街道の楽しみ方:いくつもある日光街道に付き、考察を加えてみる(地図や歴史の視点で言葉遊びをしてみる)
こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
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【はじめに:あちこちにある日光街道】
今回は、日光街道を取り上げてみようと思います。すなわち「あちこちに存在する『日光街道』の意味」に考察を加えさせて頂こうと思います。
本ブログ「鎌倉街道」のページでも、同じような事を記載しましたが、「日光街道」って、あちこちで聞きませんか? ご承知の通り、日光街道は、五街道の1つで(東海道・中山道・甲州街道に関しては、別記事で触れています)、東京(=江戸)の日本橋から、徳川家康の墓所がある、日光東照宮までを結ぶ道です。しかし、そのルート以外でも「日光街道」と言う表示や言葉を聞かれた事がある方も大勢いらっしゃると思います。
今回は、そんな日光街道を取り上げ「あちこちに存在する『日光街道』の意味」に考察を加えさせて頂こうと思います。(日光の二社一寺に関する概要、その観光ルート、中禅寺湖・戦場ヶ原での散策・ハイキング & クルージング情報@中禅寺湖、戦場ヶ原の名の由来等は、別記事でそれぞれ紹介していますし、三大東照宮(四大東照宮?)に関しても紹介しておりますので、併せてご参照ください!)
【「日光街道」概要】
まずは基本に忠実に、日光街道をWikipedia の力を借り、調べてみますと以下の様にあります。
元々江戸から宇都宮までは「古道奥州道」があり、宇都宮城下から鉢石宿間にも「古道日光街道」があった様ですが、宇都宮 - 日光間については、東側に新たに並行する道を設整備して、徳川家康を祀る日光への主要道路として、東海道の次に整備された道が「日光街道」と言う事の様です。当初は、”日光海道”、と言われたようですが、新井白石から、「海もないのに、”海道” は、おかしい」と指摘され、「日光道中」と改められたらしいですが(正式な呼び名は今尚、日光道中らしいですが)、今日、市民権を得ているのは「日光街道」の様です(別記事で、勝手な考察を紹介しています)。
しかし、こちらのページを読み進めると、以下の言葉が見えてきます。それらは、日光御成道、日光例幣使街道、 日光脇往還 …。以下に、それぞれに付き、今少し深堀いたします。
【「日光街道」に関連する「日光」がつく街道】
そこで、日光御成道、日光例幣使街道、 日光脇往還 のそれぞれを、同じく、Wikipedia の力を借り、調べてみました。
まずは、日光御成道
「将軍が日光社東照宮に詣でる際に使用された街道が、日光御成道」と言う事の様で、「日光御成街道」とも言われるそうです。多くが、枯れてしまっているようですが、日光街道の代名詞とも思える杉並木があった様です。(並木と街路樹に関するページで、日光脇往還の杉並木にも触れています)
日光御成街道一里塚(埼玉県杉戸町)とMap
次に、日光例幣使街道
「日光東照宮に幣帛(お供え物?)を奉献するための勅使(天皇が派遣する使者:この場合は、日光例幣使)が通った道を『日光例幣使街道』」と言う事の様です。群馬県の高崎で中山道と分岐して、日光に向かう道と言う事の様で、日光街道と言えばやはり「杉並木」。この杉並木が、「日光例幣使街道」にも現存しています。ちなみに、こちらの日光例幣使街道の歴史は古いようです。五畿七道のページでも触れさせて頂きましたが、多くを中山道に踏襲されている『東山道』に由来がある様で、Wikipedia によりますと、以下の様にあります。
そして、 日光脇往還
「八王子の千人同心が、日光勤番で移動する為に整備された街道が『日光脇往還』」と言う事の様です。玉川上水の大人散策でも「日光橋」については、触れておりますし、日光脇往還については、別記事で大人散策情報を紹介しておりますが、例幣使街道同様「杉並木」があるのです。(ちなみに、こちらで触れている、川越の近辺である、日高・鶴ヶ島、坂戸の杉並木は、別記事で紹介させて頂いておりますので、リンクよりご参照ください)
日光脇往還沿い@埼玉坂戸市にある日光街道の碑とMap
【日光街道をあちこちで目にしたり、耳にしたりする、勝手な考察】
上記の情報をベースに、いくつか事実をPickUpさせて頂くと、以下3点が上げられると思います。
上記3点は、本家の江戸から出る日光街道と同じです。であれば、以下の様な妄想が、浮かんできます。
「日光御成道も、日光例幣使街道も、日光脇往還も、日光街道でいいじゃないか!」と地元の人は思った
「色々考えるもの面倒なので、日光街道と ”通称的に” 勝手にくくってしまった」
それらの道を通る(通常利用する)地元民としては「日光ブランドと五街道ブランドを身近に感じたく、日光街道と言い張った」
この様な感じで、妄想してしまいましたが、そんな感じで『正式な名称は違っても「日光街道と言う事で!」で通って来てしまった』というのが、私の勝手な考察になりました。正直、個人的にも「すべて日光街道でいいんじゃないの?」と思った次第です…。鎌倉街道は「いざ鎌倉」とはせ参じるために作られた道が、全て鎌倉街道な訳なので、日光東照宮に通じる道は、全て「日光街道」でいいと思った次第です…。
【最後に】
上記、日光街道につき、勝手な考察を加えさせて頂きましたが、皆様はどの様に思われましたでしょうか? 日光街道(海道/道中)としての歴史は江戸時代からですが、上記「『日光』の文字が、現在含まれるそれぞれの街道(=日光御成道・日光例幣使街道・日光脇往還)』も含めて考えると、道その物の歴史は、五畿七道時代の東山道までさかのぼると言って良いと思います。
そして日光東照宮が作られた事により、日光に社参する事を目的とした道として五街道の一つである日光街道(=大本の日光街道に加え、将軍が日光に詣でる為の日光御成道)が整備され、同時に東山道が再編され(=天皇の勅使が通る日光例幣使街道の整備)、更に日光東照宮の火の番をする千人同心が移動する為の日光脇往還が通され、それぞれの道に杉が植えられ、現在の日光街道の代名詞・杉並木となり、今に至る道が「日光街道」と言う事の様です (個人的見解で「日光東照宮に行く道は、全て日光街道」の前提に立っていますが…)。
それぞれの日光街道には、正式名称に違いはある様ですが、その過程で目的を同じにし「日光」の文字が入った、杉が植わった道を、正式名称は違っても、「日光街道」と呼ぶのは、自然の事の様に思えました。そんな日本の歴史を感じながら、改めて「日光」の字が入る「いくつかの日光街道」を上記の妄想を膨らませつつ、大人散策してみたいと思た次第です…。
(日光の二社一寺に関する概要、その観光ルート、中禅寺湖・戦場ヶ原での散策・ハイキング & クルージング情報@中禅寺湖、戦場ヶ原の名の由来等は、別記事でそれぞれ紹介していますし、三大東照宮(四大東照宮?)に関しても紹介しておりますので、併せてご参照ください!)
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