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うまくいかないのは先祖のカルマではないし、高額なお祓いも必要ない


怪しげな寺院でお祓いを受けた思い出

社会人2年目の夏、ちょうどいまごろの話。私は大阪のはずれ、近鉄の某駅から歩いて10分くらいの場所にある寺院を訪ねていた。インターネットで見つけた〇〇観音という寺院で、昭和の空気が漂う商店街の中にあった。
なぜこの寺院を訪ねたかというと、人生があまりにうまくいっていないような気がして、お祓いしてもらいたかったのである。自分は呪われていて、お祓いしてもらわないとどうにもならないと思い込んでいたのだ。

〇〇観音は普通の民家のような建物であった。引き戸を開けると、優しそうな中年女性が迎えてくれた。私は、いろいろなことがうまくいかないこと、両親が事業に失敗して借金を背負い、苦しい生活を強いられてきたこと、その両親も病気で亡くなったことを話し、
「これはご先祖様の何かが影響しているのではないか?」
と訴えた。
その女性(口調が関西のおばちゃんだったので、おばちゃんと呼ばせていただく)は優しく受け止めてくれて、これからお祓いをしましょう、と言ってくれた。そのお祓いには3万円かかると言われたが、私は藁をも掴む思いだったので、駅前の銀行からお金をおろしてまた寺院に戻った。
寺院に戻ると、さきほどは普段着だったおばちゃんが、尼さんのような白い布をかぶっていた。お祓いの時間は1時間もなかった。効果があるかどうかはわからないが、私は何となくすっきりした気分で帰宅した。


うまくいかないのは、先祖のカルマではない

当時、私は「自分の状況は本当に最悪」だと思い、それは「先祖のカルマではないか」と思い込んでいた。
こう思い込んでいたのは、両親と、中学まで同居していた祖母の影響ではないかと思う。
両親が結婚後に見知らぬ街に連れてこられた祖母は寂しさから新興宗教に入信し、亡くなった夫や両親の骨を分骨してもらい、その宗教の納骨堂に納めた。両親の事業がうまくいかなくなり(うまくいかなくなったというか、正確には最初からうまくいったことなんてなかった)病気になったときに
「私が分骨したから、良くないことが起こるのではないか?」
と嘆いていた。
両親も努力するより、この宗教や、他の霊感商法にのめりこんでいった。

でも、果たしてそうだったのか?両親、祖母の人生が辛かったのは、先祖のカルマだったのか?大人になったいま、それは違うと思う。誰しも大変なこと、不幸なことに見舞われることはある。それに飲み込まれてますます不幸になったのは、彼らが適切な努力をしなかったからである。
長くなるのでまた改めて書くことにするが、両親のやったことは、
「どれだけ自業自得で不幸になり、周囲に迷惑をかけられるか」
の実験としか思えない。
誰が考えても「それを選んだらあかんやろ」と思う選択肢をあえて選択し、誰が考えても「そうなったらやり直しなよ」と思う状況でもやり直すことなくさらに間違いを重ね、挙句の果てに神頼みに走った。壮大なコントである。これをご先祖様のせいにされたらご先祖様も不愉快だろうし、そんな他責思考の子孫など守ってやろうとも思わないであろう。
祖母については息子夫婦に振り回され、どうしようもなかったのかもしれないが、息子をしっかり教育せず、あんなどうしようもない息子に育てたのは祖母の責任である。そのせいで自分が晩年に苦しむことになるのだから、やはり自業自得なのである。

子供時代は自分ではどうしようもないことが多いから、家族の中の大人に振り回されてしまう。考え方も影響されてしまう。だから、私も自分に起こる不幸なこと、好ましくないことを「先祖のカルマ」だと思い込むことがあった。どうにかして抜け出そうともがき、現実的な努力をせず、お祓いや占い、スピリチュアルにすがりつこうとした。
いまならわかるが、私が断ち切らなければならなかったのは、先祖のカルマではなく、両親や祖母から受け継いでしまった考え方の癖である。
悪いことが立て続けに起こる家では、家族の考え方や行動パターンが似ていることで、家族の構成員が同じような問題を引き寄せてしまうのではないかと思う。もちろん、人間にはどうしようもない不幸に見舞われることもあると思う。しかし、我が家が巻き込まれたのは大半が「人間の努力によって避けられた不幸」ばかりであり、避けるどころかこちらから突っ込んでいったとしか思えない不幸もあった。
これで「先祖のカルマ」とか言ってたら、霊感商法のいいカモになるだけである。


私に必要なのはお祓いではなく、地道な努力と感謝の気持ちだった

そもそも、当時の私の状況は「本当に最悪」というわけでもなかった。氷河期末期に就職活動をしたが、大手の外資系企業に就職し、縁もゆかりもない土地に配属されたが、その街の家賃相場を考えると安くはない借上社宅に住んでいた。未熟さゆえに会社ではよく怒られたが、人間関係はそんなに悪くなかった。
その街に来てからちょっと恋愛で悲しい思いをしたことがあったが、好意を寄せてくれる男性は何人かいたし、もっと出会いを増やすこともできたと思う。でも、当時の私にあったのは仕事関係と学生時代からの人間関係だけで、人間関係を広げる努力をしなかった。
こんな状況だったのに、私はなぜか「自分は不幸」と思い込んでいた。

当時の私に必要なのは、まず地道な努力だった。私なりに努力していくつかの壁を超えることはできたが、少しの努力と少しの成果で満足してしまい、それ以降はうまくいかないことばかり嘆いていた。
当時の私に言ってやりたいのだが、自分で「努力した」とか言っているうちは、全然努力していない。やるべきことをこつこつやること、そのために必要なスキルがあればそれを身に着け、問題が起これば適切に対処すること。あとは周囲への配慮を忘れないこと。
それを何年も続け、一段上の自分になってから初めて
「あのときの私、すごく努力したね」
と言ってもいい。
あとは感謝の気持ち。不思議なのだが、感謝の気持ちを持てるようになってから、後悔することが格段に減った。私の後悔の多くは、
「本当に不義理をしてしまった。迷惑をかけた」
という他人様への失礼な行いなのだが、普段から感謝の気持ちを持っていれば、そういう後悔するようなケースは格段に減る。
人間関係が終了したり、仕事などでいい結果にならなかったり、金銭面で損したこともあるが、そういうときもべつに後悔はしない。
のちのち振り返ると、
「人間関係は終わるべくして終わったんだ、むしろ縁が切れてよかった」
「あの仕事がうまくいかなかったから、方向転換してもっといい仕事をゲットできた」

と思えるようなことばかりである。
当時から、地道な努力と感謝の気持ちを忘れなければ、〇〇観音で3万円払うハメにはならなかったのだ。3万円あればいろいろ楽しいことできるじゃん、まったく。

なお、大阪の下町にあった〇〇観音は、ネットの情報によると、いまはもうないらしい。当時、あのおばちゃんが東京の某有名寺院の分院のように言っていたが、実際は関係なく、ただの街の拝み屋のようなものだったらしい。
そこに3万円を払ってしまったことを深く後悔している。



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