次のジェームズ・ボンドは誰か?トニ・モリソンの文学批評を読んだ
ダニエル・クレイグ終了で、次のジェームズ・ボンドを演じるのは誰なのかずっと気になっている。
このソースによると候補は10名弱、その後4人に絞り込まれた。
そのうち2人は非白人だったことに度肝を抜かれた。
UK生まれの白人男性、ではないボンドが誕生する日が来るのだろうか。
007の映画シリーズといえば、白人男性が中心のマッチョなエンタテイメントだ。
女はおっぱい丸出しだし、アジア系や褐色の肌の男なんて名前も出てこないし。
まあ落ち着け。
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先日、トニ・モリスンの北米文学についての批評*1 を読んだ。
トニ・モリソンは作家でもあり、論評もかなりの数を残していた。
有名なのは、フォークナー論や、へミングウェイ論など。
彼ら(権威ある白人男性作家)の書く多くの黒人は、白人男性をケアする人、としてしか作品に登場しなかった。
ヘミングウェイの作品を例にとって、モリソンは、黒人男性の描写を、「不穏な看護師」という言葉で示していた。
ヘミングウェイ『持つと持たぬと』では、黒人男性ウェスリーは、白人男性ハリーのために身の回りの世話から傷の手当てまでやり、話を聞いてあげて、しかし最後には白人男性に対して非難の言葉を投げかける。
「あんたには人間らしさってものがないんだ」
アフリカ系の男性ウェスリーは、小説の地の文ではNワードで呼ばれており、しかも物語中盤で名前があることが読者にわかる。
また、同じヘミングウェイの『エデンの園』で、主役の白人男性は、白人女性の前で、以前肉体関係もった黒人女性を鮫みたいだった、と表現している。
ヘミングウェイの作品では、黒人は無償のケアを与えてくれるのと同時に、おそろしい捕食者でもある。
肌の色の違う人たちに怯え、同時に蔑む両義的な態度は何なのか。
合衆国は、先住民を虐殺し、アフリカ大陸から連行してきた人々を奴隷労働させ発展した。その卑劣さ、醜い性質を受け入れると自己が持たない場合、他者にそうした否定的な部分を持つと思い込むことで、他者を犠牲としながら、(素晴らしい自己)を保つことができる。
合衆国の”アメリカ人らしさ”、つまりアメリカ人のアイデンティティを享受するために、肉体的に簡単に判る対照的な特徴があることによって、アメリカ人という観念的なものが、より研ぎ澄まされるということだ。
アメリカ人らしさ、その「個人主義」や「自由」は、あらかじめ奪われた人々がいるおかげで、その旨味が味わえるという彼女の論評は、この本の中で一番興味深かった。
モリソンのこの論評が出たのは92年、ロス暴動と同じ頃だ。
彼女の影響力は強く、合衆国の白人男性中心だった文学が見直され、女性作家や非白人作家の作品が再評価されるようになった。(*1 訳者解説より)
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私はフォークナーの『八月の光』を大きな興奮と共に読んだことがある。
主役が、アフリカ系の混血だけどパッと見白人に見える孤児、という設定だった。
白人達が、黒人の血を蔑みながら、ものすごく怯えているのが印象的だった。
脇役に、妊娠9ヶ月で恋人が逃げ出した女性と、そのお腹の子(黒人の子かもしれないと周囲からは思われている)の父になる決意をする白人男性が登場することによって、『八月の光』は、南部の白人男性が人種主義とミソジニーの克服を諦めていないという話とも思えた。
フォークナーの人種主義に対する姿勢は、ヘミングウェイとはちょっと違っているようだ。
私が子供の頃の90年代には、ヘミングウェイの作品はノーベル賞も取ってるしで、日本国内でも一般的に価値があるものだとされていた記憶がある。
今では、女性の批評家から読む価値なしとまで書かれて、手厳しい扱いを受けている。*2
ただ、これらの北米文学は、差別が色濃かった時代の文学の扱われ方の証左になる。
だから『風と共に去りぬ』がキャンセルされるなど本末転倒ではないかと思うのだ。
人種主義が北米文学に与えた影響は、90年代に黒人女性トニ・モリソンによって“白日の”もとに晒された。
今日の芸術批評も人種主義を克服しつつあり、バスキアが値上がりしてピカソが値下げされるとか、価値観がガラリと変わってきている。
ジェームズ・ボンド役が非白人の俳優になる日は近い(なってほしい)。
おしまい
参考文献
*1 トニ・モリソン 『暗闇に戯れて』 訳者 都甲幸治 岩波書店 2023年
*2 レベッカ・ソルニット 『わたしたちが沈黙させられるいくつかの問い』 訳者 ハーン小路恭子 左右社 2021年
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