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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(17)


  明治四十二(1909)年が明けた。美津の六男、勇が生まれて以来六年ぶりに、新しい家族が増えた。千鶴が待望の女の子を産んだのだ。駒蔵は四十一歳にして、初めて娘を得たのであった。しかしその間に、千鶴は二度辛い思いをしている。お腹に子は宿ったが、二度とも流産してしまった。駒蔵は事業拡張の中、いやそれでなくても家を空けることが多かったが、優しい言葉をかけて気持ちを癒してくれたのは、いつも美津であった。
「決めたんよ、勇を最後にする、て。だんさんには体の調子が悪い言うて、夫婦事みょうとごとは勘弁してもろとる。そやからお千鶴さんがしんどなったらどないしよ思うてた。堪忍な。けど女の子産みなはって、えらいよかった」
 美津は初の女児の誕生を心から喜んでくれた。毎年のように大きく膨らんでいた美津の腹がずっと小さかった理由も、千鶴はいつからか気づいていた。
 駒蔵の初めての女児は「一枝かずえ」と名付けられた。取り上げた産婆が「こんな別嬪さん見たことあらへん」と唸ったほどの愛らしさで、中年の域に入った駒蔵が、目の中に入れても痛くない可愛がりようだったのは言うまでもない。ご近所はもちろん、得意先にも紅白餅を配り、千鶴のいる曽根崎新地に入り浸ることが多くなる。
 今度は千鶴が、そのことを気にかけて美津を案じたが、美津自身はけろっとしたものだった。何しろ自分の六人の子供に混じり、千鶴の三人の子も二つの家を行ったり来たりしているのが日常で、実際のところ、駒蔵にかまけている暇もないのだった。千鶴のところにいるならそれが何より安心である。それに美津には、廣谷家の御寮人ごりょんさんとしての責務がある。

 美津は、金銭感覚のきわめて堅実な節約家、いわゆる大阪で言うところの「始末な人」であった。始末とは始めと終わり、つまり物事の辻褄、帳尻が合っていること。大阪の商家の家計を預かる主婦として、この性質は間違いなく美徳である。小さなことでは、食材は無駄なく使い切る、着物は洗い張りを繰り返して末長く着る。子供の着る物は特に、質の良いものを最初に作り、下の子には原則としてお下がりを活用する。男の子ばかりなので効率は良かった。小さなことも、一事が万事、その性分は全てに通じる。
 きれい好きでもあったから、家の中は常に掃除を欠かさず、清潔で整頓されていた。子供たちが投げ散らかしたものも、その日のうちにすべて元あった場所に戻しておくのである。お手伝いは使っているものの、御寮人さん然と座敷の奥にどんと構えていることはなく、まるで女中頭のように家の仕事を差配し、家事の担い手としてもよく働いた。無駄口も叩かない。肯定の時は「へ」、否定も「へ?」で大抵のことは片付く。
 何を食べさせようが何を着させようが、子供たちはみるみる成長していった。一人が尋常小学校に入ったと思ったら、次からは毎年のように誰かが学校に上がり、さらに高等小学校、中学校と、上の学校に進んでいく。あらゆる年の子がいるこの家そのものが、学校みたいなもんと美津には思えた。長男の信太郎の二つ下に誠次郎と謙三がいて、また二つ離れて三郎、さらに二つ下に富郎、四年後に英造と武が生まれ、二歳違いで七郎、翌年の勇と続いた。几帳面な美津は、自分の子も千鶴の子も、全員の生年月日を言えた。
 千鶴は自分の子のそれもちょっと怪しかった。産み月のぎりぎりまで女将の仕事はきっちりこなしていたから、生まれた日を覚えている間もなかったのだ。自分の子たちが老松町に行きっぱなしのことも多く、女将としては存分に仕事ができ有難いことだった。これも美津と千鶴との血の繋がった姉妹以上の、お互いを思いやる大層良好な関係があったからこそであって、その真ん中にいる駒蔵が“でけもん(よく出来た人)”なわけではない。

 一枝が生まれた時、千鶴は宣言した。
「女の子はいずれ嫁に行く身だす。うちで育てて、笹野の家からきちんと出します」
 頑なにこう言い張って、駒蔵にとっての長女、一枝は、新地の店の奥にある住居で、千鶴が育て上げた。産婆が褒めそやしたとおり、色白で、目鼻立ちの恐ろしいほど整った子で、美津もたまに、一番小さい勇の手を引いて遊びに行っては抱かせてもらい、
「やっぱり女の子はええなあ」
 と目を細めた。自分では産めなかったけれど、大好きなお千鶴さんがこんな可愛らしい女の子を産んでくれたことに、感謝の気持ちが自然に滲み出てくるようだった。

 女の子がやっと生まれた年、長男の信太郎はすでに十九歳で、大阪府が最初に設置した旧制中学「大阪府第一番中学校」を前身とする府立北野中学を卒業し、東京高等商業(のちの一橋大学)に進学していた。高等商業は大阪にもあったが、四年制で格上だったのが東京と神戸で、大阪でも神戸でもなく東京に行く、と決めて実行したのは、ほかならぬ信太郎自身であった。
 根っからの商人気質である駒蔵は、商人は読み書き算盤に、度胸と無鉄砲を持ち合わせておれば良い、という考えだったので、子供の高等教育にあまり関心があるとは言えなかったが、長男が高等商業を選んだことは素直に喜んだ。東京へ行くと聞いて驚きはしたが、それをあっさり認めたのは、度胸と無鉄砲を身につけるにはいい経験になるやろ、くらいに思ったからである。
 母親の美津はちょっと違う。
 ブラジルに渡った兄の小三郎も、もう六年も経つが一度も帰国していない。我が子も自分のそばを離れてしまうのかと、美津の胸の内は複雑だった。快活で目端のきく誠治郎、喜怒哀楽のはっきりした三郎、お母ちゃんお母ちゃんとすぐ甘えてくる富郎、ちょっと理屈っぽいところのある武、いちばんぼやっとしているがそこが可愛らしくてならない末っ子の勇……。赤ん坊の頃に「女難の相がある」とさるお大尽に予言され、父親よりずいぶんと男前に成長した長男・信太郎だが、美津にとっては、口数が少なく何を考えているのかわかりかねる存在でもあった。
 でも東京に行きたいと聞いてとっさに、やっぱり、と思ったのは、母として息子の気持ちを慮ることができた証だったのだろうか。彼がどこかこの場所を居づらく思っているのではという気はしていた。だから大事な息子を東京に送り出すことにあえて反対はしなかった。    (つづく・次回の掲載は7月1日の予定です)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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