「ご遠慮ください」のご使用は「ご遠慮ください」
この頃青鳥に流行るもの、常識正義にBNC
Twitterでこのような趣旨のリツイートを見た方が最近多いのではないだろうか「『ご遠慮ください』とあるということは回数を減らせば大丈夫なんですねという解釈を聞いて驚いた」。確かにこのようなツイートをした人や主たる受け取った層にとってはこの「ご遠慮ください」は禁止を意味しているものであって、なぜ「禁止」と書かないのかというとそれは多く接客空間にあるようなこの手の書き込みによって「ルールを守る善良なお客様」が気分を害さないように柔らかい言い方を心がけているに過ぎない。そんなことは「まともに」育った「普通の」人であれば当然のことであるわけだ。
行く川の流れは絶えずして、しかも元の水に非ず
しかしながら最近こういった「常識」の感覚が急速に失われているという印象が少なくない人の間で共有されつつある。その変化に最も大きく「貢献」しているのはおそらくSNSだろう。家にいながら、あるいはどこであってもスマートフォンを操作すれば数分でそういったエピソードを収集することができる。巧く使えば広く世界中の、少なくとも日本語あるいはGoogle翻訳やDeepLで確認できる限りの知識を集結して何かあった時の対応能力を高めることができるSNSだが自分自身に直面する現実的な蓋然性があまりにも低いことをさも明日には我が身に起こるかのように思うこともできる。
最近では回転寿司店で起きた騒動、一昔前であれば所謂「バイトテロ」、そういった逸脱行動が個人単位での発信力を高め、注目させることに長けたネットによってネット普及前、動画サイト普及前、SNS時代前と比べて想像もつかないほど多くの人の目に留まるようになる。回転寿司店は2021年度データで日本全国に2,200店舗あり10年前の2011年と比べても1.6倍だそう(そんなに増えた印象はなかったので筆者もこの数字を見てちょっと驚いた)。無作為に入った店舗でそのような行為があり、しかも自分がその席に案内される可能性は(もちろんそれが許容できない人がいるのは自然な話だが)相当低いと考えて良いのではないだろうか。
ともあれパンドラの箱は開かれてしまった。西暦2023年を生きる我々は個人の小さな体験があたかも国際的なスポーツ大会や魅力的なアーティストのパフォーマンス並みの共通言語になりうる社会を生きている。ところがスマートフォンで世界とつながる我々の認知能力は、おそらく洞窟で大家族ごとに住んでいたような時代とそう変わってはおるまい。「最近○○が多いよね」という時、昔であればせいぜい自分の村の中でという意味だったところが現代であればSNSで何回か流れてくればになってしまった。さあ、これを「多くなった」と同じように認識し続けることは果たして妥当なのだろうか。
「光り輝く矛」
個人の発信力が高まり、これまでであれば周囲の人から黙殺されていたような課題が世界の集合知や資本力によって解決できるようになった。これが個人発信ができる自由なインターネット社会のもたらした功績だろう。皮肉にもこれは「炎上」も全く同じだ。
一人の逸脱が従来であれば直接の知り合いの間でこっそり「武勇伝」とされていたようなものから数時間内に数万人単位の知るところになる、知ってしまったら行動に反映させずに済む人はそこまでは多くない。必然的に数万人単位で「お問い合わせ」や利用を控えようという動きが積極的な呼びかけによるかはともかく発生する。それは企業を麻痺させ、以後の活動の継続そのものすら絶望的にしかねないのは皆様であればご存知だろう。
一件の逸脱行動が社会全体により大きなリスクをもたらし、その収束には多大なコストを求めるようになった。従来より確実に防いでいかなければならないということになる。
やさしいきんしじこう
一人ひとりの発信力が高まっているのにしかし我々の認知は根本的に変化していないとなると一件のトラブルが社会全体に大きな影響をもたらし、当事者にとってはより重大なリスクになりうる。そうなると禁止とされるような、それほどの理由があるようなものはより確実に示し、そしてその行動は事業者として認めたものではないと示すことは当然のリスクマネジメントとなる。
「知らなかった」「禁止されているとは思わなかった」そういった声が出るような可能性をより確実につぶしていく必要がある。それをしてしまうような人がどのような背景の人であっても言い訳にならない、あらゆる人が禁止事項を確実に理解して行わないようにする必要がある。「ご遠慮ください」というようなハイコンテクストな表現はその前提を共有できる人が少なくともその場において大多数を占めることがその実効力を担保していくために不可欠だが、逸脱行動1件あたりのコストが激増した今いよいよそれは現実的に望み得ないものになりつつある。
しかもそのハイコンテクストに対する親和性が低い層は概して属性に基づく差別の対象になりやすい傾向がある。多様で自由な社会の安寧を保とうとする時、いよいよ禁止事項は最もローコンテクストで誰もが分かるものにならなければならない。
最終的な行き着く先
さてここまで来ると「じゃあどうしようというのか」ということになるだろう、つまりこれからの時代では社会を、その場を守るために
・禁止事項ははっきりと示し
更に可能であるなら
・その理由は何で
・破ることにより(当人にとって)どんな不利益があるか
はっきり示す必要がある。
ここまで示してなお破ろうというのは自己責任であり、極力それによる悪影響が出ないようにする構造の整備が必要になる。是非はあるにしても上記した社会の変化から古き良き時代を取り戻すことは不可能と考えた方がいい。
そうして次世代における理想的な禁止事項の示し方はつまりこうなるのではないだろうか。
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