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【ホラー小説】烏の鳴く朝

 目が覚めたとき、まだだいぶ早い時間なんだと勘違いした。外は曇り空で、いつもより射し込む陽の光が薄く、そして何より家の中が静かだった。
 学校に行く支度をするまで、あと何分寝てられるんだろう。そう思ってスマホで時間を確認した朔弥は、あと一分で家を出ないと確実に遅刻する時間だと気づいて飛び起きた。
 なんで。そんな馬鹿な。やばい。どうしよう。
 パニックの後に、猛烈な怒りが込み上げた。
「なんで起こさねぇんだよ、ババア!」
 布団を跳ね除けながら、階下にいるはずの母親に向かって声を張り上げる。遅刻するのは完全に母親の責任だ。
「おい、返事しろよ!」
 当然そこにいるものだと思って、キッチンに行ったが誰もいなかった。いつもなら当たり前に用意されている朝食はなく、それどころか昨夜の洗い物が汚れたまま流しに置かれている。
 ふざけんな。舌打ちしながら両親の寝室に向かう。出張中の父は昨日から家にいない。そして母もそこにいなかった。布団もあげられていて―あるいは端から敷かれていなかったのか―いつからいないのか、判断がつかない。
 家中を見て回る。トイレ。風呂場。ベランダ。まさかと思いつつ、クローゼット。どこにもいない。
 玄関を見ると、母のスニーカーもサンダルも靴箱の中に収まっていた。
 何故どこにもいない? 学校に行く気持ちなどとうに失せていた。
 外の烏の鳴き声が、屋内の静けさをより引き立てる。
 それにしても、今朝はあまりに鳴きすぎてはいないだろうか。絶えず数羽が声を上げていてやかましい。
 靴はあるけれど、もう家の中に探す場所もなく、朔弥は外に出てみた。マンションの二階の手摺壁から見える景色はいつもと変わりない。
 ただ、明らかな異臭が鼻をついた。下から臭う。
 鍵をかけることも忘れて、一階に降りてみた。

 烏がゴミステーションの前に集っている。
 臭いや鳴き声の異常さに、マンションの他の住人でも出てきやしないだろうか。そう少し期待したけれど、もう出かけてる人間が多いのか、部屋の中だと案外気づかないのか、それとも街中特有の無関心さのせいか、誰ひとり様子を見に来る様子はなかった。
 恐る恐る、ゴミステーションの金網越しに覗いてみた。
 一五〇センチほどの物体。薄橙色の肌を、白っぽい布が覆っている。
 それは、間違いなく母だった。裸足のままで、薄灰色の部屋着を身にまとい、市指定の黄色い燃えるゴミ袋が数個置かれている上に、ぐたりと身を横たえている。
「ババア、何やってんだよ!」
 恥ずかしい以上に、安心の声が色濃く出てしまった。それを誤魔化すように、金網を蹴飛ばす。しかし母は指一本、瞼ひとつ動かさない。まるで人形のように仰向けに横たわっている。
「おい、起きろよ」
 まさか、ゴミ捨てに来てそのまま具合が悪くて倒れたのか。
 不安になり、烏の合間を縫って傍へと寄る。すぐ傍ら、翼を蹴れそうな位置に来ても、烏たちは逃げようともしなかった。
「おい!」
 何度目かの声に、ようやく母の目が開いた。
 なんだ、大丈夫じゃないか。

 緩みかけた己の頬が、引きつるのがわかった。
 母の目は開いているが、どこを見ているのかわからない。生気のない、虚無のような黒い瞳。瞼を伏せていたときよりもずっと、人形のように―死体のように見えた。
「か、あさん」
 無意識に呼びかける。喉がやけに乾いて、声がひび割れた。
「母さん」
「私はお母さんではありません」
 抑揚がなく、母の声のはずなのにそうは聞こえなかった。
 母の姿をして母の声をしたそれは、ほとんど口を動かさずに答える。
「私はゴミです」
「何、言って……」
 とにかくここから連れ出そう。それから病院に連れて行くか考えればいい。もしだったら父に連絡しよう。
 そう思ってゴミステーションの戸を開けようとする。すかさず、烏が嘴を突っ込み、中に入ろうとした。
「おいやめろ」
 手で払いのけようとしても、執拗に中の物を狙っている。
 左手を大きく横に動かして烏を追い払いながら、薄く開けた隙間から右手を差し入れた。脱力している母の手を掴む。
 ぐにゃり、とした感触がした。
 くたびれたゴムのような触感に、ひっと喉奥が鳴った。勢いよく手を引いたせいで、戸が大きく開く。
 その隙をついて、烏たちがゴミステーションの中に次々入っていった。母の姿も、黒い翼の陰に隠れてしまう。
「母さん! 母さん!」
 ブツリ。何か薄いものが破れる音がした。
 近寄ろうとしても、群れとなった烏が遮って母の姿を見ることもできない。
 いつしか、ゴミステーションの外にまで、何か黒い塊が小石のように転がり出てきているのに気がついた。
 それは、文字に見えた。平仮名、カタカナ、漢字が入り混じり、重なり合い……けれどちょうど他の文字と被らずに転がったものが、ところどころ文章となって読めた。
「役に立たない」
「何をやらせても」
「死ねよババア」
「邪魔」
 血の気が引いた。その言葉には聞き覚えがあるような気がした。しかし深く考える前に、文字はサラサラと崩れてもう何も読めなくなった。
 羽ばたきが聞こえたかと思ったら、烏たちが一斉に飛び立つ。
 朔弥は耐え切れず瞼を閉じて蹲った。数秒後、静かになったところでそっと目を開けると、そこにはもう、烏の一羽も、そして誰の姿もなかった。
 呆然と立ち尽くす。
 黒い砂が、風にさらわれて一粒一粒消えていく。


 遠いところで、再び烏の鳴き声が聞こえた。

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