとしたが、足をトップロープに引っ掛けて、顔面から墜ちて一人フェースバスターを食らっていた。
リング上でも三沢選手から話を聞いていたが、鼻でかとゴミはリング上でブレンバスターをしていた。
合宿所の方を見ると部屋に石川選手がいた。会釈したら会釈を返して来た。石川選手はいい人じゃん!


2時間くらいインタビューと雑談をして、これ以上は練習の邪魔になるからと我々は、切り上げることにしたのだった。
そして我々は成城学園の喫茶店で、を飲んで帰ったのでありました。

当時はまだ我々には、ワープロもパソコンも無かったから、会報は手書きコピーだった。パソコンはまだマイコンと呼ばれていた時代で、太陽にほえろで石原良純さんがマイコン刑事だった頃である。
出来た会報は、全日本プロレス事務所には郵送、三沢光晴選手には後楽園ホールでの試合の時に手渡ししたのだった。

このインタビューは、昭和58年だったかな?

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