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第3回「選挙」

ゼミ以外の時間を使ってドキュメンタリーを観て対話する勉強会、「ドキュメンタリーを観る会」。
このnoteでは、観た「ドキュメンタリー」の概要と「対話」から得た学び、そして学びの中で「わたしは」どう考えるのかをまとめたいと思う。

ドキュメンタリーを観る

第3回は想田和弘監督の「選挙」を観た。2005年、東京で切手コイン商を営んでいた山内和彦さんは、自民党公認の市議会議員候補に抜擢される。選挙区は埼玉県川崎市宮前区。ほとんど縁もゆかりもないこの土地で、体力と気合の所謂「ドブ板選挙」に邁進して行く。「妻」ではなく「家内」を使え、演説の時は3秒に一回名前を言えなど、選挙テクニックという名のルールに揉まれ、声を枯らしてひたすら「頑張る」……はたして無事当選叶うのか。

このドキュメンタリーはノーナレーションだ。字幕もナレーションも一切なく、目の前の映像をどう受け止めるかは観る人それぞれに任されている。監督の意図が色濃い作品は、一つのメッセージを強く伝えることができるが、逆に言えば一つの視点しか伝えられない。ノーナレーション作品は観る人によって視点が異なり、それによってメッセージが異なる。面白いかつまらないかも大きく異なるだろう。何のメッセージもない、ただ事実を映しているだけではないかと思う人もいるかもしれない。そこが面白いところだと思う。同じ映画をしばらく経ってからもう一度観たら、また印象が変わることもあるかもしれない。


対話する

このドキュメンタリーでは、日本の「伝統的な」選挙のやり方を描いている。集会や挨拶の会では、司会の人が流れるような口上を述べ、それなりに笑いをとり、スムーズに進行していく。イレギュラーは起こらない。候補者も司会者も参加者も完璧に仕事をこなしている。

小学校の運動会に参加すれば、おそらく保護者会の関係者と思われる人や同じように参加している先輩の政治家に挨拶をして周り、地域のお祭りに参加すれば、地元を取り仕切る面々に挨拶をして一緒にお神輿を担いで声を出す。先輩が先に挨拶をしていたら後輩は少し様子を伺い、当の先輩はというと「いつもありがとうございます」「こいつをよろしくお願いしますよ」という風に紹介していく。

先輩も後輩も地元の人も、挨拶回りもお神輿担ぎも、何の問題もなく動いている。問題があるとすれば新入りがルールから外れたことをした時だ。その場合は先輩がお灸を据えれば何の問題もない。全ての人がよくよく自分の仕事をやっている。

選挙に限った話ではない。私と同じ世代の人であれば、「仕事」と言われるとこのドキュメンタリーのような、スムーズで滞りないものというイメージがあるのではないだろうか。

きっと進行役は昔からずっと進行役をしている。いろんな政治家の集まりや会議や式典で、小話を挟んで音頭を取ってきたのだろう。「妻」ではなく「家内」を使うのは、集会の席などで「おっかない」と掛けて笑いを取るためだそうだ。候補者夫妻はそろそろこどもを作っても良い歳ですねと言ってみたりして、ノンストレスなまま本編までの助走をつけていく。

参加者も笑うべきところでただ笑っていた。そんなことを他人が言う必要はないと指摘する人はいない。時代柄、思っている人がそもそも少なかったかもしれないが、いたとして言うこともないだろう。よく考えると大して面白くもない。場はスムーズに進行していく。

なぜやるのか。そういう問いは「面倒くさいやつ」として無視される。「そういうのいいから、早くやって」という雰囲気に晒されるたびに、みんなの邪魔をしてしまった自分が悪いような気がしてくる。スムーズに場が進行することが重要視され、今までと同じように再現できることが優秀であるとされる。それぞれがそれぞれのやるべき仕事を「やることになっているから」という理由でやっていた。


わたしは

身に覚えがあった

散々批判的な書き方をしたが、私はというと実はこれを観た直後はあまり違和感がなかった。確かにこんなに上から怒られたら嫌だし、票を得るためだけに運動会やお祭りに参加してお神輿なんか担ぎたくないと思うけれど、でもきっとやれと言われればやってしまう。私は今までこういったコミュニティに大人しく従ってきた。なぜやるかではなく、やると決まっているからやっていた。

そうしていい子で優秀に育った結果、大事なことを自分では決められなくなってしまった。

大学に行ってゼミに入って、最近この考え方から少しずつ離れて意味や意義を重視した動き方をもっとやってみたいと思うようになった。様々な場面で、今とりあえずでやってるなということに前より気づく機会も増えた。そんな中で実際、より良くと思って動こうとして注意されてしまうことだってある。ある少人数の授業でスライドが見えづらかったので立ち上がって電気を消そうと思ったら「いいから」と言われてしまった。私は良くなかったのだが。

どうしたら良いのだろう。これはつまりマニュアルワーカーではなくなるということだ。あらゆることを考えて動かなければならない。効率は悪くなる。何でもかんでも考えてやれば良いというわけでもないし、やりたくない人には中々キツい。自分が主催者側だったら、参加者が好き勝手やり出したら困ることだってあるだろう。急には変えられない。

わたしはせめて、やると決まっているからやっている空気には敏感になっていたい。絶対それに反抗するということではなく、今それが必要かどうかを考えられるように、そして必要ないと思った時に新しい提案をできるように。空気に押されてやりたくないことを強要されている人に手を差し伸べられるようにしたい。

でもそれでも何か足りない気がする。それだけで変わるのであれば、世の中はもうとっくに変わっていっているのではないだろうか。考え続けていきたい。

次回は食の問題を描く「フード・インク」を観る。第1回のトゥルー・コストで観た、快適さ・安さとそれによって支払われる代償を、食や農業の面から考えていく。

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