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友達について

“友達”という言葉程、理解しきれない言葉はない。
それは“昨日の敵は今日の味方”の人間関係を交互に繰り返す日々を過ごしていた小学生の頃の苦い思い出が影響していると思う。
今朝は一緒に手を繋いで投稿してきた二人が午後には口も利かなくなったり、表向きはお互い誉めあって、とても仲良く見えるのに裏では本人のいないところで悪口を言い合っていたりなど…。
そういう黒い人間関係が高学年になるとあちこちで形成されていたのだ。
授業しかない普通の日は自分の机や図書室など、逃げ場があって良いけれど、学校行事のある日は最悪な気分だった。
非日常を体験し視野を広げることで、子供たちの健全な精神の育成を図ることが目的の学校行事のはずが、全く機能していなかった。
運動会の組体操では仲良くない子同士でペアになってしまった際、気の強い方が弱い方をバカにしたり、小突いたりとどう見てもいじめが発生していた。
かと言って仲良い子同士でペアを組ませるのは奇数人数のグループだとまたいじめが発生したり、こんな人間関係に疲れた生徒達が私もそうだったが、次第に一人行動をとるようになってきたため、そういう子達があぶれることを防ぐためにも認められないと判断した当時の先生にはとても感謝している。
この人間関係の悪さは親達の間でも大きな話題となった。
毎日暗い表情をしていた私を心配した母はお金がかかるけれど私立の中学に進学させてくれた。
中学以降は明るい人間関係に恵まれ、人生初の友達もできたし、素の自分も出せるようになってきた。
それでも“友達”ほど、難解な言葉はないと今でも思う。
大抵の言葉は辞書を引いて、意味を理解したら、すぐに日常の中で使えるようになるのだけれど、“友達”だけは同じ手順を踏んでも上手くいかない。
それも何度も。


そんな私でも親友と呼べる人が二人いる。
一人は中学から、もう一人は高校からで、もう10年来の付き合いになる。
二人とも何でも話せる気の置けない大切な存在。
二人の前ならおならをすることだってできる。
そういう存在が二人もできたことに満足しているのか私の人付き合いのパターンが変わった。
学生の時は深く狭く、社会人になってからは広く浅くになった感じがする。
話をするのがあまり得意ではない私は10代の頃は2人で遊ぶのが好きだったけど、20代の今は複数人の方が気が楽で好きになった。
10代の頃はとにかく会話のキャッチボールが上手くできないと置いていかれる。そっぽを向かれる。そんな考えが常に念頭にあった。
1対1の付き合いなら話す·聞くの関係性が単純だし、疲れづらかったから好んで2人で遊でいた。
けれど、仲良くなるには話すことだけではなく、聞くことも大切であると分かった今はそんな思いに囚われなくなった。
複数人の方が話題も沢山あるし、自分が話し疲れたら他の誰かが話すのを聞いていれば良い。生来の面倒くさがりな性格も手伝って、今は複数人の付き合いの方が好きだ。
別に話に置いていかれても退屈そうな態度をとらなければ嫌われることはない。
合わなかったら合わなかったで、無理して仲良くしなければ良い話。
学生時代のように“皆仲良く”という項目にこだわる先生達からの監視の目もないのだし、今は本当に気楽だ。
一人でいたって全然良いのだ。



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