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第32回_第2回即興感想 ゲーテ「ファウスト」 2024.9.7

片倉洸一の耽楽的音声記録
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思いのほか速く読めた「ファウスト」の感想を述べる。

1:作品概観
・「ファウスト」の発表―第1部は1808年、第2部は1833年に出版。ゲーテが50代、80代になってようやく世に出たが、執筆は20代からライフワークとして断続的に進められていた。
・元ネタのファウスト博士伝説―ゲーテの時代より2,300年前の15,6世紀頃の伝説的人物が噂話からイギリスでの出版→ヨーロッパにおいて「悪魔メフィストフェレスに魂を売った悪人」の低俗エンタメとして様々な媒体で伝播。それをゲーテ少年も観て著作のテーマとなった。

2:ゲーテ版「ファウスト」と近代的な変遷
・元ネタのファウスト伝説からゲーテの時代―中世から近代への過渡期。近代においては努力の人であり、序文の神とメフィストフェレスのやりとりの時点でファウストが救われる結末は決まっている。
・悪魔とファウストが市井の世界を巡る第1部はコメディ、メロドラマ、悲劇と悲喜こもごも。
・翻訳の相良守峯氏の解説―中世では怪しいもの、あくどいものとされていた魔術、錬金術が科学となり、近代では神と科学が「握手した」。つまり神一強の時代とも言える。→ファウストは悪魔の力を借りてまで努力した人物だから神によって評価され、救われる。近代的な「神」の前では悪魔の誘惑すら人間を刺激してより高める要素にしかならない。
脇道:デカルトの「神」について―「我思う故に我在り」という演繹的出発点に至る苦悩こそ重要。省察すれば「我」というものも、「思う」事も認めた難く、それを他の存在に依拠せずに存在するのを認めるのも難しい。となれば「私」は完全な存在者ではなく、そんなものがあるとすればそれこそ「神」である。「私」含めたあらゆる存在は有限な存在であり、そこからすれば「神」は認識はできるが存在証明はできない。無限に等しい存在。
→つまり、近代的な「神」はそれ以前よりもより形而上的で非擬人的で普遍的な概念になった。
・「ファウスト」においてはキリスト教的世界観とギリシャ神話的世界観を並列、相対化。宗教の相対性を描きながらも近代的「神」だけは超越的な存在として捉えてる模様。
・本作におけるファウストは単なる美化ではなく、近代的な価値観から再評価されたと考えるべきか。

3:物議をかもす第2部
・正直、冗長で退屈でギリシャ神話の関係者が多すぎる。
・ファウストとメフィストが空気に。
・愛(グレートヘン)、美(ヘーレナ)を経ても満たされないファウストは最後には自分の都市を作って自由な民がそこで暮らすさまを見たいという事業に邁進して…と最期まで努力を続ける。
・ゲーテ本人は第1部は貶しつつも2部は自分でも高評価。解説も合わせて振り返ると、確かに謎の勢いによって書かれた、ヨーロッパ的世界観と古代ギリシャの世界観が融合したファンタジー的カオスに小規模な第1部から飛躍したからこそ「ファウスト」は傑作たりえたのかもしれないと納得。
・近代的に描かれる「神」に対して擬人的で虚無主義をばら撒くメフィストの姿の方が見ていて楽しかった。

片倉的注目的
・「神」という存在は近代になってより超越的に強化されており、「ファウスト」はそれを表現していた。その分より人間に近しい悪魔の方が魅力的に見えるのも当然か。
・近代的価値観の功罪―手段不問で努力さえすれば良い、とも読める。神はその努力を認めたとしてもその努力に巻き込まれる人々は良くは思わないのでは、という現代にも通じる問題点も見えてくる。

来週はようやく古情さんとの再会予定です。

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