見出し画像

幸せの本質を求めて




深い山奥に、誰もが知る由もない静かな寺院があった。そこには古くからの伝統を守り続ける一人の老師と、彼のもとで修行に励む弟子たちが暮らしていた。特に、最近入門した若い弟子の一人、名を慧(けい)という青年が、毎日問いを抱えて老師に挑んでいた。

慧は、その日の朝も日の出と共に起き、石畳の庭を静かに掃き清めていたが、心の内にはいつも悩みが渦巻いていた。それは「幸せとは何か」という問いだった。

「なぜ私はこんなに悩み続けるのだろうか…。何をしても、何を得ても、心の中に満たされないものが残る。老師に聞けば、この答えを見つけることができるのだろうか?」

慧は決心し、庭掃除を終えると老師の部屋に向かって歩みを進めた。老師の部屋の前に立つと、深く息を吸い込み、襖を静かに開けた。

老師はいつものように、古びた木の机に向かい、墨で文字を書いていた。年老いた彼の姿には、どこか崇高な静けさが漂っていた。慧は緊張しつつも口を開いた。


「老師、今朝もお時間をいただけますでしょうか?」

老師は筆を置き、慧を静かに見つめた。彼の目には何か深い慈しみが宿っていた。

「慧、何を考えておるのか。何か悩みがあるようだな。」

「はい、老師。私はずっと『幸せ』というものについて考えているのですが、それが何なのか、どうすれば手に入るのかが、全くわかりません。物質的な成功や名誉を追い求めても、満たされないのです。いったい幸せとは何なのでしょうか?それを定義することはできるのでしょうか?」

老師は軽く微笑んだ。そして、そっと窓を開け、外の庭を指さした。

「慧よ、あの庭を見なさい。季節ごとに色を変える草木がそこにある。それぞれの花が異なる姿を見せながらも、すべては一つの自然の一部であり、すべてが『在る』という事実で満たされている。そのように、幸せもまた、定義をつけることは難しい。それは流れゆくものであり、個々の瞬間の中に在るものだ。」

慧は少し驚いたように聞き返した。

「では、幸せとは一時的なものなのでしょうか?私たちはそれを定義できないということですか?」

老師は静かに頷いた。

「そうだ。幸せを一言で定義することは、風をつかもうとするようなものだ。どれだけ捕まえようとしても、風は形を変え、消えてしまう。しかし、それは存在しないわけではない。ただし、追い求めるほど、それは遠のくものだ。だから、幸せを固定した形で理解しようとするのは、無意味だとも言える。」

慧は少し困惑したように視線を落とした。

「でも老師、私はどうすれば幸せを感じられるのでしょうか。追い求めても届かないものを、どうやって得ることができるのか…。」


老師は少し顔を曇らせ、再び庭に目を向けた。

「慧、まず知っておくべきことがある。幸せには『外世』の幸せと『内世』の幸せがある。外世、つまりこの世において物質的な成功や他者からの評価で感じる幸せは、確かに一時的であり、移ろいやすい。だが、それが無価値だとは言えない。それもまた人生の一部であり、避けられぬことだ。」

慧は首を傾げた。

「では、その外世の幸せを追うべきなのでしょうか?」

老師は深く息を吸い込み、答えた。

「追うべきではないが、避けるべきでもない。それはあなたの道に自然と現れるものだ。だが、そこにしがみつけば、失望や苦しみが待っているだろう。だからこそ、内世、つまり心の内にある幸せを見つけることが重要なのだ。それは何かを求めることなく、ただ自分の内に静かに存在しているものだ。」

慧は内世の幸せについて考えながら、さらなる疑問を抱いた。

「老師、私の内には常に不安や葛藤があります。私は一体誰なのか、何を求めるべきなのか分からない時があります。外世の幸せと内世の幸せの間で、どうしても迷ってしまうのです。それは自我が私を振り回しているのでしょうか?」

老師はしばらく沈黙を保ち、目を閉じた。

「慧よ、私たちは皆、自我というものを持って生まれ、外世においてそれを使って生きていく。それ自体は悪いことではない。だが、問題は自我が本当の自分との間にズレを生み出し、そのズレがストレスや苦しみをもたらすことにある。」

「ズレ…ですか?」

「そうだ。自我は外世における成功や評価を求め、常に他者との比較や未来の不安に囚われやすい。それはまるで、山の上に立つ自分を、下から見上げるもう一人の自分のようなものだ。だが、本当の自分は内世にあり、その自分との調和が取れなければ、いくら外世で成功しても、心は満たされない。」

慧は眉をひそめた。

「それならば、どうすればそのズレを無くすことができるのでしょうか?」

老師は柔らかい笑みを浮かべた。

「それが修行だよ、慧。自我を否定するのではなく、それを正しくコントロールし、本当の自分と調和させることが大切だ。自我に振り回されず、それを意識的に使うことができれば、思考をコントロールし、ストレスや苦しみを乗り越える力が生まれる。」

その夜、慧は老師の言葉を反芻しながら、自らの心と向き合っていた。内世の幸せとは何か、自我とのズレとは何か。答えはまだ明確ではなかったが、彼の中に一つの感覚が芽生えていた。それは、外世の幸せに追われることなく、内面の静寂を求めるという新たな視点だった。


翌朝、慧は再び老師の部屋を訪れた。老師は庭を眺めていた。

「老師、私は少しずつですが、内世の幸せについて考え始めました。それは外世とは異なり、静かなものであり、常にそこにあるのに気づかなかったのかもしれません。私はどうすればこの内世の幸せを見つけ出せるのでしょうか?」

老師はゆっくりと振り返り、答えた。

「慧よ、内世の幸せを見つけるために、決まった方法などないのだ。それは自分自身の経験と気づきを通じて、自然と発見されるものだ。それぞれの人が異なる道を歩み、その中で自分に合ったやり方を見つけるしかない。瞑想や深い呼吸、自然の中で静かに過ごすこと…様々な方法があるが、最終的には自分の心に問い続けるしかない。」

慧はその言葉を聞き、深く頷いた。

「老師、私もまた自分なりの方法を見つけていくつもりです。外世における一時的な幸せを求めることなく

、内世に存在する永遠の幸せに気づくために。」

老師は満足そうに微笑んだ。

「そうだ、慧よ。それこそが、真の修行だ。外世の成功や評価に惑わされず、内面の静寂と調和を保つこと。自分自身を理解し、自我を超越して、本当の自分と一体となること。そうすれば、すべての苦しみもまた、役に立つものであり、学びの機会となるのだ。」

慧は深く感謝の意を表し、再び修行に戻るために部屋を後にした。

続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?