見出し画像

イボガ マイクロドージング体験編 19日目

この記事は、イボガという植物とシャーマニズムについて、これから触れる人のために書いていますが、体験者としての記録であるため、正確性に欠ける部分が見られるかと思いますので、正確な内容が知りたい方は、Japan Iboga Center(http://www.iboga.jp/)へアクセスしてください。

選択した画像は、熟した柿。
出張先で、庭になっている完全に熟しきった柿を一つ食べたのを思い出した。誰と比較するわけでもなく、難しい場所で、ただ大きく育ち、柿の実をつけ、鳥達に実を委ねる柿の木。
その柿の木の実・命が、自分の中で、身の一部になったことに、感謝の気持ちが湧いた。自己否定せず、ただ、歩むのみ、という解釈で受け取った。

マイクロドージング18.5日目

2022年12月24日・25日。摂取無し。
ちょっと遠方に出張。朝から大雪で新幹線が遅延し、到着時間がギリギリに。現地に辿り着けるか、帰ってこれるかを心配していたが、結果的に、ギリギリだけど到着したし、普通に帰ってこれたし、大丈夫だったので、ご縁があったということだろう。

18.5日目 自分の意見と人の意見

懇親会の話の流れの中で、求められていないのに「自分はこう思います」という発言をした。あまり余計なことは言わずに済まそうとする自分としては、これはとても珍しいことだった。
これはこれで自分は喋ってはいけないと感じるような心の縛りが解けてきている証拠なので、良い事だと感じた。
懇親会の席で、みんなが好きなことを、思い思いにしゃべっているだけなので、自分の意見は、たいして気にも留められず、そのまま流れていった。
その時に、小さな心の痛みを覚えた。
自分は、自分の意見が素晴らしいと思い、発言をして、それが人に認められ、すごいね!その発想は無かったね!というような類の称賛の言葉を欲して発言したのだと気がついた。
人に認められたい・・・という思いがあることが再判明した。

そして、これは、別の人と話をしている時にも感じた。
自分の考えを長々と伝えたのだが、頑張って喋りながらも、うまく伝えられなかったことが悔しくて、夜中にずっと、どうやったらあの時うまく伝えられただろうかと、頭の中を駆け巡って、なかなか頭から離れなかった。
相手のために伝えてあげたいと思ったではなく、伝えることができなかった自分をダメだと感じて悔しさを感じ、称賛を得られなかった悲しさを感じたのだと思った。

父・母に褒められたという記憶が無いので、褒められたいと思っているのかもしれないな。これは、何度もワーク(量子瞑想)をすべき内容かと思う。

18.5日目 出張先で講義を聞いて

出張先で、自分が尊敬する方の講義を聞いていたのだが、講義の内容の論理的矛盾に気がついて、「ここが間違っている。自分の考えの方が優れている。これに気がついている自分はすごい」というような声が、何度も頭に湧いてきた。
それぞれの人の世界線は違うので、積み上げてきたものが違うので、至った結論が違うことは当り前であると思うし、相手の考えは、考えとして、その人はそのように考えているということをきちんと尊重するようになったことは、自分も成長してきたと感じている。
けれど、「自分の方が優れている」と何度も心に浮かび、講義の内容をちゃんと素直に聞けていない自分も同時に再発見した。素晴らしいと思うから、わざわざ遠くまで、来ているのにね。
よっぽど自信が無いということと、自分が優れていると思いたいということと、認めてほしいと人に求めている ということが、課題として残っていることが、再度明らかになった。
誰に認められなくても、自分は自分のままで良いと思えるようになりたい。


18.5日目 アルコール受容体の縮小

自分が飲めると感じている量よりも、かなり飲める量が少なくなっている。ホテルの部屋に戻ったら、げろげろと全部吐き戻してしまった。
先日の忘年会の時も、げろげろと吐き戻してしまった。
吐くなんて、よっぽど飲み過ぎない限り、ほとんど無かったのに。
イボガの効果により、アルコール受容体が縮小したのではなかろうか。
もとも少なくなってきていたけれど、イボガを摂取してから、アルコールを心のバランスをとるために、摂取したい(喉が渇く)という感じの欲求はますます減っている。
依存症の回復に役立つというのは分かる気がする。
ただ量を飲めなくなったのは、年齢のせいもあると思うが(^^;

19日目

2022年12月26日
今日は朝から、ミニマムドージング開始。1日の中で、イボガの精霊のインスピレーションを感じながら、ちょこちょこずつ飲んでいく初めてのパターン。ということで、朝、ちょびっと摂取。
ミニマムドージング2回目を夕方に摂取。

19日目 歯医者

無事、CAD-CAMに変わった。先日、雪の影響でCAD-CAMの詰め歯が届かず、施術できなかったことを謝られた。入口、歯科助手、歯医者の3人に。
施術できなかったこと自体は、自分の仕事でも取付の品が届くか、届かないかという点は非常に気を使う点なので、そういうこともあるのかなと、全く気にしてなかったのだが、3回も謝られたことに、少しびっくりした。
そして、この記事を書きながら思い出したのだが、前回の時に、歯医者に到着した後に、今日は歯が届いてないので取付できません。すみませんね。今日はどうしますか?と、軽く流されて、わざわざ来たのに。。。到着する前に教えて欲しかったよと、軽い怒りと謝罪が欲しい気持ち混じった気持ちを少し覚えたことを思い出した。
すっかり忘れていたけど、謝って欲しいと願ったことが叶ったのか。
自分の顕在意識・潜在意識で考えたことが現象化するというのを見せられたようで、少しびっくりした。
自分は、イヤな思いをしたというのを、仕事的にそういうことあるあると経験則と思考で封印したものの、心の底では、イヤな思いをしたという感覚が残っていたということなのだろう。
今は、この出来事は終わった感覚があるので、その時のほんの小さな怒りと悲しみは暴露されて、昇華したのではないかな。

19日目 元・彼女とのやりとり(続き)

先日送ったLINEから、返事に悩んでいたということで、昨日、LINEの返事が届いた。
自分の「たくさんご迷惑おかけしまして、申し訳ありませんでしたとのメッセージ」に対して、
「とんでもありません。迷惑だったことは一度もありませんし、とても良くしていただいたことばかり、感謝ばかりです」
と、返事が届いた。(原文はもっと少し長い)
自分のエゴは、「迷惑だったことが無かったのであれば、何故、自分を突然捨てたんだ」という思考・怒りの感情が瞬間に湧いてきた。元・彼女には、もう過去の出来事として感謝しているし、完全に終わった感覚でいたのに、「捨てられた」と感じていた悲しみと怒りが、自分の中で残っていることに自分でもびっくりした。
これは量子瞑想しなければと思い、夜に量子瞑想をして、「捨てられた」という感覚に意識を集中してみた。
これは文字で書くだけだと、負け惜しみとか相手への非難のようにしか見えない気がするが「捨ててくれてありがとう」という感覚に変わった。ニュアンスが伝えづらいが、「捨てられた」という出来事に対する認識は変わらないのに、感じていた「怒り・悲しみ」が、「ありがとう」の気持ちに変わった。あれはあれでで良かったのだという気持ちになった。
しかし、元・彼女とのやりとりを何回も書いていると、自分が昔のことをいつまでも引きずってる女々しい男のように思えてくるね。それすらも男らしくあらねば・・・に対立する無用な概念なのだがなぁ。

彼女だけじゃないけれど、一時期、とても仲良く時間を共にさせていただいてた友人や仲間とも、疎遠になってきたりすると、少し物悲しい気持ちを覚える。それはしょうがないことなのだけれど。
そんな時、「あんなに一緒だったのに~」の歌詞が頭を流れます。ガンダムSEEDは見てないのに、何故か、あの曲の最初のフレーズだけが頭から離れない。

ということで、3000字を超えたので、ここで公開。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?