ケリー・フォン・エリック初来日

これは俺が大学3年の時だった。
まず時系列に沿って、遡る。
大学2年生の時、プリッツ・フォン・エリックの引退試合が、テレビ東京で放送されたのである。
当時のエリックランドには、父親のフリッツ・フォン・エリック、次男のケビン・フォン・エリック、3男のデビット・フォン・エリック、4男のケリー・フォン・エリック、ザ・グレート・カブキ、マジックドラゴン、キングコング・バンディなど錚々たるメンバーが揃っていた。


引退試合はキングコング・バンディとのシングルマッチであった。
この日にはエリック兄弟の試合やカブキとマジック・ドラゴンの試合も放送されたのである。

この視聴率が良かったのか、テレビ東京では土曜日20:00から世界のプロレスと言う番組を始めた。
エリックランドやロード・ウォーリアーズの試合が流れたのだ。
日本でのロード・ウォーリアーズブームは、ここから始まったのである。

話を戻す。
当時ジャンボ鶴田が返上しまUNヘビー級王座は、王者決定トーナメントで、デビット・フォン・エリックが獲得していた。
そのデビットが、全日本プロレスに来日する事になったのめある。
俺たちは楽しみだった。ケビンは背が低かったから、デビットこそ次のNWA王者になれる器だと思っていたから。
そしてデビットが来日。
土曜日の昼、俺は駅で東スポを買って驚いた。1面にはデビットの急死を報じられていたのだ。
デビットの初戦は阿修羅原とのシングルマッチだった。当時はまだ国際プロレスから来たばかりの中堅レスラーに過ぎなかった阿修羅原、まさか試合中のアクシデントか?だが、試合の前にデビットはホテルで急死していたのである。死因は色々言われているが、ここでは触れない。本筋ではないから。

デビットの急死の後、エリックランドでは、ケリー・フォン・エリックが頭角を表した。
そして、ケリー・フォン・エリックの全日本プロレスへの初来日が決まった。
プロモーションに全日本プロレス中継で、ケリーの映像が流れていた。テーマ曲としてI of the Tigerが流れていて、カッコいいプロモーションだった。
俺はケリーを気に入っていた。
うちのプロレスサークルのパトラは、ケリーのタイガークローを掴み取りゲームと揶揄してちたが、俺は気に入っていた。
父親のフリッツの殺気は無いが、フリッツに比べて今風の顔をしていたから。

初来日のシリーズでは、東京での試合は、初戦の三鷹スポーツガーデン隣ドアーズ駐車場特設リングだけだった。
だから俺と友人のKは、仕方なく三鷹スポーツガーデンドアーズを探した。このような会場表記だったから、三鷹スポーツガーデンとドアーズが別の建物なのも電話して調べて分かったくらい。

三鷹駅からバスに乗り、ドアーズ方向に向かう。
俺たちは三鷹駅は降りたのも初めてだった。Kは中央線沿線だったか、三鷹は未体験だったから。
バスを降りたら、まだ開場まで時間がある。
近くを彷徨うと怪しげな喫茶店があったので、そこに入った。
小さな店だったが、客はそれ風のおっさんたち。
スポーツ新聞見ながら、ギャンブルの予想をしていた。
俺たちは珈琲を飲み、時間を潰してから、ドアーズに向った。

駐車場特設リングは、俺は初体験だったなぁ。
パンフレットを買って試合カードを見る。
するとケリーの相手は大熊元司さんだった。
大熊元司さんは、初来日の実力未知数の相手とカード組まされる事が多かった。
試合は俺はタイガークローでの決着を望んでいたのだが、ケリーのディスカスパンチ1発で決着がついた。
ケリーは円盤投げやってたから、それを応用したディスカスパンチも得意技にしていたのである。
クローを見られなかった不満はあったが、ここでなければ関東でケリーを見られないのだから、それは仕方なかった。

ケリー・フォン・エリックがNWA世界ヘビー級チャンピオンになる前の年の事である。

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