見出し画像

『三次元と二次元』

  ある著名なファッションデザイナーさんと一緒に撮影をしていてふと思った。撮影するということは三次元の存在を二次元に置き換える作業で洋服をデザインして作るというのは平面な二次元の生地から三次元の立体物を作るということなんだよねーと。撮影とは被写体があり光があって初めて成り立つ行為だがファッションデザイナーさん達はまっさらな白い紙の上に一から絵を書き、そして三次元のものを生み出してしまう。羨ましいなと思った。僕は子供の頃から絵が全く描けなかった。他の子達はスラスラと下絵を描き色を塗っていく中で最後まで下絵すら描けず情けない出来ばえの画用紙を提出するのが常だった。ある時、レンガの建物を描くことになった。『そうだ下絵を描くから遅くなるんだ。直接、色を画用紙の上に乗せていけば描けそうな気がする』レンガのひとつひとつが点に見えた。その手前にある木々の葉も一枚一枚が点に見えた。点描画などいう技法があるなんて事も知らずとにかく見えたまま画用紙を点でいっぱいした。どういう経緯か忘れてしまったがその絵が小学生の絵画コンクールで賞をもらった。びっくりしたのは先生と親だ。いつも未完成な絵ばかり描いていたのにいきなり賞をとっちゃうなんて。結局うまく描けたのはそれ一回きりでその後はまた元のように未完成な画用紙を提出し続けた。

 雨上がりにできた水たまりに太陽の光がキラキラと反射しているだとか夏の夕暮れ時にサイクリングロードの終点に生えていたヒマワリが長い影を落としていたりだとかそういったことを絵に書いたり言葉にできていたのなら写真という手段を選んでいなかっただろう。写真と出会ってからは自分が感動したその瞬間をフィルムにギュッと閉じ込めるのに熱中した。そこにたしかにある三次元のものを自分だけの二次元の世界へ変換して記録する。愛おしく切ない行為だなと思った。

 最近、写真の性質が変わってきたなと感じることが多い。画像がブーストされてありえない空の色になっていたり一見すると綺麗なのだが一瞬これAIか?と思うこともある。今流行りの映えを否定するつもりは全くない。photographを『真実を写す』と訳したのが誤りで『光で絵を描く』というのが本来のニュアンスには近い。三次元のものを二次元に置き換えるという感覚というより自分で新しい二次元を作り出すといったところだろう。
フォトショップでレタッチをしたり背景を合成したりしていると自分が創造神にでもなったような万能感を感じることがある。

そこに切なさは無い。自分はどうして写真を撮っていたんだっけ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?