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霧の宴  ミラノ Ⅰ



 単調な車輪の振動が、瞼を閉じたままシートに深く埋まっているマリアムの憐れな心を容赦なく揺さぶっている。
住み慣れた、こよなく愛したローマ、そのローマにたった今別れを告げてきたのだ、とマリアムは感傷的になっていた。
 真冬でさえ明るく透明な陽ざしがボルゲーゼ公園の乾いた落ち葉に陽気にふりそそぐローマ。その空気、その匂い。鳩を追う子供たちの屈託のない笑い声。枯れ葉の上で抱き合う若い恋人たち。A.カノーヴァの <アモーレとプシケ>のように、彼らもまたたいそう美しかった。
ーああ、冬中濃い霧に閉ざされてしまう薄汚れたミラノなど、とても好きになれないであろう、、、、、ー
 ボローニャを過ぎて、どんよりとした物憂いエミーリア ロンバルデイア平原をひたすら北に向かって走り続ける特急列車の中で、マリアムは危うく涙を落としそうになった。

 そして、、、、あの日から十年が過ぎようとしていた。

 数日前に振り残された灰色の雪が、荒々しい石畳のあちらこちらに掃き寄せられている真冬のミラノ。
 一瞬にして、真昼の町を覆い隠してしまう重い霧。
 光を失った、亡霊のような太陽。霧に吸収された鈍い物音。
 原型を留めない崩れたパレオクリスティアーナ期の汚れた時のかけら。
 だが、驚いたことに、ある日ふと気が付くと、この冷ややかな肌合いの薄汚れた陰鬱な街に、マリアムは親近感を持ち始めていたのである。

 ミラノは十九世紀の匂いを漂わせている、とマリアムは想う。
 古代ローマ、中世、ルネッサンス期そして、陰惨な陰謀、略奪、殺戮を繰り返しながら、異なる他国の支配下で、翻弄されながらも近世をしたたかに生き抜いてきたミラノ。
イタリア統一独立運動の、精力的な活動の舞台となった十九世紀のミラノ。
耳を澄ますと、たった今しがたヴィア ビリのクララ マッフェイ伯爵夫人のサロンを退出して,濃霧に湿った粗い石畳を密書を携えて馳走する使者の馬車の車輪や馬の蹄の音が聞こえ、白い闇の中に吸い込まれてゆく密使の影。
 ヨーロッパの貴族社会が崩壊の一途をたどり、爛熟したロマンティシズムがその頂点に達し、そして、二十世紀に突入してゆく退廃の渦の中で、微かにそして大胆に残光を放つ美を模索するデカダンティズム。
その十九世紀末の混沌とした雰囲気の充満したミラノが、マリアムの妄想の中で鮮やかに息を吹き返す。
 そして、彼女の親しい友人達もまた、多かれ少なかれC.マッフェイ伯爵夫人のサロンに足繁く出入りしていた人々を想わせるたぐいの人間たちであった。
      つづく


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