noteを続けて良かったこと 自己にも受容と優しさを INFJ
ジャーナリングを始めた頃からその芽は出ていた。
子どもの頃。周りから浮いてることに気づいた頃から。幼稚園のときに花いちもんめで誰からも選ばれず、逆に自分から選ぶこともできなかったときから。私はまるでまだ生まれてきてなかったかのように、周りと同じようなやり取りはできなかった。一体なにをして過ごしていたんだろう。ただ存在していた。それだけかもしれない。でも花いちもんめは私にはショックだったんだ。なんで皆当たり前のようにできてるの?
観察して真似する。なんか違う。もっと観察する。あんな風に上手くやれない。それの繰り返しで、理想の人物像を作り上げてそれに自分をなんとか押し込めようと頑張って。ひとりになるとホッとする。そのままの自分でいいから。
大人になるにつれて擬態が上手くなってきた。でもさ、無理してる。
ジャーナリングして、noteに記事を書くようになって、自身を別の人間かのように客観的に見るのが上手になった。人見知りでちょっとコミュ障で口下手なそんな人もいるよねっていう普通の人だ。ひとり時間が好き。賑やかなところに行くのは好きでも疲れる。苦手な人に対して戦うよりも、すぅっといなくなりたい。憧れの理想の人物とはそもそも生まれ持ってるものが違うんだ。
私が他の人に対して、たとえその人がどんなに嫌な人であっても、行為自体は許さなくても、その人の在り方そのものは否定せずにそんなこともあるよねって、生まれてきたってことは何か意味があるんちゃうって認めることができるように、自身も受容することができるようになった。記事に書いてる本心を読むと、いいんちゃう、しゃあないんちゃう、周りに大きな迷惑かけないんやったらあなたの思う通りにしてもいいんちゃうって言ってあげられるようになった。誰も、お前は人非人だなんて非難してきたりしてこなくてそれだけで許されてる気持ち。肩肘張ってた人にふっと気を緩める言葉をあげられるように、自分にも。
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