孫子と日本史:教え⑩「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」と甲斐・武田家滅亡 (孫子と長篠・設楽原の戦の関連)
こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
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【はじめに:「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」のメッセージは?】
本日は、孫子の中に出てくる言葉で、「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」を、考えてみたいと思います。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)
「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」って、聞いたことありますか? 私なりの理解を記載させて頂くのであれば、「相手の強みをたたけば、流れはこちらに来る」、といった感じでしょうか…。私は、学生時代にずっと野球をやってきました。その時に良く接した考え方です。例えば、相手のピッチャーが、早いボールを投げるピッチャーなら、変化球は捨てて、ストレートだけに的を絞り、コツコツ当てて攻略するパターンであったり、コントロールの良いピッチャーであれば、粘って粘って、フォアボールを取りに行くパターンであったり、近い考え方の戦い方を、監督から指示された事を思い出します。誰にでも強みはあると同時に、弱みはあります。故に、強みをたたかれると、弱みが露呈し、相手が一気に有利になるとと言う事だと理化した次第です。
”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。
【「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」で思い浮かぶ」日本史上の例は?】
そんな、「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」の考え方ですが、日本史の中で、これに似た事象、何か思い浮かびますか? 私は、山梨県(北杜市)の出身なので、真っ先に思い浮かんだのは、「長篠・設楽原の戦い」です。日本史で「鉄砲が本格的に使われたと言われる戦」ですよね。
武田勝頼(Wikipediaより)、岐阜駅前の信長像、浜松城祉にある家康像
まずは、この戦の概要を、Wikipedia の力をかり、抑えますと、以下の様にあります。
Wikipediaより長篠合戦図屏風(長浜市立長浜城歴史博物館蔵)とそのMap
最近では、「従来から言われている、鉄砲の3段撃ちは、実はなかった」であったり、「武田の騎馬隊は、言うほどすごくなく、馬はポニー程度だった」であったり、「武田軍も鉄砲を活用していたが、鉄砲玉の材料不足(織田信長が物流を抑えた事によるとも)により、鉄砲を使っていなかったのでなく、十分に威力を発揮できなかった」であったり、色々な説が言われているようです。しかし、事実を列挙すれば、下記の通りであることは、間違えないと思います。
これら3点は、事実でないかと思います。鉄砲の数や打ち方、鉄砲玉の確保の度合、武田騎馬隊の規模や戦闘能力、勝頼の戦略性等は、議論の余地はある様ですが、「長篠・設楽原の戦いで、信長・家康連合軍は鉄砲を使った戦で、有名な武田騎馬隊を殲滅し、その後(7年後)には、500年以上続いたとされる、甲斐武田家が滅んだ」と言う事は、事実だと思われます。
信長の甲州征伐時に焼き討ちにあった武田家の菩提寺・恵林寺とそのMap
(山門に記載された「心頭火自涼・・・(心頭滅却すれば、火も自(おのずか)ら涼し)」は、この時に快川 紹喜(かいせん じょうき)によって詠まれた辞世)
言い換えれば、規模や詳細はどうあれ、「武田家の強みと目されていた騎馬隊を打たれた事が、信長・家康と武田のそれぞれの未来を決定付けた」と言う認識をしております。
(武田家の居城であった躑躅ヶ崎館跡(=現武田神社)、また武田家の菩提寺である恵林寺、勝頼に縁の深い諏訪地方、武田家最後の居城・新府城等を本ブログの別記事で紹介していますので、ご参照ください)
山梨県韮崎市の新府城址にある長篠の戦い時に戦死した人達のお墓とMap
「愚将だった」という説もあれば、「強すぎる大将」と言われる事もある武田勝頼で、様々見方はある様ですが、Wikipedia の武田勝頼の項における ”評価”、項目には、以下の様に記載されているパートがございます。
私なりの理解は、才能のある人だったかもしれないが、一旦流れを敵に渡してしまった後は、家臣の離反も相次ぎ、流れを取り戻ぜず滅亡に至ってしまった。まさに、信長からすれば、「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」、と言う事だったと思った次第です。
山梨県甲府市にある武田家3代(信虎・信玄・勝頼)の居城、躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)の様子とMap
【最後に】
上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 目には見えませんが、何事にも「流れ」ってある気がします。しかしそれを、感度良く感じる事、流れの方向(追い風? / 逆風?)を理解する事は、難しいとも思います。この流れを適切に感じ取り、それを活かす方法を考え出す事もまた、才能ではないかと思った次第です。
信長の甲州征伐の前に、勝頼が築城したもののすぐに籠城を放棄した新府城の様子
また、一度長篠・設楽原の古戦場に行ってみて、当時武田勝頼は、何を考えていたのか、思いにふけってみたいとも思いました。皆さまも、ご自身を取り囲む、「流れ」を味方にできるように、「先ずその愛する所を奪わば、即ち聴かん」のフレーズを、改めて考えてみては、いかがでしょうか?
(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください。また、武田家の居城であった躑躅ヶ崎館跡(=現武田神社)、武田家の菩提寺である恵林寺、勝頼に縁の深い諏訪地方、武田家最後の居城・新府城等も本ブログの別記事で紹介していますので、併せてご参照ください)
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