実家の話

「人の気持ちってのは理屈じゃない。そしてそれは大事にしなくちゃいけないんだ」

これは実際に私が父親から言われた言葉だ。
私が実家の建て直しを強く主張していた時のことである。

私の実家は古い木造家屋だ。
私のひいひい祖父が土地を買い、ひい祖父が家を建て、祖父が庭を作り、今は私の両親がそれを受け継いでいる。
祖父はかなり出世した人でお金もあり、かつマメな性格だったため、祖父の代で実家は全盛期を迎えた。
特に祖父が丹精込めて作り上げた日本庭園は見事だった。
庭石と木の調和。錦鯉が泳ぐ池。綺麗に並べられた盆栽。季節ごとにいつも咲いている花々。
ある時、通行人が実家の庭を見ようとして塀に足を掛けたところ、凶暴な実家の犬に吠えかかられ、履いていたサンダルを片方だけ敷地内に落としてしまったことがあった。(その人は片足で帰るわけにもいかずやむなく自己申告してきた)
普通なら「泥棒に入ろうとしたのでは」と思ってもいいところ、「お宅の庭が立派で覗きたくなってしまって…」と言われたら「そうでしょうそうでしょう!」と納得してしまうくらい、そのくらいに祖父の代の実家は輝いていた。

しかし私の両親の代になってから実家はだいぶ様変わりした。
婿養子の父には食べられもしない草木を愛でる趣味はなく、祖父の絶妙な水やりと管理で保たれていた庭は今や見る影もない。
祖父がいた頃は年に数回は職人に来てもらって庭木の剪定をしていたが、倹約家な父は金を惜しんで全て自分で手入れをしている。
結果、弱く繊細な草木から枯れていき、祖母が好きだからと祖父が植えたノウゼンカズラもいつの間にか無くなってしまった。

庭だけではない。建物自体にもだいぶガタがきている。
まだ外見上は立派な日本家屋に見えるのだが、その実古く、とてものこと暮らしやすいとは言えない。
曽祖父の代に建てた家で単純に建物の寿命というのもある。
そこに加えて私の母は整理整頓が苦手で、何でも溜め込んでしまう癖がある。
一時期は7部屋ある部屋のうち、居間と寝室を除く5部屋が物で溢れ返り、突然の来客があるとどこにも通すことが出来ない状態にまで悪化した。
こんなことは祖父母の代ではあり得なかった話だ。はっきり言って恥ずかしいことだと思う。
それは祖父の死後10年が経過したのを契機に、一念発起した私と父の尽力によってだいぶ改善したが、それでも今なお実家は散らかっている。

そんな実家の栄枯盛衰を見て大人になった私は、父が定年退職した頃しきりに実家の建て直しを主張した。

私の言い分はこうだ。
建物自体がもう古く、大きな地震が来れば多分倒壊する。危険だ。
一つ一つ物を選別して整理整頓することではもうこれ以上の改善は期待できない。
それなら必要なものだけ別の場所に移して、一度建物ごとリセットした方が手っ取り早い。

それに対して父親の返事は思わしくなかった。
「家自体が良い物なのでまだ使える」
「今流行りの家は窮屈そうで好きじゃない」
「廊下があって、天井が高くて、玄関の広いこの家が気に入っている」

私は負けじと主張した。
だったら廊下があって天井が高くて玄関の広い、日本家屋式の新築を建てればいい。
そもそも部屋数が多すぎる。最大で3世代が同居していたが、今後そんな事態にはならないと思う。(私も兄も未婚である)

だが父親の財布の紐は固い。
「おじいちゃんが大事にしていた家だから」
「古い家だと保険が安く済むから」
遂には「自分達夫婦のために大金を使って家を建て直したくない。それなら子供達(私と兄)にお金として残したい」とも言い出した。

私は「しめた!」と更に切り込んだ。
子供のためにと思うなら、自分達が出来るだけ長く健康でいることが一番重要なのではないか。新しい家なら暮らしやすく、体の負担も少なくなる。きっとそれが叶うに違いない。
それに資産を現金で残すより、不動産として残す方が税金面でははるかに得になる。家を建て直してから10年も経てば資産価値は相当下がるはずだ。10年後か20年後か。両親の死後、私や兄が死ぬまで住める家を格安で相続させることができる。

問答を続ける内、とうとう父親は「婿養子の自分には決定権はない。この家はお母さんの家だから」と冗談めかして言うようになった。

それならばと、今度は母親を攻略することに私は尽力した。
父親に述べた内容のうち、子供のためという点をより強調して説得し、更に「おじいちゃんが大事にしていた家だからって、お母さんがそこで夏暑く、冬寒く不便に暮らし続けているのを見たらおじいちゃんはなんて言うと思う?『建て直していいからもっと快適に暮らして欲しい』って言うんじゃない?親ってそういうものでしょう?」と諭した。
それだけでなく「新築なら家事が楽になる」「前触れなく訪ねてきた友人を気兼ねなく家に入れられる」「家の中で犬が飼える」「犬がいたら自分も毎週実家に帰ってきちゃうかも」等の甘言も囁いた。
母は私の妄想話をそれなりに楽しそうに聞いていて、「これは落ちるのも時間の問題かな」と私はほくそ笑んでいた。
そんな時だった。父親から冒頭の言葉を掛けられたのは。

母親と同時に父親にも建て直しをせっつき続けていた私は、その日も父親と同じ問答を繰り返していた。すると不意に父親が「お母さんの気持ちがなぁ」と溢した。

「この家はお母さんが生まれ育った家で、ずっと暮らしてきた家だから。お母さんにとってはすごく思い出が詰まった大事な家なんだ。そういう、人の気持ちってのは理屈じゃない。そしてそれは大事にしなくちゃいけないんだ」

それを聞いて私は内心「へぇ」と思った。
私は父を冷たく、利己的で、到底人間らしい情など持ち合わせていない人間だと思っていた。(ひどく怒りっぽく、家族に対する態度が悪いのだから致し方ない)
なので父の、まるで母のことを思い遣っているかのようなこの発言には正直驚いてしまった。

確かに考えてみたら今の現状は父らしくない。
頭の良い父がこのまま古い家に住み続けるリスクやコストや労力を理解していない訳がない。
祖父の死後10年も遺品を整理できずにいたのも、なんでも合理的に処理する性格の父にはあり得ない事だ。
その気になれば軽トラを借りてきて一気に処分することだって出来た筈である。
父がそれをしなかったのは、ひとえに母の気持ちに寄り添う事を父が優先したからだと、私は思いがけず気付かされた。

私が実家で暮らしたのは、父の転勤を機に祖父母と同居を始めた10歳から20歳までの、僅か10年程だ。それでも目を瞑れば柱の一本一本の位置まで事細かに思い出せる。
思い出だってある。
祖父の庭。鯉が泳ぐ池。実家の犬が夏に涼むため堀った、木の根元の窪み。米を撒くと雀が飛んできて啄んでいく庭の敷石。雀とノウゼンカズラが一番良く眺められるソファは、祖母の定位置だった。
庭の花を飾った仏壇。市松人形が怖くて近づけなかった客間。兄と取り合った子供部屋。母と一緒にクッキーを焼いた台所。みんなで焼肉をした車庫。遠くの花火大会が見える、二階の窓。
もし家を建て直したらそれらは全てこの世から消えてしまう。そう思うと胸が少しギュっとして、目の奥がちくっとする。
私はたったの10年住んだだけだ。母は、50年以上、あの家で暮らしている。

私が強く実家の建て直しを主張していた頃から数年が経った。
両親は今でも古いままの実家で暮らし続けている。
相変わらず父は態度が悪くて怒りっぽく、母は物を溜め込む癖が治っていない。
祖父の庭は、父が始めた家庭菜園のプランターが無造作に置かれて更に訳のわからない景観となっているし、今はもう使っていないタンスや鏡台を置くため、6畳の畳部屋が一つ完全に埋まってしまっている。

正直言うと、まだ私は実家建て直しの夢を諦めていない。
先々のことを考えたら建て直した方がいいという私の主張は正論だと思うし、事実、同世代の友人の親達はぞくぞくと家を建て直して快適に暮らし始めている。うちの両親にだってそのタイミングはいつか必ず訪れる筈だ。
ただ今はもう少し、母の気持ちとやらに寄り添ってみようかと思う。
いつか母の気持ちに踏ん切りがついて、もう中身は何も入っていない、祖母の嫁入り道具だというタンスを片付けるその時が来るまで、私は静かに待ち続けるつもりだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?