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【読書記録】杉浦日向子『うつくしく、やさしく、おろかなり--私の惚れた「江戸」』【今を生きる】

さっき出会った人のことを語るように、さっき行った場所を語るように、そんな風に江戸の町のことを書かれている本です。
情報が多すぎる現代が生きづらく、こんな江戸に憧れを抱く人も多いのではないでしょうか。
杉浦さんはこのように記されています。

「江戸に住みたかったろう」と人は問う。
 日夜江戸に淫し、のべつまわらぬ舌で江戸を語る(騙る)身にあっては、ソウ尋ねられるのが日常だ。けれど自分は今が良い。昨日でも明日でもない、今日この日の、ここが良い。どこへも行きたくない。現在たまたまいる場所が、いつでもどこよりも良い。
 今生きてここにある自分は、江戸が好きでたまらないけれども、もし、今より少しでもずれて産まれていたなら、たぶん江戸には巡り会わなかったと思う。「かれは産まれるのが、早かった、遅かった」と、後世のこざかしい輩は言うが、命の咲くタイミングに、時差があるとは信じない。そして、もし自分が江戸に産まれていたなら、きっと別の時代に恋い焦がれていた筈だ。

「神田八丁堀」より。

所詮、ないものねだりと常々思わずにはいられませんが、病の身でこの言葉を連ねた杉浦さんは、とても強いお方だと感じます。



心に残った箇所を下記に引用していきます。

 江戸人は、この、無名の人々の群です。このような人生を語らず、自我を求めず、出世を望まない暮らし振り、いま、生きているから、とりあえず死ぬまで生きるのだ、という心意気に強く共鳴します。何の為に生きるのかとか、どこから来てどこへ行くのかなどという果てしのない問いは、ごはんをまずくさせます。まず、今生きているから生きる。食べて糞して寝て起きて、死ぬまで生きるのだ。こう言われれば気が楽になります。何か、大きなものに、ゆるされたような、胸の内がほんわりとあたたかくなるような、やさしい気持ちがします。

「スカスカの江戸」より。

いつからか生きることに「価値」や「資格」がいると錯覚してしまった様に思います。
とりあえず生まれたから生きている、それだけで十分なはずです。

 余生、と言うと、世に何事かを成し、名を遂げた後の、余りの生、の認識が一般ですが、それは、経済偏重による視点です。
 生まれ落ちた時から以降、死ぬまでの間の時間が、すべて余生であり、生まれた瞬間から、誰もがもれなく死出への旅に参加している訳です。
(中略)
 生まれた以上は、老いも病も死も、席に着けば順繰りに出て来る、おまかせコース・メニューで、以前はただ、もくもくと食せば良かったのですが、近頃は、うまいだのまずいだのあまいだのからいだの、何か一言いわなければ、恰好が悪いような気になっています。揚げ句、メイン・ディッシュを三皿ほしい、デザートはふんだんに、にんじんとピーマンは入れないでと、「おまかせ」の書き換えさえ要求します。そんな我がままを言う位なら、初めからこのレストランに入らなきゃ良い、生まれて来なけりゃ良かったのに、と思います。

「無能の人々」より。

メニューに口出しができる程、私たちの暮らしは豊かになってしまった(自分はどうかはさておき)ということでしょうか。

 三百年の江戸の太平が、都市部に暮らす長屋の住人にもたらした新しいライフスタイルは、「三ない主義」といって、三つがない。
 一つはモノをできるだけ持たない。家財道具は最小限でよい。足りない分は借りてすますか、別のもので代用するか、ガマンする。長屋には押し入れもなく、しまいっぱなしの家財道具は皆無に等しい。
 二つめは出世しない。出世して地位が高くなるといろいろな余計な付き合いも増えるし、厄介なことが多い。身軽に生きたほうが得である。(中略)
 最後の「ない」は悩まない。過ぎたことは忘れて悩まない。翌日に持ち越さない。常に前向きに、ポジティヴに生きる。

「お江戸の水と緑」より。

この価値観、非常に私の理想だと思いました。
モノやヒトが周りにあまりに増えてしまうと生きづらくなってしまうような気がします。
本当に大事なことはとても少ないのかもしれません。

ないものねだりではありますが、江戸の空気感を求める現代人はたくさんいるのではないかと感じられた本でした。

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