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#5 ちちおや

こんにちは、さくです。
今日は絶縁した父についてお話させていただきます。

父との記憶

下の子には優しく、わたしにだけ厳しい父

幼い頃から、父はわたしにだけ暴力的でした。
わたしが第一子だったためでしょうか。
母曰く、わたしの要領の悪さが父と似ていたから父は厳しく当たっていたのかも、とのこと。
また質の悪いことに、父は母の見ていないところでしか暴力を振るいませんでした。

短気

彼は本当に短気で、いつも怒っていました。
例えば足が遅いことに悩んでいたわたしに走り方を教えてくれるとき。
わたしは運動が得意ではないので、父の言うとおりに体を動かせませんが、それに対してすごく怒り散らかします。
例えば日曜日の朝、いつも遊んでくれない父に甘えたとき。
ついうっかり父を蹴ってしまった際(事故です)、ブチ切れて外に正座させられました。

「調子に乗るなよ」

彼が叱る(怒る?)とき、決まって必ず言うのが「調子に乗るなよ」
当時のわたしは「調子に乗る」の意味が分からず、何をしたから怒られているのかずっとわかりませんでした。
いつ踏むかわからない地雷に常におびえていました。

パフォーマンスとしての𠮟りつけ

彼は、人の多い場所でこそ張り切って𠮟りつけていました。
家族でショッピングモールに行った際、
差し伸べてきた父親の手を振り払うと、次に帰ってきたのは父の拳でした。
父はわたしが手を繋ぐを拒否したことに相当腹が立っている様子でした。
わたしは多くの人に見られながら殴られ、声を出して泣くのも目立つから嫌なので声を押し殺して泣きました。
休日の楽しそうな家族連れが不思議でたまりませんでした。

いいちちおや?

彼はとてもマメで、いつも笑顔で人当たりが良いです。
彼はわたしの友人が家に泊まりに来た時には豪華な料理をふるまいます。
友人には、「イケメンで優しくてお料理もできる素敵なお父さん!」と羨まれたものです。
「そんなことないよ!」なんて言ってもただの謙遜に受け取られる。
わたしは友人が帰ったあと、そとゆきモードでなくなった父がいつ怒り出すかに恐れてばかりでした。

自慢のムスメ

わたしが高校生になると、父は急に丸くなりました。
おそらく私が、市内で一番の(父の母校でもある)高校の一番難しい学科に入学したからです。
そして私は彼の自慢のムスメになりました。
その後も大学に進学すると大学名を自慢し、
大手の化学メーカに入社すると給料や社名を自慢しました。
親戚から「お給料〇〇円も貰ってるの?」といわれたときは本当に驚きました。
しかし彼が実際に私の大学での専攻や会社でのプロジェクトに興味を持ったことは一度もありません。
わたしは父の、父として親としてのランクを上げるための、子育て成功を周りに自慢するための道具でしかありませんでした。

羨ましいムスメ

彼は周りに自慢するだけではなく、
わたしに嫉妬してくるようになりました。
「俺はこんなに働いてるのに」
「俺はこんなに頑張ってるのに」
「お前はいいね」「ずるいね」「羨ましいね」

「お父さんが大学院まで行かせてくれたおかげだよ。
ここまで育ててくれてありがとう。」
この気持ちに嘘はありませんが、
嫉妬のまなざしを向ける父をなだめなければいけないのは苦痛でした。
わたしだって仕事がうまくいかなかったり、愚痴の一つや二つだってあるのに。

彼との絶縁

きっかけ

性被害に遭い、わたしはずっと帰らないようにしていた実家に帰らざるを得なくなりました。
彼は依然としてわたしに興味が無いようで、
事件に関して何も言ってこないばかりか、わたしにまた毎日のように彼自身の愚痴や身の上話を聞かせてくるようになりました。

なかなおり?

何度かわだかまりを解こうと話し合いをしたい旨を伝えましたが、
お得意のブチ切れで逃れる。
「俺がいなくなればいいってことやろ!!」
なかなおり作戦は失敗に終わりました。

というか、そもそも私が長年彼に対して苦手意識を持っていたことも全く気が付いていませんでした。
むしろ好かれていると思っていたようで、まさに寝耳に水、精神年齢の幼い彼は怒りの感情を出す以外のことはできなかったのでしょう。

実家に帰らない決意

自分自身の精神的な安定のためにも、父と絶縁することを決めました。
ちなみに父以外の家族とはちゃんと頻繁に連絡を取り合っています。



なんだかなあ、どこから間違えてたんだろう。
わたしの目線のみでこのノートを書いているため父は大悪党みたいになっていますが、彼も思うところがあったのかなあ。
親子として関わるのを諦めましたが、
人として、私が大人になって、ちゃんと接すればよかったのかな。

今日はここまで。
お読みいただきありがとうございました。

さく

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