見出し画像

日本語で読めるフェミニズム批評を求めて


読書するとき、以前はよく100年以上前に書かれて今も読者を獲得している近代文学を中心に私は読んでいた。


それらの作品は価値があるものだと広く信じられているし、実際に読んでみるとその価値がわかった。

しかしそのほとんどは男性作家の手によって、性差別が当たり前の時代に書かれている。

つまりは女性作家が少数である。
ブロンテ姉妹やジェイン・オースティンなら誰でも知っているだろうけど、ディキンソンやジョージ・エリオットは日本国内ではあまり読まれていない。



トルストイのように、性差別はけしからんと内省する男性作家もいるが、
まず、女性キャラは男性キャラの妻であるか娘であるしかなく、その役回りの中でしか生きていない。
解放を求める女性キャラは、筋書き上最後に男性作家によって殺されている。命を落とすとか、発狂するとか。

フィクションは現実とある程度地続きだから、自由に生きようとする女性は小説の上でだけではなく実際に殺される時代でもあった。

それらの作品群の感想を述べてみよとなると、私はフェミニズム批評の視点で始めることになる。

近代文学については、作家本人が差別主義者で、そのことに無自覚なまま既にお墓の下にいて、そして彼の作品が現在でも世の中の喝采を得ている場合、フェミニズム批評を書くのはかなりのエネルギーが必要だ。

例えばジャン=ジャック・ルソーのエミールの女子教育を読めば、女性は劣っているので男性に従うべきと書かれている。
彼の思想は今でも有り難がられている。


相応のエネルギーで限界に挑んだ女性の書き手らによって、フェミニズム第二波が盛んになった60年代後期以降、近代文学はフェミニズム批評(またはポストコロニアル批評)の前に立たされてきたのだけれど、ちょっと残念なのは、それらの多くが日本語で書かれていないことだ。



日本語訳があるのは2,3人で、しかもハードカバーで高額な本だ。

現在、日本語で書いている女性だと北村紗衣さんだが、彼女は映像作品をメインに書かれているようである。


他は、日本人女性作家がエッセイの中で少し触れていることもあるという程度で、ぽつんぽつんと点在するフェミニズム批評なら出会えるが、それらを集めてひとつの書籍になっているものが見つからない。

外国語に自信がない者にとって日本語訳が出版されないのはもどかしい。  

以前、Webページのウォール・ストリートジャーナルで、ひとりの黒人女性が書いた、ビル・コスビーから受けた性被害についての記事があり、ネット翻訳に頼って読んだが今ひとつ自分の理解に確信が持てなかった。


文学作品を扱ったの一冊の本になっているフェミニズム批評をもっと読みたい。
できれば日本語で。


(終わり)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?